第七話 二つの思惑
――まずい。
「……っ」
非常にまずい。代々の協会の賢者が受け継いできた歴史ある執務室にて、現四賢者の筆頭である秋光は、痛む頭を押さえつけている。……蔭水黄泉示の保護者である夜月東。
中立の《逸れ者》としての立場を持つ彼を迎え入れただけでも大事であるというのに、まさか、あの二人まで協会に居座ることになってしまうとは。現役時からフリーの立場であった東と違い、
エアリー・バーネット、レイル・G・ガウスの二人は、それぞれ協会とは異なる三大組織の一つに属していた経歴の持ち主である。各々が幹部に近い力量者であったこともあり、
組織の内情を少なからず知ってしまっている人間でもあるのだ。私的な事情をダシにして……。
他組織の秘密を探っていると取られてもおかしくない状況。追及を躱す言い分の構築に、憂慮の度合いを強くしつつ――。
「……いや」
それでも、自分としてはこうするよりなかったのだと、秋光は己の決断を再度追認する。守るべき子どもたちが事件に巻き込まれている以上、
動機の正当性自体は、秋光の理念からすれば来訪した三人の方にある。仮に協会が組織として拒絶の意を示した場合でも、あの三人はいかなる手段を使ってでも子どもたちの傍に駆けつけようとしたことだろう。――脅迫に破壊行為。
実力行使に古巣の組織の支援など、持てる限りの手段を使って協会に攻勢を仕掛けてくる姿が目に見えるようで。全てを分かっていて受け入れた自らに対し、秋光は意気を入れ直す。すでに自分は決断を下した。
その動機と根拠に恥じるところがないものであるならば、自らの選択を穢さぬよう、道理に殉じた行いをするまでだ。自省して秋光は状況を整理しにかかる。蔭水黄泉示たち四人の命を巡る、永仙と凶王派の襲撃――。
支部長と葵の重体をもって理解させられたように、当初の秋光の想像以上の重要性があの四人には掛かっている。……永仙のみならず。
凶王二人が来ていたことからしても、それは疑いようがない。王派と永仙が共に狙いを定める何かがそこにはあるはずであり。
……だが。
「……」
――凶王派の人間による四人の殺害。
これまでの事情から確かだったはずのその認識が、今では揺らいでいることを秋光は理解していた。現場に居合わせたリアたちの証言。
凶王の一人――賢王は、少なくとも中途から彼らを連れ帰ろうとする様子であったという。当初は虫の如くに殺めるような気配でありつつも、
彼らが一度凶王の攻撃を躱してからは、永仙に指示し、敢えてリア・ファレルをけん制する形を取ったのだと。……連れ帰ったのちの拷問と目的の達成。
だとしても、単なる殺害とは方向性がずれている。フィア・カタストと蔭水黄泉示を手に掛けようとしたという永仙の動きからしても……。
「……」
彼らの見せる言動が、特定の方向性を欠いているのは確かであって。昨日の調査。
依頼を果たしてくれたレイガスからの報告書は、すでに秋光の机上にて目を通されていた。――特筆すべき点はなし。
記憶の喪失についても目立った進展は得られず、襲撃に関連する要素もない。簡潔だが、それだけに重みのある報告の内容。
賢者の筆頭である秋光が把握している限り、今の魔導協会にレイガス以上の治癒魔術の腕前を持つ魔術師は見当たらない。彼が手掛かりを掴めないということはすなわち、彼女の記憶喪失に対して通常のアプローチではこれ以上の進展が望めないということを示しており。
その上でなお、手掛かりを探そうとするならば。
「……」
――永仙との接触の中でフィア・カタストが見せたという、異質な力。
協会内でも上位の力量者である支部長二人が目の当たりにしていてなお、明確にはその正体を特定することができなかったが。魔導協会の元大賢者である永仙を退かせたとなれば、その候補はおのずと限られたものになる。
情報が限られたこの状況下で手掛かりとするならば、そこしかない。必要となる措置を思考のうちでリストアップし、筋道立てて整理した――。
「葵――っ」
