第二十三話 想いの欠片
「――結局襲ってはこなかったわね」
外出の終わり際。
「凶王派の奴ら。情報は間違いなく握ってるはずなんだけど」
「そうだな」
「ま、大事にならないのはいいことなんだけどね。支部長が三人もいるんだもの」
ゲートへ続く道の途中で言葉を交わしている先輩たちの会話に、歩きながら私は耳を傾けている。足音に合わせて揺れる心の奥底で……。
「襲撃には合同で関与してるとは言え、向こうも完全に一枚岩ってわけじゃないでしょうし。リスクはなるべく避けたいって考えなのかもね」
「いっそのこと、狙うのを諦めたとかあってくんねえかなぁ」
どことなく、ホッとしたような気持ちを抱えながら。――っ。
「今回のこの警護で、協会が四人の保護に本気だってのは伝わっただろうしよ。こっちとしちゃあその方が、面倒がなくて楽なんだが」
「あんたはもうちょい真面目に考えなさいよね……」
「――情報の少ない状況下で、迂闊な判断を下すのは危険だ」
ぼやくような調子で出された田中さんの一言に、千景先輩が語調を強くする。
「ことはカタストたちの安否に直結する。保護を解くときが来るとすれば、せめて相手の狙いが分かった上でないといけない」
「へいへい。分かってますよっと」
「……」
……もし。
もし本当にそうなら、どれだけいいことだろうか。憂鬱な気分を抑えて空を見つめる。身の危険に怯えることもなく、
のびのびと暮らせるようになるなら、どれだけ。全てが叶えられていた何か月か前の生活。
あの家で暮らしていた黄泉示さんとの毎日や、リゲルさんとジェインさんを交えた学園での日常は、今では遠い昔のことのように思えてしまっている。またあんな風に過ごせる日が来るまで……。
どれだけの時間が掛かるのだろうか? レイガスさんから見せられた幻。
本物のようだった幻像を思い返すと、まだ身体の芯から冷たい震えが蘇ってくるようでいて。あれが現実に起こりうること。
危険に向き合う覚悟を決めたからと言って、誰かの死に対する恐れが無くなったわけではない。頭に過る想像を追い払うつもりで息を吸い――。
「――カタスト?」
「あっ」
幾分離れたところから掛けられたその声で、先輩たちから少し遅れてしまっていたことに気付く。――いけない。
「そろそろ行くぞ」
「っはい」
少しの気の緩みもないよう、最後の最後まで集中していなくては。遅くなっていた足取りを、先輩たちに追いつけるように速くする。……そうだ。
とにかく、今日の外出では何事もなくここまで帰って来られたのだ。今はその無事を喜ぶべき。
あと五分も歩けば、来たときのゲートまで辿り着く。万全な守りのある本山まで戻れたなら、胸の奥に留まる不安も消えてくれるだろう。踏み出そうとした直前に――、
「……?」
ふと、ポケットの軽さに違和感を覚える。……なにか。
何かが変だ。あるべき大事な何かが、空っぽになっているような――。
「――あっ」
「どうしたの?」
――気づき。
「ッさっき買ったブローチ……っ」
「――」
「落としちゃったみたいで。っその……」
「どんなもの?」
指先でそのことを確かめた瞬間、自分の全身から血の気の引いていくのが分かる。……ッ黄泉示さんが選んでくれた羽のブローチ。
少し前まで覚えていたはずの紙袋の感触はどこにもなく、ただ柔らかい起毛性の布地に包まれた、空白の空洞があるだけだ。尋ねてくる立慧さんに、
「小さい物だと時間がかかるわよ。その場合は――」
「――っ大丈夫です」
半分勢いで口にする。――あれを。
「袋に入ってるものなので、すぐに見つかると思います」
「だとしても――」
「――葵が見張るそうだ」
なくすわけにはいかない。焦る私の方に、先輩が目を向ける。
「リア様にもその旨は伝えたらしい。戦力の分散を避けるために、私たちはここに留まってるようにと」
「葵が?」
「特別補佐が着くってんなら大丈夫だろ。あの婆さんの感知もあることだしよ」
「……そうね」
二人からの言葉を受けて、立慧さんが頷きを見せる。念を押すように私を見て。
「見つからなかったら、諦めて帰ってくること。――早目に戻ってきなさい」
「――はいっ!」
出された許可に、大きく頷いて駆け出した。大丈夫――っ。
「――っ」
必ず見つけられる。万が一にも見落としが無いように、地面をしっかり見渡しながら走っていく。……どうして落ちたのだろう?
