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彼方を見る者たちへ  作者: 二立三析
第三章 日常を超える扉
56/153

第十二話 揺れる天秤





 穏やかな午後の陽気。

「――待てーッ!」

「っほうら、ほらほらッ」

「くそっ! こいつっ!」

 休日を利用して、俺たちは教会を訪れている。ジェインの保護者であるエアリーさんと――。

「何人で掛かってきてもいいぜ? 蝶のように飛び回るこの俺を、捕まえられるならの話だけどなぁ!」

「なんだこのおっちゃん‼」

「異常に速えぞ!」

「――じゃあ、次はかくれんぼね?」

 子どもたちに会うため。五、六人の年少組に追い回されているリゲルを置いて、おしゃまな少女――カロリーネが提案する。

「じゃんけんで鬼を決めて、ゆっくり十数える間に隠れる。範囲は教会の中で、外に出たら反則負け」

「……私、かくれんぼ得意」

「あら、私だって負けてないわよ。《かくれ(Versteck)んぼ(spiel)の女王》と呼ばれた実力、見せてあげるわ」

 隣には物静かな性格をしたリーゼ。ジェインは建物の中で、何人かの子どもたちの勉強を見ているところだ。奮起する子どもたちの後ろから――。

「――楽しそうですね」

 エアリーさんが歩み寄ってくる。着古された聖職衣に。

「あ、神父」

「神父も参加する? 手加減しないわよ」

「喜んで加わりたいところですけど、このあとスポンサーとのお話がありますから」

 白いものの入り交じるプラチナブロンドの髪を揺らして、品よく笑うエアリーさん。何か一瞬、背筋を畏怖の念のようなものが走り抜けた気がしたが……。

「次の機会にしましょう。――子どもたちの相手をしてもらって、ありがとうございます」

「いえ――」

 気のせいだろう。子どもたちと遊ぶ俺たちの様子を見ていた、エアリーさんが言う。

「気にしないでください。俺たちも楽しいですから」

「嬉しいですね。子どもたちも楽しみにしてるんですよ。筋肉マッスルのお兄ちゃんと、綺麗なお姉ちゃんが来るんだーって」

「え」

「――でも、驚きました」

 俺は? 尋ねる前にエアリーさんが目を細める。子どもたちを教えるジェインがいるのだろう、建物の方角を見つめて。

「いきなり友達同士で合宿がしたいなんて言い出すものですから」

「――」

「将来のための予行演習と聞いて、柄にもなくびっくりしてしまいました。足の速い子の独り立ちは、いきなり来るものですね」

「エアリーさん……」

 ――そう。

 エアリーさんたちへの説明に当たり、ジェインが今回の生活を始めた動機は、将来的な独り立ちのための練習ということになっている。声に滲む感情。

「――いいのよ」

 (おもんばか)った何かを言うより先に、カロリーネの方が言葉を出した。……遊んでいたさっきまでとは。

「ジェインお兄ちゃんは、ずっと私たちにかかりきりだったんだし」

「……!」

「この辺りで、自分のための努力を始めても。大学生なんだから、早すぎるってことはないわ」

「……そうですね」

 別人のように大人びた口調。これ以上俺たちに気を遣わせないためか、エアリーさんが表情を元に戻す。

「どうですか?」

「――?」

「四人での共同生活は。上手くやれていますか?」

「あ……」

 他意のない様子で尋ねてくる。問い掛けに、一瞬。

「……はい」

「そうですか」

 言葉に詰まりかけたものの、どうにか返事をする。頷いた俺たちの仕草に、安心したようにエアリーさんが首肯した。

「それなら何よりです。慣れないことも多いんじゃないかと、少し気にしていましたから」

「……」

「――ほら」

 背を向けたエアリーさん。リゲルたちの方へ歩いていく聖職衣の姿に、微かに物憂げな表情を覗かせたフィアと俺を、カロリーネが急かしてくる。

「そろそろ始めるわよ。これ以上待ってると、昼休みがなくなっちゃうんだから」

