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彼方を見る者たちへ  作者: 二立三析
第一章 新しい日々の始まり
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第四話 見ず知らずのもの同士


 ……。

 ……は?

〝ここに置いていただけないでしょうか〟

「……うちに?」

「……はい」

 耳に届いた言葉の意味を飲み込むのに、数秒の時間が掛かる。……訊き返してみたところで答えは変わらないらしい。

 肩に力を入れて、膝に置いた手を思いつめたように握り締めたまま、真っすぐ俺を見つめる少女を今一度見つめ直す。……なるほど。

 余りに突拍子もない提案なので戸惑ったが、考えてみれば決して理由のない話でもなかった。目の前の少女は、記憶喪失。

 家族も知人も思い出せず、自分自身についてさえ分かることのない状態はつまり、一時的とはいえ天涯孤独の身と言っていい。頼れるもののない立場からしてみれば……。

 行きずりとはいえ、今のところ唯一縁のある人間に助けを求めるしかないのだろう。見ず知らずの相手を警戒していないわけではなく。

「……」

 このまま別れを告げられて、路頭に迷うのと天秤に掛けた上で、苦渋の決断を下しているのだ。不安と一途な真剣さの交じり合った翡翠色の瞳が、言い出すに及んだ覚悟のほどを伝えてくれている。……とはいえ。

 その要望が(いわ)れのないものであることは、全くのこと言うに難くなかった。少女は気が動転しているのかもしれないが。

 そこまでの対応はそもそも、単なる個人の手に求められるものでもない。こういった場合に普通、真っ先に頼ることになるのは警察だ。

 警察に行ってくれと言えば俺は面倒をしょい込まずに済み、少女もこんなところにいるよりまともな対応が受けられる。単なるこちらの都合だけでなく、互いにとっていい話であって。

 ――そう。

「……」

 あくまでも、普通の状況下においてなら。――この少女の事情には、何か普通でないものが関わっている。

 どれだけの異常なのかは分からないが、先ほどの通行人たちの様子を見るに、少なくとも関わっていたことには間違いがない。それでも始めは出て行ってもらうつもりでいた。

 自分から関わったのであれば自業自得だし、そうでない場合でも、また同じような目に遭う確率は低いと言える。巻き込まれるのは単なる不運であって、交通事故に遭うようなものだと思えたからだ。

 だが――。

「……」

 記憶喪失という事態の分かった今では、少し、事情が変わっている。……少女の抱えている症状が、仮に普通でない事象の影響を受けてのものだとするならば。

 警察では、それを解決するための知識や手段がない。適切な対応は望むべくもなく、普通の病院をたらい回しにされるだけだろう。仮に警察の調査力で家族が見つかったとしても……。

 記憶が戻らなければ、以前と同じ生活を取り戻すことはできない。相手が知人として接してきたとしても、少女の方は思い出を持たないまま。

 少女にとっても、彼女とかかわる人間にとっても、その生活は決して喜ばしいものではないだろう。……警察に任せれば俺自身の面倒は消える。

 だが。普通でない事柄との関わりを考えて、治る可能性の高い方を考えるならば……。

「……」

 数秒の迷い。

「……分かった」

「っはい……。……えっ?」

 それを乗り越えて、答えを口にする。――やむを得ない。

「――ッほ、本当ですか?」

「ああ。とりあえず、手掛かりが見つかるまでの間なら」

 事情を知ることになってしまった以上、ここで放り出すことはできない。理屈で考えれば、可能性が一番高いのは俺のツテだ。

 治療の手掛かりが見つかるまでの間、それまでなら。俺の承諾が余程のこと意外だったのか。

「……あ、ありがとうございます……っ」

「――」

 俺の顔をまじまじと見つめていた少女の瞳から、唐突に涙が零れ落ちていく。不意打ちに反応できないでいる俺の前で、しゃくりあげの声を押さえるようにして少女は声を零している。

