第五十話
「...」
何も言わないで、男は湖を眺め始めた。ハロドラは疑問符を打ちながら、不審に男を見下ろしている。男が目標を見つけると、ゆっくりと手を向けた。波紋を広げながら掴んだのは、切断された天馬の首である。恭しく被ると、男はハロドラを向く。死体の被り物に隠された剣呑な殺気は、殺しに飢えた猛獣だ。
狂った行動に嫌な汗が滲むが、毒は入ったのだ。今も刻々と、男の身体は死に近づいていっている。
「馬鹿馬鹿しい」
そんな胸中を知ってか知らずか、男は剣を創造し、ハロドラに差し向けられると思われた刀身を、なんと、己へと向けた。軽々と腕をスライスして、右肩から先を失う。男は冷徹な眼光を晒して、ハロドラに狙いをつけた。唾を飲み込み、危機を感じて飛び上がる。すると、彼が居た太い幹の下から、男の創造した剣が貫通していた。
貫通した剣はそのまま動く。ハロドラに追尾して、幹の中を苦もなく掻き切り、長すぎる剣は襲いかかった。
「狂信者め」
毒を吐きながら、吹き矢を投げた。一回限りの毒矢だ、吹き矢は空であり、何の効果もない。それでも脅しとしては有効だ。
男は警戒して、剣の行先を吹き矢に移した。吹き矢はあっさり斬られ、ハロドラは陸へと着地する。
息つく暇もない。顔を上げると、男は飛び上がっていた。足裏に創造した支柱のようなものを、身体の内にしまっている最中だ。靴穴が見えた頃に、男は天馬の首を震わして、殺気を極限にまで高めている。
ハロドラは三叉槍を創造し、男の剣を受けた。受け流すのではなく、受けたのだ。
にも関わらず、三叉槍は砕けない。
「弱ったな」
恐らく最初から、男の本領は発揮されていない。血塗れの身体もさることながら、声に覇気がない。利き手であろう右手は切断されたばかりで、ここまで力を削ぎ落としているのなら、ハロドラに分がある。長引かせる気は、更々無い。
「死ね」
男の剣が、増長していく。大きく分厚くなっていく剣に、三叉槍は耐えられない。
三叉槍を縦に急転回する。するとがくんと、増長した男は体勢を崩した。
「死ぬのはお前だ」
ラノンが見たら何を思うだろう。と、無意識に頭を過ぎる。許嫁だった彼女は、今のハロドラをどう形容するだろうか。
ガランをお願い。頑張って、ハロドラ。
想像上の産物に居た堪れなくなりながら、三叉槍の三つの切先は、男の身体を貫いた。
「ごっ...」
天馬の首の中から、血液が滴る。飛び退り経過を確認して、男がもう手遅れなことを悟った。元々傷が深かったのだ。ハロドラが一矢報えたのも、その傷があればこそだった。男は天馬の首を被ったまま、地に伏せる。手足を無惨に動かしながら、命尽きるまで、信念を全身に宿していた。
完全に動かなくなった男の死体を見て、ふうと溜息を吐く。
「ラノン...」
俺は....生きるぞ。
意識が朦朧とする中、遠い過去に亡くなった許嫁へと誓う。それが最後の気力であり、ハロドラの身体は前に倒れ、地に伏した。
今、この里での戦闘は終わった。至る所に龍人が息を引き取っている。敵意を持つ人間も死に、対抗した人間は意識を失っているか、朦朧としている。助けに来た生き残った動物達は、彼等の傍へと安静していた。一先ずの結末に、閑散とした空気が流れ始めた頃、それはやって来る。
燃え盛る鬣が、森の奥から姿を現した。般若のように顔を歪めた獅子は、踏み締めるだけで岩をも砕く爪を、里へと投下する。小さくなった体躯が、背に男を乗せていた。男ーートリトンは糸目に、眉を顰めていた。
