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彼方を見る者たちへ  作者: 二立三析
第一章 新しい日々の始まり
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第三話 少女の事情



「――報告は以上です」

 上質な空気の漂う、とある一室内。

「……!」

 頭髪から足先まできっちり身なりを整えた青年が、緊張した素振りで言葉の終わりを閉じる。まんじりともしていない視線と、落ち着きのなさを覚えながらも、それを無理に固めているようなつま先の向いている正面には、重厚な作りの執務机が置かれており、

「……そうか」

 深い焦げ茶色をした木製の椅子に、一人の人物が腰を下ろしている。六十の後半にもいきつくだろうと思しき、白いものの入り混じった髪を流し、

 表情には、それまでの人生において当たってきた数々の艱難(かんなん)を思わせる深い皴を。落ち着き払った威厳を備えた双眸には、当人が向かい合ったそのどれもを明白な意志をもって潜り抜けてきたことを示す、明晰な光を湛えている。今しがた齎された報告の中身に、しばし考えるそぶりを見せたのち。

「――ご苦労だった」

「――っ」

「問題はない。引き続き調査を頼む」

「はっ!」

 思いやりと信頼を兼ね備えた言葉で締めくくる。身に掛けられた言葉の響きに、青年は深々と一礼すると、入る前より一層気合いの入った足取りで部屋をあとにした。

「……」

 静かに閉じられる正面の扉を見送って、机についた老人――男は再び、思案の面持ちへと表情を変える。一人用として十二分の広さを持つ執務室の両脇には、背の厚い古書にて埋められた四台の書架が並べられており、

 床を覆う複雑な模様の絨毯。天井に施された細工と、タペストリーとが、歴史を経た一つの厳格な空間を作り出している。何人たりとも容易に入ることのできない――。

「――邪魔するよ」

「――」

「連絡が気になってきて見りゃあ、まあ。こりゃあまた、随分と辛気臭い顔つきだね」

「……リアか」

 そう思われた空気の粛然さを平然と跳ね除けて。音もなく机の対面に現れた人物の声掛けに、視線を落としていた男が顔を上げた。――いかなる技によってなされた所業なのか。

「十四支部から報告があったんだろ?」

「……ああ」

「詳細はまだ聞いちゃいないが。どんな内容だったんだい?」

「――昨日(さくじつ)の夜、また反秩序者(アウトオーダー)による襲撃があったらしい」

 チーク材にて作られた頑強な正面扉は閉じたまま。鍵のかかった両開きの窓も、僅かにその表情を変えた素振りすらない。常人であれば正気と目を疑う現象であるにもかかわらず、男は眉一つ動かさずに来訪者の言葉を迎え入れている。――壮健とした一人の老婆。

「幸い死者は出なかったようだが、重軽傷合わせて負傷者が何名か。それと支部の建物自体が損壊を負った」

「防壁を破られたのかい? どこの誰かは知らないが、中々大したもんだ」

「いや」

 腰元まで伸びる長髪は根元までが白く染め上げられており、丸めて伸ばした紙のようにしわがれた皮膚と、枯れた花の如き外貌には、男以上の年輪が宿されている。齢九十に至る老躯を抱える身ではあるが、

「襲撃当時、結界の一部が十全に機能していなかったらしい。事後調査で術式の一部に(ほころ)びのある部分が見付かった。そちらの修復も(あわ)せて急がせているところだ」

「たるんでるねぇ。支部の連中もそうだが、奇襲を仕掛けときながら死人の一人も出せないだなんて、覇王派にも情けない連中がいたもんだ」

「……リア」

 スラリとした背筋と声の芯から滲み出る生気とが、年齢には不釣り合いなエネルギーを秘めていることを感じさせる。咎めるような口調で掛けた男の声に、肩を(すく)めた老女が、軽い口の端笑いを浮かべた。

