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彼方を見る者たちへ  作者: 二立三析
第三章 日常を超える扉
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第六話 終曲 ーフィナーレー


 ――ッ手強い。

 攻防の中、老人は焦りを感じ始めている自らを自覚する。自身に出せるトップスピード。

 常人なら反応するまでに数度は殺せるだろう速度域に、目の前の青年は的確に反応――いや、最早それを上回ってさえきている。殺気の押し殺しによる初動のずらしも。

 これだけの集中力で向かい来る相手には効果が薄い。そもそも老人が得意とするのは強襲や不意打ちを(むね)とする暗殺劇であり、これだけの技量を持つ標的と尋常に切り結ぶこと自体が本分の外なのだ。――沈めた頭部を拳が掠め打つ。

「オオッッ‼」

 ガードした前腕に、唸りを上げる鉄拳がめり込む。老骨を軋ませる破壊力に、余裕なく舌を打ち捨てながら後退する。――殺し切れない。

 クリーンヒットを避けるよう軸を外してはいるが、あくまでその場凌ぎ。ダメージの蓄積で身体が動かなくなる未来は確実に迫ってきている。激烈な回転数を誇る鉄腕の嵐を、全盛期をとうに過ぎ去った肉体をフル稼働させて捌き切る。――速い(・・)

 ただその一語に尽きる。青年の攻め手は右腕一本。使える得物が半減したのみならず、動かない左腕を抱えたことでバランスが崩れてもいる。尋常であれば障害になどならないはずの――。

「オオラッ‼」

 その負傷を補って余りある速さ。一陣の気合と共に自らの体重が急速に増加する。動きの鈍った際に放たれたストレートを、被弾覚悟で食い縛りつつ間合いを詰めて前腕で受け凌ぐ。肉を潰されるのを承知で軌道を滑らせ。

「――ッ」

 身体を捻じり込みながら突き通す渾身の突き‼ 会心と言える一撃の狙いを瞬時に見極め、喉首まで薄皮一枚を残す動きで青年は空振らせてくる。――負傷の負担。

 痛みと失血で動き自体は(あら)くなっているはずだが、見切りにやけに余裕が生まれている。単純な肉体の速度だけでなく。

「ッ――!」

 思考や認識まで高速化しているかのようだ。有効な殺し方が思いつけないまま、衝撃を逃がそうとした老人のこめかみの肉が切れ、(まぶた)の上に血が溢れ出す。――あの眼鏡の青年の力。

 間接的に味方を支援する技法。対象の能力を引き上げる技法の種類は枚挙にいとまがないほどであり、当然老人の経験の中にも幾つかの候補がある。……だが。

「ッ‼」

 覚えがない(・・・・・)。強化法であれば伴うはずの魔力の付与もなしに、これほどの変化を齎す技法には。反撃の間に合わない一撃、躱せないストレートを、辛うじて短剣の(しのぎ)を盾として防御に成功する。――左腕を封じていて僥倖(ぎょうこう)だった。

 今となってはそう思わざるを得ない。両腕が健在な状態で眼鏡の青年が加わっていれば、圧倒的な速度の暴威の前に為すすべなく膝を突かされていたことだろう。苦境に耐え、分析を巡らせる余地さえ与えられずに……。

 ――っ。

 ――だからこそ(・・・・・)

「――ッ‼」

 今、この状態の自らにも勝機はある。刃による牽制。

「――――」

 千切り取った一瞬の間隙に距離を開け、老人は細く、長く息を吐く。……この土俵は確かに自身の領分にあらず。

 だが、生きて機を窺うための回避と攪乱(かくらん)であるならば、それはつまり暗殺者たる自らの本領に他ならない。……今の自分は、劣勢に置かれた弱者。

「ッこの爺さんが‼ いい加減倒れろっての‼」

 焦りも逸りも自らを追い詰めるだけのものになる。理想である王命の迅速な遂行を思考から外し、守りと観察に注力する。……攻撃の気は読みやすい。

 速度が不自然に上げられているとはいえ、動き自体はよく見れば消耗者のそれ。バランスが崩れて体重移動がスムーズに行えないせいか、拳の威力にもばらつきがある。……焦っているのは相手方とて同じこと。

 絡繰りが不明瞭だとしても、これだけの効果を持つ技法が長く続けられるはずもない。使い手の代償はいわずもがな、受け手である青年自身の負傷もある。得難い好機にこれ以上の攻勢をかけないことからして――。

