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彼方を見る者たちへ  作者: 二立三析
第五章 試されるもの
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第八話 消し得ぬ思い



 ――午前の()き時間。

 騒がしい朝食を済ませた俺たちは、何を言うでもなく、自然と行き先を分ける形になっていた。……先ほど小父さんたちからあった話。

 耳に残るその内容について、考えが纏められていない。――戦わなくていい。

「……」

 今後の問題は全て、小父さんたちが引き受ける。告げられた台詞に、安堵している自分がいる。肩の荷が下りた気持ち。

 もう、刃物や魔術を相手に立ち向かうような、無茶な真似をしなくてもよくなる。命を狙われる恐怖や緊張感もない。

 甲斐(かい)のあるかも分からない苦しい努力、一つを間違えれば誰かが命を落としかねない、吐き気のするような重圧から解放されることに、ある種の安らぎを覚えていることは確かで。……だが。

「……」

 もっと晴れやかな気分でもいいはずだと言い聞かせてみても、何かが自分の中で影を落としたままでいる。覚えているはずの安堵。

 不安や苦痛から解放される安心感に打ち消されない、正体のはっきりしない感情が、胸の中心でざわつきを放っている。……これでいいのか?

 内心へ問い掛けてみても、纏まってくる答えはない。出口の見えないトンネルを歩いているような、見通しの付かない感覚に足を進め――。

「――?」

 確たる目的もなしにホールに出たところで、対面の光景に目が留まった。……なんだ?