「……なくなる」

「まずは鬼決めからね。じゃーんけーん――」

 ……そう。

 大きな問題がないというのは確かだ。決まった鬼役。我先にと散っていく子どもたちの気配を、庭の木の幹に額をつけながら感じ取る。隠れ場所を探しているらしいフィア。

「えっと……」

 過ぎていく制限時間に、迷いながらも遠ざかっていくローファーの足音を、瞼に満ちる暗闇で耳にする。――概ねは順調。

 あからさまな破綻はない。初めての試みにしては、予想以上に上手く進められていて。

「――ッ‼」

 ただ。――白色灯の降るトレーニングルーム。

 硬い板の床を踏みしめ、筋肉をきしませながら終月を振るう。いなした左拳の甲。

 唸りを上げる暗黒色の刀身が、沈むように入り込んだスーツの肩口に流される。身体を引こうとしたところで――。

「ッ! ッ……」

 引き締まった黒革のグローブ、風を切る右拳のアッパーが、顎元でピタリと静止させられた。拳の纏う風圧。

「ッ――」

「――ん~っ」

 浮き上がった前髪にヒヤリとした直後、フィニッシュの姿勢で止まっていた右腕が引かれる。顎に手をやったリゲルが、口を結んで声を出す。

「やっぱまだ今一だな」

「……っ」

「振り出しが遅いっつうか。俺が踏み込もうとしたとき、一瞬迷ったろ?」

「……っああ」

 感想戦に入っている。半端な姿勢で止まっていた終月を下ろし、リゲルの指摘に頷く。日本刀としては細身であるはずの終月だが……。

「守るなら守る、引くなら引く、振るなら振るで、しっかり決めて打たねえと。違ったらどうしようってのも分かるんだが」

「……」

「迷いがある手ってのは、はっきり言って隙だからな。どうしたって挙動が遅くなるし……」

 回数を経るごとに、重量がじわじわと腕に圧し掛かっているのが分かる。リゲルがパシリと拳を手のひらに打ち付ける。

「例えいい手だったとしても、覚悟の決まってない分、気合いの差で押し込まれちまう。動く前は目一杯悩んでも、動いたら思いっきり動く‼」

 ビュンと風を切る素振り。

「それだけでも大分違ってくると思うぜ。黄泉示の場合、身体能力は一級品なんだからよ」

「そうだな……」

「そうそう。――あとは、あれだ」

 腕組みをするスーツの腕。

「ストレッチで身体はほぐれてるはずなんだが、なんかまだ動きが硬えんだよなぁ」

「――」

「ガチのバトルを想定してるわけだから、気持ちも分かるけどよ。――まずはリラックス!」

 解いた両腕を弛緩(しかん)させ、ブルブルと震わせてみせる。

「ガチガチに固まってちゃ、勝てるもんも勝てなくなっちまう。――仲間内だからって遠慮は要らねえぜ」

「……」

「俺に取っちゃあ、この拳が武器みてえなもんだからよ。武器対素手じゃあ、お互いやり辛えだろ?」

「……そうだな」

 ぐっと握られた拳の上でニヤリと笑ったリゲル。意気に釣られた俺が刀を構え直すのを見て、レザーの拳が上がる。

「気合の入ったところで。――もういっちょう来いや!」

「――ああ」

 ――一ラウンド三分の模擬戦形式。

 実戦での技術を高めるため、俺とリゲルがメインでやっているのがこの鍛錬だ。刀を構えたまま……。

 目の前の相手の挙動に集中する。……隙のない構え。

 正面からでは崩せないと見て、つけ込まれる機を作らないよう、正中線を意識して構えを保つ。……原因は分かっている。

 技術の差の問題もあるが、(武器)を使う以上、間合いでは俺の方が有利。一本も取れないというのはつまるところ――。

「――ッ!」

 俺の側に問題があるということに他ならない。――一気果断。

 迷いを振り切るため、己の側から仕掛けにかかる。踏み込みで間合いを消し――!

 抜刀の姿勢から、フェイントをかけて側面へ滑り込む。これまでにない俺の活発的な動きに、賭けに出るような突貫と思ったらしいリゲルの反応が一瞬ズレる。

 行ける――ッ‼

 ――……ッ!

