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彼方を見る者たちへ  作者: 二立三析
第三章 日常を超える扉
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第九話 浅い微睡み


「――お邪魔します」

 ――広々とした敷地。

「――」

「……なるほどな」

 学園の正門より堅牢そうな表門を超え、玄関から中に入る。初めての来訪になるジェインが――。

「ある程度の想像はしていたが。実際に目にすると、思ったより堅牢そうだな」

「当り前田のクラッカーよ。なんたってうちの親父、レイルファミリーの拠点だからな」

 上品ながらも質実な調度や内部の造りを見て、何度か頷いている。――そう。

 ミーティングルームで出されたリゲルの案とは、二か月間、四人全員でリゲルのうちに滞在するというものだった。思ってもみなかった提案に。

「親父が直々に構築した防犯システムに、特製のトラップ」

「凄いな……」

「防災から避難用設備まで完備。ありんこ一匹入れねえぜ」

 始めのうちは疑問や検討の声も出たが、それ以外に策もなく、結果的に採用される形になった。前を行くリゲルが勝手知ったる足取りで進む。

 日用品の詰まったスーツケースを転がしながら、その後ろについていく。俺とフィアは以前にも来たことがある。

 壁に飾られた絵、天井から釣り下がるアンティークのシャンデリア。内装などは特に変わっていない。覚えのある景色だが……。

「……」

「……静かですね」

 一点、当時の記憶とは大きく食い違っていることがある。口にしたフィア。

「前来たときにはその、もう少し――」

「親父と一緒に、今は黒服の主立ったメンバーも出払ってるからな」

 辺りを見回して落ち着かない素振りでいるフィアに、まるで気にしていない様子のリゲルが答える。……そうなのだろう。

「他のファミリーの面子も、あちこちで仕事があるし。この間の祭りが特別で、普段は割りとこんなもんだぜ」

「そうなんですか……」

「僕としてはこれくらいで丁度いいがな」

 前来たときにはあれだけいたはずの黒服が、今回はただの一人でさえ見当たらない。入ってから辺りを観察しているようだった、ジェインが眼鏡を上げる。

「見境もない他の連中よりはマシかもしれないとはいえ、表に出せないような活動をしている組織ということには変わりない。顔を合わない方が、互いに賢明だろう」

「そりゃようござんしたね。――警護や監視のメンバーは残ってるし、セキュリティもばっちし作動してるから、安心してくれって」

「はい。……」

 歩を進める俺たち。口を(つぐ)んだのちも、フィアは気になるようにチラチラと周りに目を配っている。……気持ちは分かる気がする。

 管理や掃除などは行き届いているものの、これだけ広々とした空間にまるで人気がないというのは、どうしてもある種の不気味さを生んでしまうものだ。……生きているのが自分たちだけなのではないか。

