第一話 協会来訪
――尻尾のように揺れる胡桃色のポニーテール。
素性を知らなければ年下かと思ってしまうほど低い、140センチ台の背中が、黒のジャンパーに両手を差し入れたまま前を進んで行く。くせ毛の跳ねた左巻きのつむじ。
「……」
数十分前に人の命を奪いかねない戦いを繰り広げていたとは思えないほど、日常的な風景だ。――雷を操る男との戦いののち。
休息と説明のために留まっていた俺の家を出て、俺とフィアたちは、千景先輩のあとに着いていっている。……魔導協会。
魔術師である千景先輩が所属するという組織。俺たちの巻き込まれた事態の説明をするため、そこに案内するという話だったが……。
――どんな組織なのか。
どれくらいの規模で、どんな人間が所属しているのか。心のうちに浮かぶ疑問の種は尽きず。
だが、止まることなく進んでいく先輩の足取りを止めてはいけないのではないかという迷いがある。フィアもリゲルもジェインも、俺たちの側の誰もが沈黙するまま。
「――ここだ」
住宅街の外れにある林を抜けて。灰色に小石の交じる砂利の上で立ち止まった先輩が、目の前に広がる一角を指し示した。ここは――。
――立ち入り禁止の看板が立てられている、打ち捨てられた集合住宅の区画。
上部に返しのつけられた、四メートルはある網目状のフェンスが一帯を囲んでおり、林の奥ということもあってか人気はない。どこにでもありそうな放棄された廃墟。
「中に入る。破片を踏まないようにな」
「は、はい」
「んなとこにあるんすか……?」
「ああ。私たち魔導協会の活動範囲は、世界全域に渡る」
一見して魔術などとは関わりのない場所のようだが。先輩のあとに続き……。
「中心となる建物は一つだが、世界各地の活動に対応できるよう、支部や入口は各所に作られてる。――〝開錠〟」
フェンスに沿って辿り着いた、封鎖された網目状の入り口に向かって先輩が小さく声を発する。微かな空気の震えののち。
「おっ――⁉」
幾重にも撒かれた鎖の奥から確かに、独りでに鍵の外れるような音が聞こえてきた。っこれは――。
「――魔術による開錠」
「……!」
「入り口となる場所には大抵、魔術による隠ぺいやセキュリティが施されてる。無関係の人間に入られると困るからな」
生き物のように蠢いて外れた鎖。入ったあとの入り口が独りでに閉まり、施錠されるのを気にも留めずに、先輩は敷地の奥へ進んでいく。廃墟のようなビルの扉に近づき。
「この周りの林も、人払いの結界の効力を出すために植えられたものだ」
「え――」
「魔術的な感覚のある人間じゃなきゃ、方向感覚が惑わされて辿り着けもしない。今は私がいるからスムーズに近づけたがな」
同様にして扉を開いた。――立ち込める埃の臭い。
「う……」
「これは……」
劣化により崩れかけた建物の惨状が、天井の穴から降り注ぐ陽光に見事に照らし出されている。タイルの貼られた床には無数の罅割れが走り……。
「えっと、その」
「大丈夫なんですか? こんなところで……」
「見た目ほどには襤褸じゃない」
コンクリート製らしい壁の塗装は剥がれ落ち、隅に降り積もった埃と建材の破片が、この場所が何年も手付かずのまま放置されていたことを教えてくれている。ところどころが破砕した柱。
「建物の土台と内部に補強の術式が掛けられてて、耐久性は確保されてる」
「――」
「ハリケーンの直撃にだって耐えられるさ。入り口にはとにかく、意外性があった方がいいからな。――ここだ」
天井を支える役目を果たせずに、今にも崩れ落ちてきそうだ。先輩の話に息を呑んだ俺たちの前に。
「――?」
「ええと……?」
予想とは違う、意外な光景が出現していた。風化した階段を上がりきった先。
「……どこに入り口があるんすか?」
「すぐに分かる」
突き当りにある歪んだ鉄扉を開いた部屋の中には、何もない。がらんどうに見えるだけの空間。
風化していた下のフロアと違い、閉め切られていたためか状態はまだマシなようだが、七メートル四方ほどになる手狭なスペースには、簡易な椅子やテーブルでさえ置かれてはいない。元から空き部屋だったのか。
「扉を閉めてくれ。一応の用心のためにな」
「っ、うっす」
汚れでくすんだ窓ガラスから、ぼやけた光が空白のスペースを照らしているだけだ。ここが一体……。
「――【開門】」
なんの入り口だと。――瞬間。
「ッ‼」
「おおっ⁉」
床に手を当てて唱えられた詠唱と同時に、剥き出しの石材に占められていたはずの部屋の中心に、何かが浮かび上がってくるのを目にする。複雑な意匠と線とで構成された――!
