第十九話 平凡な朝
――翌朝。
「……」
最低限の身支度を整えて隣の部屋の前に立った俺は、ドアの前でノックを躊躇っている。……フィアのことが気になっていたせいか。
リゲルが帰ったあとも、昨日は余りよく眠れなかった。調整し忘れていたアラームのけたたましさに目覚めさせられ、重さの残る身体を起こしてきたのが二十分ほど前のこと。
洗面台で寝癖を直し、着替えてなお完全には去っていない眠気に、油断すると今でも欠伸が這い出てきてしまいそうになる。……一晩休めば回復する。
先輩の診断によれば、そういう話だった。重篤な症状ではなく、後遺症もない。
元より先輩の分析を疑うつもりはないが……。
「……はい」
「――っ」
もし、これで起きてきていなければ。――小さな声。
「――!」
「……あ」
ノックの音に続いて軽い足音が聞こえたのち、開いた扉から一人の少女が姿を見せてくる。流れる白銀の髪。
「黄泉示さん」
「っ、……おはよう」
どことなくあどけなさの残る整った顔立ちに、まつ毛の下にある、澄み切った翡翠色の眼と視線が合う。――フィア。
姿が見られたことにまずはホッとする。焦点のはっきりしている目を見るに……。
「……調子はどうだ?」
「――」
「昨日のことは。体調の方は――」
「はい……」
声を掛ける前から起きてはいたようで、服は昨日の物から新しい一着に変えられている。どことなくぎこちのなさの漂ううちで、自分でもそのことを確かめるようにフィアは頷いて。
「――大丈夫みたいです」
「――」
「昨日は、試験のあとに倒れてしまったことまでは覚えていて、そのあとの記憶がないんですけど……」
「……そうだな」
確かな芯の感じられる台詞に、肺腑の底まで響くような深い安堵を感じる。――良かった。
「ぐっすり眠れたお陰か、今は調子は悪くなくて。少し怠さがあるくらいです」
「――昨日は夕飯も食べてなかったからな」
万が一があるようなことになれば、どうしようかと思っていたが。先輩の言っていた通り、後遺症などはなさそうだ。
「食べれば調子も戻るんじゃないか? リゲルたちと――」
「うぃ~っす……」
喜びのまま後ろに振り返ったところで、対面の扉から、けだるげな声を上げるリゲルが出てきた。その姿を目にして。
「――っ⁉」
「ど、どうしたんですか?」
「ふわ~ぁ。いやぁ、ちょいと寝不足でよ」
俺とフィアが目を丸くする。普段からの一張羅であるスーツは変わらない。
だが、トレードマークであるオールバックには幾つかのハネができており、青い目の下にはくっきりとした大きめのクマが浮かび上がっている。……珍しい。
「色々と考えてたら、朝になっちまってた。フィアの方は――」
「――朝から騒がしいな」
襲撃の不安の掛かる共同生活のときにも、こんな姿を目にしたことはなかった。扉を閉めたジェインが、大あくびを噛み殺すリゲルに、普段と変わらない瞳をレンズの奥から差し向ける。
「何やら見苦しい原人がいるが。一人だけ地震にでもあったのか?」
「うっせえよ、モヤシ眼鏡が」
「カタストさんも、大事なさそうで何よりだ」
「はい」
「準備もできているようだし、朝食に行くとしようか」
――
「――あら」
いつもの食堂。
「試験の疲れで寝てるかとも思ったけど。早いじゃない、あんたたち」
「――おはようございます」
「おうよ、元気そうだな」
「蔭水に、カタスト」
深緑色をした大理石のテーブルにて、先輩たちが俺たちを出迎える。立慧さんに田中さん。
「全員そろってるな。安心した」
「上守先輩」
「顔色もいい。――二人は若干調子が悪そうだがな」
「いえ……」
「寝不足でして」
「その……」
三人ともいつも通りの姿だ。欠伸を噛み殺す俺とリゲルの隣から、
「済みませんでした。昨日は……」
「謝ることじゃないわよ」
フィアが謝罪を口にする。食堂に来るまでの間に、大体の事情は話し終えていた。
「あんたは危険な状況でできることを頑張っただけだし。素人相手に抜かれたからってキレ散らかす、どこぞの試験官サマが悪いんだから」
「概ねは同意だな。――ただまあ」