 明るい白色の光に照らされた、広がる円形の空間の先。ぽっかりと口を開けた通路の内部で、小柄な人影が動いている。(うつむ)き気味にこちらに向かっているような気配。

 姿にはどこか覚えのある気もするが、こちらに比べて暗い通路の中にいるせいで見極めることができない。俺たちの宿泊室のある方角だと――。

「――⁉」

 思い至った直後に、大きく目を見張らされることになった。ホールに歩み出た相手。

 明かりの下で照らされた相手の正体を、はっきりと見止められたからだ。――フィア。

 前回の襲撃のあと、まだ目を覚ましてはいなかったはずのフィアが、だだっ広いホールの中を此方に向かって歩いてきている。艶の失われた白銀の髪の毛は垂れ下がり――。

 自分の足先の床に向けられた翡翠色の瞳は、半分ほど閉じかけている。円形のホールの中を、湾曲する壁に寄りかかりながら、ゆっくりと歩いてくる姿は苦しげで。

「――ッフィア!」

「っ、黄泉示(よみじ)……さん?」

 弱々しいその呼吸を見れば、体調が万全ではないと一目で理解できる。駆け寄った俺。

 顔を上げたフィアが、憔悴の残る目で視点を合わせてくる。力のない動きで瞬きをして……。

「……よかった……」

「――ッ!」

「無事、だったんですね……」

 魂から息を零すように表情を緩めたかと思うと、意識の重さに耐えるように目を(つむ)る。……っまさか。

「……部屋で目が覚めて、ドアを叩いてもいなかったので、心配で……」

「……!」

「リゲルさんと、ジェインさんは。先輩たちは……」

「……大丈夫だ」

 重たい疲労の中でどうにか言葉を繋いでいる様子のフィアに、言い切る。……そうだ。

「リゲルとジェインは無事だ」

「……っ」

「戦いの途中で秋光(あきみつ)さんたちが来てくれて。……先輩たちも全員、帰ってきてる」

「……そう、ですか……」

 前回の襲撃時に、フィアは、永仙(えいせん)に俺が殺されかけたところで気を失った。凶王の出現はおろか。

 リアさんや秋光さんが来てくれたことさえ覚えていない。あの襲撃の顛末がどうなったのか、気になるのは当たり前のはずだ。先輩と(あおい)さんの負傷。

「ああ。だから……」

 立慧(リーフイ)さんや小父さんたちから告げられた中身を飲み込んで、フィアに肩を貸す。力の無い細い腕を自分の首の後ろに回し、体重の多くを預かるように。

「今はまだ、休もう」

「っ……」

「あれだけの目に()ったんだから、調子を戻すことが先決だ」

 華奢なその身体で背負い込んでいた不安の重荷を、可能な限り、俺の側で預かるようにして。歩く途中――。

「すみません……」

「――謝ることじゃない」

「……いえ」

 呟きに答えた俺の声に、フィアが微かに首を振るような仕草をする。耳を澄ませた俺の横で。

「私、また……」

 小さく消えていくように、心の奥底から出た泡沫のような声が、ポツリと零れた。



 ――



 フィアを部屋まで送り届けたあと。

「……」

 窓のない、魔力の明かりに照らされる室内で、白いシーツの敷かれたベッドに座った俺は一人考えている。……今し方目にしたばかりのフィアのこと。

 小父さんたちから言われたこと、立慧さんのあの忠告。倒れて血みどろになった先輩や、永仙と凶王の放つ威圧――。

 ――あの時も(・・・・)そうだった。

 外出を勝ち取る試験の中で、賢者見習いである(かく)に本物の怒りを向けられたとき。目の前に迫る圧倒的な脅威を前にして、俺はただ、為すすべなく身を(すく)ませていた。

 力の差も分からずに突貫し、永仙に死の宣告を下されかけたときも。……俺を助けてくれたのは、磨いた俺自身の力ではなく、フィアだったのだ。

 フィアが俺を助けてくれた。脅威に対する恐怖を押し退けて、持てる限りの力を振り絞って。

 自分を(かえり)みないほど全霊をつぎ込んで、そのせいであれだけの不調を負っている。今も到底起きて来られる状態ではないのに、無理をしてまで俺たちの無事を確かめに歩いてきていた。

「……」

 あの力の無い身体に、疲労で熱のこもった身体に、あれだけの無理を背負わせて。俺は……。

 ――俺は、無力だ(・・・)

 事態に対抗できる知恵も経験もなく、どうしようもなく、できることが足りない。努力はしてきたつもりだった。

 鍛錬で手を抜いたことなどなく、以前と比べれば実際に力はついてきている。……だとしても。

 現状は何一つ変わっていない。レイガスから言われたこと。

〝――あの少女が倒れたのは、お前たちのせいだ〟

 此方の意志など意に介さない、横暴とも言える突き付けを、否定できない自分が未だにいて。結局俺は。

 フィアを守ると誓ったにもかかわらず、何一つ守れては――。

 ……。

 ……どうする?

 無力や理不尽は確かにある。だが、嘆いているだけでは何も始まらない。

 自分を憐れんでいる余裕などない。俺たちは現状、自分たちでは解決できない困難な問題に直面している。

 だからこそレイガスはああ告げてきた。何もせず、大人しくしていろと。

 自分たちの無力を受け入れろと。他人に守られる、そのままでいろと――。

「……ッ」

 ――嫌だ(・・)

 はっきりとその感情が胸に湧く。……俺たちを狙う永仙や凶王は、圧倒的な力を持つ実力者だった。

 例え小父さんたちが過去に名を馳せた技能者であり、協会の幹部である秋光さんたちが手を尽くしてくれるのだとしても、無傷でことを済ませられるとは思えない。俺が問題に向き合うことをやめても、

 (うずくま)って問題から目を背け、自分の耳を塞いでいたとしても、結局、俺以外の誰かが傷つくことになるのだ。……ならばその態度は。

「……」

 向き合うべき問題を他人任せにして。のうのうと見ない振りを決め込んでいる、あの連中と――。

 ……ッ。

 ――それはできない(・・・・・・・)

 あの日の自分自身に誓って、それだけは認めるわけにはいかない。蘇る暗い情念と共に拳を握り締める。自分の問題を他人に背負わせて。

 そのせいで誰かが傷つき、死ぬかもしれないことを、受け入れるわけにはいかない。……だが。

 一体、何をどうすればいいという? 幾ら嫌だと叫んでみたところで、俺たちの力が圧倒的に不足しているのは明白だ。

 我武者羅に手足を振り回してみても、通用するだけの力がなければ、逆に周りを危険に晒してしまうことになる。例え命を投げ出したとしても、今の俺ではどうすることもできない。

 俺たちだけでは、どうしても――!

