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彼方を見る者たちへ  作者: 二立三析
第四章 魔導協会での生活
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第二十五話 死線邂逅


 ――風を起こさない攻撃はない。

 魔術であれ、武術であれ、現代技術の(すい)の込められた鉛の弾丸であれ。特殊技能に伴うあらゆる攻撃動作は最終的には実体を伴って世界に顕現し、それによって空気の乱れ――風を引き起こす。

 起きる変化が余りに僅かであるために意識されることは少ないが、誰もが無意識的に行う呼吸や瞬き、かすかな身じろぎすらも厳密には気流の乱れを引き起こしていると言え。そして常識から外れるほど鋭敏な感覚を持つ者にとってそれらの乱れは、何よりも明確な動きの兆しとなることがある。

【風の支配者】――。

「……」

 魔導における気流を(つかさど)る属性に対してリア・ファレルが有する破格の適性は、天稟(てんぴん)を磨き上げる彼女の不断の鍛錬と相まって、風の流れを引き起こす全ての動きを手に取るように感知することを可能にする。()(かぜ)に吹かれる葉の動き。

 山道(さんどう)を行く人間の荒い息遣い、商店と出店のそこかしこでさざめく一つ一つの声の音に、個別の重みを持って揺れる服装の種別と形。

 警戒範囲として設定した半径およそ一キロの圏内に対し、そこで起きるあらゆる出来事をリアは立体的な風の動きとして把握していた。感知をすり抜ける事象がないわけではない。

 技能者界には、呪術や干渉系統の異能など、過程自体に外的な現われを伴わずに影響を及ぼすものもある。ただそういった技法のほとんどは魔力やそれに類する力の熾りを伴うため、魔術師として卓越した技量を持つリアからすれば、ともすれば風を通じた把握以上に明瞭な感知が可能となるほどである。同格の技能者たちの中でも、頭一つ抜けていると言える鋭敏な感知能力。

 考え得るおよそあらゆる種別の襲撃に対して最速の対応を取れることが、四人の護衛にあたってリアが自ら名乗り出た理由でもあった。齢九十に至るまで健在にて魔術師の最高位に君臨するという、技能者としての栄光の歴史を支えてきた屋台骨であり――。

 ――それをすり抜けた先ほどのアレは、果たして何であったのか?

「……」

 眼下の町並みを一望できる上空。古い瓦ぶきの屋根たちから数十メートルほど離れた空中に仁王立ちした状態で、リアは数秒前の光景を回想する。喉元へ近付いた黒い凶器。

 一切の風圧を起こすことなく、魔力の熾りも伴うことなしに、どこからともなく自分の目の前に現われていた。……()られていたかどうかは分からない。

 本能に基づくような反射的な所作だったとはいえ、無詠唱による回避の術式はあのときすでに完成していた。凶器が自分から消失していなかった場合……。

 避けられていたかは五分と五分。それほどまでに際どい交錯だったことだけは確かであり。先に仕掛けられた一手は紛れもなく――。

「……」

 魔術師として無数の死線を潜り抜け続けてきたリアに、久方振りの()を予感させるものだったのだ。黒い影のようなヒトガタ。

 眼下に現われたその未知に対して、リアは寄せた額の(しわ)に警戒を(あらわ)にしながら注視を保つ。……薄く。

 どこまでも存在感のない影法師。微かにこちらに向けられる注意のようなものを感じることができていなければ、それが己の意志を持った人間なのだということは理解できなかったに違いない。……気配は皆無。

 いや、気配だけではなかった。殺気、闘気はおろか、呼吸や瞬き、瞳孔の動きの一つに至るまで。

 通常の生物であれば伴うはずの一切の生命活動を感知することができていない。砂漠に浮かぶ陽炎(かげろう)の如き自然現象か……。

「……『凶王』の一人……」

 誰かの夢から抜け出してきた、悪夢の影ではないかと思えるほど。――あからさまな異様。

 思い起こす限りの経験に該当のない異質さ。一切の仔細が分からないとはいえ、余りに特異となるその例外性から、かえってリアは相手の正体を推察することができていた。あの四人を護衛する自分の前にむざむざ姿を現す者など。

「――《冥王》かい?」

「……」

 可能性は僅かしかない。投げかけられた言葉に影は否定も肯定もしない。己の意志を持たぬ影法師のように、ただその場に佇んでいる。

 しかし――。

「……」

 半世紀を超える戦いの中で(つちか)われ、磨き抜かれてきた技能者としての直感が、リアに答えにも等しい確信を(もたら)していた。正体はまず間違いがない。

 自分に対して直前まで気付かれることなく間合いに入ることのできる技能者など、元よりそう多くいるとは言えず。となれば問題は、なぜ相手がわざわざ自分に姿を晒してきたのかということだ。