気を失った原因は魔力の枯渇による副作用であり、先輩たちが応急措置をしてくれたのだということも。大げさに鼻を鳴らした立慧さんに続き、先輩がフィアに視線を向けてくる。
「ああいった魔力の使い方は、今後はなるべく避けた方がいい」
「――っ」
「行為自体に落ち度があるわけじゃないが、短期間に繰り返したり、無理をする時間が長かったりすると、後遺症が残ることもある。魔力の発露が阻害されたり、回復が極端に遅くなったり」
――後遺症。
「今回は軽めの影響で済んだがな。朝食後に一応、体調の確認をさせてくれ」
「――」
「今見た感じでも問題はないと思うが、念のためな」
「はい」
「――んじゃ」
やはり、そうなのか。内心の思いを新たにした俺の前で、伸びをしてみせる田中さんが、気の抜けたコーラのように弛緩した口ぶりで肘をついた。
「食事と洒落込むとしようや。全員揃ったところでよ」
――
「――しかしまあ」
全員が席につき。
「技能の磨き始めで伸びしろがあるとはいえ、カタストたちの成長は著しいな」
「そうですか?」
「ああ。正直な話――」
いつも通りの朝食が進んでいく途中、昨日の試験についての詳細を俺たちから聞いた、先輩が真面目な表情を見せる。青色のスープカップに注がれたコーンスープ。
「あの賢者見習い相手に、合格を取れるとは思っていなかった」
「――っ」
「食い下がれはしても、相手がその気になれば難しいだろうと。大事になる前に棄権するのも手だと思ってたが――」
「顔と態度を見るからに、落とす気満々って感じだったしね」
クルトンとパセリの入った濃厚な甘みのある味わいが、残っていた眠気を吹き飛ばしてくれる。フォークでレタスを串刺しにした立慧さん。
「アクシデントはあったわけだけど、一矢報いてやったってのは清々しいわ」
「ったく、怖いねえ、やる気のある支部長さんは」
バリバリと軽快な音を立てながら咀嚼する姿に、いきなり濁酒を飲み始めている田中さんが、冷やかすような目つきを向ける。
「教え子の出来にも一喜一憂しちまって。俺なんかは試験中、ず~っとのんびり構えてたけどな」
「薄情なだけの人間が、何を言ってるんだか。――一応言っとくけど」
得意げな台詞に立慧さんがやれやれと首を振る。手元のおしぼりで口元を拭きつつ。
「勘違いはしちゃ駄目よ? 試験で合格をもぎ取ったって言っても、相手はそれなりに加減はしてたはずだから」
「――」
「自分たちの力量を過信せず、無茶な真似はしないこと。戦うのはあくまでどうしようもない時だけであって、それ以外は基本、逃げた方が安全だってことを忘れないようにしなさい」
「はい」
「――あ~、そうだそだ」
昨日の試験でもそのことは聞かされた。頷いたところで、声をあげた田中さんが軽く手のひらを打ち合わせる。
「忘れないうちに言っとくけどよ。お前ら全員、今日の修練はなしだかんな」
「そうなんですか?」
「早起きしてきたとはいえ、昨日の試験の疲れが残ってんだろ」
シーシーと楊枝で食べかすを取りながら言われる台詞。……確かにそれはある。
「んな状態でやっても、逆に身体を痛めるだけだし。今日一日は、まるまる休息に充てろってこったな」
「――理由はそれだけじゃない」
俺とリゲルは疲労のうえに寝不足気味だし、魔力払底から回復したばかりのフィアも本調子ではないはずだ。続けてくる先輩。
「昨日カタストたちの勝ち取った外出だが、実行日が明日に決まった」
「――!」
「情報の操作も含めてすでに取り掛かっていて、私たちの側でも、そのための準備を進めてるところだ」
「ふぁた随分急っすね」
体力回復のためとあってか、ローストビーフを口いっぱいに頬張ったリゲルが目を丸くする。――明日とは。
「昨日決まったばかりだってのに。急ぎ過ぎじゃねえんすか?」
「長引かせてもいいことはないからな」
「……!」
「準備に時間をかければかけるほど、こっちの狙いが悟られるリスクも高くなる。早目早目の行動が望ましいってことだ」
「なるほど……」
「ああ、そういえば――」
それはそうなのかもしれない。――?