「……!」
「……魔法陣、か?」
「上に乗ってくれ。円の中から身体が出ないようにな」
「わ、分かりました」
十人は乗れるかという大きさの、奇妙な法陣。見えないだけで始めからそこにあったかのように、輪郭の濃い黒々とした実線が図像を刻んでいる。見慣れない文字たちが形作る円の上に……。
「……っ」
先輩から言われた通り、つま先の出ないようにして四人で身を寄せ合う。……読むことはできない。
「〝身分証明、通行許可〟――」
「……」
「よし。少し酔う感じがするかもしれないが、我慢しろよ」
「お?」
「――【入山】」
「――っ」
現存するのかも分からない古めかしい言葉たち。円の中に入った先輩が何かを唱えると同時に、刻印のようだった法陣が、淡白い光を放った。
――刹那。
「――⁉」
不意に生まれた落下の感覚に瞠目する。消える――ッ⁉
「うっ――⁉」
「きゃ――っ‼」
足場が無くなる。地中に引きずり込まれるかのような感覚と併せて、今まで自分を囲んでいた景色が溶けるようにして消失する。沈み込むような――!
どこかに向けて身体を引っ張られるような引力が全身を襲う。浮遊しているような無重力感。
自分がどこにいるのかも分からない。一度分解されて作り直されるような、無明の中に投げ出される力によろめいた直後――。
「……っ!」
思わず突いていた足の裏に、しっかりとした、堅固な地面があることを自覚した。ここは――ッ。
「お、おおっ?」
「……っここは……?」
再帰してきた光。周囲に蘇った色を目にして、自分が先ほどまでとは全く別の場所にいることに気付かされる。……天を衝くほどに巨大な。
石造りの建物の内部。朽ちかけの廃ビルとはまるで違う、重厚で滑らかな曲面を描いた壁面が、壮大に視界を切り取っている。向こう側まで数百メートルはあるだろう巨大な円状の空間。
広がる床の一面に、俺たちが乗っているのと同じような法陣が幾つも並んでいる。ここが……。
「――私の所属する、魔導協会の本山」
「……!」
「支部以外のゲートから入った場合の入り口だな。幾つかの区画に別れていて、」
「でっけえ……」
先輩の所属している組織。見上げるような高い天井。
見通すことさえできない高い上層から、俺たちのいる場所に向けて柔らかな光が降り注いできている。……陽光とも電気の光とも違う、
「凄い大きさですね……」
「各地から本山への門が集まる場所だからな。まずはお前たちを――」
「――上守支部長」
不思議で穏やかな光。幻想的といえる光景に目を奪われていた俺たちの耳に。
「――」
聞きなれない、誰かの声が届いてきた。死角の方角からかけられたその声に――。
「……」
俺たち全員が振り返る。別の区画へと続くのだろう通路の見えている場所。
俺たちのいる円陣から五メートルほど離れた位置に、見知らぬ二人の人物が立っている。粛然とした面の中から眼差しを差し向ける、大人びた女性に。
