第四十四話
「十時に直進!」
本の中にある軍隊のような号令により、大蛇は十時方向へと直進する。ハロドラは隣にいる龍人の手元を注意して観察し、見逃さないように心血を注いでいた。
キノは背後のライギルドの動向を注視しながら、無事に辿り着くことを嘆願している。焦る気持ちを見殺しに、冷静にその時を待っている。
ハロドラの隣には、仮面を被った龍人がいた。数分前にキノが見た人影は、大蛇によって救護されたのだ。迫る大蛇に天馬に乗った想起士はその場を離れて、仮面の龍人だけを助けることに成功した。
キノは、仮面の龍人を見たことがある。一日前に会ったことがあり、確かその時に名前を聞いたはずだ。
ビリーメル。そんな名前だった気がする。彼女がそこにいた理由も分からないが、とにかく大蛇によってビリーメルは命を脱したのだ。一時的にだが、ビリーメルは好機を見逃さなかった。キノを確認すると、覚えていたのか、すぐに警戒は解かれたように思う。彼女はぶんぶんとお辞儀をした後に、それから明後日の方向へ指を向けた。
それが、今の希望である。ビリーメルが何を指しているのか分からない。が、今は縋るしかないのが現状で、ハロドラは即座に判断した。仮面の龍人が指す先を、変わってガランに伝えている。一連の挙動に、ビリーメルは声を出したくないことを、彼は見抜いていた。
何が待っているのか知らないが、賭けるしかない。無理であれば、キノが身代わりとなればいい。時間を数秒でも稼げれば、大蛇は地面に潜れるだろうから。
しかし、追われるだけでも命の危機だ。大木が投げられたのはまだいい。創造した刃で一刀両断出来る。けれど岩石が来た時は閉口した。嫌な汗が充満と出て、大蛇が避けてくれたから回避出来たものの、次同じようなことが起きたら生きられる自信は無かった。ただ、半分以上体を失ったとしても、未だ命からがら生き延びていることは事実だ。
ライギルドの上に跨っている想起士は、それでも粘り強く大蛇を追っていた。
操り手のことは、操り手が一番知っている。体力の限界があることも。操り手が疲労すればその分化体も疲労することも。命令だけに移行すれば、化体の動きに粗が出ることも知っている。だから時間はかかっても、確実に殺せるという事実が乗っかっているのだ。
「棘は出せないのか?!」
「無理だ!あれは内部にのみ出せるもの!大蛇は戦う為の化体じゃない!」
そうは言っても、このままではジリ貧だ。キノが時間を稼ぐにしても、うまくいく可能性はどうだろう。考えている時点で見え見えの低確率に歯噛みする。大蛇は戦う為ではない。どちらかといえば逃げる為に化体となったのではないか。かろうじて逃げられているのがその証明だ。
「...なんだあれは!」
ハロドラの驚嘆に、思わず振り返る。気を抜いては駄目だと一時は顔を戻したが、ライギルドの怖すぎる尊顔よりも気になる情報により、キノは二度見してしまう。
「うげ!!」
驚きすぎて変な声が出た。唾まで出たのが気付かないくらいに、目の前の化け物は異様だった。
ピンク色の化け物は、森の開けたところにいた。ライギルドや大蛇に匹敵する大きさだ。丸い身体の下に、アメンボの足に似た二つ脚がある。二つの腕は恐竜のように短くて、キノの全身が総毛立つ。新たな化体が現れたのだろうか。だとすれば敵か味方か。ピンク色の化け物は丸い身体を起こして、大きな気配に振り返る。
巨大な一つ目が、キノのいる方向を目視した。目を背けたくなる姿形に、鳥肌が止まらない。ピンクの化け物は向かって来る大蛇に何をするでもなく、ただそこに立っている。
「おい、なんだこいつは」
ハロドラがビリーメルに問いかけるが、ビリーメルの意識は既にピンク色の化け物の手中にあった。
そこでキノは気付く。彼女が付けている仮面は、ピンク色の化け物と全く同じなのだ。四肢はついていないものの、並々ならぬ関係を持っているに違いない。
ビリーメルは一頻り手を振った後、背後にいる烈火の如き顔つきのライギルドを指差した。ピンク色の化け物はすぐに了解したのか、こちらへ向かって走り出した。
大蛇とすれ違い、目線を奪われたキノは、ライギルドと相対するピンク色の化け物に希望が沸いていた。
立ちはだかる化け物は、ライギルドを引き受けてくれたのだ。
「待て!」
ハロドラの制止の声を振り払い飛び出したのは、仮面の龍人ビリーメル。彼女は龍人であることを証明する跳躍力を見せて、大蛇からピンク色の化け物へと乗り移った。
ぶにゅりと柔らかい皮膚に着地したビリーメルは、振り返って腕を突き出した。親指を上に上げている。
「よし!戻るぞ!」
意図を理解したらしいハロドラは、大蛇に向かって叫ぶ。キノが何かを言う時間すら与えられずに、即座に足元に穴が開き、大蛇の中へと落ちてしまった。ビリーメルの背中を横目に、大蛇は地面の下へとその身を投じていた。