 降り抜こうとした刹那。

 ほんの一瞬、反射とも言える硬直が身体を止める。流れるようなステップでずれをカバーしたリゲルが、勢いよく踏み込んで――‼

「……ッ」

「……ふぅ」

 交錯した刀と拳。刀身が届くより数瞬だけ早く、リゲルの拳が俺の鳩尾(みぞおち)で止められている。

「――惜しかったぜ」

「……ああ」

「一気に自分から攻めてくるもんだから、思わずヒヤッとしたぜ。気合が入るとやっぱ違えな」

 喜色のこもった台詞。刺し合いに集中していたリゲルは気付いていないようだが。……今の感覚。

 自分の中にあるその情念を確かめる。……やはり。

 俺は――。

「――ッあっ」

 暗い思いが胸中を満たしていた刹那。

「――⁉」

「つ……ッ」

「――どうした⁉」

 明るく照らされた室内に、唐突な重いものの倒れる音が響く。小さく発される苦悶の声。

「大丈夫か? カタストさん」

「っ……済みません」

 ――フィア。縄跳びを止めて声を掛けたジェイン。視線の先で、ランニングマシンの隣に手を突いたフィアが、ゆっくりと身体を起こしている。頭を上げて。

「少し、張り切り過ぎちゃったみたいで。怪我はしてないので、大丈夫です」

「なら良かったけどよ。――気ぃ付けろよ?」

 済みませんと弱々しい笑みを見せるフィアに、リゲルが腰に手を当てる。

「俺らがトレーニングしてるのはあくまで、自分を鍛えるためだからな。怪我とかしちゃ、逆に身体を痛めちまうことになるぜ」

「はい」

「よし。んじゃー、今日はストレッチで仕舞いにすっか」

 空気に掛かった一抹の暗さを吹き飛ばすように、爽やかにリゲルが宣言する。半を回っている長針。

「柔軟は大事だからな。怪我を防ぐためにも、初めと終わりにしっかりやっとかねえと」

「……僕は一人でやらせてもらう」

 オーバーワークになっても意味がないため、必ず時間通りに切り上げることになっている。タオルで汗を拭くのもそこそこに、眼鏡の位置を直しつつ足早に立ち去ろうとするジェイン。

「メニューはもう理解している。補助を受ける必要もない」

「おいおい、待てっての。準備運動と同じで、二人ペアでやった方がしっかり伸ばせるって言っただろ?」

「シャトルランに反復横跳びをこなして、充分身体はほぐれたさ。どうしてもと言うなら、蔭水かカタストさんに頼んで」

「遠慮すんなっての。がり勉で凝り固まった筋肉を、水風船みてえに柔らかくしてやるよ。今日こそ手のひらが付くといいなぁ」

「待て、来るなゴリラが。っやめろ――ッ!」

「……済みません、黄泉示さん」

 満面の笑顔のリゲルに、勉強の憂さ晴らしをされるジェインの悲鳴が聞こえてくる。マシーンでのランニングを終えたばかりのフィアは。

「分かってる、大丈夫だ」

「ありがとうございます。……っ」

 転倒のアクシデントもあってか、息が落ち着くまで少し時間がかかりそうだ。済まなさそうに言って、熱のこもった息をゆっくりと吐いていく。艶やかに濡れそぼった髪。

 運動の邪魔にならないようヘアゴムで束ねられた銀髪は、しっとりとした湿り気を帯びていることも相俟って、まるで銀雪の滝のような煌めきを放っている。膝を半分ほど隠すハーフパンツからは、スラリとした太腿が伸び……。

 速乾性に優れているはずのスポーツウェアは、透けてこそいないものの、ところどころでぴったりと肌の輪郭を露にしている。……トレーニング前のストレッチも同じペアでやっているのだが。

 運動後は特に苦手だ。手のひらや指先で触れるフィアの身体はとにかく華奢で、力加減を間違えれば折れてしまうのではと思わされる。始めの頃は肩を押す動作一つでもこわごわだったことを思うと……。

