第二十一話 水油の交わり
「……」
見慣れたはずの修練室の中。
幼少期より馴染んでいるはずのアームチェアに腰かけながら、郭はこの部屋に踏み入って以来、最大級となる居心地の悪さを味わっていた。――気まずい。
二人分の生活空間が確保された、広々ともしていないスペースの中にいるのは自分と、魔導協会の本山には似つかわしくない、科学製品の臭いのするスーツに身を包んだ粗野な男。――リゲル・G・ガウス。
今からつい十二時間前ほど、彼らの外出の可否を問う試験にて、一戦を交えたばかりの単細胞ゴリラだ。既に試験は終わり、
自分の失態が招いた形とはいえ、合格という判定を下したことで決着がついた形になっている。……それがなぜここにいるのか。
そもそも四賢者の一人であり、協会の情報の秘匿に努める立場であるはずのリア・ファレルが、なぜ部外者にこの場所を教える気になったのか。相応の権限がなければ見つけることすらできない私室の前にいたことからして、嘘というわけではないのだろうが……。
考えても郭にはまるで見当が付かないでいた。……この男と交わす言葉などない。
昨日のやり取りを考えれば、この男自身もそう思っていそうだが。――いや。
「……苦情でも言いに来たんですか?」
一つだけ、心当たりがないこともないではある。敬意を払うべき師がいなくなったことを鑑みて。
「昨日の試験の内容や、僕が貴方の仲間に怪我を負わせかけたことについて」
「――ッ」
「言っておきますが」
憚りなく郭は目の前のゴリラに率直な言葉をぶつけていく。――自分の側に思い当たりがあるとすれば、そのことだけ。
結果的には合格を出したとはいえ、昨日の模擬戦闘で郭は、始めから落とすつもりで彼らと相対していた。賢者見習いとして繕わない本音を吐いていただけでなく、
相手のミスや動揺を誘うため、戦術としての挑発や煽りも存分に加えていた。……最後の暴発は意図的でないものだったが……。
「今更それらについての文句は受け付けませんよ」
「……」
「すでに合格を出したことで蹴りの付いたことですし。最後の魔術については、三千風が出なくとも――」
「……いや」
実際に危険の渦中に置かれていた身としては、未だに憤懣が治まらなくとも無理はないかもしれない。意外な反応。
「そうじゃねえ。確かにあのやり口にはムカついたし、今もムカつかされてるけどよ」
「……だったら、何をしに来たんです?」
「あー、なんつうかー……」
食って掛かって来るかとも予想していた、目の前のゴリラは大人しく首を振ってくる。――?
「――悪かった」
「――っ⁉」
「途中まではマジで、お前のことは野郎だと思ってて」
「……は?」
唐突に。オールバックの頭を下げてきたゴリラに、驚愕の感情を郭は迎える。――何だ?
「体型についてとかで、言わなくていいことを言っちまった」
「……つまり」
目の前のこの男は、何を言っているのか。数秒の混乱が生じるものの。
「僕の性別を勘違いしていたことについて、行き過ぎな発言があったと思ったので、今更謝りに来たというわけですか?」
「……おう」
確認した内容に対し、相手は幾分気まずそうに視線を送ってきている。……からかっている様子はない。
よく知りもしない魔術師の手を借りて、賢者の私室の位置を暴いておきながら、本気でそんなことを口にしているらしい。嘘や冗談でないことを理解したのち――。
「――呆れますね」
本心から郭は息を吐く。深々と零れ出た溜め息。
「そんなことで一々時間を取って謝りに来るとは。阿呆というか、間抜けというか」
「いやでも、思い返してみると、結構気にしてたような気がしてよ」
「殺されたいんですか?」
一瞬滲ませた怒気に、言葉に詰まったような顔をしたゴリラが大人しく口を噤む。……気にしてなどいない。
確かに年齢に比してなだらかな体型が少々、若干、ほんの髪の毛一本程度だけコンプレックスと言えないこともないのは事実だが、それを目の前の単細胞に指摘されるのは単純に不愉快だ。波だつ心情を抑えつつ、
「そのことなら別に僕は気にしてはいません。話はそれで終わりです」
「……ならそうだな」
「……」
「……」
「……早く出て行ったらどうですか?」
訪れる沈黙。意に反した現象に耐え兼ねて、口を開く。
「貴方が此処にいることで、僕の修行時間が今も――」
「……いや、待てよ」
――なんだ?