「冗談さ。死者が出てないのは喜ばしいことだし、着任して間もない支部長が、きちんと役目を果たせたってのもいい」

「……」

「今後の伸びしろに期待できる。――それで?」

 後半の台詞の最後に老女の語調が僅かに変わる。どこにもいつかない風のような飄々(ひょうひょう)とした口調から、目の前の相手を慮った真剣なものへと表情を変えて。

「負傷者が出ちまったとはいえ、その充分に悪くない報告を受けておきながら、あんたが辛気臭い顔してるってのはどうしてだい?」

「……成果自体に一憂しているわけではない」

 問いかけに一瞬だけ躊躇いを滲ませた――迷うような男の表情が、すぐに意志を固めたものへと変えられる。

「支部を襲撃した反秩序者の中に、覇王派の中でもそれなりに名の知れた者たちがいたそうだ」

「――」

「――永仙(えいせん)だったらしい」

 ――苦悩、当惑、哀愁。

 口にされた男の台詞には、重ねられた幾つもの思考と感情が()()ぜになっており。くぼんだ瞳の見せる光の奥には、どこか諦めを伴った自嘲的な色合いさえ感じられた。

「支部長が姿を確認したそうだ。戦闘には参加していなかったが、後方で指示を出していたのを目撃した……と」

「……なるほどねい」

 二人の間に深長な沈黙が訪れる。十秒程度の()が空けられたのち、老婆が改めて口を開き直す。

「ここんとこ暫く、尻尾を掴めてなかったっていうのに」

「……」

「なんだってまた、そんな簡単に姿を見せたんだろうね。あいつの考えてることはさっぱりだよ、全く」

「……理由については、私にも分からない」

 男が軽く首を振る。感情を拭い去ろうと努力したのち、無理だと判断したように声に力が籠もる。

「だが気になるのは、支部長が永仙を見たという状況の方だ。……もし仮に、覇王派と手を結んでいるとするならば」

「そんな事態は考えてみたくもないねい。あたしが経験してきた中でも、トップクラスに入る最悪だ」

 老女がおどけるようにすぼめた首を振る。憂いに満ちた空気を見てとった気遣いだが、事態の間に横たわる、事の深刻さを吹き飛ばすには至らない。

「――今度の定例協議、どうするつもりだい?」

「支部長に直接話を訊いてみるが、事実であればありのままを伝えるしかない。仮に両者が手を組んでいるとなれば、三大組織が総出で当たらなければならない事態だ」

「だろうね。やれやれ、忙しくなりそうなこった」

 息を零した直後に、老女の姿が消える。夢幻のような継ぎ目のない消失を迎え。

「……」

 室内に一人となったあとも。暫くの間、机に両肘をついた男は、重苦しい思案の表情を崩さずにいた。






「ふう……」

 背負っていたバッグを下ろし。

 手洗いとうがいを済ませて、白色灯に照らされたリビングへと戻ってくる。これで一つ落ち着いた。

 今俺が立っているのは、この地での拠点となる住まい。『ギムレット』から歩いて十分ほどの立地には、幸い迷うことなく着くことができた。この地区では珍しい、数年前にできた新しい物件で。

 周囲と調和したシックな外観を持つ二階建てのアパートは、元々はシェアハウスとしての貸し出しをしていたらしい。売り出したはいいものの、当初の予想以上に入居者が少なかったのか、シェアハウスとして以外に個人用にも貸し出し可になっていたのを、たまたまネットで見つけたのだ。

 一階と二階にそれぞれシェア用の、複数の個室の付いた間取りが設けられており、俺の借りた方は二階。今いるリビングは、八畳ほどの広さがあり、

 壁は気持ち古びた印象の白、床はカーペットのないフローリングで、一続きになっているダイニングには簡素なウッドの椅子とテーブルが置かれている。玄関からリビングまでは一直線。