「……お待たせしました」

「もういいのか?」

「はい。……お願いします」

 進歩はしたが。慣れることは多分、きっとない。

 足を揃えて伸ばした姿勢で座り込むフィア。軽く汗ばんで掌に吸い付く運動着の感触を覚えつつ、細い両肩に、沿えるように手のひらを乗せた。

 ――。

 ――夕飯時。

「しっかし、見たかよあれ」

 テーブルの上に並ぶ幾つもの料理。調理を終えて四人で囲む食卓は――。

「落ちそうな皿をパッとキャッチしたら、驚かれた上に礼まで言われちまってよ。常連にも気に入られちまってるみてえだし、看板給仕爆誕! ってな」

「余り調子に乗るなよ」

 学園での昼飯と同様、賑やかで楽しい。スープに口を着けながら苦言を呈すジェイン。

「素性がバレれば終わりだ。僕たちだけじゃなく、店の方にまで迷惑が掛かる」

「ったく、分かってんよ、んなことは」

「でも、確かにいいお店ですよね」

 わざとらしく息を吐いて見せるリゲルの様子を受けて、フィアが言う。

「雰囲気も素敵ですし。ジェインさんはどうしてあのお店を見つけたんですか?」

「きっかけは完全に偶然だな。適当なバイトを探していたときに、味のある手書きの張り紙を見つけて――」

 会話が続く。話題も呼吸も馴染んだ、穏やかな時間だが……。

「……」

 ……疲れてきている。

 俺たちだけでなく、リゲル、ジェインも。二週間目に入って――。

 徐々に、そのことが浮き彫りになってきている。……共同生活のスケジュールは中々に多忙だ。

 毎日三時間以上のトレーニングに、通常通りの学園のほか、これまでになかったタスクもある。慣れないことをしているせいもあってか。

 溜まる疲労に回復が追い付いていないといった感じ。日を追うごとに、じわじわと身体の重さが増していくようであって……。

「……」

 ……それに。

 このところ明確になっている変化。……フィアが、焦っているように感じられる。

 今日の転倒のように、初めの頃にはなかったミスが増えてきている。疲労のせいと言うよりは……。

 トレーニングのメニューを、自分自身で更に厳しくやり込んでいるせい。……フィアの身体能力は、俺たちの四人の中では一番低い。

 運動神経も不器用な俺と変わらないか、少しはマシといった程度。普通でない力も持ってはおらず、万が一の際、最も後れを取ってしまい易い立場にいることは事実。

 当然、俺たちからすればそのことはどうしようもないこととして受け止められている。そうした事態があるのはやむを得ないと考えた上で、どうするかということを考えてはいるのだが……。

「……」

 フィア本人からすれば。有事の際に自分が足を引っ張りかねないことに対して、強い自責の念がある。

 誰かの命が掛かっているとなれば、その心情も理解できる。少しでも負担にならないようにという意識が自分自身への厳しさとなり、トレーニングの負荷を更に重いものにしているのだ。一週間を過ぎて目に見える進展がないという点も……。

 フィアの思いを強くしている一因なのだろう。……人間の運動能力というものは、一朝一夕に伸びるものではない。

 適切なトレーニングをしたとしても、成果が出るまでにはある程度時間がかかる。俺たちも、フィア本人も、そのことは分かっているはずなのだが。

 それでもどうしようもなく、抑えきれない焦りが出てきてしまっているのだ。ある程度の気持ちが分かっている故に……。

 応じ方が難しいことでもある。下手な慰めや気遣いは、プレッシャーを助長させることになりかねない。

 焦りはマイナスを呼ぶだけだが、本人もそれに気づいてはいる。いつも通りにナイフとフォークを使っているフィア。

 ところどころ動作が緩慢で、拭いきれない疲れの跡が見えるその様子を目にする。トレーニング後の柔軟でも、手足に力が入らない様子だった。

 身体の奥からじわりと熱が染み出してきているような印象で、熱っぽい息を何度も吐いていた。気持ちが落ち着けばいいが……。

 そうでなければ、何かしらの手を打たなければならないかもしれない。味は良いが、噛み応えのある肉の筋を噛み締める。……それに。

「済みません」

「ああ」

 共同生活のこととは別に、フィアについては、俺が気になっていることもある。銀色に輝く胡椒の瓶。

 ジェインと俺の間にあって、フィアからでは届かないそれを取る。見ていたことに気付かれぬよう、何気ない仕草で渡そうとして。

 ――一瞬。

「――っ」

 冷たい銀色の容器を握っている指が、違う色の何かに塗れている様を幻視する。瞬きのあとに消え去った赤黒いぬめりの液体に、身体が急速に温度を失っていく。――これは。

 マズい(・・・)