 ――そこまで不安だったのか。

「……使うか?」

「す、すみません……」

 広げていた荷物を見回し、手近の箱からタオルを取り出して渡す。見つめている俺の前で、整った目元の端から、透明な雫たちが柔らかな布地に吸い込まれ。

「ありがとうございます。……ええと」

 タオルを受け取り返したあとで、言葉に詰まった少女が所在なさげに俺を見て困ったような顔つきを浮かべる。……黙っているわけにもいかない。

「……蔭水(かげみず)黄泉示(よみじ)だ」

「は、はい。――よろしくお願いします、黄泉示さん」

 まさか、こんな形で他人に名前を教えることがあるとは思わなかったが。まだ少し涙の痕が残る顔つきに、それでも笑顔を浮かべて少女が挨拶を述べたとき。

「――」

「――あっ」

 ――何とも間の抜けた音が、少女と俺の間に響き渡った。白い布地に包まれた両腕が、咄嗟に腹部を隠すように押さえるが、時すでに遅し。

「……腹が減ってるのか」

「……っはい」

「……時間もあれだし、どこかに食べにでも行くか」

 盛大な腹の音をばっちり聞かれてしまったことに、少女は顔を赤らめて消え入るような声で返してくる。――食欲はしっかりある、と。

 数時間近くあの場所で倒れていたとすれば、無理もないことだろうが。恥ずかしさに縮こまっている姿から視線を逸らして、ソファーの側面にある壁時計を確認する。時刻は十九時過ぎ。

「……その……」

「気にしなくていい。素性が分かってから、あとで清算してもらえば済む話だ」

 今日着いたばかりの部屋には当然食材などなく、わざわざ料理する気もしない。窓からのぞく景色に雨がやんでいるのを確認して、ポケットの中の持ち物を軽くチェックする。――財布に携帯。

「……」

「……な、何か?」

「……いや」

 外食に必要なものはそろっている。俺の視線に気づいた少女が、不安げに自分の出で立ちを一瞥する。その前の疑問として……。

 ――果たして今の少女は、周囲の人間からまともに認識されるのだろうか?

「いい」

「……?」

「行こう。遅くなってもあれだしな」

「は、はい」

 ……考えても仕方がない。

 いつまでも外に出ないわけにもいかないし、どの道それは確かめなければならないことだ。最悪一人で何かを買って来ればいいかと考えつつ、

 緊張している様子の少女を連れて、廊下に出る。コートを羽織ると、部屋をあとにした。

 ――。

「――では、ご注文が決まりましたらお呼び下さい」

 マニュアル通りと思しき(つつが)ない接客ののち、ブロンドの髪をヘアゴムで纏めた女性の店員が、悠々とした足取りでテーブルを去っていく。綺麗に拭かれた四人掛けテーブルの上には、プラスチック製のコップに入った水と、使い捨てのおしぼりが置かれており。

「何にするか……」

「そうですね……」

 カトラリーの横に置かれた、ラミネート加工の施されたメニューには、食欲をそそるカラフルな写真がいくつも並べられている。対面の少女が自分の分のメニューに視線を向けたのを確認して、手元の候補たちに目を落とした。

 ――結論から言ってしまえば、俺と共に外に出た少女は、きちんと周囲の人間に認識されていた。

 歩いている最中も度々周りから目を向けられたし、一度など、向こうから来た自転車に危うくぶつかりそうになっていた。……人目をかなり惹いていたと言っていい。

 腰元まで流れる美しい白銀の髪に、透き通るような翡翠(ひすい)色の瞳。顔つきは張りのあるシャープな小顔で、あどけない雰囲気が白のワンピースとローファーによくマッチしている。誰かの理想から抜け出してきたのではないかと思えるほど、少女の容姿は整っていて、気を引かれるのはある意味当り前と言える。

 ……ただ。

「ええと……」

 本人からすれば、注目を集めるのは慣れないものなのか、道中では終始落ち着かない様子を見せていた。常に不安気に辺りを見回して、視線や物音にびくりと肩をはねさせ、未知の危険が辺りに潜んでいるように怖々(こわごわ)と歩く。