 まっすぐ伸びた廊下の左右に、四つの個室とトイレや浴室などが設けてある作りだ。一人にしては広すぎると思っていた物件だが……。

 こうして実際中に立ってみると、新しい生活の始まりが感じられる。一国一城の主となったかのような感覚に、柄にもなく高揚するような気分が湧き上がり――。

「……すぅ……」

「……」

 聞こえてきた安らかな寝息が、その感情の起こりを中座させる。問題事から目を逸らしたくなる気持ちを自覚しながら、新品から多少くたびれた灰色のソファーの上で横になっている、眩しい純白の少女に目を向けた。――そう。

 この地に訪れてから早々に出遭うことになった問題事は、未だ解決してはいない。――降り出した雨に少女を抱えて走り出したあのあと。

〝ん、んん……っ〟

 何度か腕の上で身じろぎしてヒヤリとさせられる場面はあったものの、結局新居に着くまでの間に少女が目を覚ますことはなかった。降り始めのうちに走り出したお陰か、俺も少女も身体の方はほとんど濡れずに済み、

 部屋に入って早々に暖房を入れて、リビングのソファーに寝かせることにした。廊下の途中の個室には備え付けのベッドも置いてあるが、様子を見ておくためにはこちらの方がいい。

「……」

 小柄な背丈と身体は、大した長さのない二人用のソファーにもすっぽりと収まってくれた。整った寝顔のあどけなさに、なんとも言えない気分を感じつつ……。

 走っている最中に意識した、事の次第を思い返す。意識のない少女を抱えて疾走するという、不審者以外の何者でもないだろう姿を晒していた俺だったが、

 途中で何人もの人間とすれ違ったにもかかわらず、道中誰にも呼び止められることはなかった。視線を向けられることさえない。

 互いに急いでいる雨の中でもぶつかることはなく、こちらを見ないまま向こうの方が勝手に避けていくさまは、正に異様。幽霊にでもなったような気分だった。……初めに見て取った異常は続いている。

「……」

 面倒ごとを抱えてしまったものだと思いつつ、流れていく思考に軽く腕組みをする。……どうするか。

 マジックで〝衣類〟〝食器〟〝雑貨〟と書かれた段ボールたち、事前に送ってあった荷物三箱に、目を移す。新居に着いた以上、荷物の整理や整頓はしておきたい。

「……おい」

 ただ、私物を出すことになる以上、なるべくなら部外者を外に出してからの方が都合がいいのは確かだ。先ほど見た不調はすでに消えている。

「起きてくれ。おい」

「……」

 懸念がなくはないとはいえ、起きてもらわないことには話が始まらないだろう。肩に手を添えて軽く揺さぶるが、反応はなし。

「おい……」

「……んむ。……んん……」

 左右に揺すられた少女は僅かに眉根を(ひそ)めはするものの、すぐに元の横向きに戻って規則正しい寝息を立て始めてしまう。……形状記憶合金か何かか?

 ここまで走ってきた疲労と気疲れ、人の気も知らないで寝ていることに、微かに苛立ちの気分が昇ってくる。無理矢理にでも起こすという選択肢が頭をよぎるが――。

「すぅ……」

「……」

 ……やめておくか。

 あまりに安らかな寝顔を前にして、内心でそう呟く。起きずに寝続けているということは、考えてみればそれだけ疲労が溜まっているということかもしれない。

 あれだけの変調を見せていた以上、休ませるに越したことはなく、そうでなくとも、気分の悪い状態で起こせば、あとの話が(こじ)れるリスクもある。――時間が経てば目も覚めるだろう。

 俺の方もひとまず荷物を整理しなくてはならない。休息をとる少女の姿を視界から外して、並べられた段ボールへと足先を向けた。



 




 

 ――不明瞭な意識の中。

 気付くと一人、私は荒野(あれの)の上に立ち尽くしている。ここは……?

 ……夢?

