第二話 疲労のあとに
話を終えた秋光さんたちが去り。
「……黄泉示さん」
「……」
フィアに付き添われた状態で、俺はリゲルたちのところへと戻っている。……言えることがない。
硬い石造りの床を見つめる頭の中で、様々な情念が渦巻いている。醜態をさらした失態と羞恥。
フィアたちの反応への不安、過去の思い。……新たに知った事実の衝撃。
感情と思考が乱反射し、無軌道に混ざり合って最低な気分を築き上げている。今すぐにでもどこか逃げ込んで……。
ぐちゃぐちゃになったこの心情を、隠してしまいたい。……だが。
「……」
「……済まなかった」
――それはできない。言わなければならないこと。
「感情的に動いてしまって。周りのことも考えずに……」
「黄泉示さん……」
「先輩も。……済みませんでした」
謝罪を口にして、頭を下げる。――そう。
俺の両親がどういう事情で亡くなったかについて、フィアたちは何も知らない。あの出来事はあくまでも、俺一人が抱えている問題。
秋光さんを問い詰めるにしても、個人的な場を作って確かめればよかったことで。衆目の前で飛び掛かる必要などなかった。
「……いや――」
「――全くだな」
短慮で軽率だった。先輩が何かを言いかけたところで、ジェインが口を開く。
「よりにもよって、相手方のトップに掴み掛かるとは。僕たち全員の立場を脅かしかねない、リスキーな行動だった」
「――おい、ジェイン」
「直情的に動くのは、獣とそこのゴリラだけで充分だ。どれだけ無謀で危険な行為だったか」
中指で押し上げられた眼鏡のフレームが、照明に反射して冷ややかな光を放っている。……そうだ。
いきなり相手方の立場ある人物に掴みかかったのは、俺たちの状況からすればただのデメリットでしかない。問題行動と取られれば、フィアたちにまで累が及んでいたかもしれない。
ジェインの指摘は正しい。唇を結ぶ俺の前で、ブラウンの理知的な瞳が、レンズの奥から俺を捉えた。
「分かっているならいいさ。――この話はここまでにしよう」
――え。
「結果的には無事だったわけだからな。武器を抜かなくてホッとしたぞ」
呆然とする俺の前で、目元の険を緩めたジェインが普段と変わらない調子で語ってくる。……それだけ。
「激情に駆られながらも話し合いの態度に留めたのは、どこぞのマフィアもどきと違ってクールだったな」
「他人を下げねえと褒められねえ病気かよ。――ったく」
それだけなのか? 戸惑いの最中に、力強いスーツの腕に肩を巻き込まれるようにして組まれた。――っリゲル。
「全くだぜ、この野郎! マジなガン付けから一歩も引かねえもんだから、いつあの姉ちゃんの扇子が唸りを上げるか冷や冷やしたぜ」
「……!」
「半端な気迫じゃなかったからよ。先輩より強いってのは、どうやらガチらしいぜ」
「――そうだな」
仕掛けの気配だけで力量を察したのか、リゲルのこめかみに、一筋の汗のあとがあるのを目にする。……そうか。
「櫻御門が本気なら、蔭水は確実に意識を失っていただろう」
「……!」
「場合によっては、腕の一本でも折られてたかもしれない。――軽率な発言をして済まなかった」
「――っ」
自分の失態ばかりに目が行ってしまっていたが、リゲルたちからすれば、俺は正しくあと一歩でどうなるか分からない状態にあったに違いない。頭を下げる先輩に――。
「そんな」
「……」
「先輩は、俺たちを気遣って言ってくれただけで。……俺こそ済みません」
「それについてはいいさ」
俺の方が動揺してしまう。場の空気が元に戻ったのを確かめてか。
「やり取りを見た以上、秋光様も咎めようとは思ってないだろうしな。さっきの件については、これで終わりだ」
「――」
「部屋の方に案内する。着いてきてくれ」
先輩がつま先の向きを変えた。――。
「それにしても――」
「ん?」
ゲートの集まっている広間を抜けて。長い通路を渡り、広々とした空間を歩いていく途中で、ジェインが発言する。……魔導協会。
「魔術師というからには、てっきり先輩のような術の使用が主と思っていたんですが、肉体的な技を使う人もいるんですね」