「――ただいま戻りました」
その斜め前に立っている、気風のある矍鑠とした老人。近づいてくる二つの足取りに、どうしていいものか分からない俺たちの隣で、先輩が静かに首を垂れた。
「秋光様、櫻御門補佐官」
「――ご苦労だった」
――声。
俺たちの前にまで近づいてきた老人が、先輩に対して威厳と温かみを兼ね備えた頷きを見せる。――ただそれだけ。
何気ないその一つの動作で、全てが理解される。目の前に立っているこの老人。
「凶王派と対峙し、彼らを連れ帰るのは容易ではなかっただろう。努力と研鑽に感謝する」
「支部長としての責務を果たしたまでです」
「それでも賞賛されるべきことには違いない。……さて」
俺たちの前にいる人物こそが、今この場において、最高の立場を持つべき人間なのだろうということが。明晰な光の宿された――。
力強い瞳。六十を超えていると思しき髪には白いものが入り混じり、皴の刻まれた肌は越してきた歳月を如実に感じさせるが、磨かれた眼差しと気配は一分もくすむものではない。蓄積された歴史と人格。
「疑問も色々とあるだろうが、これだけは言っておかなければな」
奥に秘める力量を、明確に感じさせるようだ。挨拶を終えた老人が俺たちに顔を向ける。
「――ようこそ、魔導協会へ」
「――」
「ここに来た以上、身の安全について心配は要らない。我々は君たちを歓迎する」
聞く者の心を安堵させるような声音で、そう宣言した。――っ。
「……」
――歓迎。
「自己紹介から行こうか。私の名は、式秋光」
正体の分からない相手から真っ先に好意的な言葉が出たことで、俺たちの側に立ち込めていた緊張が少し和らいだ気がする。引き締まっていた表情を幾分穏やかにしたのち、軽く咳払いをする老人。
「魔導協会の幹部、『四賢者』の一人であり、現在の協会で指導的な立場を務めている人間になる。――よろしくお願いする」
「っ、いえ」
「は、はい。こちらこそ」
「硬くならなくていい。所属を持たない君たちにとっては、ただ一人の老人と変わらない。――彼女は櫻御門葵」
――指導的な立場。
表現は控えめだが、実質的なトップということだろうか? 想像以上に高い立場の人間が出てきて息を呑む俺たちの前で、気さくな笑みと共に目元の力を緩めた老人――秋光さんが、一歩引いた位置に佇んでいた女性の方を指し示す。始めに先輩に声を掛けてきた人物。
「私の仕事の補佐をしてくれている魔術師だ。優秀な技量を備えていて、今回の件についても調査に当たってもらっている」
「――葵と申します」
一歩前に出た女性が軽く会釈をする。肩まで伸びる薄黒の墨のような髪。
「どうぞ、よろしく」
「いや、こりゃどうも……」
洗練されながらも落ち着いた服装と佇まいには、補佐という役職にぴったりの雰囲気がある。……三十台前後だろうか?
