第八話
上る。
小さなバベルの塔内部の階段は、弧を描く石壁に沿った螺旋構造をしていた。ぐるぐると、ぐるぐると、それはバベルの塔がそうであるように空を、目指してひたすらに続いている。
時折その螺旋階段は途切れ、踊り場が現れる。けれど、塔の内部は真っ暗闇であり、その踊り場に何があるのかを、私は観測することができない。
私はただ、手と足を使い、何も見えない暗闇の中を、四つん這いになって進むだけであり。左手を壁に添えれば、その先には螺旋を描く階段があるのだ。だからその、左手の導に従い、私はひたすらに壁に沿って直進し、階段を上っていく。
もちろん、明かりは付けない。いくら門を通り抜けたとはいえ、この小さなバベルの塔の中に衛兵がいない保証など、どこにもないのだ。
だから私は、みっともない四つん這いの姿勢で、愚かにも天を目指している。その進みはあまりにも非効率で、天を目指す足取りにしては重々しく、限りなく遅い。それほどまでに人が天を目指すのは難しいのであると、諭されているようでもある。
ふざけた話だ。
あの日、私が見た演説をするニムロド王の瞳は、空を目指す正しさで満ち溢れていたというのに。一つ、また一つ踊り場を通り抜け、さらに上へと目指して這い上がる私の体は、段を一つ登る度に足かせが増えていくように重くなっている。それが間違いであると、体中が叫んでいるようだ。
私は愚かである。
だからこの叫びには、納得して見せよう。
けれどあの王、ニムロド王は。あの愚かさの欠片もない瞳を持った、野心の塊のような男は、どうしてああも正しく居られるのか。
空を目指すという行いが、今の私のように苦痛で満ち溢れたものだとすれば、いったいニムロド王が辿って来た道筋は、どれほどの苦難が待ち構えていたのだろうか。
私には想像もつかない。
その苦難に、どれだけの人間を巻き込んだのか。きっと途方もない数を、その旅路に費やしたのだろう。時間も、費用も、計り知れないあらゆるものを支払って、彼は空を目指したのだろう。
そんなことを考えながら天井を見上げ、暗闇の中に続く階段の果てしなさに打ちのめされつつも、私は歩みを止めることなく、ただひたすらに昇り進んだ。
詳しくどの階の踊り場を過ぎたあたりかは知れないけれど、いつの間にか階段には窓のようなものが設置されており、そこから陽光のような光が差し込んでいることに気づいた。
どうやらある程度の高さからは、この塔にも窓が設置されているようで、そのおかげで私はどれだけの時間をこの塔を登ることに費やしたのかを知った。
私がバベルの塔に侵入したのは真夜中のことだというのに、それがもう遠い過去のことであるかのように、光が私を照らす。それでも私は、上を目指して進み続けた。
好奇心が故に。
衛兵も、この塔に住む住人のことも、或いは登り切った後のことも既に私の中からは消え去っていて、最後に残った好奇心と言う感情ばかりが、私を突き動かすばかりだとしても。
やはり私は、上り続けるのだ。
そして、私は頂上へとたどり着いた。
雲よりも高く、山よりも偉大で、空を覆いつくさんとする、塔の頂へと。
建設中の名の通り、最後の踊り場を通り過ぎた私に待ち受けていたのは、壁一つない崖のような終着点だった。
そこは山の頂上のようにまっさらで、空に融合してしまったかのように境界線があやふやな塔の上。ここが屋上なのか、或いは次なる部屋の土台なのかは知れないけれど、直径十メートルほどの円の中に納まった足場には、一人の男が座っていた。
「誰ぞ」
彼は足を半分、遥か高き空に放り出したまま、この足場の縁に腰を掛けていた。そして、私の来訪に気づき、ゆったりとした動きで振り返り、私の姿を確かめる。
「……私の知る出資者ではないな。小間使いにしても身なりが貧相で、暗殺者にしてはあまりにも無防備が過ぎる。貴様は誰ぞ」
後ろ姿で既に分かっていた。そして振り向いたときに向けられた、その野望に満ちた正しき眼差しを直接浴びせられて確信する。
彼こそが、ニムロド王であると。
体が挙げる悲鳴すらも忘れて、ただただ彼の前に立つことばかりに意識のすべてが持っていかれてしまう。それほど、彼の瞳には強い力が宿っていた。
けれど私は、私の中に渦巻くそれに突き動かされて、不遜にもこの地を統べる王へと言葉を重ねていた。
「私は世界を旅する人間、一介の空を舞う藁草に過ぎない、名乗る価値もない人間でございます」