「ああ。協会員としては少数派だがな」
厳めしい空気を想像していたが、中は案外開放的のようだ。前を行く先輩がジェインの問いに答えていく。
「協会に所属する大半の魔術師は文字通りに魔術を扱う専門家だが、中にはハイブリッドな技能を身に着けてる人間もいる」
「……!」
「櫻御門の場合は魔術の他に、自分の家が受け継いできた武術を修得してる。魔術の腕前も当然一流だが、使わなくても実力はあるってわけだ」
「なるほど……」
「その……」
くまなく滑らかに磨き上げられた重厚な石材。周囲の景色に目を向けていたところで、気を取り直したようにフィアが尋ね出す。
「秋光さんの話していた凶王派っていうのは、どういう人たちなんでしょうか?」
「そうだな。前提としてまず、世の中には私たちみたいな、特殊な力を扱う技能者ってのが存在してる」
俺たちからしても気になるところの話。言葉を切った先輩が指を鳴らすと、咥えた煙草の先端に火が灯り、緩やかな煙を昇らせ始める。
「正確にいえば『特殊技能者』。そうした人間は一般の社会と重なり合うように別のネットワークを形成していて、それが俗に技能者界と呼ばれてる。魔術師とか、超能力者なんかの動いてる社会だな」
「魔法だけじゃなく、超能力まであるんすか?」
「私たちは『異能』と呼んでるがな。そうした普通でない技能者たちの世界があって、その中でも最も大きい影響力を持ってるのが、今言った凶王派と、私たち魔導協会が加わる三大組織なわけだ」
何人かの人間とすれ違うたび、向けられる会釈に先輩が手と目線で応えていく。なんとなく思ってはいたが……。
「世界的な宗教組織を基盤とする『聖戦の義』に、技能犯罪に対抗するために近代国家が作り上げた『国際特別司法執行機関』」
「ほお~……」
「この三者が秩序維持の点で現在同盟を結んでる。組織側と凶王派は昔から対立していて、事あるごとに衝突を繰り広げてきた。秋光様の話にもあったが……」
これまでの立ち振る舞いを見るに、上守先輩もただの一構成員というわけではないらしい。雷を操る男と激戦を繰り広げる実力を持ち、
「技能者界には統一された運営や統治組織はないから、誰もが守らなきゃならない法律やルールってものはない。私たち三大組織が提唱する秩序があって、それに異を唱える技能者の中心を凶王派が占めてる」
「……なるほど?」
「一定のルールを決めようとする側と、それに反発する二つの勢力ということですか?」
「中立的に言えばそうなるな。凶王派のメンバーには、荒くれ者や犯罪者、裏家業の人間、危険として禁止された技法を研究する技能者なんかが多い」
俺たちの案内などを任されていることをみるに、それなりの立場を持っているのだろうか。……ならず者の寄せ集めといった印象。
「内輪での結束はそれなりにあるが、外部に対しては手荒で危険な連中だ。――さて」
技能者界の状況を想像していたところで、緩やかな段差の階段を下り切った先輩が、俺たちの前方で足を止めた。煙草を外した手で指し示されたのは――。
「ここが宿泊施設だ。技能を持ってはいるが、お前たちにはあくまで組織事情と無関係な人間が来たときの、来客用の個室を使ってもらうことになる」
左右に幾つもの扉が並んでいる、長い廊下。ざっと見て十以上の部屋数があり。
「外部への体裁上な。鍵は物理的なものを用意してあるから、これを使ってくれ」
「――」
「魔術に対するプロテクトが掛けられていて、一定以上の権限のある人間以外には開錠が不可能な仕組みになってる。風呂や手洗いなんかは完備してあるし――」
銀色の鍵で先輩が扉を開ける。覗き込んだ室内の広さは、リゲルのうちで宿泊していたときとおおよそ変わらないくらいの広さがあるように見える。家具は幾分質素ではあるものの、
「蛇口の水は洗浄されてるから、飲んでも問題はない。食事はここじゃなく、全員纏めて専用の個室で取る形になる」
「なるほど」
「職員とは別に用意する形でな。希望がなければ朝は七時、昼は十二時、夕飯は十八時半の時間で用意しようと思うんだが」
