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彼方を見る者たちへ  作者: 二立三析
第三章 日常を超える扉
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第二話 獲物と狩人


 ――死は、さり気ない。

 そのことを老人はよく知っている。演劇などで見せられるドラマチックな死などは、想像と創作の中だけの作り物。

 現実においては覚悟を決める猶予もなく、ただ唐突に、不意の客人のように死という事態の訪れを告げられる。自己の消失、生の途絶、未来の霧消――。

 抗い難い終わりを意味する事象をあまりに呆気なく告知されたとき、人は果たして、どのような反応を見せるだろうか。

「――」

 死に携わる生業を選んだ者として、それが老人の半生に伴う問いであった。仮に答える者が軍人や同じ暗殺者(アサシン)であったなら、答えを想像することは比較的容易に違いない。

 彼らは常に覚悟している。死を身近に置き、それが夢物語でない場所で今を生きている。彼らからしてみれば、死は決して特別なものではない。

 死とは考え得る一つの現実的な帰結であり、横を見れば常に隣にある隣人でさえある。逃れられない来訪を先延ばしにするのであれば、どういった対応を取るかというだけのこと。

 他方。死の来訪に晒される人間が、構えをまるで持たない人間であったなら。

 安寧に唾棄(だき)し、死を忘れられる場で生きている人間がいざその足音を聞いたとき、衝動に突き動かされないことが、果たしてどれだけ希少でし難いことだろうか。老人の慎ましやかな経験から言うならば――。

 酷く退屈であることに、そのような事例はほとんどないと言える。死の訪れに気付かなければ別だが。

 大抵の場合は驚愕、恐怖、狼狽が(あらわ)にされる。慟哭、狂乱、逃走。

 日頃どれだけ声高に信念や理想を叫んでいる人物であっても、それは変わらない。物欲に固執し、人を蹴落とし、浅ましく自らを肥やそうとする人間とであっても、なにも。

 ――避け得ぬはずの死の訪れが、初めて生への態度を顕わにする。

 その気づきがかつて、老人に暗殺者という日陰の道を歩むことを決意させた。生とはそれ単体で成り立つ事柄ではない。

 皮肉なことに、人間の生き方というものは、その終わりを前にしたときに初めて知れるものなのだ。覚悟して受け止められる人間はごく僅かな例外であり。

 ――その点から(かんが)みるならば、この青年は、それなりによくやっていると言えたかもしれない。

「――」

 自らに向けて振るわれた一刀、刀の形をした(なまくら)を見切りの上で躱す。空を切らせて構えの崩れを誘い、短剣を手首に突き立てて得物を落とさせようとする。

「――ッ‼」

 瀬戸際で反応。刃の沈む直前だった手首を反転させ、裂傷を負いつつ青年が踏み込む。手負いの気合、まともに受ければ響くだろう抵抗を、枯れ木のごとき老人はしなやかな発条(ばね)と流しでもって推力へ変えて引き下がる。――距離を取り直し。

 再びの対峙。呼気をかき消す夜気が互いの間に満ちる……。

「……」

 ――器と護り手を捕捉してから、どれほどの時間が経っただろうか。

 気分次第で長くも短くも感じるが、感覚的には恐らく十分と経っていない。それだけの時間を経ても決着が訪れていないという今のこの状況は、老人からしてみても、予想だにしなかった展開だった。

 ――暗殺業を生業(なりわい)とする自分に、突如として舞い込んだ王命の案件。

 七十も半ばに差し掛かろうかという(よわい)。抗いようのない衰えを日に日に感じる中で、王派の技能者としての活動を締め括るに相応しい、有終の美となる使命が老人の垂涎を誘った。老骨を奮い立たせて臨み、用意を整え。

「……」

 いざ標的を捉えたと思ってみれば、まさか、ここまで茶番を演じさせられることになるとは。改めて老人は目の前の相手を見やる。――鍛えている人間の動きではない。

 構えや時たま起こり掛ける所作を見る限り、一応の心得はあるようだが、それとて素人に毛の生えたようなもの。無いよりは幾分マシといった程度であり。

 頼みにできるにはほど遠い。動きは無駄が多く乱雑で、老人の積み上げてきた技法に対抗できるようなものでは決してない。――その見立てに間違いはなく。

 それでも目の前の青年がまだ立っていられる(・・・・・・・)のは――偏にその違和感を覚えるまでに秀でた、身体能力があってのことだった。手心を加えているつもりはない。

 死にもの狂いかと問われれば確かに違うと答えただろうが、必要な力で殺そうとは試みている。相手の未熟さを考えたなら、初撃か、続く二手目でも充分に殺せる見積もりであったはず。