「……!」

 ――刹那。

 脳裏を走った閃きに、一瞬だけ思考が呼吸を止める。……いけるのか?

 湧き立つ心の昂ぶりを抑えて、反芻(はんすう)して確認する。画期的なアイディアではない。

 むしろその真反対。これ以上ないほどに泥臭く、これまで俺がしてきたことの延長線でしかない方法だ。以前に考えていたことと、相反してしまう部分もある。

 全てにおいて頷けることではなく。だとしても――っ。

「――」

 ここで決断しなければ、これまでと同じままになってしまう。胸のうちで決意を固めて、俺はベッドから立ちあがった。






「……はぁ~」

 通算六度目にもなる溜め息。

 不機嫌を形にすべく黙りこくっている自らの前で、(はばか)ることなく息を吐いている男を、(かく)は辛辣な不平の面持ちで俯瞰している。……リゲル・(ギャンビット)・ガウス。

 先日苦労して追い出したばかりのはずのゴリラが、なぜか今また、レイガスと郭の修練室の中に鎮座していた。前とは異なる部屋を使用していたにもかかわらず……。

「……どうしてこの場所が分かったんです?」

「ん? ああ――」

 よりにもよってレイガスの外出しているタイミングで、押し掛けてきたのだ。身の入っていない面持ちでゴリラが言う。

「飯のあとに考え事したくて廊下をうろついてたら、あの婆――リアさんが出て来てな」

「……」

「こっちが訊くより先に教えてくれたぜ? レイガスの弟子のいる部屋ならあっちだよ、ってな」

 ――また、あの人か。

 内心で頭を振りながら、辟易する気持ちを郭は感じている。リア・ファレル。

 現行の四賢者の中でも最年長の魔術師にして、魔導協会の元大賢者を務めた賢老。自分や師と異なる派閥としての見解を持つとはいえ、協会の歴史上で見ても上位に入るだろう古豪の術師を、郭が尊敬していないわけがない。

 むしろ現行の賢者の中では師の次に尊敬していると言っていいくらいだが、それでも今回の件については、ほとほと理解不能というのが率直な本心だった。……リア・ファレルが突飛な行動をとるのは、決してこれが初めてではない。

 幼少期より協会に所属し、幹部たちの振る舞いを体感してきた賢者見習いとして、ある程度常識外の行動には郭も慣れているつもりだが、これはいささか度が過ぎている。協会にとって秘すべき情報である賢者見習いの私室を外部者に教える。

 この程度の(やから)に暴露したところで毒にも薬にもならないと考えているのかもしれないが、郭が気になっているのはむしろ別の方面のことだった。歩き回る途中で出会ったということは、リアの側が狙ってこの男の前に現れたということ。

 範囲の限定された本山の内部において、四賢者の中でも突出して鋭敏な感知能力を持つリア・ファレルと偶然に(・・・)出会う。多少なりともあの老婆の力に造詣のある者ならば、それがどれだけあり得ないことなのかははっきりと理解できる。状況を導いている元大賢者の胸のうちに、今一度思いを巡らせ――。