◯
「こいつ...!」
守護神操り手であるレイスタスは、眼前の悪魔に恐怖を感じていた。暴神ジャミの、最強たる守護神と融合しているというのに、悪魔という劣等生物に慄いていた。こんな事実はあってはならない。焦るレイスタスに同調して、暴神ジャミは戦斧を振り下ろしまくっている。暴神の名に恥じない怒涛の戦斧が悪魔を滅多打つ。目に見えない速度で、人一人分程の分厚さを誇る五つの巨大な戦斧が、五つの腕により破滅を体現していた。
「儂の弟妹も、お前達の仲間も死んだ。まだやるか!ロジバルト!!」
「耳障りな声を発するなぁ!!」
悪魔の鳴き声は聞くに耐えないというのに、ジャミの戦斧をいなす悪魔の動きは沈着そのものだ。冷静に、無い筈の網目をくぐっている。その間いくつもの鳴き声が聞こえたか知れない。耳が汚れても、絶え間なく醜声は聞こえてくる。
「今分かった!儂らは良く似ている!」
「ジャミぃ!!」
鳴き声に被せて、レイスタスは強行する。いなしているといってもジリ貧は免れない。守護神たるジャミには小細工など必要無く、ただ斧を振り下ろし続ければ良いのだ。
「人の在り方を断念した者同士だが、どうやら仲良くも、喋らせてもくれないようだな!」
ジャミの振るう戦斧の一つに、悪魔の腕が擦過した。ほんの少しだが、悪魔の動きに鈍りがあったことを、レイスタスは見逃さない。止めを刺すべく想像する。分厚い五本の戦斧を、円状に連結させた。隙を突かれた悪魔は、逃げる術もない。広範囲の戦斧の断面を、ただ眺めることしか出来ないのだ。
「死ね!!!」
九割の信望と一割の不安の入り混じった単純な悪口が、恥じることなく空中へ放出される。正義の伴った守護神の死の戦斧は、名誉を回復したものと思われた。
「ただ、龍人の租はロジバルトのようにはいかなんだ」
円状に連結された戦斧の底から、汚い鳴き声は尚も生き残っていた。歯が削れるほどの歯軋りを、レイスダスは余儀なくされる。上右の連結させた二つの戦斧を切り離して、三つの戦斧に耐えているであろう悪魔を殺しにかかる。二つの戦斧を三つの戦斧の上に振り下ろせば、悪魔の死は確信的なものとなる。
尤も、それは悪魔が間隙を見逃さなければの話だ。
「むううぅぅああああああぁぁ!!!」
地鳴りのように汚物のかかった耳を疑う醜声は、しかし途中で防ぐことは出来なかった。暴神を持ってしても悪魔一匹屠れないとは、どういう了見か。三本の戦斧は鳴き声と同時に、破裂したように散布した。
「.....」
余りにも予想外なことが起き過ぎた。レイスダスはこれを受け、脳の抑制機能が働いたのだろう。悪魔の害虫さながらのしぶとさのなんたることか。そのまま進行していればはち切れていた血管が、通常通りに運行を始めた。手のひらを殺しかけていた爪が、急速に力を緩めた。氷河の只中にいるみたいに、彼の精神は余りの熱波から冷却されていく。その本能的な怒りの管理意識が、幾らかの隙を生んでしまった。
トウロウ・アンテールは、纏まりのなくなった戦斧の隙間を飛び上がる。迫り来る二本の戦斧でさえ、垂れる髭を掠るまでもなく避けていく。
老齢の龍人は、五本腕を持つ戦斧の化体を攻撃するつもりなんて、鼻からない。痩せこけた顔を殴っても、頭の中に本体があるのだとしても、貫通する程の威力を持ってはいなかった。
だから、肩の上にいる男を目標としたのだ。
「神聖なるロジバルトおおおぉぉ!!!」
どうやらアンガーマネジメントは完了したようだ。或いは中止したか。男は瞳に狂気を宿し、信念を叫ぶ。同時に想像したのだろう。
戦斧の化体から、戦斧が消え去ったのだ。五本の手のひらに持たれた殺戮武器は、するすると手のひらに吸収された。
身軽になった化体は、五本の腕をトウロウへと差し向けた。空中へ赴いたトウロウを握りつぶすつもりか。身動きの出来ない今では、取れる対応も限られてくる。
トウロウはすかさず自身の右手首を、左の爪で掻き切った。自傷によって溢れ出る血液は、正しく赤色だ。
鮮血が大量に噴き出すと、トウロウは右手首を振り払う。
「!」
血液は男に降りかかり、目潰しとして機能した。思わず目を瞑る男へと、渾身の力を込める。
しかし、化体がそれを阻んだ。一つの腕が、トウロウを捕まえようとする。
全身のエネルギーを集約して、左爪に丹念した。横一閃に爪を振れば、化体の五本の指が綺麗に絡め取られる。これ以上は無理だと判断したトウロウは、目前の男へと照準を当てる。血だった右拳を男へと向け、捉える。
しかし、あと一分の隙間もないところで、トウロウの拳は鈍り出す。確固たる意志を持てた筈の拳は、男を貫いた筈の拳は、どういう訳だか目的を遂げることは無かった。
トウロウの意志はコンマ〇.一秒のうち、戦斧の化体によって絡め取られてしまったのだ。
遠い遠い、昔の記憶だった。