「昨日の試験について、三千風が申し訳ないって言ってたわよ」
「えっ?」
「立会人として終始試験を見てた立場なのに、払底の症状を早目に見抜けなかったからだって。伝えといて欲しいって言われてたわ」
「そんな……」
フィアが驚くような表情をする。言っていることには一理あるのかもしれないが。
「三千風さんにはその、危ないところを助けていただいて」
「まあ、生真面目な奴だからね」
素直な感覚としては、それ以上に世話になった感謝が拭えない。立慧さん自身もそう思っているように。
「気にしてるんでしょ。今度会ったときにでも言っといてやりなさい」
「……そうですね」
フィアが頷く。恙なく食事は進んでいき……。
「――そうだ」
食後に各人が飲み物を楽しむ時間。混ぜ物なしのブラックコーヒーを飲んでいたリゲルが、思い出したように言い出した。
「先輩たちに一つ、教えて欲しいことがあるんすけど」
「何よ、改まっちゃって」
「昨日の試験官――賢者見習いって、どこに行ったら会えるもんなんすかね?」
「――」
リゲルの問いかけに、食後の一服で緩んでいた先輩たちの表情が再び引き締まったものになる。白磁のカップを置いて。
「……まあ、そうね」
「?」
「あんたのことだから、そうなるんでしょうけど。――やめときなさい」
諦めたような溜め息を吐きながら、窘める口調で語り出す立慧さん。
「今回ばかりは相手が悪いわ。気持ちは分かるけど」
「言動に問題があるとはいえ、相手は一応賢者見習いだ」
先輩が続く。
「昨日の試験で大事にならなかったのは、試験という体裁があったのと、三千風の立ち合いがあったことが大きい。礼参りに喧嘩を売りに行けば、間違いなく返り討ちにされる」
「っいや――」
「ことによっちゃあ、問題行動として外出許可が取り消されるって可能性もあんな。ただの火傷じゃ済まない――」
「――違うんすって!」
三人口をそろえての誤解に、異を唱えるリゲルの声。軽く咳払いをして。
「……昨日色々とあった件について、謝っときたいと思いまして」
「――」
「こっちに向かって吐かれた暴言についちゃああれなんすけど。その他のことについてとかは、若干言い過ぎたかなーって」
「――そういって殴り込みに行く気じゃないでしょうね」
本音を話しているにもかかわらず、立慧さんからの眼差しは変わらず疑わしい。
「ただでさえ今は忙しいのに、勘弁してよ? あんたらが何かしでかしたら、始末書を書くことになるのは私たちなんだから」
「しないっすよ! んなこと」
「昨日の試験のあらましを聞いてると、なんというかな」
「リゲルさんは多分、正直に言ってるだけだと思うんですけど……」
「日ごろからの行いが悪ければ、いざというときでも信用されない」
援護に回ったフィアに対し、レモンティーを飲むジェインが澄ました顔で口にした。
「振る舞いが周囲の評価を形作る。オオカミ少年の教訓という奴だな」
「性悪な眼鏡は黙ってろよ」
「昨日はお互いヒートアップしてたところがあったので。リゲルも郭も、今はそういう事にはならないと思います」
「――まあ、真面目な話をするとだな」
反応の入り乱れるところで、私物らしい茶碗から緑茶を飲んだ先輩が視線を向けてくる。ここまでのやり取りは……。
「賢者見習いの私室の位置は、私らには知らされてないんだ」
「――え?」
「一応、次期四賢者候補という、協会の中でも機密レベルの高い情報になるからな。私らだけじゃなく、普通の協会員や本山員なんかも、賢者見習いについてはあまり多くを知らされていない」
「……!」
真面目じゃなかったのか。――確かに。
「確実に知ってるのは四賢者とその関係者、発言権が強くなる第三支部までの支部長くらいになるか。本山の上層三階層には一定の権限を持つ人間しか入れない区画があるから、その中のどこかだろうというのは見当がつけられるが」
「――無茶よ、無茶」
先輩に続き、珍しく紅茶を頼んでいた立慧さんが、多めに入れた砂糖をゆっくりと掻き混ぜる。肘をついた手の上から、リゲルの方に半分突き放すような視線を送って。