二十センチ以上は違う背丈のせいもあるだろうが、並ぶと二十代だという先輩より上の年齢に見える。身に礼儀が染み付いたような気配。
言葉遣いを含めた振る舞いに敵意などは感じられないものの、友好的な態度を出している秋光さんと違って、どことなく冷たい印象を感じさせられる。瞬きも僅かに見つめてくる瞳……。
「――君たちの素性や事情については、上守支部長からある程度報告を受けている」
狙いをぶらさず注がれ続ける視線からは、虚偽を許さないというある種の圧力さえ伝わってくるようだ。――っ。
「え――」
「緊急時につき、無断での調査になってしまったことは申し訳ない。君たちのうち三人には特殊な力があり、最近になって二度、悪意のある技能者に襲われた」
思わず声を挙げてしまったフィアの素振りを、秋光さんが丁寧に執り成す。……なるほど。
始めに襲われたときから先輩が俺たちの様子を窺っていたのなら、その上司である秋光さんたちにも当然情報がいっているだろう。――そうだ。
俺たちがここに来た何よりの理由は、そのことについて知らなければならないからだ。なぜ俺たちは命を狙われたのか。
「君たちを狙っている組織の名は、『凶王派』という」
「……!」
「我々魔導協会を始めとする『三大組織』と対立し、技能者界を二分する勢力。技能者界の裏に精通し」
俺たちを襲ってきた男たちは一体、何者で、どうすればこの事態を解決できるのか。話し出した秋光さんの言葉に――。
「千年近く続く歴史と、強大な影響力を持っている。我々協会が総力を挙げたとしても、完全に勢力を除くことはできない」
「……っ⁉」
耳を傾けていた、俺たちの間の空気が静まり返る。……そんな。
そんな強力な組織が、俺たちを狙っているのか? 衝撃の中で思い起こすのはこれまでの襲撃者たち。……信じたくはない。
受け入れたくはない話だが、確かにそうした組織であれば、ああいった人間を寄こすことも可能だろう。今聞いたことが事実であるとして。
問題なのは――。
「その上で――」
「――」
「今回君たちを連れてきてもらったのは、彼らの手から君たちを守るのに、それが必要な措置だと判断したからだ」
「……っ⁉」
なぜ、俺たちが。――なに?
「君たち四人にはこれから基本的に、この本山の内部で生活してもらうことになる」
「……え?」
「家族や関係者には、私たちの方から話を通しておく。問題にならないよう、専門の職員が対応――」
「ちょ、ちょっとタンマっす!」
フィアが呆然と声を零す。覇気のある普段からは珍しく、狼狽した態度の顕わなリゲルが手を挙げる。――何を言っているのか。
「……学園はどうなるんすか?」
「……」
「折角色々と始まったばかりだったってのに。シフトの入ってるバイトとかもあるんすよ?」
「休学や休職、場合によっては辞職ということにしてもらう」
――重々しい声。
「契約の続く家賃や学費、稼げるはずだったバイト代などの損害や費用は、全てこちらで補填させてもらうつもりだ」
「ッいや、そうは言っても」
「……凶王派は元来、秩序に属さない無法者たちが集う組織です」
動揺して声の出ない俺の前で、食い下がろうとするリゲルに、葵さんから淡々とした説明が告げられる。ッ――。
「これまでは私たちへの露見を防ぐために目立たない方法での襲撃を行っていたようですが、事態が公然のものとなった以上、その必要性は皆無」
「……!」
「凶王派本来の性質により、以降の襲撃は手段を選ばず行われることになるでしょう。貴方たちがいつ、どこにいようとも」
冷静な光を覗かせながら言われた台詞に、意味を悟ったリゲルが言葉を失っている。……巻き添え。
「そんな……」
「……やはりか」
俺たちだけを狙ってきていたこれまでとは違い、周囲に被害者が出るかもしれないということだ。学園の人間に……。
「話をするのに連れていくと言われた時点で、嫌な予感はしていた」
「……」
「ただでは済まないだろうと思っていたが、こういうことだったとはな……」
「……なんで……」
教会の子どもたちや、バイト先の人たち。無関係な人たちまで。……なぜ。
「なんで俺たちが、そんな相手に狙われるんですか?」
「――それについてはまだ、分かっていません」
