第六話
シナルの地に訪れてから七日目。私はこの日初めて、塔の内部へと足を踏み入れた。
この七日間、私がバベルの塔へと足を踏み入れなかったことに関しては、何か特別な理由があるわけではない。ただ単純に、あの塔に関して何も知らないままに、足を踏み入れるのが少し不安だっただけだ。
空へと続く螺旋の塔と、その中に形成される移民の街。これらは今、世界が注目する大きな流れそのものとなっている。
だから私は、実を言えばこの塔のことがとても恐ろしかった。もしも私もこの塔の中に住んでしまえば、神の地を目指す塔がもたらした大きな流れの中に飲み込まれてしまいそうで、とてもじゃないが近づく気になれなかったのだ。
そんな気持ちに踏ん切りがついたのは、やはり船長のおかげだろう。近いうちに何かが起きる。その何かは、このシナルの地に関わる人間に大きな不幸をもたらすかもしれない。そんなことを言われてしまえば、今のうちにでも、塔の中を見ておかなければいけないと考えてしまう。
だから私は、あの日ニムロド王が演説をしていた大門の抜けて、初めてこの大きな流れと向き合うのだ。
「……ここがバベルの塔の中ですか」
大門に比例して高い天井を見上げながら、360度のすべてが煉瓦で覆われた塔の内部。大門から中心へと延びる大廊下を歩き、そしてついに開けた場所に出た。
歩いた長さからして、おそらくここは、話に聞いた塔の中心から少し外れた外縁部の空間だろう。円形の空間だ。半径だけでも二百メートルはありそうな、とてつもなく巨大な円形の空間。加えて天井もとても高い。よくよく見てみれば、この円形の空間を取り囲む外縁部外側の壁には、窓のようなものがあって、それが斜めに連なっている。あれはおそらく住人が住む階層で、きっとこの広場の天井は、いくつもの階層すらも貫いて空へと延びているのだろう。
そしてその空間の中心部にもまた、バベルの塔とよく似た塔が、空へと延びていた。
塔の中に塔がある。
こちらの塔は、外で見たバベルの塔に比べれば随分とこじんまりとしているが、それでも空を目指さんとする息ばかりは、バベルの塔に負けず劣らずと言った様子。おそらくこれが、拡張工事が為される前のバベルの塔。
最初に作られた、バベルの塔。
その最初のバベルの塔を中心として、ここには外よりもさらに多くの人々が居た。この塔の中に住む人々が。
この七日の間に聞いたことだ。
水を必要とする農業や、煙を無作為に上げる窯場は外に設置されているが、その他の多くの産業は、この塔の内部で行われていると聞く。
それこそ塔の最下層の一部は、牧畜のためのスペースになっているらしく、外から持ってきた草原が建物の中にできていると聞くし、木工や織物、彫刻のような芸術に至るまで、できうる限りのすべてはこの塔の中で済ませられるのだという。
まあ、もともとは大洪水にも耐えうるように設計されているバベルの塔である。何十日と言う籠城にも耐えられるよう、塔の中で人々の生活が完結するようにしているのだろう。聞くところによれば、農場も試作しているようだけれど、やはり日光が当たらない関係上難しいようで、全てがうまく行くわけでないようだ。
ともあれ、塔の内部。私はまず初めに、この巨大な広場の中心に聳え立つ、もう一つの塔を目指して歩いた。
塔の中の広場は、どうやらバザールのように使用されているらしく、工芸品や日用品雑貨が、所狭しと軒を連ねている。中には船長のような、外から来た人間が、国外の商品を店先に並べている姿も見えた。
そしてそれは、広場中心の塔に近づくにつれて溢れかえる人混みの中に流されて、いつの間にか完売してしまっていた。
見れば、ここには労働者だけではなく、金を持て余すような人間も多いらしい。果たしてそれが、ここの住人なのか、それとも外から来た観光客なのかは、このシナルの地が多くの人種によって溢れかえっている今、確かめるすべはない。
だから私は、とにかく人混みをかき分けて、この広場の中心へとたどり着いた。
中心に聳え立つ棟には、表で見たような大門とは違う、こじんまりとした門が取り付けられていた。木板で出来た扉によって閉ざされたその門は、おおよそ馬車一台が通れるぐらいの高さと横幅しかなく、門から横に続く外壁の円周も、大きくはあるが人類のすべてを収めるというには、少々心もとない大きさでしかない。
だからニムロド王は、改めてこの塔の外側にもう一つの塔を造ったのだろう。元々この塔は、次なる洪水に耐えうるためにも、作られたのだから。
「おい、そこのお前。ちょっと止まれ」
と、そこでぼんやりと門を眺めていた私の前に、二人組の男が話しかけてきた。筋骨隆々とした体に皮の防具を身に着け、帯刀しているところを見るに、おそらくはこのバベルの塔に務める兵士なのだろう。
だから私は、いつも以上に丁寧な物腰で、彼らの声に返答した。
「はい、なにか御用でしょうか?」
私に声をかけてきた男たちは、私の頭からつま先までをじろじろと睨みつけてから、警戒心が浮き出たような声色を収め、口を開いた。
「来たばかりの人間は知らないと思うが、中央塔は立ち入り禁止だ」
「ああ、そうなのですね。申し訳ありませんでした」
「いや、いい。だが最近は物騒だから、こちらも警戒が強まっているんだ。そう言う騒動に巻き込まれたくないのなら、下手に近づかない方がいい」
彼の言う物騒と言う言葉は、おそらく塔の完成に際して立ち上がった、塔の麓の人間たちのことだろう。昨日見た限りでは、そのうち彼らは塔に乗り込み、部屋を奪っていきかねない、そんな顔をしていた。