「よくよく考えてみたら、なんかおかしくねえか?」
「……何がですか」
「俺が謝るのは当たり前だけどよ、お前もまだ謝ってねえじゃねえか」
首を傾げだしたゴリラに、郭はうんざりした感情を胸に覚える。――は?
「あいつらに向けた暴言。始まる前に、価値がないとか、羊だとか言ってやがった件」
「……」
「模擬戦の件で有耶無耶になっちまってたけど、まだ蹴りが付いてねえ。取り下げてもらうぜ、きっちりとな」
声にならない。この期に及んでゴリラの口から放たれたのは、またしても予想外の一言であって。
「……先にも言ったと思うんですが」
溜息を吐きながら郭は閉口する。一体何の因果があって。
「その件についてはもう、合格を出したことで事が済んだと思っています」
「合格ってのはあくまで、試験官としての話だろ? 試験前の発言についちゃ何も言ってねえ」
「……能力的な評価として見れば、僕の言ったことは単なる事実であって」
「何が事実だっての。黄泉示に一撃食らいそうになってキレてた奴が」
「――っ」
「大体、なんでんな考え方なんだよ」
こんな原始人の相手を自分がしなければならないのか。痛い点を突かれて郭が黙ったのを機に、ゴリラが長い足を組む。……この男は。
「将来的にゃ組織を引っ張ってく立場になるんだろ? 端から相手を見下してちゃ、周りも着いてこれなくなっちまうんじゃねえか?」
「貴方にそんなことを心配してもらう謂れはないですが……」
師もおらず。リア・ファレルもいない以上、自分がその気になればすぐにでも此処を追い出せると分かっているのだろうか。一瞬だけ判断の時間を置いてから。
「――邪魔になるからですよ」
偽らざる本心を郭は口にする。――構わない。
「能天気な学生の身でいた貴方には分からないかもしれませんが。一つの組織を率いていくというのは、想像以上に重要な責務を負うことです」
「……」
「所属する人間の数が多く、組織の影響力が大きいほど統率は困難になり、それを行う人間の重要性も高くなる。力のある立場に生まれた人間には、果たすべき責任があります」
この程度の相手に本心を知られても問題にはならない。下手な理屈で問答を長引かせるよりは、決定的な論駁をぶつけてしまった方がいい。賢者見習いとして。
「自分の力を活かし、世界のために為すべきことを為すという責任が。――しかし」
「――」
「そんな折に力のない人間に騒がれてしまえば、どうなります?」
幼少期に魔導協会の本山に引き取られてより、郭はレイガスから多くのことを学んできていた。過去に協会で起こった事例。
「自分で何かを成せるわけでもなく、ただ自分本位な願望を叶えるためだけに声を挙げる」
「……」
「私利私欲を押し付けるだけの獣の言い分を聞いていては、組織はとても纏まることなどできはしない。適切に振るわれるべき影響力は散逸し、世界に混乱を振りまくでしょう」
汚職や堕落、暴走した私欲の数々。魔術師として長く在籍してきた、レイガスの経験してきた問題群を知り――。
「組織を率いるために必要なのは、その立場を負うに足るだけの明確な力量と判断力」
「……」
「しかし声だけの大きい有象無象にかかずらっていては、その力も十全に発揮することはできなくなってしまう。――何も、彼らを排除すると言っているわけではありません」
その全てを踏まえて、郭という魔術師はここに立っている。師が自分に望んだ道。