「ありがとうございます」

「ああ。……いや」

 また、この感覚だ。……っここでは誤魔化しようがない。

「――悪い」

 冷や汗の滲み出てくるこめかみ。細かな震えの始まりかけている指先で、注意深く食器を脇に置く。出来る限りの平静を装い。

「先に部屋に戻ってる。少し、気分が悪くて」

「え」

「おお?」

「――大丈夫か?」

 言い出した俺に、三人が意外そうな顔をする。尋ねてくるジェイン。

「小さな不調から、大事に繋がってはことだからな。気分が優れないなら、明日の予定の調整も」

「いや、大丈夫だ」

 早く――。

「昨日、少し寝不足だったんだ。早めに寝れば治ると思う」

「無理すんなよ」

「ああ。じゃあ」

 早く。間を置かずに立ち上がる。気づかわし気に注がれる視線を感じながら――。

 足早に食堂をあとにした。……光の外。

「……っ……」

 人気のない廊下を曲がり、影の伸びる階段を降りて地下に進む。履き潰したスニーカーの靴裏で。

 沼地を歩くように、一歩一歩を踏み締めていく。……呼吸が荒くなる。

 ワインレッドのカーペットが、震える別の液体に見えてくる。光量の乏しい柔らかな照明に浮かび上がる左右の分厚い壁が、今にも俺を押し潰そうと迫ってくるような錯覚がする。……明滅するイメージ。

 類似する点などどこにもないはずの意匠に、畳と(ふすま)に囲まれた、あの部屋のイメージが重なって見える。十年前の……。

「……ッ……!」

 あの日の光景が。廊下の途中で立ち止まる。

 あと少しで部屋に着くはずなのに、手足は震えて、動いてくれない。……力が抜ける。

 呼吸が荒くなる。崩れ落ちそうになる膝を、壁に体重を預けて辛うじて踏み留める。……駄目だ。

 駄目だ、駄目だ、駄目だ。

 ……俺は。

 俺は――ッ。

「――ッ‼」

 ――怖い(・・)

 戦うのが、恐ろしい。殺されるかもしれないということ。

 誰かが死ぬかもしれないことが、恐ろしくて仕方がない。……あの老人とのやり取りにあったのは――ッ。

 作り物などではない、本物の死(・・・・)だった。あらゆる自己の消滅。

 刃に裂かれた自分の組織が悲鳴をあげる感触。踏み外せば二度とやり直せることのない、永遠の終わり。いつどこで襲われるか分からないというプレッシャーが、平時でも思考と神経を蝕んでいる気がする。