「それがなぜ、この場所へ?」
「ただ一つ、訪ねたいことが」
「私に?」
「はい。この地を巡れど、私の胸中に渦巻く疑問を解決してくれる答えを得ることはできませんでした。けれどもしも、この地そのものともいえる貴方ならば答えられるやもと……」
そこまで口にして、思わず言葉を濁してしまう。まるで私は、この王を試すような言葉を、今、口にした。
不遜にして不敬。あまりにも礼節を欠いた言葉は、果たして本当に私の口から飛び出した言葉なのか、私自身すらも信じられなかった。
けれど同時に、どうにもそれがしっくり来てしまう。
その疑問の答えを得るためならば、命すらも惜しくないと、私のすべてが肯定しているのだ。
だから言葉を濁しながらも、ごくりと息を呑んだ後に、私はその言葉を続けられたのだ。
「この夢見る衆愚に支えられたガラス細工の王国が、貴方にはどう映って見えるのか。私はその答えを、訪ねに来たにすぎません」
ともすればそれは、今まで礼節によって隠して来た、私の本性がにじみ出たような言葉であった。私も知らない私。私をひたすらに突き動かす、もう一人の私が、私の口を借りて唱えたような、そんな言葉だった。
それを聞いたニムロド王は、塔の縁から立ち上がり、ゆっくりと私の方へと近づいてきた。
「夢見る衆愚、か。これほどの塔を築き上げた民草を、貴様は愚かと弄するか」
その言葉は意外にも、怒りを感じさせないそれであった。声色から感じられるのは、湖面のように凪いだ、起伏の感じられない感情ばかりで、まるで私が問いかけられているような、そんな気配を感じてしまう。
だから私は、その言葉へと答えた。
この地の王と、故郷を捨てた根無し草。
本来であれば釣り合うはずのない私たちが、この空の上の、神の地に最も近い場所で、まるで対等であるかのように。
「愚かさとは、誰しもが持ち合わせる純真と、私は考えます」
私は思う。
愚かさとは、純真であると。
「それは未来を信じる心。私たちが進む道の先には、目も眩むようなものが待っているのだと思うその心が、愚かそのものだと、私はここに至るまでに思いました」
この場所を目指す私は、ここに至るまでの長い長い道のりで思い至った一つの答えこそが、この純真である。
誰しもが愚かさを抱え、けれど現実という流れに従うことで、今よりも未来は素晴らしいものになるという希望を捨て、今をただ保とうとする。
けれどもし、その大きな流れが、あまりにも大きすぎる夢へと帆を向けたとすれば、誰もそれに抗う術はない。
その時に傾いてしまう信心。
大きな流れに身をゆだね、抱いてしまった希望。
それこそが、人間の持つ愚かさなのでないかと、私は思うのだ。
私もまた、ここに訪れる未来を夢見て、愚かさに走った人間だから。
「未来を信じる心、か」
私の言葉を咀嚼するように、その王は目を閉じた。
それからうんうんと何かを考えるように唸り、再び目を開く。
「ここに在るのは過去だ」
そして彼は語った。
「かつて起きた神罰に恐れる心、そして空を憎む心が、この塔を建てたのだ。そこに未来への求心などない」
かつて起きた大洪水。
ある人はもう一度起きるその災害を恐れ、安全を手に入れるために働き、ある人は家族知音を失った悲しみを胸に、神への復讐を誓った。
それは過去であると、ニムロド王は言った。
「本当にそれは、過去なのでしょうか?」
けれど私は、その言葉に反論する。
「神罰によって流された地を見下ろして、こうなることのない未来を志したではないのでしょうか? 或いは失ったものを数え、これ以上のものを失う未来を変えようと志したのではないでしょうか?」
私は見た。
父を失い、路頭に迷った女が、窯の前で仕事を続けられる未来を夢想していた有り様を。いざ失われるかもしれないとなっても、失われることはないだろうと今を繰り返し、安寧の未来に浸る様を。
変わらぬ未来を夢見る愚かさを。
「愚問であるな」
私の反論へ、ニムロド王は言葉を返す。
「未来を切り開くは人間の常だ。より良きを目指し、邁進する。この地もそうやって拓かれてきた。どんなときであろうと、それは本能によってもたらされる、人間として至極当然の行為なのだ」
未来を切り開くのは人間の本能であるとニムロド王は言った。
「果たしてすべてが、そうなのでしょうか?」
しかし私は、その言葉に反論する。