「クソ――ッ‼」

 向こうにももう、切ることのできる手札がないのだ。死角を突いた左フック、死力を込めたであろう強襲を、肩の動きから先んじて読み躱す。目は慣れてきている。

 速度で劣ったとしても、癖などを考慮した予測にて機先を取ることはできる。青年の表情に苛立ちが走る。このまま攻め疲れさせれば必ずどこかで綻びが顔を出す。

 その瞬間を――。

「――下がれ、リゲルッ‼」

 確実に。これまで以上に力んだ踏み込みを見咎めた刹那、見据えた障害の背後から、切迫した叫びが飛んだ。




 ――ッ‼

 リゲルの踏み込みが僅かに(こご)る。狙い澄ましていた好機に向けて、男の眼が輝きを帯びる。

「――下がれ、リゲルッ‼」

 その刹那に全力で地を蹴り出す。溜めた力を全て使い切る覚悟で――‼

「ッ――!」

 ジェインの叫びが老人たちの元に届く。状況の理解に一瞬の溜めを経て、動きを切り替えたリゲルが斜め後方へ跳び退く。思わぬ闖入に不意打たれたのか。

 男はまだ反応を見せていない。抜き打ちの姿勢を保ったまま、全力でその距離を消滅させる。――ッ入った!

「ッ⁉」

 手足と傷口の悲鳴を振り切って踏み出した直後、こちらを見ないままでいた男が、起こりを見せずに矢の如く跳び出してくる。――しまった。

 迎え撃たれた。予測を裏切る速度で彼我の間隙が短剣の間合いにまで到達する。流れるような動作で刃を――。

「――ッ」

 ――振るう。手遅れの感覚を享受したところで、視界に映る全ての事象が唐突に速度を落とす。見ていた映像をいきなりスローモーションへ切り替えたような変化。

 ――これが。

 ジェインの援護。全てが遅く流れる世界の中でも、男の動きは余裕を与えない速度を保っている。……失敗は許されない。

 不可逆の責任の重さが一瞬だけ背骨を突き抜けていく。――大丈夫だ。

 イメージと自分の姿勢とを重ね合う。何かを考える必要はない。

 今はただ、全身全霊を刀に込めるだけ。ジェインの力を借りた、このタイミングなら――ッ‼‼

「――ッッ‼‼」

 乾坤一擲。

 渾身の力を込めた居合術の出来損ないが、一直線に心臓へ向かう短剣と激突する。体重を乗せた一突きの切っ先を。

「ガハッ‼⁉ ――」

 弾き飛ばし。男の腕を払って止まることなく、無防備になった脇腹を、抉り込むように打ち据えた。――老人が息を吐き切る。

 相手の真芯を捉えた感覚を、握り締めた黒刀の先に掴み取る。至近で見る皴だらけの表情が苦悶に歪み――。

「……ッ」

 目に力を込めようとした、老人の瞼が落ちる。枯れ木のような全身から力が抜け、ゆっくりと。

「……‼」

 刃を持たない刀身をなぞるようにして、傾いた男の身体が、崩れるように地面へ倒れ伏した。……動かない。

 凶器を手放したうつ伏せの肉体は、身じろぎ一つせずに倒れたまま。全身の筋肉の強張りを感じて――。

 ――っ終わった。

「……は……っ――」

 止まっていた息を吐く。緩んだ緊張に、身体の中の疲労を長々と吐き出していく。……終わった。

「――黄泉示!」

 悪夢のような時間が、ようやく。力の抜けた手足が震えている。腕全体に残る痛みに今更のように気が付いた直後、背後から気迫のある声が飛ばされてきた。――リゲル。

「ッやったじゃねえか‼ キレッキレの一撃だったぜ‼」

「……いや。リゲルこそ」

「あのしぶとい爺さんを一撃で沈めちまうなんてよ。黄泉示の腕力で叩き込まれちゃ、相当に応えただろうぜ‼」

 駆け寄ってきたリゲルが喜色も顕わにバシバシと背中を叩く。威力は大したものでもないが――。

「……それ以上は倒れるからやめてくれ」

「おっと、悪い。つい」

「いや。……腕は大丈夫なのか?」

「ん、――まあ大丈夫だろ」

 だらりと垂れ下がっている左腕。血で赤い筋の入ったスーツを、指先でつついてみせる。

「スーツとシャツのお陰で深くは刺さってねえし、動かさなけりゃ、もうそんな痛くねえしよ」

「……感覚がなくなってきてるんじゃないか? それは」

「平気平気。つうか、そっちこそ大丈夫かよ? 唇が真っ青だし、肩と脚から血ぃ出てんぞ、じわじわ」

「っ、本当だ……」

「――二人とも!」

 激しく動いたせいか、短剣の刺さったままだったところから、改めて血が滲み出てきている。肉を抉られるような痛みに眉を(しか)めたところで、ジェインの呼ぶ声が届いてきた。