「――それで」

 明確な答えの出ないまま、目下の問題に対処するために郭は考えを切り替える。事情の詮索はあとでもいい。

「今日は一体、何の用事で来たんです?」

「……」

「また随分と辛気臭い面構えをしていますが。未開人のような貴方もようやく、自分の場違いさに気付いたということでしょうか?」

 リア・ファレルがどんな事情でこの男をよこしたのだとしても、今重要なのはとにかく早くこの件を片付けてしまうことだ。どうせ語る内容など大して持っていはしない。

 前回のような泥沼の問答にならぬよう、本気にならずに、軽くあしらってしまえばいい。以前の経験を踏まえ、感情を抑えた万全の心構えで迎撃する気持ちでいた――。

「……いや~……」

「……」

「この先マジでどうしたもんかな~、って思っちまってよ……」

「……何がですか?」

「色々だよ、色々」

 郭に対し、目の前の類人猿――リゲルは、思いのほか覇気のない反応を示してくる。……予想外。

「デカい問題が山積みでよ。お前のことだからどうせ、こないだの襲撃の件は聞いてんだろ?」

 てっきりこの間のときのように、此方に挑みかかるような姿勢を見せてくると思っていたのだが。リゲルの問いに、郭は頷かないまま目線で答えを返す。自分が許可を下した外出の顛末。

 担当となる支部長三人に加え、(さくら)御門(みかど)特別補佐官に、リア・ファレルをつけた布陣。如何なる刺客だろうと盤石と思うところが、あろうことか、凶王二人に永仙までもが出張ってきたことで、目の前のゴリラを含む四人は危うく命の危機に(おちい)らされた。事前の見通しの甘さ。

 万が一に等しい事態であったのは確かとはいえ、元よりリスクのある判断を是認した秋光の采配をレイガスは批判していたが。郭としては正直、今回ばかりは事故のようなものではないかと考えていた。襲撃の原因は掴めておらず、

 事前に二度命を狙われている前提があるとはいえ、こんな重要性の欠片もない素人(しろうと)の集団に凶王二人と永仙が出向いてくるなど、例えどれだけの慧眼をもってしても予測できるものではない。関係者として警護の詳細を聞かされた時分には……。

 それでも十二分に過分な措置だと思っていたほどであり。郭からすれば、顛末に思うところはない。

 支部長一人と特別補佐官が重傷を負わされたのは事実だが、戦力差を見ればそれで済んだのは明らかな幸運。四人のうちから死傷者が出なかったことを考えれば、ゴリラにとってはむしろ安堵の息さえ吐いていい結末であったはずであり。

「前のときよりも更にヤベぇ、バケモンみてえな連中が狙ってきてる」

「……」

「テメエの問題で黙ってるつもりなんてなかったが、今回ばかりはシャレにならねえ。俺一人の問題じゃねえんだ」

 だというのに。――っ。

「これまでと違って、どうにもならねえような力の差がはっきりと見えた」

「……」

「自分の無謀に付き合わせて、みすみすダチを殺すような真似だけはさせられねえ。今回についてだけは、親父たちに任せるべきかもしれねえと思ってよ……」

「……随分と賢明ですね」

 目の前の男の見せている言動に、少なくない驚きを郭は覚えている。四人の保護者である救世の英雄らが本山に押しかけてきているのは、賢者見習いである自分も聞いている。

「試験の際に真っ先に殴りかかってきた猪らしくもない。ここに来る際に頭でもぶつけて、人格が変わったんじゃないですか?」

「……そう見えてもおかしくねえかもな」

 この分だと、保護者たちとの会話の中で、問題事は全て引き受けるとでも言い渡されたのだろうが。自嘲気に笑ったリゲルが、背を(たわ)めた両ひざの中心で、グローブを外した武骨な指を組む。

「……ッあのときの俺は、前に飛び出せなかった」

「――」

「初めて目にした永仙の気迫に、ビビっちまってたんだ。ダチが殺されそうになってるってのに、足元に覗いてる力の差の方に目が向いた」

 自罰のようにギリリと手が強く締めつけられる。……なんなのだろう。

 今、自分の胸に湧いてきている、この感情は。リゲルの口にしている情念の方向は、外出試験の際に郭とレイガスが抱いていた意向に合致している。

 自分たちの無力を悟り、身のほどを(わきま)え。素直な羊として大人しく守られるだけの役回りを、自分は期待していたはずだ。厄介なゴリラの信念が揺らぎ――。

「フィアを助けるために迷わず踏み出してたあいつと違って。俺は――ッ」

「――ッ馬鹿馬鹿しい」

 全てが都合よく運んでいるはずなのに、なぜこんなにも。――舌打ちと共に吐き捨てる。

「たかが数か月程度の修練で、よくそこまで深刻気に言えるものですね」

「お――ッ⁉」

「他人の部屋に押しかけまで言うことが、まさか甘ったれた泣き言とは。つい先日まで魔術のまの字も知らなかったような素人が、何をほざいているんです?」

 胸にうちに湧く、不快な情念をそのままに。……なんなのだ?