急に動いても落としてしまうことのないように、念を入れてポケットの奥にしまっていたはずなのに。角を曲がって――っ。
「……!」
視線を巡らせた途端に、乾いた土の上に落ちている、砂地色の紙袋が飛び込んでくる。――っあった。
「――っ」
駆け寄って拾い上げて、中身を真っ先に確認する。……っ大丈夫。
土の上に落ちた外袋は少し汚れてしまっているけれど、中で薄手の紙に包まれたブローチは傷ついても無くなってもいない。拾われる前に見つけられた幸運に感謝して……。
ブローチを袋に戻して、ゆっくりと息を吐く。……これはかけがえのない大切なもの。
必要という理由以外で、初めて黄泉示さんから私に贈ってもらったものなのだ。胸に寄せていたブローチの感触を、今一度しっかりと確かめて。
……強引だっただろうか?
空白になっていた心の内側に、そんな思いが湧き上がってくる。選ばせるようなことをしてしまった。
贈り物と言っても、半分は自分から頼み込んだようなものだ。賑やかで開放的な外出。
だけど、心のどこかには、ずっと拭いきることのできないでいる不安があった。レイガスさんに見せられた、血の凍るような恐ろしい光景の記憶。
何かの切っ掛けさえあれば、あの幻が本物になってしまうかもしれないという不安が、氷のように私の内側にずっと張り付いていて。底冷えのする感覚を抱えていたからこそ……。
「……ふぅ」
誰かからの、縁になるような贈り物が欲しかったのかもしれない。私の方だけでなく。
例え私がここからいなくなったとしても、誰かの心のうちに私を残しておけるような何かが。……弱いままの自分。
黄泉示さんの気持ちが詰まったプレゼントを、小さく握りしめる。今度こそ落とさないように、ポケットの奥深くにしまい――。
「……?」
戻ろうとして振り向いた私の眼に、目を引く光景が映り込んできた。――物寂しい山間の町外れ。
道の脇に放置されている大石を椅子代わりに腰かけている、一人のお爺さんがいる。白く染まった髪。
乾いた肌や頬に刻まれた皴の数などからして、それなりの年齢ではある人のようだけど、しっかりと伸びた背筋からは年月に折れることのない壮健さを感じさせられる。手に持っているペンダント。
くすんだ地金の色をした、ふたつに割れるロケットの中身を、お爺さんはじっと見つめているようだ。……なんだろう?
高い建造物のないこの辺りの背景には、伸びやかで青々とした大空が広がっている。他の一切を忘れて溶け込んでしまいそうな、雄大な景色。
久しく味わうことのなかった、開放的な空気の中にいるはずなのに。お爺さんの手にしているペンダントの輝きが、やけに際立って見える気が――。
「――気になるのかな?」
「――っ⁉」
「さっきから、このペンダントが」
唐突に。
「あっ、その……」
歳月の深みを纏う声が響いてきたことで、自分のしていることに気づかされる。……しまった。
「っ済みません。つい――」
「よかったら、見てみるかな?」
幾ら気を引かれたとはいえ、他人の私物を気にされるほどじろじろと見てしまっていたなんて。えっ。
「今はもう作られていない、珍しい形の装飾品でね」
「あ――」
「普段はあまり人に見せることもない。通りすがりの相手とはいえ、気づいてもらえるのは嬉しい限りだ」
「え、えっと」
……どうしよう。
何か、ものの違いに気付いたと勘違いされているようだけど。自分から見つめてしまっていた手前、凄く断り辛い。
「……じゃあ」
葵さんやリアさんが見てくれているのなら、今のところこの辺りに危険はないはずだ。時間のこともあるし、早く見て、お礼を言って立ち去ることにしよう。心を決めてお爺さんとの距離を縮め――。
「わぁ……」
翳された手のうちを覗き込んだ瞳に映ったものに、一瞬、それまでの思考を忘れていた。――ペンダントの方ではない。
丸身を帯びた楕円形に、丁寧に磨かれた滑らかな金属の質感。施された古風な彫刻はとても繊細で綺麗なものではあるけど、私の目を引いたのはそれ以上に、中に入っていた写真の方だった。古ぼけて角が少し褪せた印画紙の表に……。
