第一話
馬車の荷台に乗った私がシナルの土地に訪れたころには、その塔は千里先からも見て取れるのではないかというほどに、偉大な姿を天まで伸ばしていた。
私の乗る馬車には、同じような旅人が何人も相乗りしている。木箱をそのまま車輪の上に乗せたような、屋根もない馬車だ。そこにぎゅうぎゅうに押し込まれた乗客たち。そのうちの一人が、威容を誇る塔を見るばかりの私に、そう尋ねてきた。
「ヒヒヒっ……旅人さん、驚いているね」
どうやらこの男は、何度もあの塔のある街と外の街とを行き来する行商人らしく、度々こうやって行きずりの馬車に同乗しては、外から来た人間が塔の威容に目を丸くするさまを眺めることが趣味のようで、私にそう尋ねる時も、にやにやとどこか誇らしそうな表情を浮かべていた。
きっとかの塔のふもとにある街の人々にとっては、あの天にまで届く塔はとても誇らしいものであるに違いない。
なにせ、その塔は神の御業と見間違えるほどの威容で屹立しており、その全高は悠々と連なる山脈たちが平伏しているようにしか見えないほどに偉大極まりない。
きっと私だけでなく、塔をひれ伏すように囲む山脈を越えて飛んでいく渡り鳥ですら、この塔の偉大さに見惚れて、飛んでいる最中だというのに羽ばたくのをやめてしまうだろう。
そして空を渡ることを忘れた彼らはただただ不遜にも空を目指す塔を見つめることだろう。自分たちが落下していることにも気づかずに。
空の青と太陽と、焼き煉瓦によって赤黒く伸びる巨塔の行く末を見つめながら――
これほどの建築物が、人の手で作られただなんて、その姿を実際に前にしても、私にはにわかに信じられなかった。
「いやはや、旅人さん、なかなかの語りだね。もしや、吟遊でもしているのかな」
私の心の中の感銘は、どうやら自然と口から漏れ出ていたらしく、自慢げを超えてうっとりとした表情でそう言った。
ただ、自分の考えていたことを知られた恥ずかしさから、私は手で顔を覆った。ただ、会話してる間に何もしゃべらなくなってしまう方が私にとって恥ずかしいことであり、だから赤くした顔を言葉でごまかしながら、私は男に向かって話す。
「し、詩人ではありませんが、各地を渡り歩いていたのはそうですね。南の砂漠から、北の国まで。地中海を巡り、川の上流から下流までを、いったりきたりとしてきました。そしてこのシナルの土地も、旅の途中でその噂を聞いたから、いつものように訪れただけなのですが……」
「おいおい、旅人さん。そこらの名所とここを一緒にしてもらっちゃ困るよ」
そんな言葉から始まり、行商人の男はあれやこれやとシナルの地に佇むかの塔の栄誉と、同時にシナルの地を囲む様々な国の名所を上げ連ね、それと比べていった。
砂漠に並ぶ山のような石の墓標。黒い海を称える沿岸。鉄器で武装した蛮人の砦。私が知っているものから、私が知らないものまでを、まるで見てきたかのように語る彼は、その最後に指を指して言う。
「だが、どんなものもあの塔には勝てないね。なにせあの塔は、今まさに神へと挑もうという、人類が誇る勇猛の象徴なのさ」
そう語る彼の顔は、やはり誇らしげだった。けれどそれは、新たなる発見を目の前にする研究家や、細部に至るまで装飾を施した神殿の建築を終える匠が浮かべるような誇らしさではなく、これから死地へと放り出されることもいとわないような軍人が浮かべるような顔をしていた。
最後に私は訊く。
「挑む、とは?」
その問いに彼は、少しばかり怪訝そうに眉を顰めつつも言った。
「かつて起きた大洪水で、俺たちは大きく数を減らした。聞けばそれは神の仕業だって話じゃないか。いいか。神は、この地に何十万という人間を殺すほどの水を流しておきながら、それを見ていたってことだ! あの空の上で悠々と、人が流れ行く様を見下ろしていたってことだ! 俺の親もそれで死んだ! 隣の家のじいさんも、浮浪者のガキも、誰も彼も死んだんだ! だってのに、神をあがめてなんていられるか! 次にいつ、奴らの気まぐれで殺されるだなんてごめんだね! だから行くのさ!」
「……行くって、どこへ?」
「神のいる場所へ!」