 茫漠(ぼうばく)とした感覚に確かなところを見つけられないまま、独りでに動いていく身体に従って辺りを見回す。色の抜け落ちた灰色の景色。

 周囲に人の気配はおろか、動植物を含めた一切の生き物の気配が感じられない。ただ静かに風の流れだけが吹いている、寂しげな荒野……。

 ……。

 ――普段なら、不気味さを感じて当然。

 間違いなくそうであるはずなのに、今の私にはなぜか、その空気が無性に喜ばしく、心地よいことのようにさえ思えている。……こんな静けさを、ずっと望んでいた。

 何者にも追われずに、いかなる人の悪意や愚かしさからも遠ざかった、こんな静謐を。――ふと。

 ……!

 視線を振り向けた先に、身の丈ほどもある何かが刺さっているのを意識する。――剣。

 斜めに傾いた剣見は一切の光を通さない黒色を纏い、月食の夜を取り出して固めたかのような、飾り気のまるでない無骨な大剣として君臨している。近付いたその柄に手を掛けて、

 ――っ。

 私は躊躇うことなく力を込める。さして力を込めてもいない指の動きに従って、身の丈ほどもある巨躯の剣が、軽々と地面を離れて抜ける。――選ばれたのだ。

 幾星霜の時を経ても錆び付くことのない、大剣の放ちだす禍々(まがまが)しい気配を感じてなお、私の心に恐れはない。これこそが私の求めたもの。

 私の望みを果たすために必要なものであると、そう、知っていたから……。




 

「う……」

 ――テンポよく荷物整理を進めていた俺の後ろから。

「――っ」

 寝息を中断させる、微かな呻き声が耳に入る。緩衝材を剥がしていた手を止めて、長椅子の方を振り返った俺の眼に、軽い衣擦れの音を立てて上体を起こそうとしている、少女の姿が映り込み――。

「……」

 早朝の空のような明るい銀髪が、ソファーの腕部分に零れ落ちる。目覚めたばかりでどこかぼんやりとした視線を漂わせている、少女の姿が露わにされた。――倒れていたときの影響が残っているのか。

「……起きたのか」

「……」

「……大丈夫か?」

「……はい……」

 寝ている間に見せていたあどけない表情とは違い、軽く視線を膝元に落としている少女は今、どこか疲れたような雰囲気を纏っている。ゆっくりとした仕草で瞬きをし、

「大丈夫です……」

「……」

「特に、痛いところとかはないので……。……?」

 俺の言葉に気持ちの入らない返事を返してから、何度か辺りを見回して。そこでようやく自分の状況に気付いたように、疑問を浮かべた表情で大きく瞼を閉じ開きした。

「……あの……」

「……」

「すみません。ここは……?」

 次第に意識がはっきりとしてきたのか、先ほどよりも大きく目を開いた少女は、翡翠色の瞳の上で長い睫毛を揺らしながら、きょろきょろと辺りを見回しつつ尋ねてくる。――もっともな疑問だ。

「――気持ちは分かるから、落ち着いてくれ」

「――」

「何も怪しい目的で連れてきたわけじゃない。ここに来る途中、たまたま道端に倒れているところを見つけて――」

 自分がなぜこんなところにいるのか、目の前の相手は何者なのか、疑問の種は尽きることがないだろう。……この時点で誘拐だのなんだの騒がれてもおかしくはない。

 警察を呼ばれたり、叫びをあげられたりしないように、なるべく順序だててことの経緯を説明していく。ただ事ではない様子が収まったのち、雨に見舞われて、やむなくこの場所に連れてきたことまでを話し――。

「――という次第だ」

「……そう、だったんですか」

 言葉を締めくくった俺に、少女は素直な表情で頷いてくる。物静かな態度のまま小さく呟いて、済まなさそうに眉尻を下げた。

「色々とご迷惑をおかけして、すみませんでした。助けていただいて、ありがとうございます」

「いや。俺としてもたまたま通りがかっただけだから、気にしないでくれていい」

 丁寧な謝罪と感謝の言葉に、なるべく感情を挟まずに返す。……とりあえずはホッとしている。

 意識のはっきりしてきた少女の言動は慎ましやかで、初対面の相手にもかかわらず、疑いや不信を挟んでいる様子がない。この分ならスムーズに終わる。

「……体調は大丈夫なのか? もう」

「はい。……苦しかったのは覚えていますけど」

 面倒事の気配がやにわに薄れていくことに胸をなでおろす俺の視線の先で、微かに眉根を寄せた少女が、心臓のある左胸の辺りに手を置く。可憐な飾り(レース)の裏にある、微かなふくらみ。