 安全であったはずの世界が、突如として異形の潜んでいる悪夢に変わってしまったかのような。殺される恐怖だけでなく……。

 もう一つの恐れも、指先から焼けるような痛みとなって俺を苛んでいる。いずれまたあの夜のようなことが起きるとなれば。

 今度は、俺が誰かを殺す(・・・・・・・)かもしれない。俺の振るう終月に刃はついていない。

 だとしても、全力で振るえば骨くらいは充分に折れる。ギリギリの戦いの最中に、運悪く致命的な箇所に当たってしまったなら。

 例え全くそのつもりがないとしても、相手を殺してしまうことになるかもしれないのだ。高熱のときのような寒気がする。

 身体の内奥から込み上げてくる拒絶感に、思わず内臓の中身を嘔吐しそうになる。――十年前の悪夢。

 フィアたちとの日常を経験して治まりを見せていたトラウマは、先日の出来事を皮切りに、また蘇るようになってきている。鉄錆の臭いのする赤黒いぬめり。

 鐘楼(しょうろう)を鳴らすような鈍い頭痛の合間に、靴裏に付着する、粘ついた水音が聞こえてきている。……腹から突き出た刃。

 鈍く輝く真剣の先にある一人の死体。光を失った、あの眼……。

 ……ッ。

 ……嫌だ。

 嫌だ、嫌だ、嫌だ。

 俺は――‼

「――黄泉示さん?」

 自身に纏わりつく何もかもを捨て去りたくなったとき。

「――」

 不意に届いた澄んだ声の響きに、心身を取り囲んでいたイメージが消え失せる。……振り返った先。

「……」

「……あ」

 階段を下りて間もない廊下の途中に。木漏れ日のような気配を放つ、一人の人物の姿があった。……フィア。

「……すみません、その」

「……」

「大丈夫だとは聞いていたんですけど。やっぱり少し、気になってしまって」

 彼女を見た瞬間に、頭の中の一部が、冷えた思考を取り戻す。暗く明かりの落ちた中でもさざめく銀白色の髪。

 壁に手をついた俺の様子を目にしてか、整った面の中にある宝石のような翡翠色の瞳を、僅かに気づかわし気な色合いへ変えてくる。純粋な思い遣り……。

「……大丈夫、ですか?」

「……」

「顔色が良くなさそうで。具合が悪いなら――」

「……いや」

 以前の日常であれば安らぎを覚えていたのだろう、暖かみのある清らかさに向けて口にする。……気取られてはならない。

「大丈夫だ。少し、眩暈(めまい)がして」

「……」

「それで寄り掛かってただけなんだ。もう、治った」

 壁に預けていた体重を戻し、震えの止まっている二本の脚でカーペットの上に立つ。正常をアピールするように手を広げ。

 小さく笑みを作ってみせる。……そうだ。

 明かりの下に立つ彼女の姿を前にして、以前に思いついたことが脳内にフラッシュバックする。この共同生活の中で何度も考えていたこと。

 俺たちが陥ることになった、この事態の原因は――。

 全て(・・)フィアなのではないか(・・・・・・・・・・)

「……」

「……?」

 思い返してみれば。

 あの老人は初めに、フィアを狙ってきていた。位置的に前にいた俺ではなく。

 俺の陰、老人からすれば狙い辛い位置にいたはずの、フィアを真っ先に。その後に俺が抵抗の姿勢を見せたことで、狙いを変えはしたが。

 最後に投げたナイフも俺ではなく、その後ろのフィアを狙っていた可能性がある。俺たちが苛まれなければならない事由が……。

「……」

 全て、彼女にあるのだとすれば。……そうだ。

 思えば最初から、気づいていたはずではないか。――彼女には何か、普通でないものが関わっている。

 路上に倒れていた彼女は、俺以外のほかの誰にも観測/認識されていなかった。人ならざるモノの気配がしないこと。

 然したる持ち物もなく、記憶喪失であるということから被害者だろうと決めつけてしまっていたが。……厳密に言えばそうはならない。

 小父さんに頼んだ調査の手掛かりが出てこない以上、フィアという人間については、一切の素性が分かっていないのに等しいのだ。あのとき俺が軽く見ていてしまった……。

 ――彼女に関わる普通でないこととは、実際は、とんでもなく(・・・・・・)大きなこと(・・・・・)ではないのか?

 殺しの技術を積んだ老人が身を賭して殺そうとするような事情。周囲の人間の命を巻き込み、軽く潰してしまうような何かが、フィアの過去にはある。最悪の場合――。

「……」

「……黄泉示さん?」

 その事情の中で彼女が、被害者ではない(・・・・・・・)ということすらも。――目の前の少女。

 他人を脅かすものなど何もない、穢れなきはずの姿が、不意に恐ろしいもののように映る。得体の知れない何か。

 可憐と美しさを秘めた非の打ち所のない容姿の奥に、俺の想像もしなかった不気味で(いびつ)な何かが、密かに息を潜めているように感じられる。……ッまだ。

 ――まだ、遅くはない。この恐怖から逃れる手段はある。

 日本にとんぼ返りして、小父さんに助けを求める。学園も新しい生活も投げ捨てて。

 こちらに来てからの全てを無かったことにする。目を閉じ耳を塞いで。

 忘れてしまえれば――っ。

「――黄泉示さん」

 ――一瞬。

「――ッ」

 怯んだ俺の心を読んだかのように、フィアが近付く。迷いのない足取り。

 普段のフィアからは、想像もつかないような率直さで。衝動的に後退の動きが出そうになった俺の、肩が壁に詰まる。……っ逃げられない。

 恐怖を覚えた身体が硬直している。動けずに目を見開いている俺を、捕まえるように――!