 奥に得体の知れない何かが潜んでいるのではないか。間違いだと分かっていても、そんな錯覚さえ覚えそうになる。動くもののない景色。

 スーツケースのキャスターと俺たちの靴音が、分厚いカーペットに吸い込まれていく。静謐の満ちる通路を進んだのち――。

「――ここが部屋だな」

 階段を下りた先。角を曲がった廊下の両側に並ぶ扉たちを、リゲルが指し示した。――地下。

「どこも開いてるから、好きなとこを選んでくれていいぜ。家具とかはどれもおんなじだからよ」

「そんな感じですね……」

「綺麗なんだな、かなり」

「来客用の個室だからな。親父の客は少ねえし、滅多に使うこともねえんだけど」

 見本とばかりに開けられた一室の内装は整っていて、上品なホテルの一部屋と言った感じだ。不自由はない。

「荷物を置いたら、家の設備を案内するぜ」

 突発的に押しかける形になっていることを考えれば、これ以上は望めないほどの待遇だろう。元から手ぶらだったリゲルが階段の方を見る。

「風呂場とか洗濯場とか、二人にもまだ見せてない場所があるし。今日が初めての誰かさんには、きちんと一から説明してやらねえといけないからな」

「寛大な家主の厚意に甘えるとするか。案内のあと、夕飯までは時間がありそうだな」

 リゲルの挑発を華麗にスルーするジェイン。ポケットから取り出した懐中時計の時刻を、鎖を滑らせながら目にした。

「明日からの行動もある。荷物の整理が済んだら、予定をすり合わせよう」

 ……

 …

「……ふぅ」

 ――夕飯ののち。 

 備え付けのシャワーを浴び終えた俺は、自室となる部屋の中央で溜め息を吐く。……まだじくじくと痛む。

 昨日の戦いで負わされた、複数の切り傷に打撲、頭部と首の痛み。骨折などはなく。

 創傷も腿の傷以外はそれほど深くないというのが、幸いと言うべきか。……すでに血は止まっている。

 医者からの了承も出ているとはいえ、風呂に浸かるのはまだ怖いというのが正直なところだ。風呂場を血で汚すことになるのも悪い。

 明日辺りから入ろうかと思いつつ、改めて、自分のいる空間を見渡す。調度の整えられた八畳ほどのワンルーム。

 地下であるため、窓はないが、内装が小奇麗なお陰で閉塞感などは余りない。……窓のない方が安全。

 そんな気もする。放り出された荷物を眺めたまま、ソファーに腰を沈め――。

「……」 

 力を抜き、体重を預けた状態で天井を見つめる。――リゲルのうちで生活する。

 聞かされたときは驚いたが、入ってしまうと案外慣れはするものだ。レイルさんに連絡が取れない以上。

 正式な了解は取れないわけで、いいのかという気持ちもあるが。……たまに出現する黒服の反応を見るに、許されない行動ではないらしい。

 あとで何と言われるかは別として、今はこの状況に感謝すべきだろう。ファミリーのために用意された鉄壁のセキュリティ。

 尋常ならざる技量を持つあの男であっても、侵入することは確かに容易ではないはずだ。昨日の夜から続いていた不安。

 じわじわと身を(さいな)んでいるようだった不安が、少しは治まった気がする。足先から冷えていくような恐怖の感覚がないことを意識して……。

 心地のいい静寂の有り難味を噛み締める。――不意に襲われる心配がない。

 命の危険に怯えなくていい。以前なら当たり前のように享受していた状況が、今ではどれだけ貴重で得難いものか。安堵と同時に湧いてくる疲労。

「……!」

 心地のいい身体の重さに目を閉じかけたとき、扉の方から、控えめなノックの音が響いてきた。――ッ誰だ。

「――あの」

「……!」

「私です。起きてますか……?」

「っ、ああ」

 思わず身構えてしまった俺に、扉の向こうから、聞きなれた優しい小さな声が聞こえてくる。フィア。

「――」

「……どうした?」

「その」

 扉を開けた先に立っていたのは、白地にレモンイエローのストライプの入ったパジャマを着た彼女。すでに寝る用意をしていたのか。

 入浴を経て艶の増した銀髪を、淡いピンクのヘアゴムで後ろに纏めている。……何の用だろうか?