「本山預かりの身とはいえ、組織の人間じゃないあんたたちはそういった場所には立ち入り禁止なんだから。もしあんたがホントに謝りに行くんだとしても、あっちはまともに取りあってくれないんじゃない?」
「――っ」
「初めっからこっちと線を引いてるみたいな態度じゃね。無意味な努力になるのが、関の山だと思うわよ」
「――どうしてもってんなら、脚をつかって歩き回ってみるって手もあるがな」
忠告するような口振りに、半分面白がるような調子で田中さんが口を挟む。
「賢者見習いっつったって、一日中引きこもってお勉強してるわけじゃねえ。三千風の奴みたいに、休憩時間はふらふらうろついてる場合だってあるんだし」
「って言っても、郭の場合はほとんど人前に姿を見せないみたいじゃない。闇雲に歩き回って見つかるとは思えないけど?」
「秋光さんや、三千風さんに頼むと言うのは……」
「――難しいだろうな」
俺の意見に、先輩が自分の身長よりぎりぎり低い背もたれに体重を預けて答えてくる。
「今回の外出の件で、秋光様や櫻御門たちは何かと忙しい」
「――」
「賢者見習いとしての立場は同じといえ、三千風と郭は仲が良いってわけじゃないからな。それなりの理由か事情がないことには――」
「――面白そうな話をしてるねい」
――っ⁉
「確かに、部外者が賢者見習いに会わせろってのは無茶な話だ」
「……ッ⁉」
「うおッ――⁉」
「大した用事もなく、自分の納得のためとなれば猶更。だが若いうちってのは、とにかく壁にぶつかってみるのも大事な経験になる」
割り入った耳慣れない声の主。――ッなんだ⁉
前触れなく朝食の大理テーブルに現れていた一人の人物の姿に、驚愕を浮かべた俺たちから一斉に視線が集中する。――波打つ白髪を蓄えた老婆。
見える肌のところどころにはシミができ、よった皴からはかなりの高齢であることが窺えるが、醸し出す洒脱な雰囲気と言葉の明朗さからは、並みならぬエネルギーを感じさせられる。……っ何もない空間からいきなり現れたように見えたが。
「無理だと思っても、ただ止めさせるんじゃ能がない。もしものときの対策と事後の逃げ場を整えて、背中を叩いて送り出してやるのが、先達の仕事ってもんさ」
「――リ」
「っ誰だ? 婆さん――っ」
「――バッ!」
何かしらの魔術によるものなのか? 茶碗を持ち上げたまま言葉の出ないような先輩。俺たちを代表して素朴な疑問を出したリゲルを、慌てふためく立慧さんの眼差しが叱責するように貫いた。
「ッ誰だじゃないっての! ――四賢者‼」
「――っ⁉」
「現行の四賢者の中でも、最高の歴を誇る大魔術師。リア様よ!」
「――リア・ファレル」
四賢者⁉ 周囲の狼狽ぶりを尻目に……。
「折角空気を読んで朝食の席に現れたってのに、騒がしいこったね」
「……いきなりのお訪ねじゃねえですか」
自由な姿勢で椅子に座った当の本人は、悠々と名乗りを上げてきている。秋光さんと同じ。
俺たちを保護しているこの魔導協会の、最高位に立つ人物。幾分表情を硬くした田中さん。
「事前の連絡もねえって言いますのに。なんでまた?」
「随分な挨拶だね、小僧っこが。――明日の外出の護衛に着くことになったんで、その前に顔合わせをしとこうとか思ってねい」
立慧さんが幾らどつこうとも知らぬふり。普段は自堕落一辺倒でいる田中さんも、この相手を前にしては態度を引き締めざるを得なくなっているように感じられる。護衛ということは――。
「秋光や葵から話の方は聞いてたんだが、直に見るのは初めてだ。――ふむ」
「……あ……」
「最近の若いのにしちゃ、悪くないオーラだね。賢者見習いと一戦交えた翌日にしちゃ、顔色もいい」
明日先輩たちと外出するとき、葵さんに加えて、この人が俺たちの守りについてくれる一人ということか。ぐるりと俺たちを見回した円熟の瞳が。
「どいつもこいつも、スレのない顔つきをしてる。このあとの予定はないんだろう?」
「っええ。一応は――」
「なら、こいつを借りてくよ」
「――」
答えた先輩に向けて、軽く顎をしゃくる。――ッジェイン?