 ――『凶王』。

 三大組織が掲げる秩序から外れる技能者たちの派閥の長である彼らには、取りまとめる技能者の種別ごとに包有する特色がある。中でも《冥王》とは、暗殺者と殺し屋、諜報役を束ねる派閥の王。

 通常の技能者同士でも奇襲や闇討ちでイニシアチブを取った側が有利であるのは確かだが、暗殺者や殺し屋という職種の場合、その条件は更に顕著に必要とさえ言えるほどのものとなる。彼らは正面切っての戦闘(・・)など望まない。

 確実な仕事のためには何より、標的の不意を突くことこそが肝要であり。それは例え、一撃目を失することになろうとも変わらない。襲撃者の有無に気付かれたとしても、居場所の不明を保ったまま、警戒に気を遣う標的の気力と体力を削ぎ落とすこと。

 立ち位置の優位で消耗のペースに差をつけ、隙の生まれる可能性を上げていくことこそが、彼らが目的を達成するための着実な一歩となるはずであり。しかし……。

「……」

 目下に佇む人影はあろうことか、一撃目を放つ直前(・・)からリアの眼前に姿を現してきていた。……維持した状態では攻撃を放つことができない種別の隠形法(おんぎょうほう)

 存在を知られても構わないという自信、姿を晒すことが条件となる技能の発動など、幾つかの候補は考えられるが、そのどれもが正鵠(せいこく)を射ていないようにリアには感じられる。自分の今いるこの状況には。

「……試すほかないか」

 何かしらのより明快な意図がある。推測してリアは戦況を動かしに掛かる。自らの魔力を(おこ)し、

 骨身にまで染み付いた術式を稼働させようとする。威嚇となる影への攻撃と、この戦闘から離脱するための転移法とを、息をするようなさりげなさで為そうとし――。

「――ッッ‼」

 数瞬を違わず突き付けられた死の気配に、本能的に魔力を防衛に回さざるを得なくされた。……直感に訴える危険。

「……」

「……なるほどねい」

 こちらが反応できる攻撃の気配のみを放ち、動かずにいる影法師を睨み付けて、リアは相手の意図を正確に理解する。……やはり。

「――そいつは厄介だねい」

「……」

「当たって欲しくないとは思ってたが。まさか、凶王が足止め役(・・・・)とは」

 そういうことなのか。半分は挑発の意図を込めた台詞にしかし、佇む影は寸毫(すんごう)の反応も見せはしない。――そう。

「相変わらずの異常な交渉力というか。永仙(えいせん)はよっぽどのこと、あんたらに上手く取り入ったと見える」

「……」

 冥王を含めた相手方の目的は、魔導協会の主力たる自分の首を落とすことにあるのではない。この場で膠着状態を作り出すこと。

 外出の主役たる四人(・・)の護衛となる人間を釘付けにし、その機能を封じ込めておくことにあるのだ。冥王が姿を現してこなかった場合――。

 初めに奇襲を受けた時点で、リアは即座に四人の居場所へと転移していたはずだった。今回の外出で優先すべきは第一に、護衛対象の安全確保。

 冥王の攻撃が自分を殺す可能性を秘めていたとしても、それをまだ飲み込めていない初撃の段階でリアが判断を迷うことはない。先の見立てに従う限り、五分の確率で離脱か殺害かが成されていたはずであり。

 ……だが。

「……」

 攻撃より前に相手の姿を見せられたことで、リアのその選択肢は封じ込められた。――意図は何なのか。

 正体は、披露された技能の原理は? 技能者として染みついた思考のルーティーン、条件反射にも等しい警戒を作動させられた(・・・・・)ことによって、決め打っていた選択肢を取ることを阻害させられたのだ。一対一の対峙に持ち込まれ……。

「……っ」

 こうして今、この場を動けずにいる。……自分の置かれた現状では、先に仕掛ける素振りを見せた方が不利。

 敵方の技能の原理は不明ではあるものの、どちらも相手の仕掛けを見てから手を変えられるだけの柔軟性を持っていることは把握できている。下手な行動はそれだけで敗着に繋がりかねない。

 本来の目的の上では彼らの安全が第一といえども、五割の確率で四賢者の一角を失うことになる博打に出ることは、組織の屋台骨を背負うリアからすれば掛け金が重すぎる。そして何よりも――。

