第二十六話 消せない灯火
「……」
――なんだ?
渾身の一撃を放った直後に、その違和感を認知する。……刀を握る俺の右腕。
肩口から伸びる腕の先に広がる景色が、やけに明るい。建物の陰から差し込む陽の光が、はっきりとしたコントラストで俺の腕を照らし出していて――。
「――ッ」
その鮮やかさで気付く。俺の全身。
血肉の奥から立ち昇っているはずの暗い魔力の揺らめきが、消えている。【魔力凝縮】の副作用によって、瞬間的に発散の勢いを増したはずの【魔力解放】が――ッ。
完全に効力を失っていて。……時間切れではない。
自分の中の魔力を使い切ったなら、俺は今こうして立っていることさえできない。思い当たる理由はただ一つ。
――消されたのだ。
「……」
今俺の目の前に聳え立っている、九鬼永仙の手によって。……軽く差し出された右の腕。
「……⁉」
年齢からは想像もつかないほど血色のいい手のひらの、掌中に押さえられている終月の刀身に目を見張る。――ッ馬鹿な。
受け止めたのか? 【魔力解放】状態の俺が己の魔力を凝縮させて放つ、渾身の一撃を。
魔術も魔力による強化も用いない、ただの素手で。郭の複合障壁を突破し、体術に秀でているという立慧さんでさえ受け止めようとはしなかった、この……。
「――素晴らしいな」
全力の一刀を。頭の上から響く声。
「話を聞く限りでは、まだ未熟とは思っていたが……」
「うっ――!」
「――⁉」
「【時】に、【重力】」
皴の刻まれながらも張りのある面立ちの中の瞳は、目の前の俺ではない方角を見つめている。後方から響いてくる、
「支部長たちが動けない中で、一瞬とはいえ私の動きを鈍らせたか」
「逃……げろ……っ」
苦悶の音。反射的に目を遣った向こうで、苦痛に耐えるようにして額を押さえているジェインが映る。――荒く息を吐いているリゲル。
「蔭水。早く……」
「……っ、クソ……がッ……!」
「あと十年遅ければ、私も手こずらされたかもしれんな」
全霊の集中で魔術を使ったのか、地面に拳を突いている蟀谷からは滝のような汗が流れている。俺の攻撃に加えて……。
「そして――」
「……!」
「青年。勇ましいな」
あの一瞬で繰り出されたリゲルとジェインの魔術を、同時に無力化していたのか? 俺に向けられる声。
「力の差のある相手といえども、仲間の身を守るために自身を懸ける」
「……ッ‼」
「そのひた向きな姿勢は見るに眩しい。……だが」
終月を受けとめた手のひらをそのままに、掛けられる声を俺はただ耳にしている。……動かないのではない。
動けないのだ。目の前の相手と自分の間にある、圧倒的な存在としての隔たり。
覆す余地のないそれを今更のように理解して、迫り来る巨岩を前にした蟷螂のように、全身が動かせないでいる。刀身に触れた手のひらから……。
「覚えておくことだ。無謀さの代償は、時に重い」
決して抗うことのできない、恐怖と絶望の感触が伝わってきていて。秋霜の冷厳さを秘めた瞳が俺を捕らえる。
「危険に晒されるのは自らだけではない。そして例えいくばくかの幸運を得たとしても――」
――手遅れだ。
理性と本能が肯定する直感。揺るぎない判決を告げるように、九鬼永仙の左の手のひらが、強張る俺に向けてゆっくりと翳された。
「――明日を目にできる可能性は、限りなく低いのだとな」
「――」
目の前の光景。
続けざまに起こった事態を前にして、私はまた、動くこともできずに立ち尽くしている。……穏やかそうだったお爺さん。
道に迷って助けを求めているとばかり思っていた人が、実は私たちの命を狙っている張本人で。立慧さんたちが叫んで、リゲルさんたちが目を見開いて。
覚悟を決めたような顔つきをした黄泉示さんが、こちらに飛び出してきて――。
「……ッ」
そして今。目の前に立ち尽くす黄泉示さんの表情に見えるのは、恐怖と驚愕。
力の限りに振るわれたはずの黒い刀は、差し出されたお爺さんの手のうちで受け止められていて。遠く向こうの方には、苦痛に膝を折っているリゲルさんとジェインさんの姿が見える。動けずにいる先輩たちの――。