「以前にあれだけ威勢のいい言葉を吐いておいて、現実の壁にぶつかればこの通りですか」

「……!」

「あいつらは強いだの、お前は分かっていないだのと言っておきながら、結局自分も他人も信じ切れていない。挙句の果てに凶王や九鬼(くき)永仙(えいせん)に対して気圧されたなどと、当たり前の帰結を悩みだなどと口にしている。――相手は技能者界のトップクラスです」

 今自分の目の前にいる、この男は、一体。前回あれだけ時間を使って自分と議論を交わしておきながら。

「貴方如きが手も足も出ないことなど、始めから分かり切っているんですよ。そこらの羊よりマシだというだけで過剰な自信を抱いて、大ごとかのように嘆き散らしているとは、とんだ勘違い野郎ですね」

「――」

「視界に収めているだけでも腹立たしい。――ッ出て行ってもらえませんか?」

 くだらない子どもの友情のようなことのために、膝を折らずに立ち向かってきた熱意は一体、どこに消えてしまったというのか。感情のままに言い渡した郭が、隠しもしない瞳の険で圧をかける。

「貴方のような骨なしの意気地なしがいると、僕の修練に支障が出ます」

「……」

「貴方と違って僕は、自分の力が足りないことなどとっくの昔に自覚している。怪物のような先達に劣らない実力をつけるためには、己のうちに抱いたものを見据えて、ひたすら修練に励むしかないんですよ」

 ――本当に苛立たされる。

 よりにもよって、自分に賢者を担う者としての不足を痛感させたのが、こんなくだらない男だったとは。有無を言わせない郭の眼差しに対し――。

「……なるほど」

「――ッ?」

「……いや、なんつうか――」

 非難を受けているはずのゴリラは、やけに神妙な面持ちで話を聞いていた。先ほどまで力なく揺れていたはずのブルーの双眸が、いつの間にか腰を据えて正面から郭を向いている。

「一々全部、お前の言う通りだと思ってよ」

「っ――」

「こないだみてえな罵倒じゃなく、事実だから随分と身に染みた。――悪かった」

 椅子に腰かけたまま、土下座のように頭を下げてくる。――はっ?

「つまんねえことで時間取らせちまって。――ありがとよ」

「――ッ」

「お前の批評のお陰で、目が覚めたぜ。確かにらしくなかったな」

 思いもよらない礼に硬直した郭に対し、口の端にゴリラが浮かべたのは、以前のようなムカつく自信を持った笑み。

「相手が誰だろうが、俺がやることってのは変わらねえ」

「――」

「ぶっ倒れるまで力を尽くして、泥を(すす)ってでも自分に決めたことを貫くだけだ。テメエの拳に誓って――」

 握りしめられた右拳が、その奥から鍛え抜かれた気骨の()を響かせる。

「絶対に。そのためなら、下らねえプライドやら何やらは置いとかねえとな」

「……」

「今のお前の話で思いついた道があるし、早速取り組んでみるぜ。――借りはまた今度返すからよ!」

 立ち上がったスーツの背中が、大急ぎで部屋を後にしていく。乱雑な慌ただしい気配――。

「……まったく」

 常に厳格さを保つ師とはほど遠いその騒音を受け止めつつ、郭は先ほどまで相手が座っていた椅子を眺め遣る。確かに自分の中にあったはずの苛立ち。

「何を考えているのやら。あのゴリラは」

 不快だったはずの感覚が、意外なほど綺麗に消え去っていることに、気付かない振りを通しながら。





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