第三話
バベルの塔を背にして私は、まずこの麓を散策することを決定した。
大きな理由としては、内部に直通の大門が今、まるで暴徒のようになってしまったシナルの地の民たちの騒々しさで、埋め尽くされてしまっているからだ。
なぜそんなことになってしまったのかと言えば、理由は純粋に、先のニムロド王の演説によるものだ。彼が放った塔の完成が間近に迫っているという報せは、それだけでお祭り騒ぎをするに十分な理由を彼らに与えてしまったようで、どこから持ってきたのか知らないが、酒盛りをする人間すら現れて、どんちゃん騒ぎに発展してしまっている。
見たところ喧嘩はまだ起きていないようであるけれど、それも時間の問題か。
そんな彼らの間をすり抜けて塔の中を目指すのは困難に近く、また彼らと感動を共有することができない私があの騒ぎに巻き込まれては、それこそ喧嘩の火種になりかねない。
なので、私はそんな騒々しさに背を向けて、バベルの塔の麓に広がる、シナルの地の散策をしようと思い至った次第である。
そしてまず訪れたのは、いくつもの窯が並ぶ場所だ。ここは遠くからでもよく目立った、煙の麓であり、ここで焼かれた煉瓦が、主な建材としてバベルの塔へと運ばれていく。
バベルの塔の建設計画を支えていると言っても過言ではないこの窯たち。その数はぱっと見でも百を超えていて、少し遠くには新たな窯を作っている様子も見える。これらが一斉に火を立て、灰煙を吐き出しているものだから、いかんせんこの場所は目に悪い。
ただ、目に染みる煙をかいくぐってでも、私の好奇心はこの地に羅針を向けているため、仕方がなく私は煙の中を進み、そこで働く労働者の一人へと挨拶をした。
「こんにちは。作業の最中に申し訳ないのですが、お話を聞いてもよろしいでしょうか?」
「誰だい?」
窯の数以上に犇めく労働者に老若男女は関係なく、とにかく手が空いている人間が、窯で煉瓦を焼いている様子。けれど彼ら彼女らは火の様子を見ているだけで、他は存外暇そうに見えるので、とりあえず私は最も近くに居た煤塗れの女性へと話しかけた。
女性は他の地でも見かけるような丈の長い貫頭衣を着ているが、火を前にしているからか、限りなく肌を露出した装いだ。それでもやはり、服装には民族性がでるのだろうか。この女性が担当する窯の、さらに向こうの窯で仕事をしている女性は、これとはまた違った意匠の衣を身に着けているし、さらに向こうの労働者もまた、変わった柄の衣装を身に着けている。
それ以外にも、目鼻立ちから目の色、髪の色、肌の色まで様々で、それだけでこのシナルの地に、世界各地から様々な人間が集まっていることが伺える。
「旅の人間でございます。世界各地を旅する中で、このバベルの塔に惹かれ、この偉業に携わる様々なことを記録しようと、シナルの地を巡っているところなのです」
「それで、私になんのようだい?」
できるだけ丁寧な言葉を選んだつもりだが、特段彼女の態度が柔らかくなることはなく、どころか人を遠ざけるように眉間のしわを増やしてしまった。
何か彼女の癪に障ることを言ってしまったのだろうかと、少しばかりに不安になる。だからとりあえず私は、まずは余談で様子を伺うことにした。
「先ほど大門前の広場にて、ニムロド王が演説を為されておりまして。どうやらこの塔は、もうすぐ完成するというのですよ」
「へー、もうすぐ完成するのかい。この塔は」
けれども私の言葉は、お茶を濁す結果にもならず、彼女の眉間にしわを増やすばかりだ。もしや、仕事の邪魔をしてしまったことを、彼女は怒っているのだろうか。そうなると申し訳ないことをしてしまったなと、私は頭の中で猛省する。
「申し訳ありません。仕事の邪魔をしてしまったようで」