「――明日を目にできる可能性は、限りなく低いのだとな」
葛藤に心を突き刺されている中で、私の傍らに立つ人影から、そんな冷たい断罪の言葉が聞こえてきた。……っ私は。
――強くなったと思った。
誰かが戦っているのを見ているだけの自分から、前に出る決意をして。……守れるかもしれないと思っていた。
思いを先輩に認めてもらって、魔術を教わって。全てを焼き尽くすようだった郭さんの魔術から、黄泉示さんを守れたときに。
……だけど。
……ッ。
今のこの状況。目の前のこの光景は、私が作ってしまったものだ。
近づいてくる相手の真意を見抜けなかった。注意しようとしていたにもかかわらず、自分から危険を呼び込んでしまった。あのときレイガスさんから言われたように。
私は、また――。
……。
……黄泉示さんが。
黄泉示さんが、死ぬ? 先に起こるだろう未来。
フラッシュバックしたイメージと重なり合う出来事を思い浮かべた瞬間、私の中に強い感情が湧き上がる。……いや。
嫌だ。目の前のこの人に、いなくなって欲しくない。
自分の何を使ってでも。どんな間違いを犯したせいで、何を失うことになったとしても。例え――!
「――」
――そうだ。
その理由を思い出す。なぜ強くなろうとしたのか。
あのときなぜあんなに必死になって、黄泉示さんを守ろうとしたのか。……私は。
――私は、今が続いていて欲しい。
黄泉示さんがいて、リゲルさんたちがいて、先輩たちがいて。誰一人欠けずに賑やかに進んでいく、
全員と一緒に過ごしていく今を。過去の繋がりが戻ったなら。
他の人たちのところへ戻らなければならなくなるかもしれない。今の自分が誰かと共に歩んできた道のりが、壊れてしまうかもしれない。
あのときの私はそれが怖かった。だから記憶を取り戻すことに躊躇って、変わらなかったことに安心した。
――ッだけど。
そのままではきっと、ダメなのだ。……向き合わなければならない時がくる。
私が私である以上、この失われた記憶とも向き合っていかなければならないはずで。例え何が起ころうとも、黄泉示さんたちと生きていく今を守り抜く。
それを成せることこそが、私の望んだ強さだったはずだ。……何を失っても構わない。
どんな痛みを味わうことになったとしても、どんな傷を負うことになったとしても、必ず。……私は。
私は――ッ‼
……なんだ?
手のひらを翳した永仙が、俺の殺害を行動に起こす寸前。
視界の先から生まれたその気配に、本能的に視線が向いている。永仙の後ろに立っているフィア。
「……させません」
胸の前で握られた指先。命を脅かされ、立ち尽くしているだけだったはずの華奢な身体から、微かな煌めきが零れ出している。悪意に晒されれば掻き消されてしまうほどに小さく。
「失わせません。私の大切な人たちを」
「……ッ?」
「傷つけさせません。黄泉示さんは、絶対に――」
「――」
だがその反面に、これまで目にしたどの力よりも、眩く純粋な光が。顔を向けた永仙が僅かに目を細めたとき――。
「――死なせませんッ‼‼」
「――ッ⁉」
翡翠色の瞳を見開いたフィアの全身から、世界を埋め尽くすほどの光が溢れた。――守るように。
「――ッ‼」
俺とフィアを覆い尽くしていくその光。眩い純白の輝きに触れた永仙の手のひらが、強力な拒絶を受けたかのように激しい抵抗音を立てて弾かれる。裾をはためかせ。
「――」
「永仙が、退いた……?」
終月を押さえていた手を離し、飛び下がった肉体。弾かれた指先を見る撓んだ老人の体躯を前にして、信じられないものを目にしたように立慧さんが呟いた。何が――ッ。
「――うっ」
「――っ、フィア⁉」
それを理解するより先に、隣にいたフィアの身体が唐突によろめく。力の抜けた頭。
「っ、フィア――‼」
「ッ下がりなさい、あんたたち‼」
瞑られている瞳。倒れ込んでくる彼女を両手に受け止めた瞬間に、輝きを放っていた光のヴェールが消え失せたかと思うと、目にも止まらない速さで一つの影が俺たちの前に飛び出してくる。鷹の翼の如く黒髪を翻した――!
