第五十四話
「す、凄い...」
「...今度は危なかった」
設けられたセディアの私室には、三つの注射器が置かれていた。たった三本の注射器は、汗を垂らしたレッドレットが疲労困憊に勝ち取った賜物だった。
「あとは一つ」
レッドレットは現在、ある大事を成し遂げようとしている。
迫り来る戦争の予感に対抗すべく、彼は子供なりの知恵を駆使して、立派に立ち向かっていたのだった。
「本当に注射器を盗めるなんて」
「...あと二つ盗めれば、こんな馬鹿みたいなこと、諦めてくれるだろ。...おいリリー、やめろ。注射器を舐めるんじゃない」
「ふふ」
それは、来たる決戦の為に分配された注射器を盗んでしまうことである。これがあるから、彼等は勇み、挑むことが出来る。勝利の象徴を失くしてしまえば、自ずと臆病者からいなくなり、集まった力は漂白されてしまうだろう。
一度は諦めかけていたレッドレットは、光明を見出していた。彼はクーデターの長の息子という立場を利用して、巧妙な手練手管を発揮してみせたのだ。
「さてどうやって盗むか」
最後の二つ。その持ち主は割れている。何を隠そうメドレー・メリアル。表はしがない古本屋店主。裏は亡国貴族の末裔。流石にリーダーなだけあり腕は立ち、隙がない。毎日毎日狙点を定めては、実の親父の威圧感に打ちのめされる日々だ。
注射器に興味津々なリリーを抱きながら、レッドレットは思案していた。
「そうは言っても、もう間に合わないよ。私達だけじゃ、皆の熱気には...」
セディアの言わんとすることが、一瞬腹立たしく思う。そのような考えを苦々しく振り払いながら、レッドレットは確かに限界を感じていた。
けれど、五つある薬の内三つを奪ってしまえば、勢いも次第に凋落してゆくのではないか。そんな希望も確かに存在する。
しかし、希望は簡単に打ち砕かれた。
この月、一千年の時を経て、空の国は地に落ちる合図を受けることになる。地上との感動の再会が、彼等を待ち受けていた。
「王女様だ」
「お美しい...」
「私達の王女様!」
地下広場にて要人達が迎えたのは、屈強な警護に守られた少女である。
彼女は彼等の言った通り、王女様ーーではない。
「っ」
レッドレットは思わず息を呑む。現れた美貌に魅せられる。黒の長髪が白い肌を撫でつけ、近い年であろうに艶やかな風格を漂わせている。同じく大きな瞳が長い睫毛に彩られ、芯の通った佇まいに、思わず傅いてしまいそうだ。
彼女の後ろには、まだ幼なげのある少年が視線を彷徨わせていた。頼り無さげな少年は、彼女の弟のようだった。
名門オスディアス家の長女である彼女は、ネリア・オスディアスと名乗った。
「私こそが、アルスダッド王国国王の血縁である!」
聞く物を惑わせる美声を、レッドレットは懸命に聞き流していた。ネリアの声はけたたましく地下広場に鳴り響き、充てられた者は次々と増長する。
「一千年の時を経て、今やこの国はゴッドラメアの傀儡となり得ました。創造力を抽出し、妙な技術を用い我等を洗脳した罪は万死に値する」
この期に乗じて、薬を奪えないかと画策する。次期王女が来なすっても、フツルギドウシを倒せる根拠が無ければ、いかに狂騒的でも冷静になるのではないかと、レッドレットは信じている。
「けれど一千年前、一部のゴッドラメアが我等を救ってくれていたことも事実。そして二十年前も同じこと。ならば手を取り合うことも出来よう。我等の望みはただ一つ!この国をより良きに導くことである!放蕩に耽る国王並びに、ゴッドラメアの重鎮に思い知らせてやるのだ!」
熱狂は、少年の大きな思惑を跳ね除ける。居心地の悪い空間に、レッドレットは青くなる顔を懸命に堪えていた。
◯
リリー。リリー。
名前を呼ぶ。何度も何度も、生きていることを信じて。相棒が動けるように、声を掛けてやる。俺が名前を呼んでやれば、こいつは尻尾を振って抱き付いてくるんだ。
リリー。リリー。リリー。
リリー、リリー。
何度も呼んでやる。その耳がぴくりと動くまで。
リリー、リリー、リリー、リリー。
リリー。
リリーが死んだ。その事実は、燃え盛る炎の熱さを、目の前にいる強大な敵をも忘れさせる。心の揺動が声を無機質にする。自分が声を出しているのかどうかも分からない。ただリリーは、明らかに意識をしていないということだけが、レッドレットを占めていた。