◯
二時間前。
トリトンは思わず舌打ちする。あと一息で大蛇を捕まえられたというのに、思わぬ邪魔が入ったからだ。
眼前に立ちはだかる怪物は、巨大な一つ目を動かせ、堂々と獅子を見据えていた。桃色の巨大な悪物の上に跨っているのは、同じく桃色の仮面をした悪魔である。
なんとこの悪魔と悪物は、かれこれ十数分の間、ライギルドを留めているのだった。
トリトンは大蛇を諦め、この悪物を除去することを決めた。間違いなく個として比類無い強さの悪物を放置してはならない。ましてや悪魔と主従関係となれば尚更だった。
しかし、トリトンは決定打を与えられずにいた。噛み砕こうとも鉤爪で裂こうにも、気味の悪い皮膚が妨げる。弾性の富んだ悪物の皮膚は、ライギルドを錯乱させていた。
「こいつは何だ...」
恐怖を覚えるほどだ。丸い巨体は無数の触手を放り出し、無闇に近づけない。触手を噛みちぎろうとすれば、他の触手が追い縋る。トリトンは嫌な予感を覚えて、逃げる想像をするのだ。
だがそれも、ジリ貧だ。
ライギルドは一つずつ時間を掛けて、触手を噛みちぎり切り落としていった。何度も噛んで裂いて突けば、悪物の皮膚も限界が来る。大量の血を浴びながら、やがて数える程度の触手しか無くなっていた。
「褒めておこう」
ここまでライギルドを手間取らせるとは、敵ながら天晴れだ。悪魔や悪物なぞこの世の癌ではあるが、トリトンは敬意を表す。
大量の血を吐き出して痩せ細った悪物に、ライギルドの鉤爪が両断する。何者をも粉砕するであろう威力に、桃色の悪物は耐えている。しかしそれも持たないだろう。触手はライギルドの尻尾が牽制している。為す術は何も無いかに思われた。
ビリーメルは、それを待っていた。
彼女は相棒の頭上から、全力で飛び上がる。ライギルドの背に跨る男へと、尻尾を構えて向かっていった。
◯
出会いは、確か二百年前。
ビリーメルは、森の獣に攫われた。この森には生命体が共存しているが、悪い獣はそこかしこに隠れている。
全てが仲間という訳にはいかない。悪い獣達が徒党を組んで、森の頂点に位置する龍人達を襲撃するのはまま無いことだが、ビリーメルはその標的にされてしまった。獣は子供のビリーメルを誘拐し、人質にしようとしたのだ。彼等の巣に到着すると、幼い彼女は死を覚悟した。
「...?」
獣の巣であろう洞窟の前で、獣が立ち止まる。震えを帯びた牙が、服越しにビリーメルへと伝わった。
「ひっ」
背後から現れた怪物に、恐怖で顔が引き攣る。丸いピンクの生命体が、抜け殻みたいにやつれた獣を吸っていた。
血を吸っているのか。その丸形動物は、頭らしき部分を振って、吸い切った獣を投げ捨てた。ビリーメルを捨て、獣が逃げた時にはもう遅かった。丸い胴体から、触手を出したのだ。触手はうねり、簡単に獣に追いついた。触手が獣の背中へと接触し、体内へと侵入していく。どくどくと触手が脈打ち、丸い本体へと流れていた。
丸型の蛭は、大きな目玉をぐるりと動かして、ビリーメルを確認する。僅か数秒で吸い取られた獣は打ち捨てられ、触手が丸型蛭の元へと戻っていく。
「い、いや...」
ビリーメルの両目からは涙が溢れ出る。頭の先から尻尾の終わりまで震えて、恐怖で立ち上がることが出来なかった。
そんなビリーメルを、丸型蛭は気にせずに近づく。短い二本の足をてくてくと動かしながら、絶望に苛む彼女を目標にしているようだ。