「未来は拓かれるばかりではありません。時としてそれは自らの罪に対する罰となり、人間に振りかかることになるでしょう。まるでそれは、未来へと進むこと自体が罪であるかのように」
私は見た。
未来の繁栄を願い受け継いできた農場が衰えていく様に憂いた老人の有り様を。人を飢えさせないために作り出したそれは、栄えるほどに衰えていく。人の力ではどうしようもなく、神の力なくしては復興すらままならぬ様を。
衰えぬ未来を願い何もしない愚かさを。
「戯言であるな、人に元来罪などないのだ。あるのはただ、行為と結果のみ。それに善悪を付けることこそ傲慢であり、それこそが神の愚かさの象徴である」
人に罪はなく、それを勝手に決定する神こそが許されざる存在なのだと、ニムロド王は言った。
「しかし、許されざるは確かに存在するでしょう」
やはり私は、その言葉に反論する。
「善悪に最も重要な要素は、それこそ人間の持つ社会であると言えましょう。大衆利益を潤すか損なうか。でなければ誰も、自分たちの財を失うことを恐れず、得ることすらしないでしょう」
私は見た。
目論見破れ、得られたはずの財のほとんどを失ってしまった男の有り様を。もらえるものだと信じ込み、ひたすらに怠惰を謳歌した民衆の怒りを。自らの存在の肯定を対価に、その存在を肯定することしかできない世界を。それらが大きな流れとなり、夢想を助長する様を。
裏切られぬ未来を信じる愚かさを。
「……」
反論ばかりの私に対して、ついにニムロド王は閉口してしまった。だから私は言う。
「教えてください、ニムロド王。貴方が作り出したこのシナルの地は、貴方の瞳にはどのように映っているのでしょうか?」
私は知りたい。
私は私の瞳を通してでしか、この世界を知ることはできないけれど。
果たして私ではない人間に、この世界はどのように映っているのか。そしてこの愚かしい世界を作り出した主は、何を感じ、どのようにしてこの世界に幕を下ろすのか。
バベルの塔。
その完成を最後に、幕を閉じる物語を。
完成させてはいけない物語を。
彼はなぜ、閉じようとしているのか。
私はそれが、どうしても知りたい。
「神は……」
太陽が私たちを照らす。陽の傾きが足元に長い影を作り出す。その中でようやく口を開いたニムロド王は、影のかかった顔にひどく残念そうな表情を作り、私から目を逸らしながら、その言葉を続けた。
「神は、居なかった」
「……なんと?」
私は耳を疑った。
「神は居なかったのだ、旅人よ」
そう優しく語りかけた後、ニムロド王はこの塔が見下ろす世界へと向き直った。
遥か高きバベルの塔。
この世で最も神の地に近い場所。
そこに立った彼は語る。
「素晴らしき未来を信じる心こそが愚か、とな。ああ、確かにそうであるだろう。私たちはかつて、箱舟の中から滅んだ世界を見た。絶望と哀哭が蔓延する世界であった。これが神の仕業であるならば、どれほど人類が繫栄しても簡単になかったことにされてしまうではないかと、私は憤ったものだ。あの日、神を殺そうと誓った日のことは、今でも覚えているよ」
彼はずっと大地を見ている。
連なる峰々。そこから海へと流れていく大河。農耕地に限らずとも、遠くへと広がっていく大自然の景色を。
「そのために私は塔を建てた。偉大なる塔を建てて、神へと挑もうと。けれど神は居なかったのだよ。空の上にも、この世界にも」
神は居ない。
私はその言葉に耳を疑ったけれど、しかしどうにも、しっくりときてしまう。まるで私が、かつてより神を信じていなかったように。
「神がいないとして、それはつまり、あの洪水には意味がなかったと……何十万という人々が死んでいったあの日に、特別な何かはなかったということでしょうか」
「ああ、そうだ。あれは風が吹くように、雨が降るように、ただ自然がそうであるがままに起きたことなのだ」
「その証拠は……」
私の問いに彼は何も言わず、ただ目で塔の外を示した。
塔の外側。既に私が知る通り、そこには悠々とした自然ばかりが広がっている。山と河と大地と人と。それを見て、私は静かに悟った。
「神は天に居ると教えられた。だからここまで登って来た。遥か雲上まで。けれどその地は、未だその欠片すら見ることができない。神の声もまた、だ。ならばそれは、存在していないのと同義ではないのだろうか」
「でもあなたは、神の地へとたどり着けると……」
「ああ、そうだな。私はそう、民へと語った」
彼はそう語り、何十年と続く夢へと、シナルの地を導いたのだ。その結末が、神は居ない、と?