専制解放同盟は、勢いのままに戦争を仕掛けた。彼等は宣戦布告する。
「悪政を撃て」
彼等は戦った。潤沢な物資と意思が、現政府を慄かせる。レッドレットも、当初は覆せるのではと暗雲の中の期待をせしめた。けれど、現実は滑稽なものだった。
開戦から一週間。実に呆気なく、全てが終わる。ただの一人に、専制解放同盟は塵殺された。
紫色の翼人が、全てを薙ぎ払う。ただの振りが風を武器として、猛る兵を潰していく。
騙されていたのではないか。
レッドレットは一人、そんなことを考える。これ程の実力差があるのなら、勝算なんて糞食らえだ。
フツルギドウシは紫の翼を広げて、帷幕へと参入する。児戯に呆れる親のように、冷めた視線を浴びせていた。ただ次の瞬間には、フツルギドウシの顔に焦りが浮かぶ。
「民間人が死ぬぞ」
フツルギドウシの視線の先には、創造された剣に首をかけられた、民間人がいた。
「助けてくれぇ!!」
「フツルギドウシ様...」
十数人の人質は、国軍の兵士だろう。しかし創造力がどこかへ行ったのか、力の尽きた無創人なのか、疲労困憊の兵士は、紫の翼人へ助けを求めた。
彼等に剣をかけている指導者は、パトス・アメントリ。専制解放同盟の作戦参謀としての役割を担っていた男だ。彼は下卑た笑みで、フツルギドウシをみやっている。
「何をしている!」
「パトス!やめんか!」
ネリア、メドレーが怒号する。
「何故ですか王女様。これまで通りやるだけでしょう。人質を立て、強者を殺す。子は教育し、女は孕ませる。当然ではないですか」
人が変わったように、パトスは笑う。誰かに聞かせるように、良く通る声で喋った。
「やはり...どちらかが居なくならなければ変わらない」
低く唸るような声の主は、そのまま動かなくなる。それを好機と考えたメドレーが、ポケットから注射器を取り出した。
「私は決めたぞ」
フツルギドウシの腕が、右斜上に振られた。それだけで竜巻が乱舞し、パトス率いる兵士も人質も、皆一様に引き裂かれてしまう。
恐怖に耐えかね、逃げ出すものがいる。足を上手く動かせずに、その場で硬直するものもいる。
そして、リリーが殺されていた。
大敵の近くにいた主人を案じて、勇気を出して駆けつけてくれたのだろう。リリーは切り刻まれていて、かろうじて生体と分かる程の惨状となっていた。
メドレーの拳が目の前に差し出される。拳が握っているものは一つの注射器であり、見返す息子に笑い返した。
「頼んだ」
父の最後の贈り物を、思わず掴んでしまう。そして、ぶわっと猛風が押し寄せた。
メドレーの身体は、みるみる大きくなっていく。全身のそこかしこに創造力の増殖が起きて、メドレーの体躯を丸々包み込んでしまった。
翼が生えた。鳥のようになってしまったメドレーは、フツルギドウシへ襲いかかる。
巨大な嘴が、紫色の大敵を刺し貫こうとしていた。
「成程なぁ...!」
弾ける笑いと共に、フツルギドウシの拳が繰り出された。鳥の化体となったメドレーはぶっ飛ばされる。右翼に巻き込まれたレッドレットは、力の差を感じ取る。
「分かっていたの...」
傍で唸る何者かは、セディアという少女であった。
「ごめんなさい。ごめんなさいっ」
涙を浮かべた少女の言葉に、レッドレットは戦慄する。
やはり、こんなのは恐ろしい茶番だったのだ。
黒幕はある目的の為に、レッドレット達を扇動した。
正面にいる、紫色の大敵を見据える。
こいつを解き放つ為か。ふとそんなことを思った。ありとあらゆるしがらみから、解放させる為なのではないかと。
「生きてる奴らは集まれ!!」
助けてくれたリリーが脳に刻まれている。だが、リリーを失った喪失感より、こんな茶番を施してくれた彼等に、レッドレットは腑が煮えくりかえる思いだったのだ。尚も挑もうとするメドレーであって鳥の化体を制し、もう一度腹に力を込める。メドレーが化体であれば、その操り手というのは、レッドレットだ。
「親父、逃げるぞ!!」
レッドレットは逃げ出した。何者かによって操作された戦闘から、その場以外の全てを投げ出して逃げ出した。メドレーの上に乗っているのは、レッドレット、セディア、そしてネリアとその弟のキョウ。ただ四人だけだった。