「話し込んでないで、こっちに来てくれ。カタストさんを起こしたい」

「っ、ああ」

「勝利の余韻に浸ってるってのに、うるせえ野郎だな。テメエは怪我もしてねえんだから、のんびりしてたっていいだろうがよ」

「――お前のために言っているんだがな」

 歩いていく俺たちに対し、(ゆる)まない表情のまま眼鏡を上げる。

「蔭水の刺し傷はまだ軽傷だろうが、お前の左腕は重傷だ」

「――」

「僕の力を受けて動き回ったせいで、二人ともそれなりに血を流してもいる。すぐ医者に診てもらって――」

「乱闘じゃこの程度の怪我しょっちゅうだぜ。唾でも着けときゃ――」

「――一生腕を使い物にならなくしたいのか?」

 気迫のある一言にリゲルが黙る。……さっきも思っていたが。

「素人の楽観視が一番危険だ。すぐにどうこうなるわけでなくとも、早い措置に勝るものはない」

「あー、へいへい」

「見立てに不備があるリスクもある。カタストさんを起こして、すぐに行こう」

「――」

 ジェインは医療方面にも知識があるのだろうか。――フィア。

「……」

「決着がついてから、何度か声はかけてみたんだが」

 刀の重みと鈍い痛みに耐えつつ、フィアのところにまで戻る。老人の襲撃の最中に気を失った彼女は、同じ姿勢のまま。

「一向に目覚めなくてな。背負っていくのも難しいとは思うが……」

「おーい、フィアー?」

 先ほどまでの眠るようだった表情から一転して、何かに耐え続けるように瞼を歪めている。……反応はない。

「おいおいおい」

「やめろ。不必要な衝撃を与えるな」

「……フィア」

 力の抜けた身体はまるで、魂の抜け落ちた人形(ひとがた)のようだ。苦しそうに握られた拳。

 固く閉じられた指の先。膝を落とし、控えめに揺さ振った。

 瞬間――。

「う……」

「おっ」

 結ばれていた桜色の唇から、声が零れる。銀の髪が流れる肩を僅かに身じろぎさせたのち、苦痛に耐えているようだった瞼が、ゆっくりと開く。――っ。

「――フィア」

「っ……?」

 翡翠色の瞳が覗く。長い睫毛を揺らして何度か瞬きしたのち、その瞳が大きくなり――。

「……黄泉示さん?」

「ああ」

 胡乱な顔つきが俺を見上げる。定まらずにいた翡翠の瞳の焦点が、次第に合わされていく。消え入るような声で呟いて。

 確かめるようにもう一度、大きく瞬きをする。上体を起こし。

「……大丈夫か? 怪我がなくて良かっ――」

「――黄泉示さんっっ‼」

 安堵に息を吐いた瞬間、目の前のフィアが、飛び込むようにして抱き付いてきた。ッ――⁉

「――おッ」

「んん」

「大丈夫ですか⁉ ――怪我は――⁉」

「あ、ああ。大丈夫だ」

 背後から上がる二人の声。フィアの両手が。

 ふわりとした服が、やわらかな身体が、なめらかな髪が俺の全身に重ねて触れ合っている。……命にかかわらないという意味では問題はないはずだ。

 混乱する思考の中でそんなことを思う。真剣そのものの剣幕で訊いてきたフィアは、至近から俺の目をまじまじと見つめ。

「――⁉」

「――良かった――良かった、です」

 翡翠色の瞳が不意に崩れる。(まなじり)からとめどなく涙が溢れ出してくる。俺の身体を抱きかかえるようにして……。

 安堵と歓喜の入り混じった声で言ってくるフィア。……そうか。

 気を失っていたフィアからしてみれば、最後に残った記憶は、俺が男の蹴りを食らって倒されたところまで。何も分からない状態がずっと続いていたわけで――。

 自分の身の安全も含めて、意識を取り戻した瞬間から気が気ではなかったのだろう。胸に顔を埋めるフィアの感情が、直に伝わってくる。

 抱えていた不安と安堵、その強さが感じられる。細かな震えを理解しつつ、相手の背中に手を回そうと――。

「……あー」

「……ごほん」

 ――後方から、わざとらしい咳払いの音が響く。