「大丈夫です」
「そうか。生活に必要なものは大体揃ってると思うが……」
庶民的な雰囲気があるせいか、こちらの方が過ごしやすいくらいかもしれない。扉を閉めた先輩。
「あとで自分たちで確認してみて、不足してるものがあれば夕飯のときに言ってくれ」
「え」
「中には難しいものもあるが、大抵の物は取り寄せられる。――希望の私物があれば、それも職員に運ばせる」
「私物っすか?」
「服なんかは慣れたものじゃないと困るかもしれないからな。信頼できる同性の職員が付くから、安心してくれていい」
「は、はい」
なるべく不自由のないようにという配慮なのだろうが、そこまでしてくれるのか。一通りの事項を説明し終えた先輩が。
「こんなところか。十八時過ぎごろ迎えに来るから、そのときには部屋にいてくれ」
「出歩いても構わないんですか?」
「問題はない。困ったときには近くの協会員に、私か櫻御門の名前を出して訊いてくれればいい。なにか訊いときたいことはあるか?」
最後の確認と言うように俺たちを見てくる。……俺からは特にない。
突然ここで生活してもらうと言われた手前、どんな待遇になるのか不安だったが、こちらの想像以上に気を遣ってくれているようだ。今日一日の出来事で疲労が溜まっていることを考えると。
「なければ、また――」
「――指導を着けてくれませんか?」
休むのが先決だと。――なに。
「僕たちに、力の指導を」
「……⁉」
「……どうしてだ?」
「僕らの巻き込まれた問題に当面の解決の見込みがないのなら、少しでも自分たちでできることをしておきたい」
煙草を取り出し掛けていた先輩が、真面目な面持ちでジェインを見る。……指導。
「僕やリゲルは先輩の言うところの特殊技能は持っていますが、使い方についてはまるで素人です」
「――」
「もし今後にまた戦わざるを得ないような事態に陥ったとき、今のままではとても抵抗ができない。どう転ぶか分からない状況だからこそ、少しでも出る目を良くしておきたいんです」
「――俺からも頼んます」
――っリゲル。
「凶王派だか何だか知らねえが、他人のまともな学園生活をぶち壊しやがって。割とカチンと来てるんすよ」
「……!」
「これまでそこそこ腕っぷしには自信があるつもりだったんすけど、あの野郎にはまるで歯が立たなかったですし。予定がなくなって、だらけてるわけにもいかねえっすから」
「……なるほどな」
覇気の籠った台詞で手と拳を打ち合わせる。二人の考えと気迫に圧倒される前で――。
「お前たちの意見は理解した。――二人はどうだ?」
「えっ」
「カタストと蔭水も、同じ意見なのか?」
紫煙を揺らす先輩の目が、黙っていた俺たちへ向けられる。――それは。
「……」
「……お願いしたい、です」
――ッ。
「できれば。私も……」
「……」
「少しでも状況をよくするために、自分にできることがあれば、したいですから」
「っ俺は……」
逡巡を見せながらも口にしたフィア。いつもは穏やかな翡翠色の瞳が、決意したように前を見つめている。無言で送られる先輩の視線に……。
「……やらないよりは、いいとは思うんですが」
「そうか。――どの道だが、私の一存では決められない」
ジェインたちの意見を汲む形で頷いた。考えるようにした先輩が視線を外す。
「お前たちから要望があったということで、秋光様たちに話を通しておく。返事があり次第、伝える形になると思うが」
「――ありがとうございます」
「うっす! 頼んます!」
「ああ。それじゃあ、また夕飯のときにな」
背を向けた先輩が去っていく。ポニーテールを揺らす小さな背中が、通路の向こう側へと消えた。
「……」
「……本気なのか?」
「――ああ」
そのタイミングで尋ねる。眼鏡を上げたジェイン。
「偶然とはいえ、本職の人間の集まる組織に迎えられたわけだからな。元々あるはずだった予定がなくなった以上、どうしても時間を持て余すことにもなる」
「……」
「知識を学ぶことができれば、自分たちの力についての理解も深まるかもしれない。使える機会は有効に活用しておきたい」
