第26話「AIとの対話、思考の境界を超えて」
橘はAIが思考力を損なう可能性に依然として慎重だが、AIが「問いを深める」ツールになり得ることに興味を示す。修士郎は新たな試みとして、橘自身がAI渋沢栄一と対話するセッションを提案。AIとの議論を通じて、橘は「道具の価値は使い方次第」と実感し、学習塾での試験導入を決意する。
朝のオフィス。鳳修士郎はコーヒーを片手に窓の外を眺めながら思考を巡らせていた。橘沙織の息子・悠真がAIとの対話を通じて学びの可能性を広げたことで、彼女の考えは確実に変化し始めている。だが、まだ慎重だ。
「AIが思考を奪うのではなく、むしろ広げる可能性があるのでは?」
彼女はそう言いながらも、自らAIを使って学んでみることはなかった。
「橘さんが本当にAIの可能性を理解するには、彼女自身がAIとの対話を経験することが必要だ」
修士郎はそう確信していた。そこへ、藤堂レイラが軽やかに歩み寄ってきた。
「また難しい顔してるわね、鳳さん」
「そう見えるか?」
「ええ。まるで次の一手をどう打つかって考えてる将棋指しみたい」
レイラは微笑みながら椅子に腰掛けると、タブレットを開いた。
「橘さんにAIとの対話を体験してもらうんでしょう?」
「そうだ。彼女が親としてではなく、学習者としてAIと向き合うことで、新しい視点が開けるはずだ」
「いいわね。でも、どんなAIにするの?」
修士郎は静かにタブレットを操作し、画面を見せた。
「AI渋沢栄一の時と同じように、彼女が敬愛する知の巨人の思考をシミュレーションしたAIを作る」
レイラの表情が興味深げに変わる。
「ふぅん……橘さんって、誰を尊敬してるの?」
「彼女のバックグラウンドを考えると、候補は渋沢栄一、ドラッカー、あるいは東京大学の歴代総長たちだろう」
「なるほど。つまり、彼女が信頼する人物の視点でAIと対話することで、AIの価値を実感させるってことね?」
「そういうことだ」
「それならもう一つ試してみない?」
「何を?」
「AI悠真くんよ」
修士郎は驚いたようにレイラを見た。
「AI悠真?」
「ええ。悠真くんの考え方や発言パターンを学習させて、AI化したものと対話するの。橘さんにとって、一番説得力のある相手は、結局自分の子供じゃない?」
修士郎はしばらく考えた後、小さく微笑んだ。
「それは面白いな」
「でしょ? じゃあ、今日の会議で試してみましょう」
創慧ホールディングスの会議室。橘沙織が、修士郎とレイラの前に座っていた。
「今日は、橘さんご自身にAIとの対話を体験してもらおうと思います」
「……私が?」
「そうです。AIは、学習を助けるだけでなく、思考の幅を広げることもできます。ただ、データを読むだけではその価値はわかりません。ぜひ、一度試してみてください」
橘は少し警戒しながらも、タブレットの画面を見つめた。
「どんなAIなの?」
「二つ用意しました。一つは知の巨人であるAI渋沢栄一。そしてもう一つは、AI悠真くんです」
橘の目がわずかに見開かれた。
「悠真をAI化したの?」
「ええ。彼の発言パターンや考え方を元に、AIとして再構築しました。もちろん、完全に同じではありませんが、彼の視点を持つAIとして対話ができます」
橘はしばらく考えた後、ゆっくりと頷いた。
「……分かった。試してみるわ」
まず、AI渋沢栄一との対話から始めた。
「現代の教育改革を進める上で、あなたならどんな戦略をとりますか?」
「教育とは、単なる知識の蓄積ではなく、人の品格を育むものである。私は、日本の産業界を発展させるために実業教育を推進した。今の時代ならば、創造力と倫理を兼ね備えた人材を育成するため、探究型学習を重視するだろう」
「……なるほど」
次に、AI悠真くんとの対話に移る。
「ねえ、悠真くん。君はAIを使うことについて、どう思っているの?」
AI悠真は少し考えた後、答えた。
「ぼくはAIを使うのが楽しいよ。でも、全部AIに頼るんじゃなくて、考えるのも大事だと思う」
橘は画面をじっと見つめた。
「じゃあ、AIがあると、考える力は育たないと思う?」
「うーん、それは使い方次第じゃないかな? AIを先生みたいにして、いろいろなことを質問すると、もっと深く考えられるようになるんじゃない?」
橘の手がわずかに震えた。
「……あなたは、AIに学びを助けてもらうことが正しいって思うの?」
「正しいとかじゃなくて、便利なんだと思う。ママもAIを試してみたら?」
橘は深く息を吐いた。
「……試してみる価値はありそうね」
修士郎は静かに頷いた。
「AIは思考を奪うのではなく、適切に使えば思考の幅を広げることができます。悠真くんの言葉を聞いて、それを少しでも感じてもらえたなら嬉しいです」
橘は少し考え込んだ後、小さく笑った。
「……いいでしょう。試してみましょう」
その言葉を聞き、レイラが満足そうに微笑んだ。
「ようやく、一歩前進ね」
修士郎はコーヒーを口にしながら、次のステップを思案する。
AIと人間の思考は、どこまで交わるのか。新たな学びの実験が、ついに本格始動しようとしていた。