第四話
塔の麓の窯場から離れ、塔の居住区からあぶれたテントの群れたちを通り抜けた私は、次に水辺の農耕地に訪れた。そこでは窯の群れとはまた違った景色を見ることができた。
まず、遠方に見えるバベルの塔。麓から離れたことによって、うっすらと全体像を見ることができる。
雲上に伸びた螺旋は円錐を描いてシナルの地に鎮座しており、その周辺を様々な人々の営みが群がっている。それはまるで神の像を拝する信者のようにも見えるし、或いは象を討たんと足を上る軍隊蟻のようにも見える。
そんなバベルの塔を見えるこの場所は、広く巨大な塔を支える農耕地。人工灌漑を基礎とし、肥沃な大地に彼らは巨大な麦畑を作り出していたのだ。
今はまだ収穫には遠いと聞くけれど、青々とした麦畑が視界の端から端まで広がっている。これらがすべて、この地の人の腹の中に消えるのだと思うと、僅かばかりの侘しさを感じてしまうことだろう。それほどに悠々と、この畑は壮大で、美しいものだった。
「こんにちは、おじいさん。少しお話を伺ってもよいでしょうか?」
そして私は、その畑の端の端、畑から塔へと続く道の路傍の木箱の上に腰掛ける老人へと話しかけた。
「おう、何じゃお主は!」
詳しく老人の年齢を測ることは難しいが、それでも皺だらけの肌や、骨の浮き出た身体、頭髪の一つもない頭を見れば、それなりのお年を召していることは想像に難くない。
顔に至っては、髑髏と話しているのではないかと勘違いするほどに肉はなく、落ちくぼんだ眼光が眺めてきた年月の長さを感じさせる。
けれどそんな見た目とは裏腹に、ラッパを吹いたように快活にして愉快な調子で、彼は私の言葉に返事をした。
「旅の人間でございます。世界各地を旅する中で、このバベルの塔に惹かれ、この偉業に携わる様々なことを記録しようと、シナルの地を巡っているところでございます」
身の上を聞かれた私は、窯場でやったように自己紹介をするけれど。
「おう、旅の奴か! ここに仕事をしに来たんだな!」
と、なにか勘違いをされた老人に手を引っ張られて、私は麦畑で草むしりをすることになった。
「本当はお話を聞きに来ただけなのですけれど……」
「おうおう! 若いうちは働いておいた方がいいぞ!」
まあ、ここに来てから彼らの営みに一切関与していなかったこともあるので、こうして労働をすることもやぶさかではない。それに手伝えば、しっかりと賃金という対価ももらえる。
だから私は一通り言われたとおりに仕事をしてから、改めて、出会った時と変わらず、木箱に座っていた老人へと話しかけた。
「少しお話をよろしいでしょうか?」
「なに? 話か? いいだろうなにが聞きたい!」
一通り働いた後だからか、或いはこの老人は初対面の旅人に、ああやって仕事を与えるのが仕事だからなのかは知らないけれど、意外にも彼は快く返事をしてくれた。
「この地について、ですかね」
「要領を得ない問いかけだな」
「そうですね。何分、私が知りたいのはこの土地についてと、この土地に住む人について、ですから。何を指して、彼らがこの地に住んでいるのか、と言う理由を訊ねると、それはやはり多くの理由があるのでしょう。必然、質問はあらゆる可能性を包括する問いになってしまいます」
「はー、何言ってるかわかんねぇなあんたの言葉は!」
「は、はぁ……」
言い難いこともはっきりと言う老人だ。ともあれ、話すにはざっくばらんと自分の意見を言ってくれる方が、こちらも気兼ねなく話せるというものだ。
「まあ、このシナルの地に住む人のことを教えていただきたいだけですよ。何を食べてるとか、どうしてここに住んでいるのか」
「そんなことを訊いてどうする?」
「……どうすると言われても……聞き及んだ話を使って何かをするわけでもなく、ただ私が気になるから訊ねているというだけでして」
「ほう、そうかいそうかい。じゃあいっちょ、この老いぼれの話でも聞いて行くかい!」
と、ようやく目的のお話ができそうだと、私はホッと胸を撫でおろした。
「何が聞きたい?」
「そうですね……例えば、そう。貴方から見た、バベルの塔などのお話はどうでしょうか?」
「バベルの塔。おう、あの塔の話か」
とはいえ話すにしても話題は必要不可欠。とりあえず私は、やはりシナルの地のシンボルとして君臨する塔を指さして、それを話題として話を進める。
老人は指示された塔を見て、何でもないかのように話し始めた。
「ありゃ、立派なもんだよ。あの王様のひい爺さんが箱舟を作ってた時も、俺はこうして農夫をしていたが、あれよりも大きなモンを作っちまうとはなぁ」
「その時からこの地で農夫を?」
「ああ、そうだ」
どうやら私が話しかけた老人は、かの大洪水以前より、ノアの偉業を間近に見てきた人物であったらしい。
私は思わず、驚愕から目を丸くしてしまった。たしかに大洪水を乗り越えた人類の中には、箱舟にかくまわれた人間も居る。それでも、大洪水後は各地に散らばってしまったがために、早々出会えるものではない。