「ッ立慧さ――!」
「あとの二人は千景が診てる。いいから早くッ‼」
「……ったく」
立慧さんに、やや遅れて着いてきた田中さん。正面を見据える二人と永仙との間にはいつの間にか、彼我の空間を別つ半透明の防壁が形成されている。――っ先輩の障壁。
「こんな化け物に支部長だけで当たれとか、冗談きついぜ」
「……それでもやるのよ」
誰にとっても予想外だろう今の展開の間に、三人が三人とも逃すことなく用意を整えていた。破れかぶれに笑う田中さんの隣で、これ以上ないほど緊張を湛えた立慧さんが唇を噛み締める。
「私たちがやらなきゃ。誰が……ッ!」
「……第十支部支部長、范立慧」
決死の気迫を漲らせる二人に対し、老人が見つめていた手のひらを下ろす。
「それに、十四支部支部長の田中か」
「――っ⁉」
「驚くことでもあるまい」
鮮やかな反応を見せた立慧さんと田中さんに向けて、口の端に静かな笑みを浮かべた永仙が悠然と姿勢を整え直す。
「かつて魔導協会の大賢者だった私の頭には、目ぼしい協会員全ての情報が入っている」
「……!」
「経歴、技能者として培ってきたスタイル。当然、その得手不得手もな」
「……光栄なこって」
「――ッ蔭水」
田中さんと立慧さんが表情を変えている。緊迫を前に動けずにいた俺に、後ろから切迫を抑えた声が響いてきた。――ッ先輩⁉
「動けるか?」
「……ッはい」
「ガウスとレトビックには簡単な治癒を施してある。カタストは」
俺の腕に抱えられたままのフィアを見る。呼吸や脈拍は正常に思えるが――っ。
「……試験のときと同様の、急速な消耗による症状だな」
「……!」
「意識はしばらく戻らないだろうが、重篤な影響はないはずだ。――四人で早く本山まで戻れ」
「っ先輩は」
「私はここで立慧たちの援護をする」
眼差し鋭く前を向く先輩は、すでに戦いの覚悟を終えているように見える。ポニーテールを揺らし。
「三人で可能な限り時間を稼ぐ。振り向かずに、早く」
「――ッ」
「――ッ畜生が」
言葉を失う俺の横で、呻くように頭を振ったリゲルが顔を上げる。額に大粒の汗を浮かべて、砕けるのではないかと思うほど奥歯を強く噛み締めながら。
「渾身の全力だってのに、ビクリともしやがらなかった。化け物ジジイが――ッ!」
「……ッいいから急げ」
――ジェイン。
「相手の狙いは僕たちだ。僕らが安全圏まで逃げ切らなければ、先輩たちも退くことができない」
「……ッ!」
「……そうだな」
【時の遅延】をレジストされたダメージが残っているのか、憔悴した光を見せるレンズの奥の瞳は、話すたびに痛みが走るように眇められている。……そうだ。
あの九鬼永仙という怪物を前にして、標的である俺たちが留まっているのは愚策でしかない。自分たちにできることをしようと思うなら。
「――行こう」
「ああ。【時の加速】を使えば、ゲートまではすぐ――」
一瞬でも早く、この戦場から抜け出すほかないのだ。走り出そうとした瞬間――。
「――っぶねえッ‼‼」
「――ッ‼⁉」
唐突な叫び。顎を跳ね上げて上向いたリゲルがジェインを突き飛ばすと同時、俺たちのいた地点に上空から何かが激突してくる。砕け散る地面の残骸――‼
「……⁉」
「……全く」
「――」
「久方ぶりの外出と思えば。――慣れない労働は堪えますね」
リゲルの警報からギリギリで飛び退いていた俺たちの視線の先で、土煙を払うようにして立ち上がったのは、緊迫したこの状況には不釣り合いなほど華美な衣装を纏った一人の女性。……立ち姿は優美そのもの。
「兵は机上で動かしてこその王」
「……‼」
「智徳俊英の明君が、野蛮な覇王などと同様に、塵埃の戦場に並び立たないといけないとは。――おや?」
腰元まで伸ばされた髪は整えてきたばかりのような艶を纏い、辺りを見回す瞳は玉のような澄んだ眼光を放っている。――尋常ではない。
「地面で何が蠢いているのかと思えば、これはまた」
「……ッ」
「予想の外ですね。――どうしたのですか?」
姿の奥にある威容を感じて凍り付く俺たちを一瞥し、瞬きした女性が後方にいる人物へ眼差しを送った。――っ永仙。