なぜ俺たちが、こんな目に。――分からない。
「様々な方面から要因を探してはいますが、手掛かりはないまま」
「……っ」
「事態の解決が見込めるときまで、貴方たちの安全を確保する必要があります。本山での生活はそのための措置、ということです」
「――事情としてはその通りだ」
やりきれない思いから絞り出した問いかけにも、納得させてくれるような答えは返ってこない。再び口を開く秋光さん。
「我々の側としても、君たちの生活に影響が出る状況を長く続けさせるつもりはない」
「……」
「魔導協会の長として、事態の解決に全力を尽くすことを約束する。それ以外に、君たちに何かを要求することはない」
語る中で、偏に誠実さだけをもって伝えようとするような真剣な瞳が覗く。……本心であるのだろう。
「所属を強要したり、君たちの立場を利用したりすることもしない。質問があれば遠慮なく訊いて欲しい」
「……その」
今しがた顔を合わせたばかりの相手ではあるが、秋光さんの態度には、それを自然と納得させるだけの真摯さがある。沈黙のうちに残響が消えていく中で、様々な思いと考えを抱いているだろう俺たちのうちから、フィアが躊躇いがちに手を挙げた。
「先輩たちのいる、この魔導協会っていうのは。……どういう活動をしている組織なんでしょうか?」
「その説明をするべきだったな。――君たち自身も知っているように、この世界には、魔術と呼ばれる特殊な技法が存在している」
頷いた秋光さんが今一度俺たちを見る。……そのことは身をもって知っている。
「一見すれば理から外れたようにも見える技能ではあるが、だからといって個々の指針や私欲に任せていれば、招かれざる利用が必ず被害と混乱を齎す。我々魔導協会は、魔術師としてあるべき道筋を世界に示し、魔導の秩序を形作ることを責務としている」
「秩序……」
「新しく魔術師となる者の教育や、魔術理論の開発、研究、整備など。中には、道に外れた仕方で魔術を使う者たちへの対処も含まれていて、今回の件などはそれに当たる」
誇り以上に自負をもって語られる台詞。……言われていることは理解できる。
俺の力もそうだが、ジェインやリゲルの使う普通でない力とは、通常の社会の常識からは完全に逸脱しているものだ。悪用しようとでもすれば、その使い道は無数に思いつくほどで……。
「我々協会は千年に近い歴史を持ち、世界で総勢数百万人を超える魔術師たちが在籍しています」
それを止めるための活動というのは、どこかしらで必要になってくるのだろう。――っ数百万人。
「中心である本山には、上級以上の資格を持った魔術師三百人の常駐に加え、幹部である秋光様方四賢者が」
「――」
「周囲には龍脈を用いた守護結界である【大結界】が敷かれています。貴方たちの感覚で言うのなら、現代の兵器であるミサイルや砲撃を何発撃ち込もうと崩れることのない守り」
冷静な口調で語る葵さんの瞳が俺たちを見つめてくる。普通でない常識の働いている世界であっても……。
「協会に所属する人間を識別し、外部者の侵入を拒む術式も組み込まれています。個人としてこの防御を抜けられる技能者は皆無でしょう」
類を見ないような、強固な防衛体制が整えられているということか。断言する口調。
聴いただけでは荒唐無稽とも思える強い台詞だが、あくまで落ち着き払ったままそれを口にしているということに、言葉以上の説得力を感じさせられる。……具体的な詳細は分からない。
だがそれでも、目の前の相手が嘘を言っていないのだろうことは伝わってくる。誠実さで語りかけてきた秋光さんに続いて。
「……仮に私と戦ったあの男みたいな奴が入って来たとしても、指一本触れられはしない」
葵さんもまた、事実をもって俺たちの不安に応えようとしているのだということが。説明を補足してくる先輩。
「二人とも私よりずっと強力な魔術師で、直接この件の担当に当たってくれる。中でも秋光様は、四賢者であるだけじゃなく――」
芯に頼もしさの滲む口調には、俺たちを安心させようという気遣いが伝わってくる。視線が、改めて秋光さんに目を遣った。
「技能者界の歴史に名を残すほどの人物。《救世の英雄》とも呼ばれてる方だからな」
