第五話 不運な二人
「……」
――いつものように、扉の前に立っているスーツの男。
堅気が見れば一目でマフィアと分かる雰囲気のある風貌を持っている男だが、頬に古い傷痕を持つ厳めしい面立ちの内心は今、いつ弾が飛び出るかも分からない銃口を目にしているかの如く恐々とした気持ちでいた。瞬きすら躊躇われる視線の先。
「……」
腕を組む姿勢で何かを考えるようにソファーに腰を下ろしている、レイル・G・ガウスの姿がそこにあるからだ。最高峰の腕を持つ仕立て屋が作り上げた、一分の隙もないミラノ仕立てのブラックスーツに、鋼線のような艶と鋭さを併せ持つオールバックの黒髪。
荒事にも対応できるよう細工の施されたコードバンの革靴と、汚れ一つない薄手の礼装用白手袋は、マフィアのドンとしての風格と同時に一流の紳士と言える優雅さを醸し出している。後ろ盾のない身から一代で今のファミリーを築き上げた、不世出の天才と言える人物であり……。
普段は恐ろしいほどの速さと正確さで仕事をこなしているその相手が、先ほど情報担当からの報告を受けてから一時間もの間、微動だにすることなく黙考の姿勢を保ち続けている。……水も飲まず。
「……」
一言の呟きさえ発しない。長い脚を組み、顎元に指を当ててひたすらに何かを考えている姿勢。
レイルの傍仕えという役目がら、待つことには慣れている男ではあったが、この状況には流石に相当の憔悴を感じていた。レイルの放つプレッシャー。
普段部下たちの前ではそれとなく押し込められているソレが、今は一段と強さを増しているからでもある。乾いた喉が音を立てないよう、枯れかけているつばを飲み込み――。
「――電話が欲しいな」
「――ッYes」
一時間の沈黙を続けていたとは思えないほど滑らかに出されたその指示に、男は全てを差し置いて義務を果たす。懐から取り出した外部連絡用の携帯端末。
「――ああ。私だ」
強張りかけていた身体で、万が一にも滞らないよう細心の注意を払って差し出したそれを、見向きもせずに受け取ったレイル。目にも留まらぬ速さで一連の番号が入力され、電話口に出た相手に色素の薄い唇が動く。
「久し振りの連絡だが。なに、様子が気になってね」
「……」
「ただの確認さ。息災かな? 彼は」
数秒前までの黙考などまるで感じさせない穏やかさ。歯切れのいい語り口には、ある種の明朗ささえ見て取れるものであり。
「――ところで最近一つ、妙な噂を耳にしたんだが」
それが部下である男には、何か不気味な前触れのような気がしてならない。――ッ来た。
「東がそっちに行っているという話を聞いたんだが、事実かい?」
「……?」
「――そうか」
覚えのない名前。男が記憶を探り切るより先に、電話口の向こうから答えを受けたらしいレイルが、口元の朗らかさを更に増す。――凍て付くような恐怖。
「いやなに。元から信じてはいなかったんだがね」
「……っ」
「ああ。こちらこそ手間を取らせて済まなかった」
話し続ける声の音は、全く音階を変えていないにもかかわらず。それを聞く部下の男の心境は、既にこの世の終わりが来てしまったかのような感覚を覚えていた。数語の社交辞令ののち……。
「――では、また」
滑らかな指使いで通話が切られる。不要となった端末を受け取り、一分の狂いもないよう元の場所へと引き下がった男の前で、レイルが視線を硬くする。……触らぬ神に祟りなし。
「……」
「……やれやれ」
遠い東洋の諺ではないが、こうなってしまっては、部下の自分には最早事の成り行きを見守るしかない。恐々とする男の前で零された溜め息。
「奴が入ったか」
「……っ⁉」
「致し方ない。――ブラッド」
「――はい、ボス」
滅多に見せることのない、本心からの感情の色。想定外の反応に驚きながらも、部下である男――ブラッドは内心をおくびにも出さずにレイルの呼びかけに答えて見せる。――厄介ごとの合図だということは分かっている。
何を言い付けられるのかと思うと慄然とする心持ちだが、傍仕えとして男にも覚悟と意地があるのも事実だ。――今度は何だ?