「力ある者に責任が伴うのと同様に、各々の人間は自らの分を知って動くべきではないかということです。責務を果たそうとしている人間の邪魔にならぬよう」
「……」
「力のない人間は力ある者の言い分に従い、己の分の範囲で動いてもらわなければ、いつまで経っても何かをマシにすることなどできない。――違いますか?」
その道の持つ意義を、自分自身で確かめ続けながら。腕組みをしたゴリラ。
話の内容を理解しているかは定かではないが、茶化すでもなく神妙な顔つきをしてはいる。考えるようにしたのちに。
「――俺の親父はよ」
自縛を解いて話し出す。……少し意外だ。
「何もないところから一代でファミリーを築いた人間で、部下も大勢抱えてる」
「――」
「外面も常に隙なく決めて、紳士的な態度で話も上手いが、基本的に他人は信用してねえ。根っこのところじゃ自分みてえな、力のある人間が管理しなきゃならないと思ってる」
自分やレイガスの根幹となる考えを話した以上、てっきり軽々しい意気も挫けるだろうと思っていたのだが。――レイル・G・ガウス。
目の前の男の実父となる人物の経歴については、郭も事前にレイガスより言い含められていた。賢者筆頭である秋光の盟友の一人。
「今正に、お前の言ってた通りみてえにな」
「……なら……」
技能者界においては余りに有名過ぎる名前ではあるが、目の前の男たちは、それについて知らされてはいないようだとも。素知らぬふりをして調子を合わせにいく。
「それでいいのでは?」
「……」
「貴方も同じようなやり方をして、あとを継げばいい」
これまでの面倒さの混じった態度とは違う、幾分真剣な視線を郭は送る。ゴリラの家庭事情について多くを知ることはないとはいえ、
半分ほどは偽らざる本心でもあった。自分のために整理された道。
「道を拓いてきた先達がいるのだから。一人で闇雲に砂漠の中を進むより、ずっと確実な生き方だと思いますが」
「……それじゃあ多分、駄目なんだよ」
尊敬できる誰かが己の生涯を懸けてまで切り開いてくれたなら、その道を進まない理由がどこにあるというのか。呟くゴリラ。
「――凄えって思わなかったか?」
「は?」
「昨日の試験で。黄泉示や、フィアに対してよ」
続けざまに出された脈絡のない問いに、郭は思わず眉を顰める。……この男は。
「――別に思いませんね」
「そうかぁ?」
「彼らなりに何かしらを磨いてきたのだということは認めますが、所詮羊は羊」
一体さっきから、何を言おうとしている? 理解のできないまま口にした主張。
「例えどれだけの時間と労力をかけたとしても、僕や貴方たちの持っている才能に及ぶべくもない」
「……」
「無才者はいつまで経ってもそこから抜け出ることなどできないでしょう。始めから、スタート地点が違っているんですから」
変わることのない郭の答えにリゲルが沈黙する。……どうだ?
流石に諦めただろうか。油断なく様子を窺う郭の前で、腕組みをして口を結んでいたゴリラが――。
「――まあなぁーっ」
「――っ」
「全部を全部認めようとは思わねえけど、確かにお前の言うことにも、一理あるかもしれねえよな」
「は?」
「こないだ俺のうちで、共同生活とかしてて気付いたんだけどよ――」
大きく椅子に背を預けたかと思うと、気安過ぎると言えるほどフレンドリーな仕草で、話を先に進めてくる。――なんだ?