「あの人は家族を連れた後、家畜と動物を入れ、それから動物の世話をする俺たちみたいな農夫を乗せて、最後に自分たちの世話をする下男下女を押し込んだ。そのあとに大雨に大嵐に大津波と来たが、中に居た俺たちは怯える家畜に引っ付いて、子供みたいに泣くことしかできなかったのは、今でも覚えてる」
「大洪水の日のことですか」
大洪水を語る人々は、やはりその口から悲劇ばかりを零す。この老人もその例にもれず、やはりあの日を、目を覆いたくなるような歴史として語るようだ。
「ま、神様が人を絶やすために洪水を起こしたはいいが、結局はこのありさまだ」
それから彼は、塔の麓を見た。
確かに、神が人を罰するために大洪水を引き起こし、その数を大きく間引いたとしても、数十年もすれば、シナルの地を埋め尽くすほどの人間がまた、こうやって現れたのだ。
しかも彼らは泥の中でも立ち上がり、むしろその泥を手にして煉瓦を焼いて、今度は神の地を目指して塔を造ってる。
そうしてこの肥沃な地を開拓し、我が物顔でテントを張り、噴煙と共に依然と変わらぬ世界を作り出し続けている。
「結局、罰したところで意味はなかったということでしょうか」
私は神罰を肯定するつもりはない。けれど神が人間を罰するつもりで引き起こした大洪水を経てなお、それは訓戒とはならず、消えぬ復讐の火を灯すばかりとなったのは、皮肉と言わざるを得ないだろう。
罰を与えれば人が考えを改めると思い違ったそれ自体が、神が傲慢たる所以か。どちらにせよ、何ら顧みぬ人の営みはどうにも、私には残酷に見えてしまう。
「本当に、意味はなかったと思うか?」
と、そこで老人は、ため息交じりに発した私の言葉に対して、そんな風に問いかけてきた。
「それはつまり、あの大洪水にも意味があったということでしょうか。人を罰するという目的で放たれて尚、誰もその罰を顧みるそぶりも見せない、あの神罰に」
「いや、神罰の方は知らんよ。そもそも俺ぁ、人間の愚かさだとか、神の傲慢だとか、そういう難しいことはとんと興味がなくってね。俺が興味あるのは、それこそ目に見えるものだけ」
ちらりと彼は、その落ちくぼんだ両目で麦畑を見やって言う。
「俺は農夫だ。昔も今も、麦を見て生きている。だからこそわかるが、あの洪水の日から、麦がピンピンとしてやがる」
「……麦が?」
「ああ」
それから彼は、木箱に座った姿勢のまま、少し身をかがめて足元の土を取り、それを指でこすり潰しながら言う。
「洪水前に生きてた俺のじいさんが言ってたことだが、昔から麦を育ててたせいか、大地がやせ細ってる。何十年何百年とかけて少しずつ、収穫量が減ってやがるんだとよ」
土地が痩せるという話は聞いたことがある。同じ土地で何度も何度も作物を育てていると、土の栄養素が枯渇し、不作になるという。無論、それは何も対策をしていなければの話であり、この老人も、そして老人の祖父も、ただ無作為に育てていたわけではないだろう。
けれどそれにも限界はある。土地の栄養をごまかすことはできたとしても、それは決して、永遠には続かない。
いつかは終わりが来る。
無限に空に伸びていくかのように積み上げられた、あの塔のように。
「大洪水が起きた後。飛んでいった鳥がオリーブの枝を持ち帰ったあの日、俺は泥に埋まった大地を見て、むしろ歓喜の声を上げそうになった――土が還って来たってな」
そう言う彼の表情は、どこか希望に満ちていて、それでいてどういうわけか悲しげだった。
「おかげで見ろ。この麦畑だ。洪水が来る前じゃ、この十分の一も実ることはなかっただろう」
老人は言った。
バベルの塔の建設を支えるこの広大な麦畑は、かの大洪水無くしてはありえなかったと。
「だから俺には、神様が愚かだとか、人間が愚かだとかはわからねぇ」
指をこするたびに、老人の枯れた手から零れ落ちていく土を見送る。豊かで、僅かに濡れそぼった、恵みの土。それを見ながら、彼は言うのだ。
「俺たちが食べるために農作するのは愚かなことなのか。人間が根こそぎ食べつくして、使い物にならなくした土地を、元に戻してくれた神様は、本当に傲慢でどうしようもない奴なのか。俺にはこれっぽっちも、わからねぇ」
その言葉へ返答を、私は持ち合わせていなかった。
だって私は、神を愚かだとも、人間を愚かだとも思っていないから。彼らの語る尺度と、私は全く別のところを見ているから。あの塔を積み上げる民たちとも、この老人とも、異なる意見を有するどころか、議論を交わすほどの考えも、持ち合わせていないのだから。
だから私は、彼の言う正しさに対しての回答を唱える代わりに、一つの質問を空に浮かべた。
「人間が……もし、人間が、神の地にたどり着いたとしたならば、彼らは何をするんでしょうか」
静かに私の顔を見上げた老人は、再びバベルの塔を見やり、雲に隠れたその天頂を見上げてから、ぽつりと独りごちるような声で、私の言葉に答えた。
「さて、俺にはまったく、見当もつかないな」
そう言いながら彼は、俯くようにして、足元の土を見た。
彼が俯いてしまったから、その表情はうかがえない。けれどその声色から、私はまた一つ、彼に最後の質問をした。
「麦はまだ、豊作でしょうか」
その質問に、老人が答えることはなかった。