独りで対立する麻薬カルテルを潰してこいとでも言われるか? 難攻不落の監獄に侵入して、有力な囚人と渡りをつけて来いとでも言われるだろうか? 仕入れの問題となる武装組織の動向を見張るため、熱帯や極寒の地で身一つ数か月のサバイバルを要求される可能性もある。……これまで潜り抜けてきた難関の数々。
走馬灯のように浮かぶ死線と地獄の戦いの数々が、ブラッドの心に死者にも似た無痛の拠り所を作ってくれる。ここ数年をボスの傍仕えとして勤め上げたからには、例えどんな無理難題であったとしても――ッ!
「――悪いんだが、これからしばらくの間、組織の纏め役をやってもらいたい」
「……へ?」
YESと答えるだけのつもりでいた唇から、空気の漏れ出たような間抜けな音が出る。自分が今し方耳にしたこと。
「……ボ、ボス?」
「どうしても私自身が出向かなければならない用事が入ってしまってね。やむを得ない事態なんだ」
レイルから口にされた内容の衝撃に、初めて悪いと言われたという感慨だとか、暫くとは具体的にどれくらいの期間なのかとかの疑問は、どこかに吹き飛んでしまっている。ソファーから立ち上がったスマートなスーツの姿。
「他の人間なら不安はあるが、幸い君はファミリーの中でも優秀だから、数か月代わりを務めるくらいならできるだろう」
「……!」
「いい部下を持つのは幸せなことだ。日頃の君の努力と研鑽に、最大限の感謝を贈りたい気持ちだね」
――ッ冗談ではない。
晴れの日も雨の日も目の前の人物を見続けてきたブラッドの直感が、今人生最大の轟音で警報を鳴り響かせている。……本気だ。
「っか、会合はどうするんです? ジッロネモファミリーのドンとの約束が――‼」
「まあ、その辺りは上手く誤魔化しておいてくれたまえ。ジッロネモはあれで気のいい奴だから、誠意を見せれば問題ないだろう」
このボスは本気で、ファミリーの命運を一介の構成員である自分に預けるつもりなのだ。――ッ無茶苦茶だ。
これまでこなしてきた難題とはわけが違う。突き付けられた展開の余りの理不尽さに、鍛え抜かれたブラッドの意識がオーバーフローを起こし――!
「では、確かに任せたよ」
「――っ!」
数秒だけ生まれていた意識の隙に、上着を羽織ったレイルは足を止めることなく、済んだこととして部屋を出て行ってしまう。我に返り。
「――ッボ、ボスッ‼‼ ちょっと待って――ッ‼」
狼狽したブラッドが勢いよく扉を開け放ったそのときには。漆黒のスーツの姿はすでに、廊下の中から綺麗に消え去ったあとだった。
「……ふう」
たなびく雲の合間から柔らかな日差しの降る秋空。作業の最中に、孤児院の神父であるエアリーは手を止める。教会の建物に囲まれた小さな中庭。
箒にて掃き集めた落ち葉の量を、何とはなしに昨日までのそれと見比べる。白と青のまだら模様を見せる空を見上げ――。
「……元気でやっていますかね、あの子は……」
老いた瞳に微かな寂寥感を滲ませて、そう呟いた。ジェインが魔導協会の預かりになってから早一ヶ月。
いなくなってみると、彼が如何に自分の助けとなっていたのかがよく分かる。最年長のまとめ役として子どもたちの世話をしてくれていただけでなく、教会全体のことに通じていた。
保護者として、教会の経営者としてやるべきことをやってきたつもりではあるが、最近は少し、あの子に甘えてしまっていたのかもしれない。反省を浮かべつつ、エアリーは再び古びたエニシダの箒を手に取る。二、三度、それまでと同じ要領で枯れ葉を掃いたところで。
「――それで、今日は一体何の御用事ですか?」
手を止めぬまま飛ばされた問いかけに、中庭の隅に植えられたモミの木の陰から、一人の人物が姿を現した。清貧を旨とした――。
「相変わらずのご慧眼です。エアリー殿」
「また貴方ですか……」
白い麻製のローブ。覚えのある相手の姿を認めて、エアリーは半ば呆れたように口にする。教会の地上げ話が持ち上がったときに、聖戦の義から派遣されていた使者。