「――⁉」
「救世の……」
「英雄?」
フィアとジェインが声を挙げる。先輩の口にした単語。
「――上守支部」
「いや」
「――凄え二つ名っすね」
「……」
「映画のフレーズみたいでかっちょいいっすけど。どんなことをやったんすか?」
「茶化しで言ってるわけじゃない」
何かを言いかけた葵さんを、秋光さんが視線で止める。大袈裟な表現に現実味を感じられないでいるのか、話半分といった様子で返したリゲルに、先輩が真面目な面持ちで答える。……救世の英雄。
「秋光様は、十年前のある事件を解決した功労者」
「……!」
「当時世界に対する不穏な動きをしていた組織があって、仲間たちと共にその活動を食い止めた。秋光様たちの戦いがなかったら、私やお前たちも今ここにいられなかったかもしれない」
「え――」
「……」
「……持ち上げられるような話ではない」
十年前。眼を瞬きさせるフィア。沈黙を保つ葵さんの隣で、当人である秋光さんが口を開く。
「その称号は私だけでなく、あの事件に臨んだ全ての人間に贈られているものだ。戦いの中で命を落とした者も」
「――ッ」
「癒えない傷を負った者もいる。本当に顧みられるべきは私ではなく、今ここにいない人物たちの方だ」
――重苦しい言葉。
生々しい死闘の記憶が込められているのだろう台詞に、先輩も敢えて言葉を続けようとはしない。戦いの実感の支配する――。
「……」
「……秋光、さんは」
「――っ」
その静けさの中で。俺だけが、全く別の衝動に突き動かされて言葉を紡いでいた。……耳に入らない。
「……黄泉示さん?」
「蔭水、冥希という人を……」
今の俺の意識の全ては、先輩の言った言葉の中身だけに向けられている。……もし。
もし、今目の前にいる人物が、あの戦いの参加者だとするならば――。
「知って、いますか?」
「――」
口の中で飲み込んだ気勢。――早まるな。
一致したとはいえ、高々単語二つだけだ。なにが決まったわけでもない。
秋光さんの示してきた態度から思えば、勘違いであってくれた方がずっといいことだ。俺の口に出した名前に――。
「……ああ」
老人が明瞭な反応を見せてくる。僅かに瞑目していた瞳。
「――知っている」
「――」
困惑するフィアたちの視線を背中に感じる中で、目を開き直した秋光さんが、はっきりとした視線で俺を見返してきた。――肯定。
首肯、頷き。頭の中を理解が駆け抜けていく。相手の行為の意味を受け入れた瞬間に――ッ。
「――ッッ‼‼」
湧き起こる激情の意のままに、身体が一気に床を蹴り出していた。滾る憤怒。
黒々とした情念が意識と脳内を荒れ狂い、心臓の吐き出す血液が猛るように沸騰している。袋に入れた終月を強く握りしめたまま――ッ‼
「……‼」
三メートルの間合いを刹那に詰め切り、着地した床石を強く踏みしめる。右手の先に確かな感触を覚えたと同時、世界に正常な時間が回帰してきた。
「――ッ⁉」
「――蔭水ッ⁉」
背後から届いてくる驚愕の息遣い。伸ばした右腕の先。
自らの拳を潰すほど強く握りしめられた指先が、目の前に立つ老人の首元を捻じり上げている。フィアたちが息を呑む声がする。
胸のうちに滾る情念の音がする。業火の如く猛り狂い、目の前の相手を焼き尽くさんとする怒りが、全身を揺さぶっている。相手の顔が苦悶に歪むまで絞め上げてやりたい――!
「……‼」
「――動かないでください」
そんな殺意と紙一重の激情にもかかわらず、俺は、それ以上の行動に出ることを封じられていた。俺の真横に立っている、
一人の女性の手によって。老人の胸倉を掴んでいる手首の脇。
布地を引き千切らんばかりに力の込もった腕の横を、一筋の黒い棒が走っている。首筋に押し当てられた硬い感触。
血の凍るような鋭さはないとしても、下手な動きを見せれば昏倒させられるだろうことが理解できる。夜の海のような暗い青に染め抜かれた――。
「それ以上の行動を見せるなら、容赦なく意識を奪います」
「……!」
「後ろの貴方たちも。下手に動きを」
「……よせ、葵」
飾り気のない鉄扇。衝動的な俺の動きに恐ろしいほどの速さで反応していた葵さんが、息の届く距離から冷徹な二つの瞳で俺を射抜いている。……なに?