「……参ったねい、どうも」

 敵方の長である凶王が現れている以上、その同盟者である人間(・・・・・・・・・・)が出てきていないことなど、あり得るはずもないのだ。……焦りは自らの首を絞めるだけ。

 技能者として余りに基礎となる事実を理解しながらも、リアは自らの苦境に猶予がない事実を認めざるを得ないでいた。立たされたのはコルク栓のない砂時計の上層部。

 足元の陥穽より零れていく間断なき時の流砂が、凄まじい速さで自分たちの命運を削り落としていっている。張り詰めた思考の感覚に汗を滲ませつつ――。

「……永仙もあんたらも」

「……」

「子ども相手に随分と容赦のない。――もうちょい老人を労わって欲しいもんだよ、全く」

 賢者たる老婆は、渋皮を噛み締めたような笑みを浮かべた。










 ――蔭水(かげみず)黄泉示(よみじ)たちの護衛として同行し。

「……」

 周囲に近づく一切の脅威を迎え撃つ意識を保ちつつ、本山の特別補佐たる魔術師、(さくら)御門(みかど)(あおい)は己の職責をこなしている。保険としてリアから施された風の遮蔽(しゃへい)(まく)

 本山でも数少ない最上級魔導士の一人に数えられる身として、【気配隠匿】並びに【魔力隠匿】を用いて極限まで己の存在を秘匿するのは当然の心構えではあるが、今はそこに光の屈折による不可視の状態までもが加わっている。……此度の任務は重大なもの。

 充分過ぎるほどの戦力を割いているとはいえ、万が一の事態を考慮したなら、警戒はしてもし過ぎるに越したことはない。これまで既に二時間と四十分が経過し――。

 三時間を予定する外出の終わりは間近。半径一キロに渡る警戒網を敷いているリアや、同伴する支部長たちからも連絡はなく、異常はないままになっている。……このままいけば何事もなく終えられる。

 襲撃者の捕縛という目論見は叶えられないとはいえ、休息としての彼らの息抜きを達成することにはなるわけであって。――それでもいいのかもしれない。

 四賢者と自分、支部長らが出張っているとはいえ、凶王派が敢えて襲撃に臨むとなればそれなりの戦闘と混乱は必然になる。彼らの身に危険が及ばないこと。

 魔導協会の賢者筆頭として以前に、一人の人間として秋光(あきみつ)が何より望んでいることを、葵は傍仕えとしての日常から感じ取ることができていた。……近く訪れる衝突を考えるなら、凶王派方の情報が得られることは望ましい。

 ――だが、秋光の望んでいる平穏と、彼らの安否を無下にしてまで得たいとは思わない。落とし物を探しに行く少女。

 フィア・カタストの気配が数十メートル離れた道にあることを確かめる。……多少の逸脱は問題ない。

 この距離なら数秒とおかず駆け付けられる。近づく技能者の気配がないことを再確認して、葵が祈るように目を閉じた――。

「――おや」

 ――()

「――ッ‼」

 人気のない裏路地で立てられた、小さな異変に弾かれるように(まぶた)を跳ね上げる。ッまさか。

「こちらの方が外れでしたか」

「……‼」

「同行した四賢者の庇護。視覚的な認識を遮断する、風のヴェール」

 明確に自分に向けて発される声。張り巡らせたはずの感知に引っかからないまま、悠々と続く台詞に全霊で葵は意識を振り向ける。……何も感じなかった。

 何も気付けなかった。声を発する相手の姿は気配も何もかが掴めないが、言葉の内容からして確実に自分を捕捉していることだけは理解できる。隠すつもりはないらしい音の反響。

「悪くはない仕込みですが――。月並みに、相手が悪かった、とでも評しておきましょうか」

 出どころからおおよその位置を把握し終えていた葵の視線の先で、景色に張られた銀幕を破るようにして、一人の人物が姿を現した。――女性。

 古い東洋の貴族の如く壮麗華美な衣装に、人形と見紛うばかりに整った若々しい面立ちが目を引きつける。(あで)やかに。

 しかし、自らが支配者であることを疑わない威風をもって立つ姿からは、迷い込んだ一介の芸妓(げいぎ)などからでは発せないだけの圧が伝わってきている。……【存在威圧】。

 技能者として相手の力量を推し量れる感覚を持つ者にとって、一定以上の格を備えるに至った技能者は、ただそこに在るだけで周囲を威圧する気配を持ち合わせることがある。……っ何をせずとも分かる。