――自分が自然に声を掛けようとしていた相手。
他者との意見のすり合わせを行う手順として、当然のように己の中に刷り込まれていた所作に、秋光は数拍、宙に浮くその残響を静止させる。……呼び掛けた名に応答はない。
幽玄な墨色の髪の降りる、清雅な補佐官が控えているはずの机の傍らには今、窓から差し込むぼやけた陽の光の筋と、僅かに褪せたように思える敷物の色合いだけが見えている。……そうだ。
自分が今こうして先のことを考えていられるのは、決して事態が順調な進展を見せているからなどではない。葵や上守支部長たちが、身命を賭して凶王らの眼前に立ちはだかったがゆえ。
彼女たちが永仙と凶王派の意向の食い止めに命を懸けたからこそ、自分は今、筆頭として振る舞うべき時間を与えられているのだ。日常から欠落している、彼女たちの姿を思い浮かべた胸裏に……。
「リアか――?」
自らの双肩にかかる責務の重さを今一度噛み締めて。秋光は、鍵となる四賢者への念話を繋いだ。
「――【結合開始】」
「……」
唇から零される呼気に伴って繋げられていく術式。一心不乱に励む弟子の研鑽を目に収めながら、レイガスはここ数日の間に起きた変化について考えていた。……夜月東。
レイル・G・ガウス、エアリー・バーネット。何れも《救世の英雄》として名を馳せた三人が、何の因果か今この魔導協会に集結している。事情を辿った場合――。
直接的な理由は明白だ。……九鬼永仙と凶王派に命を狙われている四人。
不幸な羊たちのうち、素性の分からない一名以外の保護者が、偶然にも救世の英雄であったというだけに過ぎない。……完全な偶然の産物であるかについては疑念の余地がある。
何かしらの意図や要因が働いていてもおかしくはないが、事実としてそうなっている以上、今は他に目を向けるべきことがあるというのがレイガスの判断だった。眼前で繰られていく魔力の色合い。
「〝【四重操作】、【始点複合】〟――っ」
通常の本山員では後追いでの理解さえ敵わないだろう、数百を超える複雑な術式の一挙一動に抜かりなく注意を向けつつ、レイガスは今後の協会の取るべき指針について思案する。三人が居座ること自体はどうしようもない。
かつての苦々しい経験の幾つかからして、正論を説いたところで連中が耳を貸さないことはレイガスにもよく分かっている。強硬手段を取ろうとすれば、それがどれだけ理に則ったものであれ、まず確実に報復を受ける。
正面から圧力をかけるのは得策でなく――であるならば、状況の改善のためにできる限り彼らを利用すべきだと言うのがレイガスの抱いている考えでもあった。技能者界の一線より退いて十年。
並みの技能者なら使い物にならなくなるほど腕を錆び付かせている時間ではあるが、それでも三人の場合は話が違っている。素行と人格に問題があったとはいえ、現役時の彼らの力量は、間違いなく組織の幹部クラスに比肩していた。
骨身に刻み付けるほどの鍛錬をもってして一定の高みを踏みしめた人間の技量とは、使われないからと言ってそう簡単に消えてしまうものではない。埃の降り積もる歳月のうちに鳴りを潜め、取り出されず、磨かれないことでその光が鈍っているとしても……。
少なくとも支部長を超える位置、組織幹部に準ずるだけの力はあると見込んでいいはずであり。引退を正式な意向として受け入れながらも、三大組織が彼らへの注視を外さずにいたわけを反芻して、レイガスは思案する。……見方を変えるなら、これは稀に見る機会とも言える。
四人の身柄を保護してきた実績がある以上、今の魔導協会は東たち三人に対し、多分に恩を着せられる立場にある。彼らがいかに力を持つ技能者であると言っても……。
組織の後ろ盾を持たない《逸れ者》である以上、自分たちだけで凶王派の手から息子たちを守るというわけにはいかない。四人の身の安全を最優先にした場合、彼らはどうしようもなく協会を頼らなければならない状況にあるのだ。現行の力関係と共通の利害関係とを利用したならば――。