「そう煙たがらないで下さい。実は、少し面白い噂を耳にしましてね」
「……面白い噂?」
「ぜひエアリー殿のお耳に入れたいと思ったものでして。実は――」
自分の相手としてはいささか経験が足りないように思えたが、どうやら組織側はこの男をエアリーの監視役兼交渉役として任命することにしたらしい。軽く興味を惹かれたようなエアリーの反応に、男は満足げに頷いて言葉を続けようとし。
「――あーーっ!」
唐突に響いた叫び声に、その所作を遮られることになった。教会に通じる扉から中庭に飛び出してくる、数人の子どもたち。
「エアリー神父、ここにいたーーっ」
「ねーー! エアリー神父! 遊んで遊んで!」
「おい見ろよ、変なおっちゃんがいるぜ!」
「ほんとだー」
「この人誰ー? 神父ー?」
「――はいはい。皆、落ち着いて」
一直線に自身目掛けて走り寄って来た子どもたちに対し、エアリーは手慣れた雰囲気で、自然な笑顔を浮かべながら応対する。自分を取り巻く無邪気さに対し――。
「私の知り合いで、お仕事でこの教会に来ている方ですよ。ご挨拶は?」
「「こんにちは! おじさん!」」
「こ、こんにちは……」
こういった状況に慣れていないのか、男は明らかに落ち着きを無くしている。先ほどまで流暢だった語り口はたどたどしく、ぎこちなく浮かべられた愛想笑いからは、彼が聖戦の義の信徒である事実など微塵も感じられない。
「私はこの人とお話があるから、皆、もうちょっと待っててね」
「はーい!」
「早く来てね、エアリー神父!」
エアリーの言葉に聞き分けよく子どもたちは頷くと、来たときと同じような活発さで教会の中に駆け戻っていく。小さな背中を見送りつつ。
「――ご免なさいね。昼寝を終えたあとですから、この時間はあの子たちも元気一杯で」
「……いえいえ。こちらこそ、そんな時間帯に申し訳ない」
平静さを取り戻した使者が居住まいを正す。襟元を直し。
「次からは少し時間をずらしてくるとしましょう。しかし――」
一つ咳払いをして空気を元に戻そうとしたところで、どこかふと、若さに似合わない遠い目をした。
「……変わるものですね」
「……?」
「聖戦の義では《怒りの使徒》との異名を取った貴女ですが。今は、片田舎の教会で子どもたちに笑顔を見せている」
「……まるで見てきたかのように言いますね」
「当然です。《救世の英雄》、エアリー・バーネット殿と言えば、聖戦の義で知らぬ者はおりませんから」
風に紛れるように呟いたエアリーに、男は真剣な口調で言ってくる。熱のこもった語りを誤魔化すためか、軽く咳払いをしたのち。
「ところで……」
「――」
「さきほどの話の続きですが」
「ああ。……何が〝面白い噂〟なのでしょう?」
使者が今一度話題を戻す。――どうせ大した中身でもないのだろう。
そう考えてエアリーは取り澄ました笑みを浮かべる。形だけは礼儀を整えたまま、続く男の言葉を軽く聞き流そうとして――。
「――夜月東」
「――っ」
その一語に、全ての予想を引っ繰り返される羽目となった。止められた箒の動き。
「彼が今、魔導協会の総本山に滞在しているらしいとのことです」
「……彼が?」
「はい」
そつのない態度を作ることも取りやめて、エアリーは思案する。……東。
ジェインの連れて来た友人の素性から、もしかすると、とは思っていたものの。その名前を再び聞くことになろうとは、正直思ってはいなかった。
「……」
「――どうですか?」
あの日から十年も経った今になって、こんな形で機会が巡ってくるなどとは。考え込んでいるエアリーを前にして、得意げな調子を増した使者の声が響く。
「少しはお役にたてる情報だったのなら、私としても貴女との交渉役を任されている甲斐があるというもの――」
「――」
「っ⁉」
勝ち誇りと言ってもいいようだった流暢な台詞が、唐突に途絶えさせられる。――エアリーの所作。
有無を言わせぬ速さで自らの肩に置かれた相手の手を見て、男は眉を顰めている。聖職衣に包まれた身体を微かに強張らせ。