 姿形はヒトでありながら、巨竜を目にする如くに隔たった力の差。目の前のこの相手が、過去相対したどの難敵より脅威だと言うことが――‼

「――動かない(・・・・)ように」

「――ッ!」

「怨讐をもって敵対する身とは言え、今日は殺し合いの場に(おもむ)いたわけではありません」

 一瞬。

 怜悧(れいり)をもって差し込まれた視線に反応して、葵は本能的に熾しかけていた己の魔力を停止させる。……これ以上ないほどのタイミング。

「貴女が何も仕掛けて来ないのなら、こちらからも仕掛けるつもりはないと伝えておきましょう」

「……凶王の口にすることを、信じろと?」

「おやおや。随分と早計ですね」

 気配と姿を消したまま、魔力の漏出も抑えている最上級魔導士(自身)の挙動を、これ以上ないほど正確に看破してきている。……沈黙はもはや意味をなさない。

 糸口を探ることこそ肝要と判断した葵に対し、女性は含みの明らかな笑みを向けてくる。どこまでも気負いのない口調で。

「私が凶王であるなどと、一体どこから知り得た知識であるのか」

「……」

「臆見は視野を狭めますよ。まあ、その愚直な健気さに免じて、答えてあげるとしましょうか」

 多分に勿体をつけた言い回しののち、薄紅の引かれた唇をゆっくりと開いた。

「――私の字名(あざな)は、《賢王》」

「――!」

「聡明にして賢慮の王。先ほども言いましたが、余り非礼な動きはしないように」

 身に走る衝撃を、葵は瀬戸際で押し殺す。――《賢王》。

「弾みで誤って首を刎ねてしまえば、互いにとって余りにも詰まらない結末であるかと思いますので」

「……騒動の元凶である人間に、動くななどと言われるとは」

 召喚士や人形師といった、特殊技能者の中でも直接的な攻撃手段を持たない使い手らを束ねる王の号。凶王の中では単純な戦闘能力が最も低いとされているものの、

 受け継がれた研究により蓄えられた知識と知略から為される技能の独自性は、他派の追随を許さないと言われている。……それに加えて……。

「中々に得難い経験ですね。流石は王の名を冠する技能者と言うべきでしょうか」

「そうでしょう? あと、相手に先に名乗らせたのですから、次はそちらから名乗るのが礼節かと思いますが」

「……」

 目の前の人間が単なる凶王(・・・・・)と呼ぶべき技能者ではないことを、葵は補佐官としての知識から知っていた。血筋や立場といった不純物を排した、純粋な時勢の実力のみがモノを言う凶王派。

 だが、葵の記憶が確かならば、少なくともここ数十年間で賢王派が王を変えたという情報は伝わってきていない。力と謀略が渦巻く王派の中にあって――。

 この相手は数十年以上に渡る長きの間、一度たりともその座を他に譲ることのなかった技能者なのだ。――合わせるしかない。

「……魔導協会特別補佐官」

 賢王にとって今しがたの発言は宣告に過ぎない。こちらが妙な挙動を一片でも見せたなら、本気でその首を飛ばすことができるのだと。弄ぶような真似はせず……。

「櫻御門葵」

「そうでしたか。かの賢者筆頭である(しき)秋光(あきみつ)の懐刀と対峙できるとは、今日は久方ぶりに運が巡っているようですね」

 一瞬で。薄氷を踏む気持ちで名乗りを上げた葵に対し、微笑を浮かべた賢王は、どこまでも滑らかな空言を送ってくる。……ッ白々しい。

 この相手は間違いなく、尋ねる前から自分のことを知っていた。もし虚偽の素性を口にしていたならば、

「……今ここに来ているのは、貴女だけなのですか?」

「さあ? どうでしょう。仮に来ていたとしても――」

 自分の首は今頃、胴体から泣き別れとなっていたことだろう。愁眉(しゅうび)の下の宝玉にも似た瞳が、瞬きして意味深な眼差しを向けてくる。

「あの男の用は別にあるようですので。……今は、貴女たちに用はないとのことですよ」

「……」

 ――このままではマズい(・・・・・・・・・)

 真偽も分からぬ言ではあるが、膠着自体が相手の動きで作り出された事態である以上、それが相手方の狙いに沿っていることは明白だ。刻一刻とこちらの首は締まっていく。

 ペースに乗せられているだけでは自分が此処にいる意義がない。補佐官として、彼らの警護役として、何かしらの対抗策を講じなければ――!