それは、あまりにも……あまりにも愚かな話じゃないか。
「素晴らしい未来を目指すこと。私は神を討ち果たせば、それが待っていると思っていた。……だがこの空に、神は居なかった」
「貴方がそれを、語るのですね」
「私だから語るのだよ」
「神の地への旅路には、多くの協力者がいるではないですか。時間も、金も、なにもかもを投げ打って協力してくれた方も、中にはいたのではないですか? それを、ただの徒労であったとするのは……ただでは済まない」
「ああ、そうだろうな」
人は裏切り者を許さない。どんな世界でもありふれた常識だ。
それにこの塔には、何かに縋るように集まった人間も多く居る。船長が語っていたような、ただ飯ぐらいも多く居るだろうけれど、やはりこれだけの塔を建てるとなれば、そうではない人間も多いのだろう。
そんな彼らが、神などいないということを知ったとすれば、彼らが神へと向けていた敵意は、今度はニムロド王へと向けられてしまう。
けれど彼は、何でもないかのようにそう言った。その顔は、かつて演説の時に見た力強さも、覇気もまったく感じ取れないほどで、まるで衰えた老人のようだった。
いや、その通りなのだろう。
彼がこの塔の建設を始めてから、何十年と言う歳月が経っているのだから。
「私が愚かであったのは明白だ。けれど、いつまでもその愚かさに、この地の人々を付き合わせるわけにはいくまい」
「暴動が起きますよ。下手をすれば戦争のように悲惨なことになるかもしれません」
「それならば、それでいいだろう。その時はまさしく、この塔は人間の愚かさの象徴として、歴史に刻まれることになる。ならば早い方がいいじゃないか」
塔の屋上。
壁も柵もない縁に立った老人は、何かを悟った風に言った。
「神はいないのだから、いつ次に私のような愚か者が出てくるかもわからない」
彼の瞳に映っていたのは、火の消えた蝋燭だった。
その蝋燭はとても背が低く、その頭にかつて火を灯していたであろう糸は失われており、それは神のいない世界を信じまいと、ひたすらに燃え滾っているように装っていたのだ。きっとその仮初の炎を私が、疑問と言う吐息で消してしまったのだろう。
だから彼の眼に灯っていた何もかもは失われ、そこにはただの老人しか残らなかった。そんな彼が、次に何をするかを、私は手に取るように理解できた。
信じていたものが失われて、生きてきた意味が喪失したのだ。
もしも私が好奇心を抑え込み、この塔の屋上へと赴かなかったら。
或いはどこかで衛兵に捉えられ、たどり着けなかったら。
そんなことを夢想してみるけれど、意味のないことだとすぐに気づいた。何せ彼は、既にこの塔の完成が間近であることを宣言しているのだ。いずれどこかで、今から起きることと同じことが起きていた。
彼が神のいない現実を認め、我に返る瞬間が。
燃え尽きてしまう瞬間は、必ず訪れていたのだ。
だから私は、何もしなかった。
彼があと一歩、塔の外側へと踏み出し、この無限にも思えるほどに広い世界へと落ちていくのを、私はただ観察していた。
空を目指した王が地に落ちた。
それはまるで、雷のような衝撃をシナルの地へと与える事件となった。