「大口をたたいて嘯いていたことと、行動の結果とが伴っていないように見えますが」
「……済んだのか?」
「ええ。まずまずの愉しみでした」
元魔導協会の大賢者。怪物と言っていいほどの力量を秘めているはずの老人と、全く対等の立場で言葉を交わしている。……っ間違いない。
「腕も三本ほど捥がれたことですし。四賢者でもない人員にあれ以上を求めるのは酷でしょう」
「……⁉」
「用済みならば帰還しようと思って来たのですが。手が塞がっているようなら、私が代わりにやってさしあげましょうか?」
凶王。永仙が助力を頼んだという、凶王派の最高戦力の一人。戦慄を覚える俺の目の前で、鈴音に多分に皮肉を利かせて転がしていた女性が、改めて俺たちの姿を双眸に映す。絶対的。
「その場合は当然、貸し一つということになりますが」
「――ッ‼」
揺るぎのない捕食者の立場から送られる視線。戦いになどならない圧倒的な格の差を悟りつつも、打つ手のない俺たちが身構えた――‼
「――っ」
「おや」
「……ッお前たち」
その瞬間。対峙する二者の間に、一つの小柄な影が割り込んでくる。――千景先輩。
「せ、せんぱ」
「――チャンスがあるとすれば、一瞬だ」
「……!」
「針の穴を突くような一瞬。……その一瞬を、逃さずに走れ」
「これはこれは」
胡桃色のポニーテールを揺らす、俺たちを完全に隠すこともできない小さな背中から、凶王のプレッシャーを断ち切るように凄烈な闘気が放たれている。極限の集中が込められた声と呼吸に――。
「中立区域を担当する支部長。クラウス・ムウロと相対した魔術師ですね」
「……」
「煮ても焼いても食えない堅物と評されていましたが、どうして中々。この私が凶王だと知って前に立つ気概は、敵ながら賞賛に値するものです」
向き合う凶王は依然、どこまでも平易な眼差しを送ってきている。……不気味なほどにこやかに紡がれる美辞麗句。
「外見も、魔導協会の術師とは思えぬほど可愛らしいことですし。――どうです?」
「……」
「手間をかけさせないよう目を瞑っておくならば、貴方とその同僚たちだけは、見逃してあげても構いませんが」
「……【陣地三慧】」
先輩の決死など、まるで考慮に値しないと言わんばかりの弄びぶりだ。――ッ詠唱。
「〝心情清らかなるが故に世界清浄なり。心浄なれば土もまた浄なり――〟」
「――なるほど」
答えの代わりに紡がれていく呪文。俺たちには理解のできない速度で構築される術式の波動を前にした、凶王が小さく片眉を押し上げる。
「流石は支部長。己の命を捧げる覚悟は既にしている」
「〝仏の心清きに随い、五濁悪世を去らん――〟」
「属する組織の理念に従い、仲間が同じ覚悟を持つことも確信している――と」
返答は為されない。一心に己の魔力を高めて相対する先輩の姿に、凶王が驚くほど優し気な笑みを贈った。
「――身のほどを弁えなさい、雑兵が」
「――ッッ‼⁉」
ゾッとするように冷ややかな視線の宣告に連れて、目の前にいた先輩が突然吹き飛ばされる。ッッ――⁉
「――ッ、先ぱ――ッ‼‼」
「グハッ‼⁉」
激突。張り巡らせ掛けていた障壁を砕き散らし、四肢を折り曲げた先輩が路傍に取り残されていた石壁に打ち付けられて喀血する。――ッそんな‼
「ご、ホッ……ッ」
「……‼」
何が起きた⁉ 喉奥から血を流して滑り落ちる小さな体躯を、動くこともできずに見つめることしかできない。……魔導協会でも守りのスペシャリストだという先輩。
過去には俺たちを殺しに来た男と相対し、雷と見紛うばかりの雷撃さえ防ぎ切っていた。郭の魔術を防いだフィアの障壁より堅固なはずの術式を――。
「元大賢者の指先から逃れるとは、どれだけ活きが良いのかと思って見てみれば」
「……!」
「すでに俎上の魚ではないですか。この程度の小魚に、何を手こずることがあるのか――」
塵でも払うかのように、一瞬で? ――ッ来る。
理屈も正体も分からないが、確実に俺たちの命を奪うだけの何かが。正体不明の脅威に為すすべなく硬直したとき――!