「ですから少し――。話でもしていきませんか?」

「――ッ‼」

 ――気配(・・)

「ッ――」

「私も用を果たすまで、ただ立っているだけでは退屈ですし。――そちらも」

 ほんの一瞬だけ己の中身を顕わにしたような賢王の仕草に、本能的に構えを取らされている自らを葵は自覚する。……殺気はなかった。

「凶王と虐殺でなく手を交えることができるなど、滅多に得られる経験ではないでしょうから。ね?」

「……」

 だとしても、全霊をもって当たらなければ飲み込まれるような、異質な深淵を覗き込まされた感覚があったことだけは間違いなく。涼しい顔つきで送られる促しに。

「……ええ」

 反抗の余地がないことを理解して、葵は手にしている鉄扇を今一度構え直す。……重い。

 櫻御門家の跡継ぎとして、幼少の頃から葵は鉄扇を使う武術に慣れ親しんできた。幾度となく振るってきた愛用の道具。

 鍛錬を重ね、自らの身体の一部にも等しくなったはずの得物が今は、初めて握る岩の塊にでも変わってしまったかのように感じられる。全身に纏わりついている息苦しさ。

 技能者として培ってきたあらゆる感覚が告げている。――勝機はない。

 例え死力を尽くして挑んだとしても、僅かの時間が稼げるかどうかさえ定かではないのだと。額に浮かぶ冷たい雫の温度を覚えながら、葵が震える(まぶた)を抑えて目を(すが)めた。

「……はあ」

 そのとき。品評家のように葵の様子を眺めていた賢王が、一つ小さな溜め息を吐いて見せる。これみよがしな仕草で袖を揺らし。

「詰まりませんね」

「ッ……⁉」

「命の(つい)える瀬戸際とは言え、そんな堅苦しい表情で来られては、せっかくの余興にも期待が持てなくなってしまいます。――流石はあの秋光の側仕え」

 傷もない少女の如き軟首(やわくび)を左右に振ったのち、興を削がれたと言わんばかりの目つきで二度足を踏み鳴らしてくる。――ッ惑わされるな。

「主人も主人なら、刀も刀。物も(ろく)に切れぬ(なまく)らということですか」

「……っどういう意味ですか」

「言葉通りの意味ですとも。何も深い意味合いなどありません」

 冷静さを保たねば絡め取られる。そう自制しながらも問いかけを止められなかった葵に、あくまで思い付きなのだというような微笑みを賢王は唇に示してみせる。

「かの事件について聞き及ぶ者であれば。誰もが皆、心のうちで思っていることでしょう?」

「――」

「式秋光という人間は、旧来の友人に裏切られた挙句、友好と共存などという御旗を掲げ続ける愚か者」

 明白な嘲弄(ちょうろう)の込められた言葉の向いた先。

「筆頭と称して後始末を押し付けられた、どこまでも哀れな道化であると――」

 胸のうちに浮かんだのは、就任以来見続けてきたその人物の背中。賢王の向ける瞳の中の悪意が、葵の心象を貫いた。

 ――瞬間。

「――ッッ‼‼」

 目に留まらぬ速さで(ひるがえ)される衣装の裾。華奢な身体の軸を瞬時にずらした、

「……これはこれは」

 その姿の残滓。虚像たる賢王の眉間を貫いていったのは、鉄をも穿つ速度で放たれた一筋の水流。感心したような……。

「――口を閉じなさい。賢王」

 期待が叶えられたと言うような、愉しげな感情の混じる声音が玉のような唇から零される。……攻撃を躱したはずの賢王の頬。

 陶器の如き肌に一筋の切れ目が開いたかと思うと、鮮やかな紅をした液体が汚れない白地を峻烈に染めていく。告げる声の音は変わらず。

「如何な力を持とうとも、決して口先で汚してはならないものがある」

「――」

「貴女は今、私のその一線を越えました」

「……なるほど」

 だが、今葵の言葉に宿されているのは、状況を見極めようとする明晰さでも、隙を穿とうとする冷静さでもなかった。――怒気(・・)

「大層な肩書を持ちながら、力の差に威圧されて縮こまるだけの器ではなかったようですね。――結構結構」

 心底を突き刺すように見通す【心眼】を宿した瞳からは、波濤を起こす激流のような怒りの情念が放たれている。顎の稜線を伝う鮮血を指先で掬い取り、滲み出た色合いを確かめるようにして。

「鉛の刀でも、一度は物を断てると聞きます」

「……」

「その刀としての価値が本物であるかどうか……」

 賢王は目の前の獲物を双眼に映す。世界を巡る演者を鑑賞する奏者の如き眼差しで、墨色になびく相手の髪に対して、優美な口元を袖口に隠した。

「退屈凌ぎの一環として。試してみるとしましょうか」



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