頭の上に弾力のある何かが乗った時に、ビリーメルは目を開いた。ゆっくりと怯えながら開けると、大きな一つ目がこちらを眺めていた。訳も分からず呆けているビリーメルに、丸型蛭は短い腕で優しく撫でた。一つ目が歪むと、丸型蛭が笑っているのだと分かった。
その後里に帰ると、涙を流してくれた人達もいた。彼女にとって一番そうであって欲しい人達も、同じように反応した。
「...ビリーメル、良かった」
「あなたが居なくなっていたらと思うと..!」
父と母は本当に悲しそうだった。周りの皆も暖かい視線で見守っている。母の温もりは冷たいというのに、もぞもぞと否定することも出来ない。
娘を誘拐する獣に気付いていた彼等だというのに、それでもビリーメルは嬉しかった。周りの視線を鑑みた抱擁だとしても、勘違いしかけてしまう。
渡りに船だった筈だ。子供を愛せなかった彼等は、さぞ落胆したことだろう。そう思ったから、ビリーメルは翌日の早朝、里を出て行った。
「あ」
森を彷徨っていると、丸型蛭は、いつの間にやらそこにいる。步けど歩けどついてきて、振り返ると一つ目を弧にして笑った。気味が悪くなったビリーメルは、丸型蛭を罵った。抑えていた寂しい気持ちが、罵倒となって外へと溢れ出る。丸型蛭は言葉を解さないらしく、ただ無言でビリーメルの罵倒を受けていた。感情は理解出来るのか、今度は悲しそうに、一つ目を凹ませる。
「そこまでにしとけ」
いつの間にか、一人の龍人がいた。幹の上に寄っかかっているのは、里の中でも有名人の、ゼラニム・アンテールだった。
「そいつは、お前と一緒に居たいんだ」
「余計なお世話...気持ち悪いし、こんなの」
「酷えな」
「ほんとのことじゃん」
森の監視者は不機嫌そうに降り立った。見下ろす目付きが鋭くて、思わず後退る。
「里を出てくなら、護衛は必要だ。警備はズボラだし、俺だって全てを監視出来てる訳じゃない」
「...あの鳥さん」
ビリーメルは思い出す。丸型蛭に救われた後直ぐに里へと帰れたのは、とあるインコのお陰だった。そのインコは人語を喋り、幼いビリーメルを里へと導いたのだった。
ゼラニムは悔しげに顔を歪ませた。
「森ん中で生きてえなら、お前に懐いてるこいつは渡りに船さ」
「!」
「あ?なんだよ」
突然眼を見張るビリーメルに、ゼラニムは当惑したようだ。眉を顰めて窺っている。
渡りに船。ビリーメルが攫われた時、両親はそう思った筈だ。
丸型蛭は、言葉は分からないけれど、雰囲気に身を硬くしている。彼女は歯噛みして、思い切った。丸型蛭に対して、勢いよく抱き付く。そして、呆然としているゼラニムを睨み付けた。
「私は違うもん!愛せるもん!」
今でも鮮明に思い出せる。気味の悪い蛭を愛す為に、マルという名前を付けたこと。蛭の姿と同じような仮面を作ったこと。森に居着きすぎて、人との話し方が分からなくなってしまったこと。声帯の無い蛭に引っ張られるように、声の出し方すら忘れてしまったこと。どれもが全て愛おしい。
ゼラニムを通して里長の過去を知った時は、吃驚したけれど、同じくらい納得した。理由は分からないけれど、それはゼラニムも同じなようだった。
何処かで死んで当然と思う意識がある。不思議な感覚だ。きっと龍人という種族はそういうものなのだろう。
けれど死にたくない。謎の人間達に会った時、翼を持った白い馬に跨る男がビリーメルを襲った時、その時なのだと思った。けれど怖くて怖くて、逃げ出してしまう。
だけど、マルがいるならば、死ねると思った。
ビリーメルは、獅子の尻尾に、貫かれていた。