当然、邪魔をしてしまった以上、謝罪の言葉を口にするのが礼儀だ。けれどそこで、私の謝罪を聞いた彼女は、ハッとしたように目を丸くした後、しばらくぱちくりと目を瞬かせて私の方を見てから、ああそうかと何か得心がいったかのような顔をすると、少し申し訳なさそうに話し始めた。
「ああ、悪いね。別にあんたに怒ってるわけじゃないんだよ」
「はあ、そうですか」
「元々ね、こういう顔なんだ。それにここ十数年も笑ったことがないと、表情の作り方も忘れちまうらしい」
気難しい人だと私は思った。
同時に不思議だとも。
「それは不思議な話ですね。少なくとも私は、この塔の麓に居る人たちは、全員が空を見上げて熱狂しているのだとばかり思っていたのですが」
神への挑戦に滾るシナルの地の人々は、誰しもが溌溂とした高揚を顔に浮かべていた。けれどこの女性の表情は、熱狂とは程遠い、海の中の闇のように厭世に塗れているように見える。
「まあそうだろうね。そう言うやつらが大半だよ。ただ、そうじゃない奴だってたくさんいるのも事実だ」
どうやら彼女が言うには、この地に居る人間のすべてが、ニムロド王が示す使命に焦がれているばかりではないようだ。
「塔が完成するってのはいい報せだ。中途半端に終わるよりも、ずっといい」
ずっといい、と言葉では肯定しつつも、声色から窺い知れる感情は、とても肯定しているようには聞こえない。それがどうにも気になった私は、余計と知りつつも、その事情に深く踏み込んだ。
「貴方がおっしゃられる言葉は、とても額面通りの意味を持つようには見えないのですが、詳しく訊いても?」
「つまらないぞ」
「それを見聞きするのが、私の趣味ですから」
世界を見て回り、その地に住む人々の様子を見聞きする。興味が赴くままに放浪することに長けて、私の右に出る者はいないだろう。だからいつものように、私はこのシナルの地に住む人々の暮らしについて訊ねるのだ。
「あー……そうだな。あんたは、ここに集まる人間が、どういう類の奴か、考えたことはあるかい?」
「どういう類の人間が集まるか、ですか」
私は少し考える。
天を目指すバベルの塔。場所はシナルの地。まずこの場所への移動手段として、歩いて訪れることもできれば、賃金を払い馬車を使って楽をすることもできるだろう。なんなら遠方の地であっても、シナルの地のすぐそばを走る大河は海と繋がっていて、そこから毎日のように船が入出港しているのだから、それに乗って訪れることもできる。
移動手段に困ることはなく、だから毎日のように人が訪れ、この地に住み、塔を積み上げる労働に勤しんでいるわけだけれど。
その目的が何かと問われれば、まず思い浮かぶのは使命感であろう。
かつて人類を押し流した大洪水。それを引き起こした神への反逆に心を燃やす人間もいれば、単に偉大なるものへの挑戦と言う大義名分に心を躍らせるだけの人間だっている。それらはすべて、ニムロド王が語る、神の地への挑戦という大海に飛び込んだ魚のようなもの。
水面に浮かべられた感情が、火のように燃える復讐だったとしても、ただただ陳腐な興味だったとしても、或いは子供のような功名心であったとしても、結局は星を掴むような話を聞いて、その偉大な挑戦に惹かれ、使命感を抱いた人間が、まず最も多い種類の人間だろう。
そして次に考えられるのが安心だ。
何十年も前のこととはいえ、大洪水は今もなお人間の記憶には恐怖として残っている。生まれてくる子供たちにもその恐怖は克明に語られており、次に高波が大地を襲った日には、誰一人として人類が助かることはないという絶望ばかりが、大陸に蔓延っていた時期もあった。
そこに来て、絶望に伏す人々に希望の一報が入る。
神の地を目指すバベルの塔。それは人類の手で築かれ、神の御業ですら崩れることはないだろう。そしてこの塔は、大洪水を乗り越えた船よりも、はるかに多くの人類を収めることができるだろう、と。