「それは分かるが……」
整然とした理屈に口ごもる。知識をつけるだけなら何も、指導という形を取らなくてもいい。
「話を聞いてると、俺たちが頑張ってどうこうできるような相手じゃない気が」
「――考えたくはない話だが、どこまで信用できるか、ということもある」
本を読んだり話を聞いたりと、やり方は色々とあるはずで。――っ。
「先輩や式さんたちのことを疑うわけじゃないが、組織に所属している以上、方針を決めるのはあくまで集団としてだ」
「……」
「事が大事なだけに、この先どう転ぶかは分からない。何もしなければ、決められた決定に流されるだけになるかもしれない」
指摘を受けたことで気付かされる。……冷静さを湛えたブラウンの瞳。
「今の僕らでは、取れる選択肢が少なすぎる。可能性を広げるためにも、力は付けておいた方がいいと考えた」
「――ま、そうだな」
これまでの日常とはかけ離れた場に置かれていても、ジェインの口調はまるでいつもと変わらないものだ。ここばかりは同意と言うように頷いたリゲル。
「信用云々は置いとくとしても、自分らが狙われてんのに、何もしないってわけにはいかねえしよ」
「……」
「おんぶにだっこじゃ締まらねえ。その点だけは眼鏡に賛成だぜ」
「要望が通るかは分からないがな。――今はひとまず休もう」
ジェインと同じく、リゲルはリゲルなりの確固とした考えを持っているらしい。肩の力を抜いたジェインが、眼鏡の下の唇から小さく息を吐いた。
「バイトに襲撃と、朝から色々とハードな一日だった。夕飯までには幸い、まだ一時間程度ある」
「ひ弱な誰かさんと違って、俺は全っ然疲れてねえけどな。――んじゃ、またあとでよ」
「ああ」
「そうですね」
グローブの手を軽く挙げたリゲル。身体の向きを変えたジェインが。
「またな、蔭水、カタストさん」
「はい」
「テメエ、万が一にも騒ぎ立てんなよ」
「それはこっちの台詞だ」
示し合わせたように廊下の反対側の扉のうちへと消え失せる。……考えたいことは多い。
「……じゃあ」
だが、このまま廊下にいても仕方がないのは事実だ。軽く挨拶をして――。
「夕飯のときにまた――」
「――っ黄泉示さん」
すぐ後ろの扉を潜ろうとしたとき。背を向けた相手から、思い詰めたような声がかかった。振り返った先。
「……どうした?」
「っ……いえ」
いつもと変わらない、艶めいた白銀の髪の毛を肩に触れ合わせるフィアは、俺に視線を合わせている。煌めきを放つ翡翠色の瞳が、ふっと言い淀むように視線を斜に逸らして。
「なんでもありません」
「……?」
「ちょっと、思ったことがあっただけで。夕飯のときに、また」
「ああ」
誤魔化すように小さく笑みを浮かべると、自分から背後の扉を潜って行った。……なんだろう。
何か言いたいことがありそうだったが、パッとは候補が思い浮かばない。フィアの素振りは気になるが……。
「――」
――今はひとまず休むべきだろう。設備の簡単な確認だけ終えると、早々にベッドに寝転がる。背中に感じる反発。
沈み込み過ぎないマットレスの感触が、預けた体重を優しく受け止めてくれている。力の抜けた身体で天井を見上げ……。
――どうして予測できただろう。
これまで積み上げてきたはずの日常が、一瞬で崩れ落ちた。俺たちのしてきたこと。
あれだけ努力していた警戒や訓練も、ほとんどが無意味だった。雷を操る男にはまるで太刀打ちができずに、
先輩がいなければ死んでいた。紙一重で命を拾えた幸運。
「……」
感謝と僥倖の噛み締めと同時に、置かれた状況への無力感が、嫌でも意識に浮かんでくる。……修練か。
提案自体に強い反発があるわけではない。学園もバイトも通えなくなった。
日常の大半を占めていた用事がなくなったからには、少しでも別のことに取り組む方が有意義ではあるだろう。ジェインとリゲルの言うことも理解できていて。
「……」
ただ、それでも疑問は残っている。……俺たちが多少の力をつけたところで。
それでこの状況が、どうにかなるものなのか? 見せつけられたあの男の力。