「あんたの使う概念魔術に興味がある。支部長たちから聞いてるかもしれないが、私は今の協会で唯一、概念魔術を使える人間でね」
「――ッ」
「同類を一遍、自分の眼で確認しときたかったんだ。あんたの自分に対する理解を深める切っ掛けにもなるかもしれない」
「……!」
「それと――」
急な宣告。後半の台詞に表情を変えたジェインの前で、窪んだ眼窩のうちの瞳がリゲルを捉える。
「そっちのサングラスのあんた」
「っ!」
「さっき面白い話を口にしてたね。試験の担当者に会いたいんだって?」
「――っ、うす!」
「支部長たちが説明してた通り、賢者見習いの私室は専用区域に設けられてる。部外者じゃあ近づけない」
今一度そのことを確認するように。
「立場のある人間の許可がなければ。――部屋の前までなら連れてってやれる」
「――!」
「何も伝えずに放り出してくから、そこから先はあんた次第になるが。どうするね?」
「……っ」
思わぬ提案。突発的な選択に迷いを見せたリゲルが、覚悟を決めたように唇を引き結んだ。
「――ッ頼んます!」
「いよし。用が済み次第、適当に返す」
目を見ての頼み入れに、リアさんが頷きをもって返す。先輩たちの方に今一度視線を送り。
「他の誰かが用だと言ってきたら、あたしが連れてったと伝えとくれ」
「っ、ええ――」
立慧さんが返事を返し終わるより先に、微かな風がテーブルの上を通り抜けたかと思うと、老婆を含めた三人の姿が消え去った。ッ――⁉
「……っ!」
「ええと……っ」
狼狽える俺とフィア。驚愕に釣られて辺りを見回してみるが、三人の姿は影も形もない。瞬きにも満たない一瞬で……。
「今のは。その……」
「……驚いたわね」
何の痕跡も残さずに消えている。二人の席の前で放置された湯気の立つカップ。こちらもまだ衝撃が抜けきっていないような表情で、立慧さんが呟きを零す。
「四賢者が直々に会いに来るなんて。それだけ興味を惹かれたってことなんでしょうけど……」
「――リア様は、【空間】の概念魔術の使い手だ」
状況をまだ十全には飲み込めていない俺とフィアに、気を取り直したような先輩が解説を加えてくれる。
「指定した複数地点の物体や現象を、その空間を介して一瞬で入れ替えることができる」
「……⁉」
「レトビックとガウスの二人も、それぞれ目的の場所に飛ばされたんだろう」
「ったく。幹部の身でほいほい飛び回って、相変わらずやんちゃな婆さんだぜ」
そんなことが? 驚かずにはいられない俺たちの前で、眉間にしわを寄せた田中さんが、珍しく悪態をつくように感情を露わにする。
「何でもかんでも他人の都合そっちのけで決めやがる。振り回される方の身にもなれってんだ」
「何よ、リア様と付き合いがあるの?」
「付き合いってほどじゃねえがな。ここに来てすぐの時分に知り合ったんだ」
訝しげに呈される疑問に、めんどくさそうに眉根を寄せた田中さんが、ガリガリと後頭部を掻きつつ杯の中身を見つめる。唐突に蘇ってしまった思い出を、濁った酒の中に溶かそうとしているかのように。
「俺がガキの頃から何も変わらねえ。破天荒で、独りで何でもこなす怪物みてえな婆さんだよ」
「変わらないって……」
「魔導協会の幹部として、リア様は半世紀近く活動を続けてる」
疑問を浮かべたフィアが、先輩の発言に俺と揃って瞬きする。――半世紀⁉
「現行だけじゃなく、協会の歴史の中でも最高齢の四賢者だからな。私の記憶が確かなら、今年で丁度九十歳だったはずだ」
「経歴からすれば尊敬の一言しかない相手なんだけどね。――大丈夫かしら、あいつら」
現役としての長さにも驚かされるが、その年齢で未だ、数百万人の魔術師たちの頂点を担う実力を保ち続けているということなのか。――?
「……何がですか?」
「リア様に目を着けられると、色々と大変だって噂なのよ」
頬に手を当てて、溜め息を吐く立慧さん。噂――?
「業務と無関係な難題を吹っかけられるとか、意味不明の問答をされるだとか」
「……!」
「あれだけの力量と経験を持ってる方だから、独自の判断基準があるんでしょうけど。態度を間違えてトラブルにでもなったら――」
「……だとしても、私たちにはどうにもできない」
不安がやまないと言うように手を組んだ立慧さんに、先輩が静かに首を振った。
「郭に謝罪にいくというガウスと併せて。何事もないことを、祈るしかないな」