「黄泉示って、とんでもなく不器用なんだよな」
「……」
「料理じゃ毎回奇想天外な失敗をして、卵も必ず黄身を潰しちまうし。普段から無口で、大事なことまで中々口に出さねえしよ」
この素早い変わり身と、まるで十年来の知り合いであるような不快な馴れ馴れしさは。急にこちらに賛同するような素振りをし出して。
「フィアは真面目で一生懸命だけど、何かと自分で抱え込むみたいなところがあってな?」
「……はぁ」
「トレーニングで頑張り過ぎて体調を崩しちまったり、色々気にし過ぎて空回りしちまったりして。ああ見えて芯があるから、無茶をしてても中々止め辛えんだよなぁ」
「……難儀な性格ですね」
「そうそう。――だけどよ」
この男は一体、何がしたい? ――目つきが変わる。
「俺と初めて会ったとき、あいつらは、見ず知らずの子どものために命を張った」
「――っ」
「まだ魔術の修業もなんもしてねえ素人がだぜ? 他の誰もが関わらないように通り過ぎてく中で、得物を持ったゴロツキの群れの中に突っ込んできた」
強く握り締められる拳。郭の知らない来歴。
「そのあとの俺との付き合いでも、あいつらは一度も素性を理由に俺を避けることをしなかった」
「……」
「他人の背景に囚われずに相手を見て、自分の身も差し置いて本気でぶつかれるってのは、誰にでもできることじゃねえ。――欠点のない人間なんていねえだろ」
彼らにとっては足場になっているのだろう事実を手に、ゴリラが再び郭を見てくる。――否定ではない。
「俺は喧嘩と体力に魔術の能があるらしいが、勉強はからっきしだし」
「……それはまあ」
「お前だって魔術ができても、他が全部できるってわけじゃねえんだろ? 力がないってのも、そういうことの一つ」
「……!」
「誰にでもある抜かりの一個として捉えられんなら……」
これまで自分の言ったことを認めた上で、別の視点を提案してきている。ゴリラらしからぬ智慧のある振る舞いに、意表を突かれた気持ちでいる郭の目の前で。
「そこに、唯一絶対の基準を置かないことだってできるんじゃねえか?」
「……」
言いたいことを言い終えたらしいリゲルが、言葉を切った。……黙考。
「……」
「……馬鹿馬鹿しい」
どこかしら期待を込めているようなブルーの眼差しに対し、郭の唇から言葉が零れ落ちる。……そうだ。
「魔術というのは力です。世界の行く末と、僕らの歩むべき道筋を決める」
「……」
「例え心が適切な方角を向いているとしても、力がなければそれを貫くことなどできない。結局は誰かに助けられ、力のある人間の重荷を増やすことに繋がるだけだ」
「だから、それが違えって言ってんだよ」
その程度の提案で、これまで固めてきた思考の転換を認めることなどできない。首を振った郭に向けて、身を乗り出したリゲルがグローブに包まれた指を固く組んだ。
「――あいつらは、強いぜ」
「――」
「自分に力が足りなかろうが、どれだけの苦境だろうが食らいついてくる。お前に一撃を入れたときみたいに、才能の有無なんて関係なしにな」
――明快な宣言。
仲間へ底抜けの信頼を置いた真っすぐな視線が、自分を貫いてくる。いくら見つめ返しても逸らされない……。
「……貴方と話していると、意想外だ」
崩れることのない光を湛えている瞳に、そこだけ自分の知る誰かとの一致を見た気がして、郭は小さく息を零した。弛んだ口の端に滲み出てくる――。
「知り合って半年も立たない相手のことを、根拠もなく信じている」
「……」
「愚かなほど一本気。子どものような夢物語に、頭が痛くなってくる。――撤回してあげますよ」
小さな苦笑い。肩の力が抜けると同時に、吹っ切れたような呆れが昇ってくる。――そうだ。
「――おっ」
「少なくとも、この間の分については。今後の保証はできませんが」
「別にいいけどよ。また言おうってんなら、そんときゃまた――」
「――そこまで言うのなら」
この程度の譲歩を認めたところで、自分には何の痛手も不都合もあるわけがない。ここでゴリラと延々と問答を続けるくらいなら、
「言葉の上だけでなく、示せるといいですね」
「……!」
「自分の置かれた状況に対して、これからの振る舞いで。他の誰でもなく、貴方たち自身が何かをできるのだと」
こちらから譲ってやった方が賢明というものだ。告げた意趣返し。驚きに目を瞬きさせているゴリラに、幼いと知りつつも優越感を感じつつ。
「――分かったら、さっさと出て行ってください」
「おっ、おいっ?」
「未来の賢者を目指している僕に、あなたの相手をしている暇はないですから。――さあ」
有無を言わせず背中を押して追い出す。閉まる扉が外界との繋がりを閉ざしたのち――。
――なぜだろう。
決して息の合わない相手と話していたはずなのに。胸のうちに湧く静かな高揚のような気持ちを、郭は確かに覚えていた。