先輩たちの実力は、現状の俺たちからして遥かに遠く及ばないものだ。先輩より更に実力があるという葵さんと秋光さん。
そんな人間が所属する巨大なこの組織でさえ、容易には解決できない力を持つ連中が俺たちを狙っているという。意義などないのではないか。
「……」
リゲル宅での取り組みのように、また無意味に終わらされるのではないかと。……十年前の問題。
全てを喪失したあの日を思い出すと、今の状況に対するものとは別の、強い感情が胸を襲ってくる。――考えもしなかった。
海外に渡り、新しい生活を始めていた今になって、とうに過ぎ去ったはずの事件の当事者に出会うなどとは。……見捨ててはいない。
あの戦いで傷を負った父は、一人になることを望んでいた。嘘は言っていない……。
俺の目にした秋光さんの苦悩は、確かに本物と思えるほど重いものだった。他の面子がどうかは分からないが、少なくともあの老人は、小父さんと同じように……。
「……」
――東小父さんにも、結局連絡できずじまいだ。
救世の英雄であるという話が本当なら、秋光さんと小父さんは、十年前に同じ戦いに参加した仲間ということになる。旧友からいきなり今回の連絡を受ける小父さんを想像すると、
掛けることになる心労に、嫌でも気分が一段沈んできてしまう。……元は小父さんへの寄りかかりをなくすための一人暮らしだった。
襲撃についても、小父さんに負担をかけないために伝えないことにしたはずが、結局心配を掛ける羽目になってしまっている。どうしようもなかったとはいえ……。
染み出てくる不甲斐なさは止めようがない。頭を渦巻く思考のほとんどが気を重くしてくる状態で――。
「……ふぅ」
――それでも一つだけ、今回の騒動で安心を得ていることがあった。フィアについて。
初めに襲撃を受けたとき、暗殺者の老人がフィアを第一に狙っているように見えたことから、俺は事件の発端が彼女の過去にあるのではと考えたことがあった。……秋光さんは俺たちの素性について、すでに調査をしたと言っていた。
特殊技能者の世界で有数の勢力を持つ組織が調査をし、その上で狙われる理由が不明だったというのなら、少なくともフィアと凶王派の間に分かりやすい因縁はないということになる。……よかった。
疑わないことを決めたとはいえ、心のどこかでずっと引っかかっていたことだった。胸のつかえが取れたような感覚に連れて――。
強烈な眠気が襲ってくる。先輩の治療を受けたとはいえ、朝からぶっ続けで動き通しだった。
一時間後には夕飯を呼びに来るのだから、それまでに休んでおかなくてはならない。快適な温度に保たれた部屋の空気に包まれつつ――。
背中に伝わる柔らかさに重荷を預けるようにして、俺はゆっくりと目を閉じた。
「――悪意は誰にも見られませんでした」
静かな音を立てて閉まる執務室の扉。
本棚と机に囲まれた、部屋の中央まで歩みを寄せたところで、秋光は補佐官から報告を受ける。先に見たものを思い返すように、ゆっくりと目を閉じる葵。
「言動と心情の動きは一致しています。虚偽や隠蔽、魔術的な操作の気配も皆無です」
「そうか」
「はい。ただ」
――【心眼】の異能。
焦点を合わせた対象の意識を、本に書かれた文字を読むように視認できるという能力を持つことこそが、四人の迎え入れに当たって、秋光が自らの補佐官を同席させていた最大の理由だった。彼ら自身を疑ってはいないとはいえ。
「ジェイン・レトビック。彼の意識だけは、始めから最後まで読み取ることができませんでした」
「――っ」
ことは技能者界全体の動向に関わること。凶王派の自作自演か、凶王派と関わりのある脅威が彼らの中に潜んでいた場合には、協会全体を危険に晒す事態にも繋がり兼ねない。
「【加護】、か?」
「恐らくは。意識的なレジストの所作ではありません」
手応えを思い出しているような葵の所見を聞き、秋光は引き締めた表情で思案する。いきなり予想外の運び具合。
「ぶ厚い防壁に阻まれたような感触でした。潜ろうとも試みましたが……」