「七番目の術式を組み替えろ」
損耗しても組織に影響のない部外の戦力として、彼らを事態に振り向けることができる。精神に圧し掛かる操作の負荷に耐えながら、構築を保っている弟子。
「結合部の擦り合わせがズレてきている。常に術式の隅々まで意識を巡らせ、行き渡る魔力の一片に至るまでを完全なものとしろ」
「ッはい――ッ!」
七十年に至る己の知識と経験の全てを引き継ぐことになる賢者見習いが、緩みなく次段の動作に映るのを確認して、レイガスは思考の方向を切り替える。――意識を失っているあの少女。
フィア・カタストの治療を担当したことで、当代の魔導協会でも最高峰の治癒師であるレイガスには、彼女の抱える症状が如何なるものであるかを把握できていた。……通常の記憶喪失とは違う。
それまで己の中に蓄積されてきた知識や経験が、何かの切っ掛けで奥深くに押し込められ、取り出しづらくなってしまったのではない。あの少女の記憶は――。
――ある時点から完全に、抹消されているのだ。治癒についてはそれなりの腕前を持つはずの支部長が、 手に負えなかったのも納得がいく。
刻まれていた足跡を削り落とし、始めから存在そのものをなかったことにするかのように、念入りに消し去られている。極めて不自然な症状自体と、物語的な自己が失われたにもかかわらず、自己崩壊や常識の喪失を起こしていない現状を診れば――。
――ッ。
その背後にあるのが、偶発的な災害や事故などではなく、意図をもって振るわれた人為的な技法であることは明白で。指先にこもる力。
自身の内奥から込み上げる怒りに、古枯れの拳が強く握り締められていることをレイガスは自覚する。――他人事などではない。
魔術とはそもそも、超常の現象から編み出された理論と技術によって、己の望みを世界のうちに顕現させようとする人の試み自体を指すものだ。技法や知識そのものに善悪の区別がない以上、その是非は使う者の心ひとつによって定められる。
のちに詠唱として理解される喚起の叫びをあげた原始の時代から、数千年に渡る歳月を経て、人間は自分たちの掴み取った技術と理論を各々の体系の中で深化させ、その集積と反省によって魔導協会という一つの秩序を生み出すまでに至って来た。多くの苦難と過ちを経て辿り着いた結節点。
道を誤れば単なる災厄となる魔術の在り方を、他らなぬ自分たちの手で導いていくのだという覚悟の証。あるべき魔術師の姿を示すという、崇高かつ困難な試みでありながら――。
その志を踏みにじり、私利私欲に任せて魔術を振るう者たちがいることをレイガスは知っている。……秩序に反発する反秩序者。
三大組織に抗する凶王派だけでなく、組織内部における離反者や、逸脱者もその中には含まれている。己の所業が与える影響を顧みもせず、ただ我欲を叶えんとする者たちの起こした事件や惨劇は、レイガスが現に体験してきただけでも枚挙に暇がない。人と世界の成す歴史の集積を紐解いたなら――。
「――単純な組み合わせに甘んじるな」
更に、限りがないほどであり。――秩序だ。
「常により有意義な式のつなぎ方を模索しろ。可能性の追求にこそ、この技法の神髄はある」
「ッはい――‼」
幾度となく重ねられてきた過去の愚行を、この時代で再び繰り返すわけには行かない。守るべき境界線を定め、打ち立てることこそ肝要。
己が欲望に支配され、獣と変わらぬ所業を行う人面獣心の輩の手による過ちを、二度と許してはならない。整然とした人の手による魔導の秩序を築き上げるため……。
秩序に仇なす反秩序者たちと、それに値する者たちとは、一人残らず討ち滅ぼされなければならないのだ。……話し合いの介在する余地などない。
己の欲に体よい理屈をつけ、時に目を瞑ってまで身を任せる者たちには、自分たちの行いの何が間違っているのかさえ理解できない。誠実さも信頼も望めない醜悪な悪辣さのあるというそのことを――。
――いい加減、あの理想を追おうとする男にも、気付いてもらわねばならない。