「――ッ【時の加速・二倍速】‼」
視界の端、痛みに耐えて絞り出すような詠唱に伴って、世界に映る全ての動きがスローモーションへと切り替わる。ッ反射的に踏んでいたバックステップ。
「ッ【重力三倍】ッ‼」
「――おや?」
本能的な飛び下がりののちに速さを取り戻した呼吸のうちで、リゲルの重力魔術と併せて、脅威を辛うじて躱したのだということを理解する。……ッなんだ今のは。
「……なるほど」
倍速の動体視力を以てしても捉え切れない、何かが鼻先寸前まで迫っていた。見えたのはごく僅か。
全てが変わらない景色のうちで、ほんの一瞬放たれた微かな煌めきだけだ。陽の光を受けて散る淡雪にも似た――、
「そういう次第ですか。多少は興が乗る気もしますが……」
「……ッ‼」
「……はぁ」
景色の色彩と陰影に紛れて、次の瞬間には意識から消え去っているような何かしら。凶王が芝居がかった溜め息を吐く。
「困りましたね」
「――ッ?」
「そう軒昂に意気込まれては。私としても、相手をしたくなるのは山々ですが……」
決死の気力を振り絞っている俺たちに対し、気乗りのしなさそうな顔つきで視線をどこかへ受け流す。俺たちの分からない何かを見ているような気配。
「その時間もどうやらないようですので。風情のないことです」
「なに――⁉」
意味が分からない。首を振る仕草に訊き返した刹那。
「――ッ‼」
うねり狂う白髪三千丈が翻り。突如として巻き起こされた烈風の旋回に、顔に当たる風を思わず右腕で防御する。これは――ッ⁉
「――来ましたか」
「無事かい⁉ あんたたち‼」
「婆さんッ‼」
――リアさん‼ 予期していたような速さで後退した凶王の眼前に降り立ったのは、俺たちの警護役を請け負っていた四賢者の一人、リア・ファレル。凶王に足止めを受けているとの話だったが――!
「――やるな」
「……‼」
「リア。冥王が抜かれたか」
「ッ永仙、やっぱり出てきてたね……‼」
「やれやれ忙しない。――どうするのです?」
下手をすれば自分が危険であるはずの強敵を出し抜いて、俺たちの戦線に駆けつけてくれたのか。凶王との間で交わされた駆け引きの苛烈さを物語るように、リアさんの手足には緋色の滲む切り傷が幾つも刻まれている。っ――。
「どこぞの誰かがのんべんだらりと手を抜いていたお陰で、私と冥王の稼いだ時間が無駄になってしまった様子」
「そうだな」
「稚魚の数匹も殺せぬとあっては、流石に得意の言い分も出てきませんか。――まあ」
未だに余裕があるように言葉を交わしている凶王と永仙。……ッそうだ。
「貴方の考えは置いておきましょう。始めに出した条件を覚えていますね?」
「……ああ」
「結構。では、貴方はその四賢者を押さえておいてください」
リアさんが駆けつけて来てくれたからといって、現状の戦力差が覆されたわけではない。――ッなに⁉
「連れ帰るつもりか?」
「ええ。卵ではありますが、素材としては気に入りました」
「……!」
「何やら面白い素質を身に着けているようでもありますし。戦力にはならずとも、研究の材料くらいにはなってくれるでしょう」
「――させると思ってんの?」
震えながらも相手の動向に備えようとした俺たちの眼前に、リアさんの出現に合わせて永仙のマークを外れていたらしい、立慧さんと田中さんが割り込んでくる。覇気を込めて相手を睨みつける二人――。
「私らの命に代えても。ここは通させないわ」
「へへっ。どうも」
「……支部長ですか」
……いや、一人を気のないように凶王が一瞥する。紅の薄く引かれた唇から、透明な吐息を漏らしつつ。
「貴方たちでは、掛ける手間にもなりませんよ?」
「――ッ」
「――やめておけ」
退屈を嘆くような足取りで前へ。歩み出る凶王を目にしたリアさんの挙動を、差し込まれた永仙の声の音が制止した。
「いくらお前でも、私の相手をしながら凶王を止めることはできまい」
「……!」
「二人の王が動いた時点で結末はすでに決まっている。賢者とは己の無力を自覚し、手のひらを零れていく犠牲を受け入れるものだ」
「……確かにね」