だからか、私に声をかけてきた二人組もまた、何かを経過しているかのようにピリピリとした空気を纏っている。
「ああ、すいません。一つお聞きしたいのですが、よろしいでしょうか?」
もしかすれば、軍人からしか聞けないこともあるかと思い、私は訊ねてみる。二人は少し顔を見合わせた後、面倒くさそうな表情を隠そうともせずに、次のようなことを言った。
「……塔の中に住みたいというのなら、次の住民移動まで待て」
どうやら彼らには、私もまた塔の中に居住地を求める移民に見えたようだけれど、私が訊ねてみたいことは違うため、丁寧にその旨を口にする。
「ああ、いえ、そういうことを訊ねたいわけではないのです」
「じゃあ何を聞きたいんだ?」
信じられないといった彼らの顔を見る限り、もう何十人もの旅人から、そのようなことを訊ねられたのかもしれない。
ともあれ違うものは違うので、私はきっぱりと否定してから質問をした。
「ニムロド王がどのような御人か、お聞きしたくて」
「ニムロド王について、か……」
そう言うと片方の男が、うーんと唸る。それから絞り出すように彼は言う。
「悪いが、人並み以上のことは言えないなぁ。何分、俺たちも雇われだ」
「だな。腕っぷしが強いから兵士になれただけで、王の知り合いってわけでもなければ、直接話したことすらない」
「だから言えることと言えば一つだ」
交互に会話するように意見を出しながら、最後に彼らは答えを口にした。
「いい王様だよ。俺たちにも仕事をくれたんだから」
「だな。しかも働いていりゃ税もない。まさに楽園だよここは」
それが、この国に従事する人間が抱く答えなのだろう。少なくとも私は、この国で働く人間で、ニムロド王を悪く言う人を見たことがない。
仕事があるからいい。
住むところがあるからいい。
食うものがあるからいい。
彼らの言い分は、それに尽きる。
だからもしも、私が期待する問いを得られるとしたら――
「もう一つ、これもまた純粋な疑問なのですが……もしやこの中央の塔にこそ、上階の方々が住まわれているのではないのですか?」
これは安直な私の考えであるけれど。
この小さなバベルの塔こそが、このシナルの地における特権階級とでも呼べる、上階の住人達が住む場所ではないかと、私は思った。いや、詳しく言うなれば、真の上階の住人――即ち、この地において正しく特別な待遇を約束された富裕層のことである。
そう思った理由は単純に、その希少性が挙げられる。
古今東西、特別待遇を期待する人間ほど、庶民とは違う生活を理想とするもので、そしてこの小さな塔は、多く居る庶民が暮らす広場外縁部に位置する居住区とは違うブランドがある。
最初に建てられたバベルの塔というブランドが。
けれど、結局はこれも私のこじつけに過ぎない。だから直接、この塔周辺の警備にあたる人間に、私は直接訪ねてみた。すると、彼らは何でもないかのように言った。
「厳密には、最初の方々が住んでる場所だな」
「最初の方々……というと、バベルの塔の建築に携わった初期メンバー、ということでしょうか?」
「ああ、そういうことだよ。無論あのニムロド王の寝床もこの塔の中にある」
守られているだけに、塔の内容についても秘密かと思ったが、どうやらそうではないらしい。思えば、塔の外部でニムロド王が演説する姿を何度か見かけたことがある。それならば、この塔の門を彼が出入りしているのも、この広場の人口密度を考えれば当然のことで、今更隠し立てするようなことでもないのかもしれない。
さて、こうして歓談するのも悪くはないけれど、長く彼らを引き止め、この塔の治安を守る仕事を邪魔するわけにはいかないだろう。
「質問に答えていただきありがとうございました。それでは私はこれで」
「おう、問題は起こすなよ」
そんな風なやり取りをして兵士のお二人と別れた後、私はやはりぼんやりと塔を眺めつつ、今度は声を掛けられないようにと塔から離れるように移動する。
もちろん、道中には大量の人間が居て、それが波のように動くものだから、思うように移動ができない。とはいえ、それらはすべて無作為に、個々人が思い思いの進路を辿って移動していることもあって、その隙間を縫うように移動すれば、自分も自分が移動したい方向へと向かうことができる。
けれどもし、これが確固たる意志をもって、一方向へと移動を開始したとき――私のような、ただ一人の人間には、やはり抗うことはできないのだろう。
だから足早に広場の中心を離れ、外縁の壁に近いところまで避難した後、壁を背にして空を見上げた。
今更ながら、この広場は思ったよりも明るい。もしかしたら、ここは天井が無くて、バベルの塔の最上部まで吹き抜けになっていて、だから太陽光がここまで落ちているのかもしれない。
一直線に、上から下まで。
いったいどれほどの高さがあるのかは予想もつかないけれど、このバベルの塔を上らずして、このシナルの地のことは語れないだろう。
幸いにも、頂上へと向かう労働者は、完成間近となった今も多く存在する。バベルの塔の外壁にある大階段を上る彼らに紛れてついていけば、私も頂上に行くことができるだろう。
けれど、
「…………」
私は広場中央の、もう一つのバベルの塔を見た。
私の好奇心は、この塔の主へと。
あの塔に居るという、ニムロド王の見る世界へと、向いた。
立ち入り禁止とされた、あの門の奥へと――
空は、まだ明るい。