ニムロド王は、かの有名な箱舟を作った人間の曾孫にあたる人物だ。彼が絶対無事の太鼓判を押し、そのうえ彼が神の地への挑戦する足掛けとする塔は、かの箱舟に匹敵するほどの信頼感を得ていることだろう。
だからこそ、第二の大洪水から逃れるために、人々は安心を求めてこの塔に殺到する。そして塔の完成を急ぎ、献身的に働いてくれることだろう。それが二つ目。
けれども、使命感にしても、安心にしても、どちらも完成を肯定できない理由にはなりえない。何せ前者は神の地を目指して塔を積み上げ、後者は大洪水に耐えうる家を求めている。どちらもやはり、塔の完成を目指すばかりの人間たちだ。
だから、もしも完成を肯定できないとすれば、それはきっと生きるためにこの地に居る人間のことだろう。
生きるためというのは、この場合はこのシナルの地に仕事を求めてという意味になる。別段、生きるだけならばこの地以外にも、都市も国も人もいるけれど、何か仕事が欲しいというのなら、このシナルの地ほど手っ取り早く仕事に就ける場所はないと断言できる。
なにせここは、今もなお天空にあるとされる神の地を目指し、溢れんばかりの人が集まる場所なのだから。塔の上にはまだまだ積み上げるべき煉瓦があり、麓には煉瓦を補給する窯が群がり、水際には広大な田畑が、河川には旅人や物資を運搬する船が、と様々な需要が生まれ、仕事ができている。
労働力はいくらあっても困りなく、ニムロド王はそれぞれに相応の職を割り振り、効率的にこの塔の建設を進めているのだ。
無論、この事業のすべてが、かの王の手腕一つで成り立っているとは思えないが……それにしてもここまで大規模な事業に膨れ上がってなお、計画が破綻していないところを見るに、彼の智は本当に神にも届きうるのかもしれない。
或いは、一丸となれば神すらも歯牙に掛けられるほどの力が、人間にあるとでもいうのか。
ともあれ、そんな思考をもってして、私は女性へと回答をした。
「塔が完成すると、少なくとも煉瓦を作る必要は無くなりますね」
「そういうことだよ」
ふぅと、彼女は大きなため息をついた。
それからふと気づいたように窯の火を見て、近くに置いてあった薪を二つほど投げ入れると、少しばかり身の上を話し始める。
「私はね、ここから少し南の方の国から来た。理由は単純で、親父が死んだから。建築家をしていたが、上から落ちてきた石にあたって死んだ。それが今は、こうして親父を殺したものと同じ石を作ってる」
「それは……災難ですね」
「いいや、幸運だったさ。少なくとも、稼ぐ手立てもなく路頭で野垂れ死んじゃいないからね」
この場所には、舌足らずな子供にすら仕事がある。レンガの素材とする泥に、小石や藁を混ぜる仕事だ。そうでなくとも、畑の草を抜き、収穫を手伝うこともできるし、天上へと続く階段を上り、空の上に食料を届ける歩荷の仕事だってある。
選ばなければ、生きることができるのだ。
塔を作るという夢の中で、彼らは生かされているのだ。
それがどうにも、私には狂っているようにも、ましてや愚かな選択にも見えなかった。
けれど同時にこうも思う。
塔を作るという大きな流れの中で生きている彼女らは、これからも、そういった大きな流れの中で、抗うこともできないままに生きるしかないのだろう。
それはまるで、大洪水に流されていった人たちのように。
その先に悲劇が待っているのだとしても、流されるがままに生きることしか、できないのだろう、と。
「ほかに何か聞きたいことがあるんならほかを当たりな。それともなにか、話す以外の目的でもあるのかい?」
そして女性は、話を締めくくるようにそう語り、艶やかに服の隙間から、肌を見せてきた。
けれど私にはそう言った目的も、それに支払う対価もないために、丁重にお断りした。
私はただ、この地の人間の話を聞くだけに、このシナルの地に居るのだから。
だからやはり、私は放浪する。
さて、次はどこに行こうか。