悠然とした態度で立慧さんたちとの距離を詰めてくる凶王。言葉通りに動けないでいるようなリアさんが。
「魔導を扱う身とはいえ、あたしらは所詮、人間でしかない」
「――」
「どう足掻いても変えようのない状況だってある。だが――」
「――では」
諦めのように呟く側方で、俺たちを庇う立慧さんたちの肩に力が籠る。間合いの一歩前で立ち止まった凶王の指先が――‼
「――そんなときにも希望を与えてくれるのが、仲間ってもんさ」
先輩を払ったときと同じように振るわれる直前に、絶体絶命の窮地にいるはずのリアさんが、予想を180度裏切る華麗なウィンクをしてみせた。呆気にとられ――。
――瞬間。
「――ッ‼⁉」
凶王と立慧さんたちのいる足元を突き破って、何かが二者の間に出現してくる。背中に山のようなものを背負った――‼⁉
「ッととっ⁉」
「おっと! こいつは――‼」
「――チッ」
全長二メートルはある、巨大な亀のような生物。割れた地面のうちから急速に地面を浸していく泥水と、脚を襲う振動に捕まるまいとする凶王が地を蹴って空中へ飛び上がる。典雅な衣をまとう身体が細身の体型から信じられないほどの勢いで空に昇った――。
「――ッ‼」
澄み渡る晴天を一陣の黒影が走ったかと思うと、凶王の体躯が風に舞う藁屑の如く躍動する。――一瞬の交錯。
弾丸もかくやと思しき速度での強襲を回避したのか、足場のない空中でアクロバティックに体勢を立て直した凶王の着物の裾に、二筋に交差する鋭い十字の裂け目が入れられている。――っなんだ⁉
「っ【霊亀】、【鳳凰】――」
あれは。見上げる俺の目に映るのは、これまでの人生で見たこともないような二体の怪物。岩肌を照らす五色の翼を広げた怪鳥と、
「加えて【応竜】。――【四霊】ですか」
「これって――!」
猛禽類のような翼に、三本のかぎ爪を持つ四本の足を備えた奇形の竜。裂かれた衣から太腿を露にして降り立った凶王の前で、得体の知れない異形たちが空と地上から立慧さんたちを守るように前に出ている。まさか――。
「……!」
「――来たか」
どこか既視感のある光景に予想を働かせたとき。俺たちにとっても覚えのある、一人の人物が戦場に飛び込んできた。――ッ秋光さん。
「――秋光様!」
「――‼」
黄色い鬣と鱗を持つ、一角獣のような異形に跨り、地を砕く砲弾の如き脚力で障害となる石壁を飛び超える。風を引き裂いて俺たちの眼前にまで到達すると、上がる土煙を吹き飛ばしつつ、力強く躍動する背中から――‼
「……葵の術式が知らせてくれた」
人馬一体の呼吸を感じさせる所作で飛び降りた秋光さんが、蹄を鳴らす異形と共に、凶王たちと対峙するリアさんの隣へ並び立つ。――険しい表情。
「襲撃に凶王が参戦し、彼らの身が、極めて危険な状態にあると」
「……あの小娘ですか」
これまで目にしてきた温厚な表情はそこになく、眦には、戦いの覚悟を秘めた深い皴が寄せられている。舌打ちと共に零された言葉。
「生娘のように初心な相手と思っていましたが、どうやら存外強かさを持っていたようですね」
「……状況は?」
「――四人のうちに負傷者はない」
敵意を込めた凶王のねめつけにも動じず問う秋光さんに、同じく不乱の気概を持ったリアさんが応答する。
「死者もゼロだが、凶王に払われた支部長一人が重傷だ」
「……そうか」
――ッそうだ。
危険な状態にあるのは何も、俺たちだけではない。血を吐いたまま意識を失った先輩。
崩れ落ちた身体の方角に一瞬だけ目を遣った秋光さんが、背中に瞑目する気配を覗かせる。一瞬だけ流れることになった間断ののち――。
「――」
「――久しぶりだな」
協会の裏切り者にして襲撃の首謀格、九鬼永仙が、鷹揚に声をかけてきた。リアさんたちと共に並び立つ四体の異形。
「秋光。協会での騒動以来か」
「……」
「賢明だな」
召喚士――三千風さんの師でもある、秋光さんの魔術により呼び出されたものたちだろうが、戦闘に備えて構えてはいても、自分側から仕掛けることはしていない。永仙が頷きを見せる。
「長引かせれば二組織の人員も駆けつけるだろうとはいえ、凶王派と組織方の幹部が全力でぶつかれば、周囲一帯もただでは済まない」