「――っ」

「……⁉」

 伸ばされたフィアの両腕が。俺の頭へと手を回すと、抱え込むように自分自身へと引き寄せた。ッ――⁉

「――大丈夫」

 思考を包み込む暖かみと柔らかみ。予想外の仕草に理解の追い付かない中で、頭の上からフィアの声が響いてくる。優しく。

「大丈夫ですよ。きっと……」

 次の瞬間にも消えてしまいそうな囁き声。顔に触れている布地から、透き通るような香りがする。

「きっと、どうにかなります」

「……」

「黄泉示さんは、頑張っていますし……」

 一切の怯えを除こうとするような口調が、鈴の音のような声を紡ぐ。……っ……。

 ……震えている。

「リゲルさんや、ジェインさんも一緒にいます。……一人じゃありません」

 俺を抱きしめている、フィアの両腕が。触れていなければ分からないほど微かに。自分がどうなるかも分からない不安と……。

「私も……」

 この先に待つ未来への、不確かな恐れで。……フィアは。

 ――本気で事態がどうにかなると、信じている(・・・・・)わけではない(・・・・・・)

 最近の焦りを見てもそれは明らかだ。フィア自身の心のうちに、拭いきれないほどの不安があった。

 言い聞かせてもどうにかすることができずに、だからこそあそこまで努力していた。自分を追い詰め、痛めつけるような情念を抱えていて。

 それを押し切ってまで、この言葉を紡いでくれている。今……。

「私も、黄泉示さんたちの力になれるように……」

「……」

「もっと、……強くなりますから」

 目の前にいる、俺の不安を除くためだけに。……。

 ……そうだ。

 例え、これまでの素性の一切が分からないのだとしても。……俺は、今のフィアを知っている。

 他人が傷ついている姿を見ていられずに、自ら駆け出していくフィア。助けが必要な相手の為に、自分の身を懸けられるフィア。

 真面目で、責任感が強く、思い遣りで誰かを抱きしめられる。はにかみ屋で遠慮がちで、時におっちょこちょいなこともする。

 陽だまりの中で花のような笑顔を咲かせている、あの日俺と出逢ってくれた彼女を。なら……。

「……」

 それで、いいはずではないか? 伝わってくる鼓動。

 気を抜けば沈み込んでしまいそうな柔らかさのうちにある、血の(かよ)った温かさに思いを馳せる。目を(つむ)り――。

「――っ」

 最後に一度だけ小さく息を吸い込んで、ゆっくりと彼女の胸から離れ出した。顔を上げ。

「……」

「……」

 身体を離しただけの、近間で見つめ合う形になる。なんというか……。

「……」

「……ええと」

 こうやって改めて向き合うと、やけに気恥ずかしい気持ちが昇ってくるのが分かる。目の前の相手の胸に顔を(うず)めていたのだから……。

「……っ、その」

「……悪い」

 当たり前なのかもしれないが。高鳴りそうになる心臓の鼓動を、抑えながら言う。

「気を遣わせて。……情けないところを見せた」

「い、いえ」

 ――そうだ。

 恥ずかしさは後にして、今は、フィアのしてくれたことへの感謝を伝えなければならない。先ほどまで自身の考えていたことに意識を向けると。

 苦い悔恨のような、忸怩(じくじ)たる思いが染み出してくる気がする。……フィアの事情に元凶があると決まったわけでもない。

 相手の動機が分からない以上、俺のしていた推測は、単なる一つの可能性というだけだ。あの日逃げないと誓ったはずの俺が――。

「私が、勝手にやっちゃっただけですから。変なことをしちゃって済みません」

「っいや――」

 不確定な推測で全てを投げ出して、他人の手を振り払おうとしていた。恥じ入る気持ちで言った俺に対し、フィアが、ぎこちない笑顔を返してくる。――気のせいだろうか?

「……フィアのお陰で、助かった」

「……っ!」

「感謝してる。俺の方こそ――」

「――あ」

 俺と向き合うフィアの表情が、いつもより少しだけ、赤らんでいるような。落ち着かない素振り。

「――えっと、その」

「――」

「大丈夫ならその、良かったです。――っ私、もう行きますね」

 行き場のない指を後ろ手に組んで、誤魔化すように口元を上げる。翡翠色の眼を逸らして――。

「夕飯の途中でしたし。リゲルさんとジェインさんも待ってるかもしれないので、戻らないと」

「――フィ」

「体調、気を付けて。――お休みなさい」

 逃げるように身体を引いて、パタパタと走り去ってしまった。――遠ざかる後ろ姿。

 暗闇に微かな煌めきを残しながら消えていく銀の髪の筋。手を伸ばしかけた姿勢のまま、俺は見送ることしかできないでいた。




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