「――っ」

「あ――っ?」

 彼女のことで一杯だった意識が我に返る。気が付いたようにフィアが顔を上げる。眼元をまだ濡らしたまま。

「っ……ッり、リゲルさん?」

「よーう、フィア」

「済まないな。感動の再会を邪魔してしまって」

 見つめられる後方の二人。微笑ましさ満点の笑顔を浮かべたリゲルに、鋭い栗色の髪の下からジェインがやや気まずそうな視線を送ってきている。リゲルとジェインの出現も……。

「いやー、夜だってのに、何だか熱っちいな。温暖化がこんなところにまで進んできたかね?」

「局所的な現象だろうな。無粋な闖入で済まないが、無事で何よりだ、カタストさん」

「……ジェインさんも。なんで……」

「あー、なんだ。色々あったんだけどよ」

 フィアからすれば、正に青天の霹靂だろう。困惑の反応に、リゲルが右肩だけを竦める。

「別れたあと、ちょいと妙な感じがして戻ってきたら、二人がヤバい爺さんに襲われてて。真っ先に俺が参上して、眼鏡が遅まきながら駆け付けたって感じだな」

「類人猿の記憶力には感心するな。窮地を誰に救われたのか、もう頭から抜けたらしい」

「そ、そうだったんですか」

 神妙な素振りでフィアが頷く。緊張が戻ってきたように手を膝に戻し。

「……それで、その……」

「ああ、心配は要らない」

 問いかけた内容。最大の疑問点を予想した、ジェインがしっかりと頷いた。

「あの男なら蔭水が倒した。僕たちの努力を、見事に繋げてくれてな」

「おうよ! 手にした刀でずばーんとな。いやぁ、凄かったぜ」

「ず、ずばーんとですか?」

「いや……」

 今一つ否定しづらい。二人して立ち上がったところで、フィアの目が、ジェインの陰に隠れていたリゲルの肩口に留まる。

「……リゲルさん、その肩の傷」

「……おお! ちょこっとだけ刺されちまってな。んな大した傷じゃねえから心配すんなって」

「重傷も重傷。適切な治療を受けなければ、腕が使い物にならなくなる可能性もある大怪我だ。威勢良く吠えてみても、肩から先が動いていないのが証拠だな」

「人の気遣いをぶち壊すんじゃねえよテメエはよっ!」

 やいのやいのと言い合う。……おかしな話かもしれないが……。

「そ、それならその、すぐに病院に行かないと」

「その通りだな。――さて」

 こんなときになってようやく、日常が戻って来たとの実感が湧いてきた気がする。ジェインが視線の向きを変える。道の向こうを目で示し。

「どうするか、あれを」

「……」

「事情だけでも聴き出しときてえところだけどな」

 俺たちの眼差しの先にいるのは、倒れているあの老人。冷たい輝きを放つ凶器は手から離れ、意識を失ったまま路上にうつ伏せになっている。

「なんで俺らを襲って来たのか。誰の指示で動いてたのかとかよ」

「それは。でも……」

「……警察に来てもらった方がいいんじゃないか」

 手足の痛み。次第に進んでくる、夜の冷えを感じながら言う。リゲルの意見ももっともではあると思うが。

「今の俺たちじゃ正直、どうこうしてる余裕がない。いったん拘束してもらって、あとで」

「――その場合、事情の説明が問題になるな」

 ――っ。

「僕の力や蔭水のことも含めて、色々と説明しづらいことが多い。あの老人はどうやら、普通でない事柄の方に属していそうだしな」

「……そうか」

「警察が当てにならない可能性もある。――お前のところでどうにかならないのか?」

「今すぐってのは難しいな」

 右肩を竦めるリゲル。……そうだ。

「親父がちょうど、仕事で海外に飛んでてよ。締め上げて吐かせるにも、慣れてる奴がいないといけねえし……」

「……」

「取り敢えず……」

 不自然に人気のない空間。終月の出現を目にしても驚きがなかったことからして、あの老人が普通でないことと関わりを持っている可能性は極めて高い。物騒な会話に口を挟んだフィア。

