第二十七話
思わず歩みが止まる。意思でそうしたのではなくて、まるで生存本能のように、足が地面を離さない。首も動かなくて、目も口も、何も動かない。金縛りのように、その場に静止した。
「すまんーーー」
肩口に当たる衝撃で、金縛りのような静止は解けてしまう。耳から既知の声がした。少しの沈黙の後、唾を飲み込む音がする。
本当に起きてしまった事なのだと、背後にいるナキによって確信してしまった。思考が壊れるくらいの回転は結果を出してしまって、脳はそれに従い動き出す。
棘によって危険地帯と化した方舟は、清々しいくらいに落ち着いていた。張り巡らされた棘達や、形を変えた壁や床や家々が、地獄のように鎮座している。
目の前には棘に刺され、磔のようになったアラギラがいた。周りには、アラギラのような無惨な死体が散らばっている。
四方八方に散らばる住人の死体は教えてくれた。
ガランが一度でも追い出されてしまった時点で、もう終わっていたのだと。渦中にいたガラン達が全員生き残り、安全な場所にいたアラギラ達が死に晒す。灯りは全て壊されて、火はあっけらかんと消し去られていた。木のような家に落ちても、創造物には火は点かない。
光のない集落は当たり前のように、希望が無かった。
ーー今大蛇を使えるならば、今すぐレディを貫ける。地面から飛び出す棘が、レディの体を貫くのを想像する。口から棘の先端が見える。血が全体から溢れ出し、地面を赤で染め上げていく。ーー
「レディっ」
声が震えて、上擦ってしまう。絶えず口を開けていたせいか、よだれがつまって咳き込んだ。マフラーによだれが付いて、咳き込む衝撃で顔に付着する。
見える地面が、空気に侵されるように曇っていた。うるうると波打つ地面は、徐々に徐々にと激しくなっていく。
「こんな、こんなこと...あっちゃ駄目だっ...」
直視出来ずに下を向くと、力が抜けたのかなんなのか、なし崩しに全身が前に傾いた。傾いた体は生暖かい何かに支えられて、ガランの手や顔に血がついた。付いた血を触って血の持ち主を辿ってしまう。
やはりレディは、死んでいた。苦しそうに。
「嘘だ、リリー」
どこかでナキの声が聞こえる。
ガランと同じように哀れな声を出して、リリーと呼ばれた白い馬を見上げていた。白い馬は綺麗に胴体を貫かれている。大きな翼も散り散りに、飼い主が来てもぴくりとも動かない。
「う..ぅ」
白い馬の近くで声がした。棘の間に挟まる様に、か細い女の声がナキを呼ぶ。
「セディア...?」
応対するようにセディアの肩はぴくりと動き、ほつれた髪の毛を垂らしながら、ゆっくりと顔を上げる。
「ごめん...ナキちゃん」
聞いたこともない、泣きそうな声のセディアも、どうでも良くなっていた。
ガランは放心したように、ただただ想像していた。
「これは...どういうことだよ」
キノの声が、広間から聞こえてくる。彼もやっと、この現状に気付いたのだろう。幼馴染でもあり、友達でもあったジェメドを殺すのでさえ、生半な覚悟じゃいられない。きっぱり清算した後にまたこんな地獄が待っているなんて、放心するに決まってる。
少なくとも、ガランは放心してしまった。
立ち上がって、視界の隅のナキやセディアを中心に持っていくと、足元の大蛇の地面と融合する。
脳内に、大蛇の壁を想像する。大蛇の壁はナキやセディアや、死体となった白い馬だけを掬い上げ、広間の中へと押しやってゆく。広間に立ち塞がって動けないでいるキノも巻き込んで、ガラン以外の生き残りを、広間に閉じ込める。
一連の想像は、素早く大蛇が答えてくれる。
「っ...!」
壁に押し出されていく二人と一匹を眺めながら、ナキが押し出されながらもこちらを見ていることに気がついた。
訳がわからないというように、狼狽している。
その瞳に映し出されたのは、己の全身だった。厚手の外套に、手袋。制帽みたいな帽子を被ったガランは、何と言えばいいのだろうか。卑怯に思えた。
放心した思考は、ナキの瞳によって瓦解する。あれだけ嫌いだと思っていたけれど、今は感謝さえ感じていた。
「ガラン!」
迫る壁の正体に気付いたか、キノの切迫した声がガランを叫ぶ。しかし結果は変わらない。目の前の現実には逆らえない。
母から貰ったマフラーを解く。
心の中で思う。
頑張れよ。
ガラン以外の生き残りを押しやった広間を想像する。棘は壁床に沈められ、大蛇の地面はぐんぐんと盛り上がる。
やがては大蛇の口から、彼らは龍人の里へ到達するだろう。
セディアから話は聞いてある。彼等の目的地は龍人の里であること。そして、今いる居場所はロジバルトに掴まれているかもしれないこと。応援するわけではないけれど、これくらいはしてやっても良いのではないかと思う。
静かになった方舟を見渡してみる。先の融合で、前の姿とは言わずとも棘は無くなり、地獄みたいな風景は無くなった。
大蛇、僕が死んだら死んでくれ。
貫かれていたレディも、地面に横たわり死んでいる。