「……!」
「繰り広げられる死闘で真っ先に失われるのは私たちではなく――この場で平穏な生活を営む、無関係な人々の生命だろうからな」
……そうか。
余りに非日常的な光景と出来事が繰り広げられたせいで、忘れていた。今俺たちの立っている場所は、強力な結界に守られた本山の内部などではない。
どこにでも開かれた町の一角。魔術などとは縁遠い人たちが生活し、各々の日常を営んでいる普通の町なのだ。交戦の可能性は秋光さんたちも考慮していた。
事前に準備をしていたことからして、避難誘導やなるべく人を近付かせないくらいの措置は取っていたのかもしれないが、ここまで戦力の拮抗した状態での衝突は予期していなかったに違いない。先輩たちと俺たちが巡っていた市場。
「……」
「向こうは仕掛けてくる気はなさそうだが。――どうする?」
「……意趣返しのつもりですか?」
ここから数百メートルも行けばすぐに、覚えのある活気のある町並みが見えてきてしまう。問われた凶王。
「賢者の筆頭が相手とはいえ、衆目で恥をかかされたまま終わりとあっては、王号を頂く《賢王》の名折れ」
「……」
「薹が立ちながら女の扱いも心得ない鈍才に、地面の味を覚えさせるのも一興ではありますが……」
怪鳥と竜の強襲によって服に切れ目を入れられた賢王が、今一度秋光さんたちへ視線を向ける。宝玉の如く澄み切った瞳。
単純に見れば美しいだけのはずの眼の中に、目の前の相手を躊躇なく惨殺するような冷徹さが宿っている。静かに臨戦態勢を保つ二人の賢者との間で、一触即発の緊張が過り――‼
「――やめておきましょう」
「――」
「元より今日はそのつもりで来たのではないですし。これ以上派手な動きをすると、着物がほつれてしまいそうですからね」
「そうしてくれれば助かる」
剣呑な光を宿していた賢王の目元が、全くの不意に緩められる。殺気を収めて髪を靡かせる賢王と、踵を返す永仙。――撤退する。
「――ッ待て‼‼」
ただただ胸を撫で下ろす気持ちでいた俺の意識に、不意を打つ切実な叫びが響いてきた。一心に相手を目に見据えている――っ。
「永仙……!」
「……」
「……ッなぜだ」
秋光さん。――ッそうだ。
かつての盟友にして同志。先輩から聞かされた、二人の活動と穏健派の成り立ちが真実なら、今その胸には、賢者としての矛盾を抱えた並ならぬ葛藤があるはずだ。静脈が浮き上がるほど握りしめられた拳。
「なぜ協会の志を捨ててまで、こんなことを……」
「……その問いに、答えが返されると思うのか?」
立ち去りかけていた足を止めて、永仙が背中越しに顧みる。張りのある皴の刻まれた面立ちからは、かつての友情を感じさせることのない、冷ややかな眼差しだけが送られている。
「お前が何を望もうとも、既に組織方と凶王派の命運は分かたれた」
「……!」
「お前たちともいずれ、死力を尽くして殺し合うしかない。秩序の崩れ行く、混沌の世界の中で」
「……無駄話は終わりましたか?」
再度の宣戦布告とも取れる台詞を最後に前を向いた永仙に、物言いたげな様子の賢王が口を挟む。
「己の都合で王二人を連れ出しておいて世間話とは、いいご身分なことです」
「……」
「帰り次第、事の次第を追及しなければなりませんね。――ああ」
「――⁉」
「……‼」
「んだよ、ありゃ……っ‼」
「帰りましたか。遅かったですね、冥王」
突如として賢王の真横に現れた影。気配も存在感もない、影法師が生命を得たかのような異様に意識が釘付けになる。……ッ《冥王》。
「足止めは完全には果たせなかったわけですが、リア・ファレルが相手とあっては、致し方ありませんね」
「――」
「ああ、いいのですよ」
四賢者であるリアさんを足止めしていた、もう一人の凶王なのか⁉ これまでの敵とは種別の違う不気味さに、震えを隠せずにいる視線の先で。
「待ち伏せはもう終わりましたから。あとは帰るだけです」
「――っ」
「貴女がゲートまで四人を飛ばしていれば、さぞかし面白い光景が見られたでしょうに……」
悪意のある賢王の眼差しに、背筋が凍りそうになる。……待ち構えられていた?