「ナイフは取り上げておいた方がいいんじゃないでしょうか。もし起きたらまた、その」

「……そうだな」

 その点には頷ける。……ダメージの蓄積で気絶してはいるが。

「身動きが取れないよう、縛ってもおくか。僕のバッグの中に、丁度頑丈なロープがある」

「なんでんなもん持ってんだよ……」

「……まあ、便利ではあるよな」

 いつまた目覚めないとも限らない。道の脇に置いてあるバックパックに視線を向ける、ジェインの方に振り返った――。

「――ぶねえッッ‼‼」

 ――瞬間。

「――っ⁉」

「リゲルさんッ⁉」

 (つんざ)くような叫びと衝撃が胴を打つ。――何が起きたのか。

 衝撃に耐え切れず着いた尻餅。俺を突き飛ばした姿勢で止まっているリゲル、身を竦めているフィア。俺の首があっただろう空中に静止しているのは……。

「……悪足掻きだな」

 月明かりに光る一振りの刃。俺目掛けて投げつけられた鋼の剣身を、位置を変えていたジェインが、二本の指先でしっかりと挟み止めている。――投げたのか?

「あ、あの人……っ!」

「おいおい、マジかよ……ッ‼」 

 まさか。離された凶器が空中を落ちる。力ない乾いた音を立てて転がった横で、怯えるフィアの顔と、構えを取るリゲルが見ている先に――。

「……」

 ――立っている(・・・・・)

 あの老人が。口元は血で汚れ、前傾になった身体には明らかにダメージが残っているが。

 手にした短剣は変わらぬ冷徹な光を放っている。暗い光を湛えた双眸と重苦しい殺気で、俺たちを見据え……。

「――」

 痩躯を翻して走り去った。驚異的な跳躍力で街路樹に跳び移ると、家の屋根から屋根へ跳んで見えなくなる。……静寂。

「……ふーー……」

 残された闇夜を痛いほどの沈黙が支配している。数泊の間を置いて、闘気を緩めたリゲルが長々と息を吐き零す。……終わったのか。

「だ、大丈夫ですか」

「……ああ」

 今度こそ、本当に。近づいてくるフィアの身体の横に、地面に横たわる短剣が目に入る。一歩間違えていれば、今頃は。

「……済まないジェイン。助かった」

「謝ることじゃない。君を突き飛ばす動作は、リゲルの方が早かったからな」

「嫌味かよ。悪いな、黄泉示。ジェインが動くのがもうちょい早けりゃ、突き飛ばさずに済んだんだけどよ」

「ありがとう、二人とも」

 フィアの目の前で、ふらつきながら立ち上がる。あれだけの動きを見せたということは……。

「……気絶は演技だったのか」

「倒れてから奇襲のチャンスは何度もあった。意識を取り戻すのが早かっただけだろう。そういう訓練を積んでいるのかもしれない」

「そいつもだけど、お前がナイフをキャッチできたってのが驚きだぜ。あの援護を使ったのか?」

「ああ」

 ――。

「援護……ですか?」

「おうよ。何だかしんねえけど、すげえ効果があんだぜ。周りの時間がバーッと遅くなるみたいでな。本人とはまるで別――」

「……ジェイン」

「ああ。それについての話は、また後日にしよう」

 そうだ。尋ねようとした俺に対し、ジェインが眼鏡を上げる。鳶色の瞳を覗かせ。

「今日は色々なことがありすぎた。僕としても、なぜ蔭水がそんなものを持っているのかは気になるが」

「ッ、う……っ?」

「――っ、黄泉示さん」

 身体が揺れかけたところを、フィアに支えられる。……重い。

「なんだよ、黄泉示。だらしねえな――……っと?」

「二人とも満身創痍だ。これ以上話していると、本当に大事に繋がりかねない」

 頭のてっぺんから足の指先まで。身体全体が、燃えつきのさしのように脱力している。よろめいたところを何とか踏み止まったらしいリゲル。命を懸けた戦いの疲労が……。

「病院――ですよね。この時間にやってるところがあれば」

「僕の知っている場所が一つある。小さい町医者だが、外傷の手当は上手い。しっかり診てもらえるだろう」

 緊張が切れたことで、一気に噴き出してきた感じだ。悪いと思いながらも、フィアに体重を預けがちになる。半身を支えてくれている、暖かな感触を心強く覚えながら。

 身を寄せ合うように、夜の街の中を俺たちは歩いて行った。



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