「今は大丈夫みたいです。ありがとうございます」

「いや、別に。……そうか」

 仕草に釣られてつい目が行ってしまったことに、微かな気まずさを覚えて、曖昧に頷く。……体調の方は問題がない。

 意識も言葉遣いもはっきりしている。説明した事情にも納得してもらった今、残されている問題は――。

「……それで、一つ訊いておきたいんだが」

「はい」

「――なんで、あんなところで倒れてたんだ?」

「――」

 あと一つ。――そう。

 目の前の少女との関わりを終わらせる前に、一つだけ、俺には確かめておかなければならないことがあった。倒れていた少女が陥っていた状況は、明らかに普通ではないもの。

「……」

 ああなった経緯に何か異常なことが絡んでいるのは明白で、原因を聞かないうちには、こちらとしても適切な対処をすることができない。あとになって(るい)が及んでこないよう……。

「……すみません」

「……」

「どうして倒れていたのかは、覚えていなくて。あそこに着く前からずっと苦しくて、途中で倒れてしまったことだけは、覚えているんですけど……」

「……そうか」

 首を突っ込んでしまった以上は、できるだけ事情を把握しておかなくてはならないのだ。本当に心当たりがないのか、少女は済まなさそうな表情でそう言ってくる。……覚えていない。

「……」

「……っ」

「……帰った方がいいな」

「え?」

 ――なら、ここまでだ。

「もう夜だし。親や友人も、心配してるんじゃないか?」

「……!」

 これ以上関わり合いになるつもりはない。目の前のこの少女に、何か普通でないものが関わっていたのは確かであり、

 どんな害を被るかもわからない以上、覚えていないという答えなのであれば、それ以上は踏み込めない。少なくとも一度、俺は助けた。

「いつまでも他人の家にいるのもあれだろ。早く帰って、休んだ方がいい」

「……」

 この少女が普通でないものの関係者でなく、自分から異常に踏み込んだわけではないのなら、また同じ目に遭う確率は低いはず。仮にもし覚えていないとの発言が事実ではなければ、意図的に自分の素性を隠したということになる。……どちらにせよ俺の関わる動機は消えた。

「……」

 あとはただ、常識的な対応にのっとって、自分の場所へと帰ってもらうだけだ。自発的な回答を待っている俺の前で――。

「――っ」

「――?」

 何かを考えているようだった少女の表情が、不意に、何かを決断したような瞳の閃きを覗かせる。素直にこちらの言葉を受け止めていただけの空気が消え、

 手のうちに握られた指先、真一文字に結ばれた口元が、少女の固めた意志の強さを表している。――ッ危険だ(・・・)

「っま――ッ」

「……思い、出せないんです」

 この続きを聞いてしまっては、戻れなくなってしまう。直感に逃げを打とうとした俺の動作よりも早く、少女の唇がポツリとその言葉を発する。――ッ!

「母の名前も、父の顔も」

「……!」

「住んでいたはずの場所のことも、親しい友人のことも、何一つ……」

 翡翠色の瞳を苦し気に歪めて、胸に(つか)えていたものを訥々(とつとつ)と吐露していく言の葉が、語るたびにその語調を重くしていく。――っなに。

「……そもそもどうして私は町を歩いていたのか。その前に、私が何をしていたのか」

「……‼」

「全く思い出せません。――思い出せないんです」

 自分で自分を疑うように強く握りしめられた指先。――まさか。

 愕然とした思考が言葉の意味を理解するより先に。当惑するように頭を振った少女が、泣き出しそうな瞳で俺を見た。

「私は一体、……誰、なんでしょう?」

 