 周りから普通に認識されるようになっていても、一人では放って置けないと感じさせる不適合者振りだ。……向けられる視線の中には、幾分警戒すべきと思えるものもあった。

 (しばら)くは俺が気を張っていないといけないかもしれない。面倒さに内心で息を吐きつつ、手元のメニューに意識を戻す。――品揃えが豊富で値段も安い。

 好みの分からない人間と来るのに、ファミレスというのは打ってつけの部類だ。初の異国の地での食事としては面白みに欠けるが、こればかりは仕方がない。

「決まったか?」

「は、はい。ええと……」

 こちらからの促しに、店に入ってからは少し落ち着いたらしい少女が、覚束ない手つきでページをめくる。仮にも同じ生活圏に身を置くことになる相手なのだから、この食事の場で人間的な部分というのは少しでも見極めておきたい。

 これまでの素振りからすれば、決して付き合いづらい相手ではないと思うが――。

「その、黄泉示さんは何にしました?」

「俺か?」

 答えの代わりに質問が飛んでくる。……意図がよく分からないが。

「ボロネーゼのスパゲッティに、トッピングでチーズ。栄養バランスがあれだから、セットのサラダもつけようと思う」

「ボロネーゼ……」

「新居まで歩いてきたから、肉が食べたくなってな。そっちの方はもう決まってるのか?」

「は、はい」

 俺の頼むものが、何か関係があるのだろうか? 見つめる俺の前で、答えを聞いた少女は何かを探すようにページを捲っている。メニューの何か所かに目を走らせて。

「大丈夫です。決まりました」

「分かった。じゃあ――」

 頷いた相手に首肯する。店員を呼ぶボタンに指を掛けたところで――。

「――」

 思いついた考えに、手が止まった。……もしや。

「……いや」

「?」

「やっぱり、キノコのリゾットにするかな」

「……!」

 不意の俺の注文の変化に、少女が表情を変える。素早くページを捲ったのち。

「よし、じゃあ」

「あ、……すみません」

 おずおずと手を上げて、申し訳なそうな目つきで俺を見てくる。控えめな口調で、

「やっぱりその、私もメニューを変えようかと」

「いや、それともパン付きのハンバーグセットにするか……」

「――っ」

 二転三転する俺の注文に、瞬きした瞳が動揺するようにページの上を揺れ動く。――やはり。

 どうやら少女は、自分の注文する食事の値段を気にしているらしい。着の身着のままでいた少女は当然、金など持っていない。

 この食事以外でも、必要なものがあれば支払いは当分俺がすることになる。問題が片付けば纏めて請求する予定だし、肩代わりでなく立て替えであることは伝えてあるのだが。

「……」

「え、えっと――」

「――値段は気にしなくていい」

 それでも無遠慮に頼むということはし辛いのだろう。誤解の起きないよう、口頭で明確に伝えておく。

「高すぎるものだとあれだが、どうせ一時的に立て替えるだけだ。常識的な範囲で、好きなものを頼めばいい」

「――は、はいっ」

 意図を見抜かれて恥ずかしげにメニューを見つめ直す少女を、半分複雑な気持ちで見やる。……初めの会話辺りから、薄々感じてはいたことだが。

 目の前の少女の素直さは決して、記憶喪失という特異な状況だけが齎しているものではない。思ったことが逐一(ちくいち)顔に出てしまっているというか。

「お決まりでしょうか?」

「っはい。その――」

 詐欺などに簡単に引っかかりそうだ。懸念の籠った視線を知ってか知らずか、近づいて来た店員に向けて、少女が丁寧に注文を告げた。――。

 ――数分後。

 机を挟んで向かい合う俺たちの前には、注文したそれぞれのメニューが並べられていた。最終的に少女が選んだのは、キノコのマカロニグラタンに、俺と同じサラダのセット。

「……」

「あふっ……」

 気にしなくていいと言っても気にしていたのか、合計でも俺が頼んだメニューより百円ほど安くなっている。湯気を立てるチーズとホワイトソースの熱さに、微かに涙目になりながら、息を吹きかけて食べている姿……。