 それが――。

 既に五手目。必要を見極めたはずの強襲を(ことごと)く凌がれていることに、老人としても少なからず忸怩(じくじ)たる思いを感じずにはいられないでいた。……思っていたよりやり辛い。

 死を避けるための必死の抵抗など珍しいものでもないが、目の前の青年のそれは、必死と呼ぶにはいささか内向きすぎる。命が脅かされた場合にあるはずの怒りや殺意。

 そういった感情の熾りが感じられず、何やら抗うすべを知らない子獣を踏みつけにでもしているかのような決まりの悪さを感じさせられる。その上で。

「……ッ……!」

 身体能力は成獣並みだというのだから、性質が悪い。いっそのこと奇妙ささえ感じられることだ。これだけ鍛錬の気配がないにもかかわらず――。

「……」

 老練の暗殺者の連撃に、対応できるだけのものを持っているとは。技能者としての奇特さと、察知のされ辛さ。

 ――守り手として、都合のいい駒を選んだというところか。

「ッ……‼」

 声にならない気概。不可解への分析をやめて、老人は意識を切り替える。負った傷の痛み。

 隠しようのない疲労と憔悴が青年の全身に現れてはいるものの、目だけは力を失っていない。目の前の自分を見ているというよりは。

 自分のうちにある何かに固執しているような眼差しだ。……あの大賢者の見立てを信じるなら、器の出現からこれまでにはまだみ月と経っていないはず。

 然したる深さの付き合いもないような相手を守るため、ここまで自らを奮い立たせられる。適役を守り手として選んだ器の老獪さと、無知と不運から来る守り手の境遇に言い難い感情を老人は覚える。……人払いの呪は(しばら)く持つ。

 面倒な番犬たちへの誤魔化しも同じはずだが、悠長にもしていられない。通り一遍の攻め手であれば、この青年が耐えるだろうことは明白だ。

 王命を受けた身として刃を収めるつもりはなく、(なぶ)り殺しは趣味ではない。牙も持たない相手に技を使うことは、暗殺者としての矜持に反する。

 殺しの道を歩み、初めて命を奪って以来、五十年間突き通してきた不文律。……しかし。

「――」

 ――今宵は己の最後の仕事。王命だけの持つ栄誉の重さが、老人をしてある一手を選ばせた。





「……っは、っは……!」

 ――負傷。

 熱い血の温度を持つ身体を、押し寄せる夜の冷気が無理強いに等しい強引さで表面から冷却していく。痛いという感覚ではない。

 あらゆる苦痛が戦いの中で溶かされて、身体の内外からじくじくと身を焼いているかのよう。負わされた傷跡と傷口の中から、広がるように――。

 ――五回(・・)

 邂逅から男が強襲を仕掛けてきた回数であり、同時に俺が殺害を防いできた数。……これまでなんとか男の攻撃を凌いできた。

「……」

 交錯するたびに傷は増え、身体の重みも増していくものの、奇跡的に俺もフィアも生きている。背後から聞こえる小さな息遣い。守らなければならない相手の気配が、確かに背と鼓膜を揺らす。まだ……。

 ――だが。

「……ッ‼」

 渾身。気を抜けば即座に下がりそうになる腕を、必死の一念で立て直す。……ッ厳しい。

 これまでの攻撃を受けるたびに増えた傷。切られた四か所ほどの肉からは血が滲み、骨を砕くような打撃を浴びた三つの痣には、消えることのない鈍痛が染み付いている。……(ひび)が入っているかもしれない。

 疲労と痛みが身体の動きを鈍くし、反応が徐々に遅れがちになってきている。――斃れるわけにはいかない。

 生きてこの状況を抜け出すまでは、絶対に。執念と呼ぶべき気迫で身体を支えるが――。

 ……ッ。

 予想以上に身体に力が入らないのを感じて愕然とする。……限界が近い。

 次か、遅くともその次には、身体が言うことを聞かなくなるときが来る。浮かび上がる不吉な予感。

 閃く白刃が心臓を貫く。幻の痛みに現実と相違ない恐怖を感じながら、手足の震えを振り切ろうとした――。

 ……ッ⁉

 そのとき。不意に、それまで針のように肌を刺していた感覚が消失したことに戸惑う。……なんだ?