「彼はエアリー・バーネットの引き取り子だ。技能者絡みの累が及ばないよう、何かしらの庇護を受けている可能性はある」
「神聖の魔力の気配は感じませんでした。【聖節詠唱】の域に留まらない、特別な秘跡によるものであれば、当人に説明を受けるよりないかと」
「だろうな」
彼らが凶王派に狙われる理由の手掛かりでも探り当てられればと思ったが、一筋縄ではいかないと言うことか。もっともな見解を受けて秋光は息を吐く。【心眼】を始めとした干渉系統の技能は、
魔術的な抵抗技法である【レジスト】や、霊的な防護措置である【加護】の類によりその影響を遮断することができる。……技能は使い手の習熟によって効力を変えるもの。
本山内でも有数の実力者として鍛え上げられた葵の心眼を退けることができるとなれば、それは当然同格以上の手腕によって編まれた技能ということに他ならない。稀有な才能を秘めるとはいえ……。
技能者界と関わりを持たない生活を送っていた人間に、それほど特殊な種類の加護を施す理由とは何なのか。グレーを示す要素が早々現れてきたことに、晴れやかでない気持ちを感じつつ、秋光は改めて四人の資料を思い起こす。始まりは支部長の報告から。
「――四人のうち、三人までが関係者とはな」
「はい」
「それが原因であるのかは分からないが、考慮に入れるべき事由であることには違いない。彼ら自身が無自覚だとはいえ」
――凶王派傘下の暗殺者が、三大組織の監視対象となっている『逸れ者』の関係者たちを襲っている。
上守支部長より受けた報告に目を通した直後より、その事態が秋光の頭を悩ませる要因となっていた。構成員による一過性の襲撃でなく……。
その後に他派を動員してまでの襲撃が行われたことを鑑みれば、彼らが凶王派の組織的な標的になっているのは疑いようがない。今は引退したかつての戦友たちの素性を考えた場合、凶王派に狙われる理由として真っ先に思いつくのは復讐という動機。
「フィア・カタストについても進展はなしか?」
「はい。東氏の要請から更に注意を重ねて探ってみましたが、手がかりはなし」
だが、それでは時期にせよ、組織的な行動である理由にせよ、余りにも動機としてそぐわない。離反者である永仙と手を結び。
「素性と足取りのいずれも掴めず。上守支部長からの報告にある以上の事実はありません」
「……」
三大組織との全面的な対立を控えたこの状況下で、過去の鬱積の解消などという矮小な成果を狙う愚かさを凶王派は持ち合わせていない。永仙と凶王らに狙いがあるとすれば……。
それはこの時期に敢えてリスクを冒してでも決行に値するような、明確な動機であるに違いないのだ。情報を整理して秋光は今一度考え込む。数か月前に持ち込まれた、旧友からの依頼。
調査をしたばかりの人物の名前が、凶王派に狙われる人物の名前として記されているのを見たときには、秋光とて少なくない驚きを覚えさせられた。――記憶喪失。
蔭水黄泉示に出会う以前、街中を歩いていて倒れたときより前の、一切の記憶を喪失している。特殊技能の被害としては珍しい症状であり、手掛かりはすぐにでも掴めるかと思われたのだが――。
本腰を入れて捜査を進めてなお、辿れるはずの手掛かりは何一つ上がってきていない。関連する事例や技能者の活動、知人の証言、名前や電子情報における記録。
技能者界でも屈指の規模を持つ魔導協会の情報網をもってして、目撃情報の一つですら掴むことができないとは、秋光からしても俄かには信じ難い。まるで……。
「……様子を見ていくしかないな」
失われた過去の記憶と共に、それまでの少女がいたという事実自体も消えてしまったかのように。違和感を覚えるのは確かだが……。
少女が凶王派に狙われる原因を抱え込んでいる線は薄い。本山に繋がる【ゲート】と、それを守護する【大結界】には、共に悪意のある対象を感知する術式が組み込まれている。
当人の自覚の有無にかかわらず、何かしらの危険を備えているのなら、入山の時点で弾かれているはず。秋光自身も直に四人を目にしたが、誰からも異常の気配は感じられていなかった。
「担当は予定通り、上守支部長に受け持ってもらう」