「場所が変わったせいか、少し……眠れなくて」

「……」

「眼が冴えてしまって。それで、その……」

 疑問を覚える俺の前で、躊躇うように伏し目がちにしていたフィアが、意を決したように顔を上げる。

「中に入っても大丈夫ですか?」

「――?」

「黄泉示さんさえよければ、少し」

「……ああ」

 ……なんだろう。

 目にしているフィアの様子に、何か違和感がある。その正体を掴みかねながらも――。

「大丈夫だ。入ってくれ」

「……お邪魔します」

 断る理由はなく。内開きの扉を押さえた状態で、フィアを部屋に招き入れた。スリッパの音のあとに扉が閉まり。

「ここでいいか?」

「はい」

 部屋の壁際に設置された、簡易な応接スペースに二人して腰を下ろす。正方形の机を挟んで、フィアと向かい合う形になる。……。

 ……さて。

「……」

「……傷の方は大丈夫なんですか?」

「ん、ああ」

 何を話したものか。数少ない話題のタネを掘り起こそうと思ったところで、フィアの方から尋ねてくる。手や頭に覗いているバンドエイド。

「多少はまだ痛むけど。医者の言う通り、それほど深いものじゃないみたいだ」

「そうですか……」

「動いても問題はないって話だし。抗生剤と、痛み止めも飲んである」

 新しく巻き直した包帯を目にしてたフィアが、すこしだけホッとしたような顔をする。……医者のところには一応一緒に行ったはずだが。

「……今日は大変でしたよね」

 それが気になっていたのだろうか? フィアが話を続ける。

「突然リゲルさんのうちに泊まることになって。四人で、順番にうちを回って」

「……そうだな」

「エアリーさんたちへの説明もあって。色々とバタついて……」

 思い起こしながら頷く。学園からリゲルの家に来るまでの間。

 荷物を纏めるため、俺たちは互いの住居を順番に回ってきていた。本当のことを話すわけにもいかず。

 エアリーさんたちには、自立のための予行演習ということで話が通っている。……フィアの様子。

「確かにな」

「……」

「あれやこれやで忙しかったけど。――夕飯は、美味かったよな」

「……そうですね」

 一見して普通だが、話をしているフィアの表情には、どことなく影がある気がする。敢えて明るい話題を選ぼうとした俺の一言に、フィアが少し表情を柔らかくする。――リゲル宅の夕飯は。

 個室でなく、客用の食堂のようなところに案内され、料理担当という黒服が作ってくれたものが用意された。飛び入りで入ったため、俺たちの分の準備などはなかったはずだが……。

「いきなり押しかけてしまって申し訳なかったですけど、美味しかったです。スケジュールの方は、ちょっと揉めてましたけど」

「リゲルとジェインの主張が、どうにもぶつかってたからな……」

 普段から大目に作っているらしく、量質ともに充分な料理をごちそうになった。予定のすり合わせについては、少し紛糾した。

 それぞれの予定の調整に苦労したほか、ジェインとリゲルの間で、意見が纏まらなかったこともある。一通り話し込み……。

「一日中忙しくて」

「ああ……」

「慌ただしかったですけど、どうにか落ち着けて……」

 詳しい話については結局、また後日ということになったのだが。……これが本題ではないだろう。

 この時間に部屋まで訪ねてきたのだから、単なる世間話をするためではないはずだ。……普通で自然に見えるフィアの様子。

 話す内容も、口調も普段と変わらないものでありながら、しかし違和感は消えていない。――何か。

「……済みません、黄泉示さん」

 何かがおかしいと思ったとき、フィアの言葉に続いて、ふと、あることに気がついた。……なんだ?

「会って、話してもらえれば、大丈夫と思ったんですけど……」

「――っ」

 見間違いではない。机の上に置かれている、フィアの手。

「昨日の夜からその、……怖くて」

「……!」

「眠れなくて、一人ではどうにもできなくて。自分が情けなくて……」

 組まれたその指が、細かく、震えている? ――尋常でない。

 傍から見てもそれが分かる。見えない寒さに震えるように、パジャマの腕をぎゅっと握るフィア。……そうだ。

 思えば初めから、違和感はそのことについてだった。訪ねて来たときの様子。

 何かを思いつめたような表情だったのに、部屋に入ってからは、やけに自然に話をするようになっていたこと。食い違う印象は全て……。

 フィアが懸命に、自分の恐怖を押さえようとしていた結果だったのだ。……考えてみれば当たり前だ。

 動機も正体も分からない相手に、命を狙われた翌日。俺と共に殺され掛け、一度は意識も失った。

 普通でないモノの力や知識を持ち、抗う術のある俺たちとは違う。自衛の術を持たないフィアにとって……。

「本当に……」

「……」

「本当に、申し訳ない話なんですが……」

 あの老人への恐怖はきっと、俺たち以上に大きいものだったのだ。微かにクマの残る目元。

「……今日だけ、その」

 知っていれば心労と分かる(しるし)が、あちこちに見て取れる。迂闊さに歯噛みするような気持ちでいる前で、フィアが、翡翠色の瞳を差し向けてきた。

「この部屋で。黄泉示さんと同じ部屋で、休ませてもらえないでしょうか?」

 ――

「……」

 ――眠りの妨げにならない明かりだけを着け。

 新品同然に整えられたベッドの端に、二人して横たわる。……幸いにしてと言うべきなのか。

 宿泊客向けという個室は、一つの部屋を複数人で使うことも想定されているようで。置かれていたベッドはそれなりに広く、二人でも触れ合わずに寝ることのできるものだった。布団の端と端。