素朴な木板の壁を背景にした、二人の人物が映り込んでいる。自信に満ちた光を目に溢れさせている、知的な凛々しさを持つ青年と、
「……綺麗な方ですね……」
その隣で穏やかな微笑を浮かべている、一人の女性。流れるように緩やかな服装に、膝の上に重ねて置かれた、白く細い手の指。
「服も素敵で。隣にいるのは、若い頃のお爺さんですか?」
「ああ」
明確に洗練された雰囲気を持つ青年とは対照的に、女性の佇まいは綺麗でありながらどこか素朴で、幻想的とさえ言える、神秘的な儚さというものを纏っているようにも見える。微笑むお爺さん。
「今はもういない、古い知り合いの形見でね」
「えっ」
「最後に二人で撮った一枚なんだ。君のようなお嬢さんに褒めてもらえれば、彼女もきっと喜んでくれていることだろう」
――っ形見。
想像以上に重い事情に固まっている私の前で、遠い眼をしたお爺さんがゆっくりとペンダントの蓋を閉じる。かつての思い出を慈しむような……。
「……大事にされてるんですね」
どこまでも優しい仕草で。首元に収まったロケットペンダント。
「本当に」
「はは。どうしても忘れることのできないものでね」
陽の光を浴びて放たれる柔らかな照り返しを受けて、お爺さんが少し気恥ずかしそうに笑みを零す。静かに揺れる振り子の動きを目にしつつ――、
「今でも時間があると時折眺めてしまう。この齢にもなって、少々女々しいかな」
「――いえ」
正直な気持ちに、首を振った。――見ていれば気付かされる。
何十年という時間を経ても曇りのないペンダントの輝きは、日頃から心のこもった手入れをされ続けてきたからこそのもの。入れ物それ自体の状態も素晴らしいけれど。
「例えいなくなってしまっても、どんなに昔のことになってしまっても……」
「……」
「自分との思い出を大切にされていたら、きっと、嬉しいはずです」
中身に写っている女性の表情が、何より雄弁に想いを語ってくれている。整った顔立ちでありながら、写真に写るのには慣れていないような、どこかぎこちのない微笑み。
でも、こちらを向いているその瞳と姿勢には、隣にいる人と写ることへの紛れもない嬉しさがはっきりと見えている。――幸せだと。
「長い時間が経っても大切な人との思い出を忘れないでいるのは、とても、素敵なことだと思います」
「……ありがとう」
この人と一緒にいられることに、かけがえのない安らぎを覚えているのだと。微笑みを返してくれたお爺さん。
「柄にもなく遠出をしてみたが、いい巡りあわせに会えたようだ」
「そんな」
「たまには若い相手と話してみるのも、実りの多いものだな。――ところで」
大袈裟な言葉につい苦笑いしてしまう。お爺さんが急に、思い出したと言うように眉を寄せた。
「『飯店行路』というのは、この先であっているのかな」
「えっ」
「初めて来た土地とあって、どうにも勝手が分からなくてね。実を言うと、さっきからこの辺りで迷ってしまっていたところなんだ」
「あ、ええと……」
――どうしよう。
早く先輩たちのところに戻らなくてはいけないけれど。……目の前で困っている人を、放っておくわけにもいかない。
先ほどまでとは打って変わった、頼りなさげな目つき。独りで街をさ迷っていたあのときを思い返すと、お爺さんが不安の中にあるのだろうことはよく分かる。……私にはその場所の知識がない。
「……その……」
「――」
「向こうの方に、人を待たせていて」
でも、事前にこの辺りを調べてきているらしい、先輩たちなら教えられるかもしれない。考えた末に答えを口にする。
「そっちの方まで一緒に来てくれないでしょうか? 多分、その人たちなら分かるかもしれないので……」
「――そうか」
言葉を聞いたお爺さんが、ぱっと晴れやかな表情に切り替わる。
「ありがたい。優しいお嬢さんで光栄だ」
「っ、いえ――」
「脚の方は健康だから、気を遣わなくてくれていい。――行くとしよう」