興奮からか、彼は馬車に乗りながら立ち上がる。当然、高らかに叫ぶ彼の声に反応して、他の客や馬車の御者もぎょっとした顔でこちらを見るけれど、うるさいだの、おかしなことを言うなだの、そんな文句が聞こえてくる様子は一切ない。
それどころか、彼の言葉に賛同を示すような喝さいが起こる。
だからだろうか。調子づいた様子の彼は、まるで大通りで説法をする宣教師のように空を仰ぎながら、馬車の荷台で演説を始めてしまった。
「神は裁きと嘯き、この世界を荒れ狂う水の底へ沈めた! 一人は船を作り、また一人は山に登り、一人は浮かぶ木板につかまって、七日七夜の大嵐が去り行くのをただひたすらに祈った! 可笑しな話だ! 嵐を招き、大洪水を引き起こしたのは神だというのに、一体何に祈る! だから俺たちは塔を建てる! 船ではなく、すべての人類が住める塔を! 天の上で見下ろす神々の下へ行き、その蛮行を俺たちの手で裁くための塔を!」
その言葉には、熱狂とまではいかずとも、酒場のバカ騒ぎのような歓声が送られた。
私はそれを、熱狂とは遠い位置から眺めている。
確かに、大洪水はあの日、多くの人間を泥へと変え、家を、家畜を、金を、銀をとその価値に関係なくすべてを攫い、どこかへと持って行ってしまった。
それを人は神の裁きと言い、神の意思に背いた人類の愚かさの象徴と語るけれど。どうやらこの塔を見上げる彼らは、それを神の傲慢とし、神の愚かさの象徴としているらしい。
空におわす我らが父祖への背反。その挑戦は確かに、今までにないほど大きく、そして困難な挑戦になるだろう。
だからだろうか。
私にはどうしても、彼が正気であるように見えなかった。
熱狂という文字通りに、何か途方もないほどに大きな狂気に取り憑かれているように、私には見えた。
「王はおっしゃられた! かの洪水を経た我々は、より一層強くなったと! 火を熾し、レンガを焼き、空へと続く塔を作ろうと! その御言葉に感銘を受けた我々は、だから全てが流されたこの地にて、各々が膝を付いた大地に広がる土を握りしめて叫んだのだ! あの洪水に負けぬ塔を作ろう! 神へと続く塔を作ろうと! そして石の代わりに煉瓦を、漆喰の代わりにアスファルトを使い、この塔を築き上げるに至ったのだ!」
相変わらず、行商人の男は演説を続けている。
そんな彼が仰ぎ見る塔の方を改めて観察してみれば、その足元に煙が立ち上っているのがよく見えた。あれはきっと、この巨大な塔を建設するにあたって、建材となる煉瓦を作るための窯から登る煙だろう。けれど規模が規模である。それはまるで、蟻の大群のようにバベルの塔の足元に寄り添い、群がっていた。
あの一つ一つから焼きあがった煉瓦が出てきては、あの雲をも超える塔の頂上へと運ばれ、今もなお、遥か高みを目指して背を伸ばしているのだろう。
そう思えば、彼らの語ることがどれだけ困難を伴う絵空事であろうと、感服せずにはいられない。事実、山脈すらも超える塔を既に彼らは積み上げてしまっているのだ。それが神という巨象の打倒を目指す蟻の行進であったとしても、まさしく人間の底力を証明したに等しい成果なのではないだろうか。
「いざ行かん神の地へ! そして我々の手で、傲慢な神に一矢報いるのだ!!」
行商人の演説が佳境を迎える。
それを私は流し聞きながら、雲に隠れて見えなくなった塔の天頂を見上げた。
それは、青々と広がる大空に突き刺さった一本の杭。
それは、何里先であろうとみることのできる人類の力の象徴。
それは、不屈という名の再起の証。
それは、人類の挑戦。
「仕事ならばいくらでもある! 窯に火をくべ、泥を集め、我らが塔を作るのだ!」
行商人の語る夢は、ついぞ私の胸に何か大きな野望を抱かせるに至ることはなかったけれど、凪いだ水面のような心境の内側に、彼らの道程がどれほど遠く、そして険しい道のりであり、その果てにいったいどんな終わりを迎えるのか、その結末への興味を引き出すには十分な意味を持っていた。
だから私は、この塔にまつわる物語を記録する観測者になろうと、ぼんやりとシナルの地での身の振り方を定めた。
果たしてこの塔が完成するのか否か。
彼らの夢は果たせるのか否か。
私はそれを、見届けようと思う。