「残念です」
「……」
「――また会おう、秋光」
戦線からリアさんが俺たちを離脱させるかもしれないことを見越して、本山へ向かうゲートの前に居座って。影法師から伸びる暗がりに足を踏み入れた、賢王の姿が沈み込むようにして消え失せる。続く永仙が――。
「いずれまた。死力をぶつけ合う敵として――」
微かな笑みと共に一瞥を残し。襲撃者たちの姿が、完全に消え去った。
――
―
「……」
――静けさ。
凶王と永仙が去った中で、しばしの沈黙が続いている。容易に言葉を発せられない。
「……秋光」
「――ああ」
圧倒的な実力者だけの持つ存在感の齎す静寂の中で、リアさんの促しに乗った秋光さんが、毅然とした面持ちで俺たちを向いた。
「怪我はないか?」
「は、はい」
「そうか……。何よりだ」
「上守の方はあたしが診とく」
温かみのある眼差し。一抹の安堵を覚えたような秋光さんに、リアさんが声を掛ける。
「あんたは早く、葵の方を見てきてやんな」
「――済まない」
「言いっこなしだよ。――さて」
いつの間にか消えている異形たち。リアさんの転移法によって秋光さんが飛ばされると同時――。
「――ッ⁉」
「流石は上守だね」
崩れた石塀の元に転移したリアさんが、倒れたまま意識を失っている先輩の容態を確認する。……ッ凶王の一撃で重傷を負った先輩。
「並の協会員なら内臓破裂で即死のところを、咄嗟の障壁で衝撃の緩和と、事前仕込みの術式を使った治癒の発動までをこなしてる」
「……!」
「ッ、千景……‼」
「しばらくはベッドの上で過ごすことになるだろうが、適切な治療を受ければ後遺症の心配はない。――後処理はこっちで済ませとく」
力の抜けた小さな身体に応急処置として幾つかの魔術を行使しつつ、駆け寄ってきた立慧さんたちにリアさんが指示を飛ばす。
「あんたらは、こいつと四人をすぐに本山まで送り届けてやりな。通ってきたゲートは位置が掴まれてる」
「――ッ、はい!」
「用心のため、緊急で開くよう指示しといた新しいゲートを使ってね」
「そいつは構わねえですが――」
「目の前まではあたしが送る」
血染めの服のまま風の魔術で浮かび上がらせられた先輩を、負荷を掛けないような形で立慧さんがしっかりと背負い込む。何かを言いかけた田中さんの前で。
「任せたよ」
「――っ!」
「おっ――っと!」
リアさんが軽く掌を反転させると、足場の捻じれる感覚の直後に景色が切り替わり。一瞬後には、見覚えのない建物の前に俺たち四人と立慧さんたちは立たされていた。……これは。
「新しいゲートの前ね」
「――!」
「凶王と永仙は撤退したはずだけど、何が起きるか分からない。千景も休ませなきゃならないし」
リアさんの転移法。開かれた入口を前に、表情を引き締めた立慧さんが先輩の脚を抱え直した。
「リア様の言う通り、一刻も早く本山に戻るべきだわ。――行きましょ」