 殺気が消えた? こちらを見る男の眼に覇気はなく、全身から立ち上る脅威の雰囲気も薄まっている。そぐわない解放感に……。

 安堵よりもまず、困惑が湧いてくる。……突如として見逃す気になったというわけでもないだろう。

 有り得ないと思いつつも、気配の余りの豹変ぶりに戸惑わざるを得ない。判断に起こったその迷い。

「ッッ‼⁉」

 ――意識を(たゆ)ませるその思考自体が、何より致命的な隙となっていた。眼前まで迫っていた凶器を弾き飛ばす。

 刀身と接触し、甲高い金属音を上げて闇の中へと消えるのは、これまでとは別の種類のナイフ。闇に紛れる黒色の――‼

「――‼」

 振るった俺自身の腕で死角になっていた陰から、矢の如く鋭い黒の切っ先が飛び出してくる。――ッ右目‼

 直感的な看破に紙一重で狙いを外す。目元に走る熱。鋭い痛みに一瞬気を取られたその隙で、またもや男は俺との距離を取り直していた。生温かい温度を持った液体が、遅れて頬骨(ほおぼね)の上を伝う……。

 ――……っ。

 ……なんだ?

 今の攻撃は。疲労感を吹き飛ばす鮮やかな痛みに、事態を後追いした心臓が早鐘のような勢いで収縮し始める。これまでの白刃とは違う。

 濡羽色のナイフは闇を背景とする景色に溶け込み、視認を格段に困難にしている。だが――。

 それだけではない。男が短剣を投げるのも、ナイフを手にして迫るのも、俺ははっきりと目にしていた(・・・・・・)からだ。……相手が攻撃の動作に移っているのに。

 それを脅威と認識することができなかった。殺気の消失、その本当の意味を理解する。……ッ冗談じゃない。

 今の一撃を回避できたのはただのまぐれだ。避け易い目などでなく、的の大きい胴体を狙われていたなら、確実に重傷を負わされていた。相手の動きに対する反応が、全て遅らされるとなれば。

「……」

「……っ‼」

 これまで通りの対処の余地などあり得なくなる。未だに感情を読ませない男の目つきに、何とかして気配を読み取ろうとした。

「――ッ⁉」

 刹那。構えていた俺の脚を、鈍い衝撃が襲う。遅れて生じてくる強烈な違和感。

「……‼」

 視線を下ろした自分の右大腿部に、一振りのナイフが突き刺さっているのを目にする。馬鹿な――‼

「――ぐウッ‼」

 男の指先が僅かに曲がったと思ったときには、ナイフが俺の皮膚と肉を貫いていた。痛みに落ちそうになる膝を堪えた直後――。

 ――っ。

 短剣を構えた男が、すでに目の前に映り込んでいるのに気づかされる。近付くという過程を丸ごと削り取ったかのような。

 ヌルリとした現出。先と同じような気配の薄さに、危険と分かりながらも対処が遅れざるを得ない。……いや。

「――」

 というより、これは既に(・・・・・)。本能的な反応を押さえ込んだ、冷酷な判断が脳裏に響く。……間に合わない。

 脚の刺傷にぶれた姿勢、視線と共に下がった刀身。数瞬後に訪れる死の凶器から逃れるには、どう考えても手遅れだ。絶命を理解した脳裏に――。

 自分の過去の記憶が、目まぐるしい断片として刹那に去来してくる。フィアたちと過ごした時間。

 海外に渡る前、あの家で小父さんと過ごした時間から、子どもの頃の記憶まで。瞬くように現れては消えていく――。

 ……!

 情報の嵐のような走馬灯の中で、一つのイメージが意識に留まる。――忘れようとしていた一幕。

 思い出さないようにしていた経験。日差しの差す庭の縁側に、穏やかに座って微笑んでいる母がいる。

 猛々しい興奮の中で木刀を構えた目の前から、力のこもった眼で父が自分を見ている。何もかも懐かしい……。

 幼少の頃の記憶だ。存命だった二人から手解きを受け、鍛錬に励んでいた頃の――。

 ――ッ。

 ――自分自身の終わりを前にしてか。

 かつて焦がれたその光景に向けて、身体が独りでに姿勢を整える。水平に保った腰を浅く落とし。

 左手はない鞘を掴む形で虚空(そら)に置き、畳むようにして右腕を胴体にひきつける。……ナイフの刺さっている腿には力を込めない。

 必要な一瞬、その瞬間にだけ力を揺り起こせれば良いからだ。不思議なほど平静な自らの呼吸を意識しつつ――。

 ――蔭水流に、九つの型あり。

 一技必殺にして二の技要らず。千変万化を牛耳る異形に対し、最適な一刀をもって解とする。『影の太刀』における奥義。

 如何なる異様を有する相手に対しても先先の先を取り、気付かせずして断つ神速の居合術。かつて俺が最も鍛錬した、この技の名は――。

「――ッッ‼‼」

 ――【無影(なきかげ)】。

 記憶の中の光景と現実とが重なる瞬間。己に迫る刃へと向けて、肉体から裂帛の一閃が解き放たれた――。



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