――現時点では手掛かりが少なすぎる。
「十一支部へ、その旨の通達。凶王派とフィア・カタストについての調査は、別口で続けさせて欲しい。関係者への措置はいつも通りに」
「分かりました」
「二組織への弁明と、保護者への通達は私が受け持つ。――久方ぶりの連絡だ」
今は、迎え入れた彼らを取り巻く状況を整えておくことが先決だ。しなければならない労務の苦労を思って、秋光は苦々しい笑みを浮かべる。今回の騒動に目をつけているのは、秋光たち魔導協会だけではない。
聖戦の義に、国際特別司法執行機関。三大組織として秩序の側に立ちながらも、理念を異にする二組織もまた同様に担当者を送り込んでいた。『逸れ者』の中でも特別強い影響力を持つ者たちの関係者に対し……。
魔導協会が全員の受け入れを断行したことについて、間違いなく良い顔はしてこないだろう。山ほどの言い分と弁明を備えておく必要がある。
「旧交を温める場になるといいが。東はともかく、あとの二人がどう出てくるか……」
「――秋光様」
彼らの保護者についても、また。大人しくしてはいないだろう知己たちの顔を思い浮かべていた秋光に対し、葵が、滑り込ませるように言葉を掛けてくる。
「先の、蔭水黄泉示への発言ですが」
「――」
「あの言動は、行き過ぎだったのではないでしょうか?」
見つめる秋光に向けて、若く優秀な補佐官が、静かに彼を見返してくる。――櫻御門家。
葵の出自である家は、秋光の生家である式家と同じく、元は日本の技能者界において軍師、退魔師の家系として名を馳せた名門である。対人、対異形用に洗練された櫻御門流の術技を齢二十歳にして会得し。
魔導院でも有数の成績を収めた結果、秋光の補佐官として抜擢された。心眼による行動の先読みさえ可能な身でありながら、葵が未然の時点で相手を制する選択をしなかったのは……。
「英雄の関係者とはいえ、彼自身はなんの力も影響力も持ち合わせてはいません。当時の事実さえ、正しく伝えられていないのでしょう」
「……それは個人としてではなく、四賢者の補佐としての意見か?」
「はい」
偏に、確執があると知りながら救世の英雄の話題が出るのを止めなかった、秋光の意を汲んでのことなのだ。技量も経験も遥か若輩の青年に、敢えて胸ぐらを掴ませる。
協会の俊英として賢者を補佐すべき立場の葵からすれば、先の秋光の行為は過剰と見えて当然かもしれない。だが――。
「――私は以前、友の家で彼を見たことがある」
「――」
秋光の話し出しと同時、葵がその端麗な面持ちを僅かに引き締める。
「言葉を交わしたことはなかったが、活気と明るさを持ち、修行場となる庭先で懸命に剣を振るっていた。一心に……」
「……」
「自分の目指すものを信じて。いつの日か必ずや、自分も両親と同じ場所に立つのだと」
語りながら秋光は目を閉じる。訪れた友の家。
夕暮れ時に荒い目の砂地で刀を振るう少年の姿が、今でもはっきりと思い出せる。それを見つめる友たちの――。
「あの戦いによって両親を喪い、そのことで彼があそこまでの怒りを抱いてきたのだとすれば、私はその責任を自分の中に求めないわけにはいかない」
「……」
穏やかな微笑みも。――そうだ。
今秋光の心のうちにあるのは、決して過ぎ去り終わりを迎えてしまった過去などではない。十年前のあの戦いの帰結は、関わった者たちの中に今でも深く根を張っている。
賢者として立ち続ける自分の中だけでなく、得物を置いて技能者界から身を引いた彼らの中にも。そして――。
「向き合わねばならないことに向き合ったまでだ。――今後は、身の振る舞いに気をつけると約束しよう」
「……はい」
今は道を違えた、九鬼永仙の中にも、きっと。切り替えられる空気。
普段通りの雰囲気が取り戻された執務室の中心で、不意に葵が手元の報告書から顔を上げた。
「どうした?」
「上守支部長より連絡です。彼らが、技能についての指導を望んでいると」
「――」
――指導。
「ジェイン・レトビックが主導で願い出てきたものとのことです。――いかが為されますか?」