 ――

 

 少女の話を聞いたあと、

「……本当に何も思い出せないのか?」

「はい……」

 体重に軽く沈むソファーに腰かけて。対面する形で少女の答えを聞いた俺は、頭痛のするこめかみを押さえつけていた。思いがけない告白ののち、

 悄然(しょうぜん)とした口調で彼女が話してくれたのはつまるところ、自分の素性や来歴について一切の記憶がないということだった。――胸の奥に酷い痛みを感じて、ふらふらと街を彷徨い歩いていたが、途中で耐えきれず倒れてしまった。

 倒れた状態のまましばらく苦痛に耐え続けていて、力を振り絞って目を開けたときに誰かが自分の傍にいる気がして、そのまま意識を失った。目が覚めたときにはもうすでに、この部屋のソファーで横になっていた……。

「……」

 ――何一つ得るところがない。

 改めて思い返してみても、素性に迫るような手掛かりや情報は何もない。想像を飛び越える面倒事が訪れてしまった事実に、息を吐きたくなって、直前で止める。……記憶喪失。

 そうとしか言えない症状だろう。日常的なこと、常識的な物の名前や習慣などは覚えているようだが、自分自身についての情報が根こそぎ消えてしまっている。名前も年齢も……。

「……弱ったな」

「……すみません……」

 生まれも、人間関係も分からない。自分が記憶喪失だということを話してから、少女の態度は慎ましいというよりは、不安と緊張で縮こまったものに変化していた。……無理もないか。

 見覚えも何もない場所で目覚めて、自分の過去について一切思い出せるものがないとなれば、こうもなるだろう。通りすがりの相手に迷惑をかけているという意識が強いのか、仕草からは自分の抱えている不安を必死に押し殺そうとする態度が伝わってくる。……嘘を吐いている様子ではない。

 いっそのこと冗談で会ってくれないかとも思うが、膝を閉じて祈るように両手をギュッと握りしめてるその姿は、俺としても幾らかの同情心が湧いてくるほど痛ましいものだ。――どうするか。

「携帯とか、身分証なんかも持ってないんだよな?」

「……はい」

 少女と俺の眼が今一度机の上を目にする。カバンなどの持ち物は少女になく、服のポケットには、この国で使われている数枚の硬貨が入っていただけ。

 面に彫られた偉人の顔や数字には当然名前や住所など書いてあるはずもなく、パスポートや免許証、メモなどの一枚ですら持っていない。言葉遣いや服装に擦れたところがないことを考えると、生活に困るような立場の人間ではなかったのかもしれないが……。

「……」

 ――警察に任せるか?

 意識に、もっとも常識的な判断が思い浮かぶ。身元不明の記憶喪失の人間の扱いなど、俺の手には余るものだ。

 面倒事を避けるという意味でも、手間を減らすという意味でも、魅力的な選択肢であることには違いない。手っ取り早いと言えば早い方法だが……。

「……あの」

 大きな懸念点もある。顎に手を当てて、考え込む姿勢になっていた俺に、沈黙を保っていた少女が、何かを言い出してくる。

「どうした?」

「……その」

 何か思い出したことでもあるのだろうか。一抹の期待を込めて見つめた俺に、少女は微かに居心地が悪そうに、居住まいを正す。――ん?

「見ず知らずの方にこんなことを頼むのは、本当に申し訳ないんですけれど……」

「……?」

「ほかに思いつけることがなくて。その……っ」

 相変わらず不安と緊張に押しつぶされそうな表情をしている少女だが、今はそれに加えて、何かを懸命に言い出そうとしている努力が見て取れる。先ほどとはまた違う気配。

 真剣そのものの口調のあとで、迷うように瞳をギュッと瞑る。相手の抱える決意の大きさに、嫌な予感を覚えた直後――。

「っ私を。……ここに、置いてはいただけないでしょうか?」

 閉じることもできずにいた俺の耳に、控えめながら口にされた、予想外の台詞が飛び込んできた。




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