ーー「大蛇じゃなくて、あなたの手で殺してください」
殺したのはジェメドの命令した大蛇だ。ガランではない。もう既に彼女の願いは叶えられないけれど、ガランは短剣を創造する。
拙い短剣はすぐに壊れてしまいそうだったが、問題はなかった。
ガランは短剣を両手に握り、振り下ろす。
レディの頭部を、刺した。死体に刺しても何にもならない。死んでしまったのだから、死体側には何の感情も湧いてこないだろう。それでも、レディの感情が周りに残っているかもしれない。低すぎる可能性を信じて、刺した短剣を抜いた。レディの頭部を刺した短剣は、まだ壊れてはいなかった。その拙い短剣を、今度は己に向ける。
◯
「嘘だ」
気付けば、そんな言葉を漏らしていた。全身を撫でるように吹く微風が、血の匂いを遠ざけてくれている。
一瞬のように思われた出来事に、多量の情報が押し合っている。ナキ一人では抱えきれない、下手をすればナキ達でも抱えきれないほどの情報が、穏やかな微風を阻害する。
「何が、起こった」
何故か動かないリリーを撫でながら、独り言を呟く。リリーの肌は前とは違い、生暖かい血とは対照的に、酷く冷たい。瞳に光は消し去られ、動く気配も感じられない。
「急に、棘が現れて」
横からセディアの声がする。いつものような陽気な声とは違って、どこか暗く、曇っていた。
「私達を殺していったの。私は、リリーちゃんに助けてもらって生き延びた」
「.....」
淡々と、だけど控えめな声音に、どこか冷静な気持ちになる。
リリーの綺麗だった毛並みが、輝きを失っていく。ぼろぼろだった毛並みは、ナキが綺麗に整えた。気怠そうな目つきは変わらなかったけれど、嫌がってはいなかったと思う。本当のことは分からないけれど、他の誰よりもナキのことを理解していて、不思議な安心感があった。天馬は元々賢いが、リリーはその中でも群を抜いていた。兵舎では賢馬なんて異名もついたくらいに頭が良かった。人の思っていることがなんとなく分かっている節があって、そのお陰で苦労もしたのだろう。想像でしかないが、牧場でのリリーを思うと、そんな気がした。
動物が得意なロックでさえ、リリーは懐かなかった。ジキラの天馬も、ヨハネスの天馬も悉くロックに絆されていたのに対して、リリーだけはロックに素っ気なかった。そんな特異な天馬だけど、一貫して思うのは、優しいということだ。ナキにだけということではなく、皆に対して。気怠げに溜息を吐きながらロックの落し物を拾ってくれたり、カドレアの天馬にどつかれても怒らないし、食いしん坊なロジイの天馬が物欲しそうに餌を見ていたら、半分を分けてくれる。
一貫して皆に優しい。
「リリーっ...!」
ぶわっと涙が溢れ出た。出てくる記憶と目の前の乖離があまりにもかけ離れていて、名前を呼ぶと胸が締め付けられたような心地になっていく。
リリーの目的はなんだったのだろうか。目的という程のものではなくとも、リリーなりの理想があったのではないだろうか。
分からないままに、助けられたままに、リリーは死んだ。
死んでしまった。
「お前達、そこで何をしている」
知らない声にも、聞く耳を持てない。リリーの死体を眺めながら、ただ微風に呆けていた。
「んー?見たことなくない?私見たことないよこんな奴ら」
「どすも無えすよ。鼠でねえすか」
背後には、知らない声が三つ聞こえる。普段ならどう反応していただろうか。そんなことを考えながら、リリーのことを思い出していた。
「龍人だ」
セディアの言う言葉に、ナキもゆっくりと振り向く。俯いた光景しか見ていなかったから、視界の全てに驚いた。優しい光を全身に放つ、大きな蛍のような虫がいた。それは地面を歩いていたり、幹に張り付いていたり、飛んでいたりする。暗闇を照らして、発光していた。それ以外にも、巨大な膨らんだ植物、きらきらと輝いた黄金の湖、まるで亀と蜘蛛を配合したかのような生物、他にもたくさんの、見たことのないような光景が目に入る。
しかし、そんな光景が気にならない程、振り向いた先にいたものは衝撃的だった。
少し赤みがかった肌の色。頭部には、鋭利な角が生えている。耳も端に尖っていて、今もぴくぴくと動いている。手足には凶暴に爪が生えており、極め付けに、長く力のある尻尾が生えていた。
三人の龍人は、警戒した様相で、ナキ達に立ちはだかる。
「セディアさん。薬は」
「あるよ。大丈夫」
セディアは立ち上がり、すでに立ち上がっていた皆に合流するように、龍人に相対する。腰のあたりにある鞄を撫でている。
「ここで落ち込んでちゃいられないよね」
セディアは覚悟を決めたように、前へ出た。三人の龍人へ、ゆっくりと三歩進めた。
「私達はこの下から来ました」
「下?」
「まあまあそんな警戒せずに。私達の血塗れ具合を見てください。取り敢えず補導は大歓迎なので、殺しや拷問は勘弁してください」
まるで他人事のように眺めながら、視線を元に戻して、リリーを見る。冷たい頭を撫でながら、確認した。
ああ、死んでいる。