「……」

 滑らかなシーツの肌触りを通じて、距離の開いた向こうから、パジャマを着たフィアの呼吸が伝わってくる。紛れもない他人の気配に……。

 流石に少し、落ち着かない気分だ。……同じベッドで寝るという気恥ずかしさ。

 気の昂ぶりや緊張、そういったものも勿論ある。数か月間生活を共にしていたとはいえ……。

 寝室は別だったし、同居生活を送ることになってから、暗黙の了解としてある種の距離感を保ってもいた。この状況はそれとは全く意味の違うもの。

 不慣れな感覚と、決して心地の良いものでないぎこちなさがある。俺だけでなく、恐らくフィアの方にも。

「……」

 ……だが。

 そうした気まずさや何よりも。今の俺の胸中には、別の感情が去来していた。……頼みを言い出したときのフィアの表情。

 拭いきれない恐怖と不安。自分ではどうにもできない自責と罪悪感が、ありありと浮かんでいた。面倒ごとの極みのような事態とはいえ……。

「……黄泉示さん」

 あの状態の誰かを一人で放っておくということは、自分に選べる選択肢ではない。互いの息遣いを聴き合うような時間の中で。

「……どうした?」

 掛けられてきた声に答える。……頼みを受け入れたのは、フィアの状況を好転させるためだ。

 眠りにつけるくらいまで、話に付き合うくらいの気持ちはある。なるべく明るい話しぶりを心がけようと思っていたところで――。

「……ごめんなさい」

 消え入りそうな、小さな声が届いてきた。――一瞬。

「あの人に襲われたとき、私、何もできなくて」

「……!」

「黄泉示さんやリゲルさんたちが戦っているのに、倒れているだけで。……ごめんなさい」

「いや……」

 一瞬だけ耳を疑い、次の台詞で、言われている意味を再認する。フィアのせいではない。

「――謝ることじゃない」

「……」

「あのときああなったことは、どうしようもなかった。誰のせいでもない」

 理不尽だったのは何よりも、あの状況の方だ。……わけも分からず命を狙われた。

 何の前触れもなく、抗わなければ殺される場所に放り込まれた。元凶と呼べるものがあるとすれば、それは――。

「――」

 ――思い至ったこと(・・・・・・・)