「……好き嫌いとかは特にないのか?」

「あっ、ふぁい。……大丈夫……だと思います」

 無言で食べ続けるのもあれだと思い、俺の側から慣れない会話を振ってみる。食事の好みに偏りがあれば合わせるのに苦労する。

「メニューを見ていた時にも、特にこれは食べられないというような感覚はなかったので……」

「そうか」

「多分……にはなってしまうんですけど。……黄泉示さんは、どちらからいらっしゃったんですか?」

 小父さんの影響で、こう見えても栄養バランスには気を使っている方なので、特別好き嫌いがないのなら安心だ。何か話した方がいいと思ったのか、ひと段落した話に代わって、少女の方から新しい話題が振られてくる。……隠しておくこともないか。

「日本だ」

「日本……」

「ああ。知ってるか?」

 自分についての一切の記憶のない少女だが、実際どの程度までの知識があるのかは確認してみないと分からない。こうして改めて見てみると――。

 少女少女とは言ってきたが、齢はこちらとそう変わらないくらいなのだということが意識されてくる。青年期の人間が醸し出す特有の雰囲気に、言葉遣いや目の奥に見える、ある程度の成熟を経た理性の光。

 言動に擦れたところがないのと、仕草が慎ましやかなことで、少女というような印象を受けるのかもしれない。身長も特別小柄というわけではなく、

「確か、東の方にある島国……でしたよね?」

「そうだな」

「色々な珍しい文化があって。漫画やアニメなんかが流行っていて……」

 流石に男の俺よりは低いが、女性としては平均か、それよりもやや低いくらいに感じる。伸びるチーズをスプーンでぎこちなく絡めとりながら、知識を辿っている様子の少女を前に、フォークに巻き付けたボロネーゼのスパゲッティを口へ運ぶ。一般的と思える知識については、きちんと持っている。

「ニンジャとサムライが、常にカタナを振り回して戦っているという……」

「――ッ」

 それでも自分より幼いような、どこかあどけない印象が消えないのはやはり、記憶喪失の影響があるのだろう。――予想外の不意打ちを受けて呼吸が止まる。

「ごほっ! ゴホッ!」

「ッだ、大丈夫ですか?」

「……げほっ。ふぅ……」

 飲みかけていた水ごと気管に入りかけた肉とパスタを、強く胸を叩いてどうにか正常な食道の方へ戻すことに成功する。……っちょっと待て。

「……」

「……冗談か?」

「え? ……いえ……」

 落ち着くためにもう一度口に含んだコップの水を置いた俺がじっとりと見つめる先で、少女は真面目そうな瞬きで困惑の表情を浮かべている。……マジなのか。

「……そんな修羅の国みたいな殺伐とした場所じゃない」

「え」

「普通に人が住んでて、普通に人間が生活してる国だ。ここと、大して変わらない」

「……そうなんですか? 皆さんキモノを着ていて、魚を生のまま食べたりするというのは――」

「江戸時代にはそうだったかもしれないが、現代で日頃から着物を着てるのは芸者か、その道の研究者くらいだ。魚を生で食べるのは、刺身や寿司みたいな食文化で――」

 その知識がもし本当だとすれば、そんな魔境から来た俺は相当ヤバい人物ということになるはずだが。……自分自身についての記憶を失っていても、どうでもいいような誤解は残っているものらしい。

「じゃ、じゃあ、今の日本では、謝罪のときにもハラキリはしないんですか?」

「……昔はあったのかもしれないが、今ではもうとっくにない。冷静に考えて、そんな風習を続けてたら色々と問題だろ」

「そうですよね……っ」

 もっと大事な情報を覚えておいてくれよと思う俺の眼前で、一通りの説明を聞いた少女は、心なしかホッとしたような面持ちで胸を撫で下ろしている。直後に眉根を寄せて。

「……すみません。色々と間違っていたみたいで」

「別に。訂正しておいてくれればそれでいい」

 残っていた知識がエセだったことに気落ちしたのか、軽く消沈しているような少女に執り成す。……まあ。

「あ、でもその、温泉がたくさんあるというのは……?」

「それは本当だな。日本は活火山の多い国な分、有名な温泉地が幾つかあって――」

 例えつまらない内容であっても、会話の切っ掛けが作れたのはマシだと言えるのかもしれない。互いに(から)に近づいている皿の中身を見つめながら、残っているパスタをフォークでざっと掬い上げた。



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