「……どうかしましたか?」
それまでとは違い、やや警戒の色を滲ませて問い掛けを成してくる。予想と違わない信徒の反応に、顔を上げたエアリーは、満面の笑みで答えてみせた。
「――私、一つ用を思い出しまして」
「……用?」
「はい。――それでですね」
応じる信徒の声は硬く、これまでより幾分上擦っている。相手の不興を努めて意識しないようにしつつ、エアリーは本命となる言葉を紡いでいく。
「その用を済ませる間、どうしてもこの教会を離れなくてはならないんですよ」
「……」
「その間に子どもたちの世話をしてくれる人がいなくなってしまうのは、とっ――ても困るんです」
「……」
沈黙。何かを悟ったような態度の相手に、エアリーは追い打ちを掛けるように畳みかけた。
「貴方、私の監視役を頼まれているのでしょう?」
「――」
「なら私がいない間、この教会の子どもたちの面倒を見てあげてくれませんか?」
「……なぜ私が?」
男の見せる一瞬の動揺をエアリーは見逃さない。肩に置いた手のひらの圧力で、相手の身動きをなおも押さえ。
「残念ですが、そこまでする職責はありません。引き受ける理由がないかと」
「残念ですね。もし貴方が引き受けてくれるのなら、貴方にとって実に喜ばしい内容の話もできると思いましたのに」
「……と言いますと?」
「貴方を派遣した方たちが、組織に対する貴方の貢献を認めてくれる――」
自らを襲う威圧に懸命に抗っている男に対し、逃がさないとばかりにエアリーは止めとなる一言を放つ。一度訊き返してしまった以上。
「功績を認められ、報酬と更に上の立場を望める。……そんな内容のお話です」
「……」
もうこの相手は、目の前にぶら下げられた美味い餌に食いつかずにはいられないでいる。澄ました微笑みを見せるエアリーに対し、男が考える素振りを見せる。……僅かな逡巡。
「……確かめるようですが、その約束に間違いは……」
「ええ。なんでしたら、一筆したためても構いませんよ。貴方にとっても、決して悪いお話ではないと思うのですが……」
だが、内心では既に結論が出掛かっている。そのことを見抜いたにこやかな笑みでエアリーは言葉を締めくくる。〝断ったらどうなるか分かるな?〟との意味で、肩を掴んだ手に力を込めるのも忘れずに。……。
……暫し。
十数秒の沈黙が二人の間に流れていく。エアリーの剣幕と言葉に押されてなお、男は思案するような姿勢を保っていたが――。
「……」
「……分かりました」
頭の中で損得の勘定を終えたのか、遂に折れる姿勢を見せた。頷き、
「貴女がいない間、この教会の子どもたちの面倒を見ていればいいのですね?」
「ええ。あと教会の掃除や備品の手入れ、維持管理に費用の調達もお願いします」
「……分かりましたよ」
溜め息と共に肩を竦めて見せる男。苦笑いを浮かべているその両肩を――。
「流石はかつての英雄、バーネット殿と言うべきですか。貴女の押しの強さには負けました」
「ありがとうございます。――では、早速始めましょうか」
「え?」
エアリーは、更に強く掴んでいく。今からどんなに必死に足掻いたとしても、決して逃れることのできないように。
「まずはこの教会の間取りと設備を一通り説明して――正しい掃除の仕方と、そのあとに子どもたち一人ひとりへの接し方を教えますね」
「……え? え?」
「当然でしょう? 私がいない間、きちんと代役を務めてもらわないといけませんから」
繰り返される瞬き。まだ事情が飲み込めていない様子の信徒に向けて、エアリーは淀みなく言葉を続けていく。――男の受けてしまった提案の真実。
「炊事、洗濯、勉強指導に買い物、遊びのルールと注意点」
「……ッ‼」
「時間もありませんし、今日一日で全部覚えてもらいましょうか。――では」
一から全てを叩き込むとなれば、二十四時間全てを犠牲にしたとしても相当苛烈なスケジュールになる。これから真の鬼と地獄を見ることになるだろう相手に向けて、エアリーは今度こそ、心からの笑顔を浮かべた。