 電光のように閃いた考え。脳裏に浮かんだ思考が数瞬、意識をくぎ付けにする。頭の中で繋がったピースを……。

「黄泉示さん……」

 確かめるより先に。布団の中で、何かが俺に向かって近づいてきた。それは――。

 ――フィアの手。

 暗がりの中に浮かび上がる、白い指先。此方に向けて伸ばされた爪先の、意味するところを考える。横倒しにこちらを見つめるフィアからの、無言の承認を感じて――。

「……っ」

 向けられた手を、取るように握った。……冷たい。

「……」

「……黄泉示さんが戦っているとき」

 始めに感じたのは、微かな温度と柔らかさ。握っているうちに。

「本当に怖かったんです。あの人のナイフが、黄泉示さんを傷つけていって」

「……」

「血が流れて、痛いのが分かって。動かなきゃいけないって思うのに、何もできないだけの自分がいて……」

 滑らかな肌の奥にある、心臓の鼓動と、温もりが伝わってくる。フィアの細い指が、俺の手を握り返す。

「死なないでくれて」

「――」

「生きていてくれて、ありがとうございます。黄泉示さん」

 離さないように。一度は強く掴んだ指先が、俺の手のひらをゆっくりと撫でていく。労わるような手つきで――。

「……」

「……ここは安全だ」

 慈しむように。触れた場所からフィアの思いを感じて、口に出す。

「レイルさんたちの警護があるし。俺たちだけじゃなく、リゲルも、ジェインもいる」

「……はい」

「明日からは四人で纏まって動ける。襲われるようにはならないし」

「はい」

 先ほどの考えを脇に置いて。なるべく、目の前の相手の不安を取り除けるように。

「努力もする。同じようにはならない、絶対に」

「……そうですね」

 俺の目を見て頷いていたフィアが、小さく息を零す。

「……黄泉示さん」

「……ん?」

「ありがとうございます」

 目元と口元がふっと緩む。俺の指を握っていたフィアの手が、そっと離れる。

「気を遣わせてしまって済みません」

「いや……」

「明日からの生活も、頑張りましょう。――お休みなさい」

「ああ」

 お休み、と。答えた俺の反対側で、目を閉じたフィアの呼吸が、徐々に穏やかになっていく。……昨日眠れていない分。

 一度気が落ち着いたなら、早く眠りにつけるはずだ。零れている銀の髪が微かに揺れ動く。時間にすれば何分かになるのだろう間を置いて――。

「……」

 安らかな吐息と表情。無事眠りに落ちられたらしいことを確かめたのち、仰向けになる視線をゆっくりと天井の方に移した。……不安と恐怖。

 襲撃への不安は、俺の方にも決してないわけではない。リゲル邸にいるうちは安全とはいえ。

 それ以外がどうなのかは分からない。与えられた状況から分析し……。

 できる限りのことをするとしても、俺たちは所詮、素人だ。手の及ぶ範囲には、自ずと限界があるはずで。

「……」

 ……あのとき。

 リゲルたちに対しては言えなかったこと。――小父さんに、連絡するかどうか。

 東小父さんは元々両親と同じ、普通でない者に対する専門家だ。プロとして活動していた人間。

 俺たちの誰より間違いなく知識も人脈もある。命の危険がある事情を説明したならば、今回の件について、レイルさん以上の力になってくれるかもしれない。

「……」

 ……だが。

〝――俺はもう、剣は捨てた〟

 頭の中に木霊するかつての台詞。……小父さんはもう、そう言ったことから離れて久しい。

 技能者としての世界から完全に足を洗い、俺と同じ、十年以上はブランクが開いている。どれくらい力になれるのかは分からないし。

 それ以前に。俺がもしこの件について伝えれば、小父さんはすぐにでもこちらにきてしまうだろう。

 自分の予定を放り出して、飛行機に飛び乗って。望むと望まないにかかわらず――。

「……」

 もし仮に、そのせいで自分が命を落とすことになるのだとしても。……二か月。

 リゲルから言われた、レイルさんが帰ってくるまでの期間を反芻する。……たったの二か月だ。

 それだけの間なら、敢えて小父さんに伝える必要もない。俺たちは一度、あの男を退(しりぞ)けた。

 不意に襲われた昨晩とは違い、これからは四人で備えることができる。以前のようなことにはならないはずで……。

「……」

 ……だが。

 今しがた浮かんだ考え。あり得なくはないその考えが、俺の心に影を落としている。……根拠はない。

 あくまで可能性の一つだが、もしそうだとすれば、事態の前提が覆ることになる。理不尽だと思っていたことが……。

 ……それに。

 ――思い出す。

 あの日、あの時に起こった惨状。畳を染め上げる血。

 人影から突き出す刃、虚ろな目。意識の奥底から、無力と絶望の記憶が立ち昇ってくる。フィアから離れた手……。

 顔の上に持ち上げた指先が、細かく震えているのを見て取る。仰ぎ見た師はすでに亡く。

 頼れる相手も、頼みにできるような力もない。もし、もう一度あの夜のようなことが起こったとき……。

 ――俺は今度こそ、彼女(フィア)を守れるのだろうか。








「――収穫だ」

 光の射し込まぬ暗闇。揺らめく炎に照らされる滑らかな岩肌のうち、齢にそぐわぬ威厳を持った少女の声が響く。――魔王。

「冥王派から通達があった。各地に散った所属者の中で一人、連絡を絶った者がいるらしい」

「それはそれは」

 禁術士と亜人を束ねる長の言葉に、多分に余裕を含ませた声が迎える。凶王として最も歴の長い賢王、優雅な衣装を身につけた姿が、幾分反り返らせた身体の上で美しく目元を細め。