「手を出す必要はない。これは、彼と私の問題だ」
「――ッ――‼」
呼吸を遮られておきながら、どこまでも気遣うような口調でいる態度が意識を打つ。――ッふざけるな。
自分の罪が露見したこの状態で、まだ偽善の態度を繕おうというのか? ――引き下がれなどしない。
「……あんたは」
目の前のこの男に、自分の行いを分からせるまでは、絶対に。得物の突き付けられた喉に力を込める。至近からの威圧を跳ね除けるように声を出す。
「――あんたは、父の仲間だったんだろ?」
「……ああ」
「……どうして助けなかった」
糾弾を叩きつけるつもりで、乾いた唇を噛み締める。
「どうして見捨てた? なんで、あのときに」
「……見捨てたわけではない」
――見捨てたわけではない?
「ッふざけ――ッッ‼」
「あの戦いのあと、彼は私たちに、一人にして欲しいと言ってきた」
波立たない水面のような台詞が、更に力を込め掛けていた右腕を瀬戸際で制止する。……っなに。
「気持ちを整理する時間が欲しいからと。各々の負傷と為すべき始末があったこともあり、私たちはそれを受け入れることにした」
「……ッ……!」
「療養の時間を置き、彼が立ち直るのを待つために。尋ねようという動きもあったが……」
真っすぐに向けられる老人の瞳。皴の刻まれた目元のうちにある粛然とした光と、語られる言葉の中身が、水のように俺の意識に染み入っていく。……初めて聞く話。
「結果的に私たちは、彼の決意を尊重することにした」
「……」
「彼が剣を取り、再び私たちの前に現れるまで。どれだけの時間が掛かろうとも、待つつもりで」
炎のようだった熱を治めていく。……小父さん以外の仲間は、
父を、見捨てたわけではなかったのか? 湧き上がってくる動揺。
あの日の感情と理性が頭の中で混じり合う。十年を経て噴出した、焼け付く泥のような気持ちに……。
「……」
「……だとしても」
耐え切れずに、声を発した。……そうだ。
「だとしても、父は死んだ」
「……」
「あのとき、誰かが手を差し伸べてくれていれば……」
失われることのない空虚が拳を絞る。治まらない胸の痛みを、突き付ける一語一句に刻み付ける。
「……死ななかったかもしれないのに」
「……そうだ」
心のうちの淀みを吐き捨てるような糾弾に、老人は忌避することなく答えてくる。正面から。
「私たちは彼を信じた。信じて何もしなかったのだ」
「……‼」
「信じるという決断を下したまま、ただ、それぞれの日々の中で待ち続けていた。あのとき彼の手を取れなかったことを……」
真っ直ぐに俺を見つめ。目を逸らさずにいた面の中で、しわがれた唇が強く噛まれる。――懊悩と後悔。
「彼の強さを信じすぎたことを。……私は今でも、悔やみ続けている」
語る言葉の奥に、これまで重ね続けてきたのだろう苦渋が滲み出ている。……この老人は。
――父の死を、本当に悼んでいる。俺の心を沸き立たせていた情念が消えていく。
掴んでいた指先から力が抜ける。老人の胸元から手が離れるのと同じタイミングで、押しつけられていた扇の感触が静かに引かれた。俺を見つめている……。
「――っ、黄泉示さん」
「――赦せなどと求めるつもりはない」
冷静な補佐官の瞳。襟元を正さないままの老人が語る前で、後ろからフィアが手を握ってくる。下を向き……。
「あの戦いで彼らに起きたことは、仲間として私が生涯覚えておかなくてはならないことだ。――改めて誓わせてもらう」
「――」
「この魔導協会の保護下に入った以上、何人たりとも君たちの命を奪わせることは絶対にしない。彼らの遺志に報いるためにも」
拳を握りしめることさえできずにいる俺に、秋光さんの声が響き渡った。
「私自身の志のためにも。それが我々協会の、命を懸けて果たすべき責務だ」




