第九話
ことの顛末を語ろう。
ニムロド王の死を受けたシナルの地の人々は大いに混乱した。
その中で、ひとりの貴族がとある宣言する。
――死んだのは影武者であり、本物のニムロド王は生きている。
彼はある地に伝わる高名な家系の次男であり、聞けばこのバベルの塔に連なる出資者の中でも上位に位置するパトロンであったそうだ。
バベルの塔の屋上で何があったのかを知っている私は、彼が今までバベルの塔の建設に費やしてきたものを取り戻そうと、必死になっているのが手に取るように理解できた。
おそらく彼は、バベルの塔建設の栄光と、神の地で見込まれる利益の何割かを得られる契約でもしていたのだろう。けれど肝心のニムロド王が死んでしまっては元も子もない。
だから死んでしまったニムロド王の代わりを用意したのだろうけれど、それも事件から数日程度では、人を騙せるほどの演者を用意できるはずもなく、貴族が用意したニムロド王は、本物が持っていた威厳の欠片も持ち合わせていなかった。
だからシナルの地の人間は、誰もその貴族の言葉を信じなかったけれど、それでも貴族はその主張を繰り返す。するとどういうわけか、その貴族に賛同するものが現れたのだ。
おそらくは貴族と何らかの密約を交わした人間たちだろう。他にも、かつてバベルの塔で衛兵をしていた人間などは、多く貴族の味方をした。
おかげで衛兵と住人の間に深い溝ができ、それはやがて攻撃的な兆候を見せるようになる。
更にこの騒動によってバベルの塔の建設計画が止まってしまったことにより、かつてよりバベルの塔完成に伴う住居の不足を不満に思い、暴動を起こそうと画策していたテント地帯の住人達まで、この問題に乗り込んできたのだ。
偽物を擁立した貴族を含めた上階の人間と、それらの言を信用できずニムロド王の死を嘆く下階の人間、そしてその両者へと食って掛かる部屋も持てないテント地帯の暴動者たちと、ニムロド王の死を巡る騒動は混沌を極めた。
その戦いに転機が訪れたのは、下階の人間が秘密裏に使い始めた暗号であった。シナルの地は平野が続くが、バベルの塔内部はそうではない。なので秘密の会話であったとしても、誰かに聞かれている心配があったのだ。
その頃になれば、暴動者たちが不法に塔の内部に侵入し、下階の人間を捕まえて、部屋を奪おうとうろついていることもあった。そんな状態でも、下階の人間同士で連携を取るために、彼らは暗号を開発したのだ。
これは塔の上下構造にも有効であり、暗号を使えば大声で意思疎通を取ったとしても、作戦が相手方に露見するようなことにならない。
そしてこれに対応するように、上階と暴動者の間でも暗号が流行し、かつてシナルの地で使われていた言語は次第に話されなくなっていった。そして戦いが長引くにつれて暗号は言語のように扱われ、この地に浸透していく。
結果、このシナルの地には三つの部族が生まれた。
彼らは自分たちだけの言語を信仰し、それ以外の人間を排除するように動くのである。私は何とか必死にそれら三つの言語を解読し、習得した。これにより、各勢力に言語を介して味方のふりをすることができ、結果としてこのシナルの地の行く末を最後まで見守ることができたのだ。
そして最後に、この三つ巴の戦いの結末について語ることとしよう。それが、バベルの塔にまつわる物語の終わりでもあるからだ。
十年近い時を彼らは争い続けてた。既に当初の目的は有耶無耶となり、ただ敵が憎いという理由だけで、お互いに刃を向けあっていたある日、世界をひっくり返したかのような揺れが、シナルの地を襲ったのだ。
それはかつて起きた大洪水のような天変地異であり、これによって世界はめちゃくちゃに揺さぶられた。
そして、バベルの塔は崩れたのだ。
空から塔が落ちてくる様はまるで雪崩のようであり、多くの命と、財産と、居場所をそれは奪っていった。
そしてあとに残ったのは、閑散としたシナルの地と、崩れ落ちたバベルの塔と、生き残った人々だけである。
私が生き残れたのも、ただひたすらに幸運だったからとしか表現できない。それほどにまで凄惨で、残酷な事件だった。
それはまるで神のように無慈悲で、偉大な所業であったけれど……この世界に神は居ないのだ。そしてそれを語ったニムロド王もまた、もういない。
そうしてシナルの地に襲い掛かった大災害によって崩れ落ちたバベルの塔は、既に住居として使えるようなものではなく、生き残った各部族の人間たちは、それぞれの安住の地を求めて世界へと散っていった。
これが、この物語の結末であり、空を目指した人間たちがたどり着いた挑戦の末路である。
結局のところ、この崩れ去ったバベルの塔は、その最後に誰の安住の地になることもなく、それどころか心休まらぬ戦場となり、まさしく人間の愚かさを象徴するにふさわしい塔として、その最後を迎えてしまった。
けれどこの物語が、果たして間違った物語だったのかと訊ねられれば、私は答えに困るだろう。なにせ間違いなく、バベルの塔を建設するにあたって、経済は動き、救われた人間は居たのだから。
けれどそれは、この物語を捉える一側面に過ぎず、それを物語の終わりとして扱うにはあまりにもおざなりだ。
ただ、やはり間違いなく、この塔の物語には、それに伴う救いもあったはずなのだ。愚かであろうとも、それに気づいていないうちは幸せなのかもしれない。
それは裏を返せば、幸せである理由に、聡明さはいらないということなのかもしれない。
少なくともこのバベルの塔の建設に携わっていた労働者は、私が訪れたころは、誰しもが幸せそうな顔をして働いていたのだから。
そこに愚かかどうかは、関係のないことなのだろう。