「組織方に目を付けられでもしましたかね。注意を引かず動かなければならない状況下で、面倒なことです」

「直接的な戦闘能力は低いが、隠密には長けた者だったとのことだ。王派としての歴も長く、今更構成員の手に掛かるとは考え辛い」

「……」

「何かしらのアクシデントがあったことは明白だろう。確かめる価値はある」

「大方、末期の功でも焦ったのでしょうよ」

 沈黙を保つ男――永仙の対面で、素知らぬふりをした賢王が嫋やかに視線を流す。

「王派が総出で失せもの探しの真似事とは。この男の掌で踊らされていなければいいのですがね」

「……慎重派だな」

 口以上にモノを言う切れ長の眼差し。含みのある舌鋒(ぜっぽう)を受け、思案を続けていた永仙は口を開く。心外だと言うような情感を軽く込め。

「信頼のための誓約は済ませたはずだ。だからこそ、こうして輪に迎えられているものと思ったが」

「これは異なことを。音に聞こえし大賢者の貴方なら、あの程度の小道具を抜ける細工など、幾らでも用意できると知れるはずでしょうに」

「――(つまび)らかになるのはこれからだ」

 語調を変えた魔王。本題の気配を感じて、賢王と永仙が意気を収める。

「確認と実行を兼ねて、魔王派から一人、腕の立つ者を送る」

「貴女にしては意欲的ですね。誰を尖兵に?」

「クラウス・ムウロ」

「……そこまでする必要が?」

 賢王の言葉に変調が混ざる。歯切れのよかった唇が結ばれ、麗美な指先が意外そうに一つ、石造りの卓を叩いた。

「親愛なる大賢者殿の言によれば、器の覚醒はまだ先のはず。重鎮を持ち出さずとも、一兵卒で事足りるでしょうに」

「連絡を絶った位置が問題だ。『逸れ者』の英雄(・・)二人の膝元になる」

 単語を聞いた賢王が僅かに目を眇める。一瞬肩を動かした永仙の仕草に気付かないように、おとがいを上げ、猛禽のような鋭い微笑を頬に浮かべた。

「あの中立区域ですか。――監視役の支部長らに(ほふ)られでもしましたかね。不用意に警戒のレベルを引き上げてくれたと」

「組織も二人の方にも今のところ動きはないが、担当者との接触は避けて通れないだろう。クラウスが本命に当たる間……」

 魔王の深紅の目が、賢王を見つめる。

「他の王派には掻き回しを頼みたい。こちらの狙いを悟られぬように」

「私の派からも人員を出せと?」

「両派への通達と受諾はすでに済ませた。適任者がいないのであれば、無理にとは言わないが」

「見え透いた手管ですね。――いいでしょう」

 頬の力を抜いた賢王が、(あで)やかに笑みを零す。永仙へ視線を向け。

「最悪守り手が関係者である可能性もあるわけですしね。適当と思える人間がいますので、彼に行って貰いましょう」

「感謝する。――器の情報に間違いはないな?」

「……使われた術理と構築式については、詳細が不明確だ」

 思案しつつ、向けられた深紅の双眸に永仙は答えを返す。……中立の英雄たち。

「推測で埋める分、予測外のことが出る恐れはあるが、大きく外れるということはない。《雷狼》ほどの実力者が出るのであれば、案ずることはないだろう」

「それは重畳ですね」

「虚偽が混じらなければ他は問わない。――お前の言葉が真実であることを、願っている」

 かつての自分とも無関係ではない彼らのことを、齢を経た胸のうちに思い起こしながら。



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