第二十三話 虹の根元
「……良かったんですかい?」
黒服の運転する車内。多重積層の防弾ガラス、鋼板と複合材の仕込まれたボディに守られた内部で、助手席に座る部下の男が問いかける。やや遠慮がちに。
「ボス。地上げの話……」
「ああ、いいさいいさ」
上等の葉巻に火をつけ。ミラーから送られる視線に、後部座席を占領するビアッジョは軽く手を振って答える。勘のいい人間なら気付くことではあるとはいえ。
「やり込めるつもりで吹っ掛けた会話だったってのに、中々良い返しをしやがった。機転の見返りが要るってもんだろう」
「しかし……」
「今し方、仲介人の方に連絡があったって話でな」
事情を知らない人間からしてみれば、必要のない施しと見えたのかもしれない。移り変わっていく外の景色を眺めるビアッジョの瞳に、雨に濡れた窓越しの街並みが映り込む。
「必要が無くなったから手を引けと。――どうせあの地上げ話は、立ち消えになる予定だったんだ」
「――は……⁉」
「依頼人の都合でな。裏の読めねえ話は、今一乗り気になれねえ」
想定通りに狼狽えた部下の動揺を軽く流す。――そう。
エアリー教会の件については、ビアッジョとてそもそも積極的だったわけではない。訳アリの筋から持ち込まれたもの。
「深く食いつきゃサメが潜んでる場合もある。話の山車に使うくらいが、ちょうど良かったのさ」
「……では、その」
「ただのくたびれ儲けだったかって?」
断りづらい依頼であるが故に受けはしたが、流れることが決まっているという情報を掴んだ以上、手間をかける理由もまた無い。沈黙で肯定している部下の反応を、ビアッジョは鼻先で軽く笑う。
「几帳面さに関しちゃお前の右に出るもんはいねえが、まだまだひよっ子だな」
「……!」
「役者はアルバーノのドン・ビアッジョ」
頬に浮かべたのは、意味ありげな笑み。
「取るべきもんは取ってある。――見てみるか?」
返事を待たずにビアッジョの手が動く。無造作に投げ出された手提げ鞄から、張り詰めた革張りの座席に大量の何かが溢れ出した。
「これは……ッ⁉」
「レイルの奴からの土産物だ」
輝きを放つ宝石に、貴金属類。合間を埋め尽くす多額の古紙幣を目にして、部下が表情を一変させる。
「カッサンドラの連中からの戦利品だとよ。ガキの頼みで調べたんなら、あの野郎も当然地上げが立ち消えになるってことは知ってる」
「……!」
「授業料ってところか。ガキの教育に俺を呼びつけやがって」
一等地の別荘を示す不動産の権利書面を手に取って、眼を瞬かせている部下を尻目に、ビアッジョは独り言つ。階段上に消える際に見せた、レイルの微笑み。
「……つまり……」
「ファミリー間での貸し借りはなしってことだ。相場としちゃあフェア」
――食えない野郎だ。
背もたれに背を預けて、ビアッジョは目を遠くの景色に固定する。微かに揺れるディーゼルエンジンの振動が、スーツを通して伝わってくる。
「遺恨は何も残らねえ。当事者への貸し以外はな」
おまけのように付け加えた台詞。ぼやける視界の中心に、握り締められた拳のビジョンが浮かんできた。……あの眼つき。
――ビアッジョとて、たかが息子程度にレイルが殺せるなどとは思っていない。
盗聴器という使い古しを無視したとしても、あのレイルを相手に一階下の会話が聞こえないと思う方がどうかしている。あの場面で話を振ること自体、性質の悪いジョークのようなものだったのだ。……レイル・G・ガウスは怪物。
だとしても永遠に生き続けるわけではない。ファミリーの命運が次代に預けられるとき、続きを担うだろう人間の器を分析し、下手を見せればそこを足掛かりにすること。
ビアッジョが仕掛けたのは今ではなく、先の時代まで見据えた駆け引き。呼びつけられた腹いせも含めた、目論みあってのことだったが――。
「……十年か」
前の座席には聞こえない声量で呟いて。自身に相対した青年の面構えをビアッジョは思い起こす。……十年。
アルバーノのドンとしてファミリーを背負い続け、長年に渡り人を見続けてきたビアッジョの直感が言っている。十年という台詞は、決してハッタリではない。
――十年で超えると言っているのだ。
「……まあ、期待はできる」
あの青年は、あの怪物、レイル・G・ガウスを。夢見るような心地で呟いたビアッジョの口元に、自然とニヒルな笑みが浮かぶ。
「たまには投資も悪くねえさ。将来を見越した……な」
――十年後。
そのころには既に、自分はファミリーを担う立場にはいない。レイルのファミリーとの力の差は、更に大きいものになっているかもしれない。
そのときになってレイルを殺せたとしても、自分たちアルバーノのファミリーには何の益もない。虎の尾を踏んで自滅を招くか、零れを狙ったハイエナの群れに食い散らかされるだけに終わるだろう。
その時に――。
――あれとうちの倅とやり合うときが、楽しみだぜ。
今日の貸し借りが果たして、どう作用するか。次代の芽を育てているのは当然、レイルだけではない。
ビアッジョもまた跡継ぎのため、打てる手立ては打ってある。かつて伝説とまで言われたドン。
「……」
彼が築いたアルバーノの、その全てを継がせるように。思考を打ち切って、ビアッジョは完全に目を閉じる。
躯体を通じて伝わる地面の微細な揺れが、揺り籠のようにビアッジョを微睡へと誘ってくる。意識に浮かんでくるのは、遠い将来の趨勢……。
まだ見ぬ未来の光景に思いを馳せつつ。老いた伝説のドンを乗せた車は、穏やかに煙を吐きながら、雨上がりの街中へと消え去っていった。
「……ふふっ」
庭を駆けているジェインたち。
「良かったです。どうにか上手く収まったようで……」
青年たちが子どもたちと戯れる光景を眺めながら、エアリーは静かに唇に笑みを浮かべる。梢に緑の葉を湛える一本の木の陰。
「ジェインにもようやくお友達ができたみたいで。偶然っていうのが怖いですけど」
「……」
「――出てきていいですよ」
柔らかい陽の光が遮られるその下で、誰もいないはずの背後に向けて、小さく一言を口にした。
「今なら子どもたちの意識は、向こうに向いていますから。気兼ねする必要がないでしょう」
「――心遣い痛み入ります」
聞きなれない男の声が応えると同時に、樹の後ろから一つの人影が現れる。……目深にかぶられた白いフード。
「バーネット殿。お手を煩わせてしまい、申し訳ありません」
「気にすることはないですよ。私としても、余り聞かせたくはない話ですし」
片膝を突いている礼節の態度は慇懃ではなく、目の前の人物への確かな敬意が感じられる。エアリーの穏やかな瞳が、真新しい聖職衣に包まれた相手の姿をチラリと目にした。
「以前とは別の方なんですね。前はもう少し、やり手そうな雰囲気の方でしたが」
「僭越ながら、この度バーネット殿への応対役を拝命致しました。なにとぞご理解いただきますよう」
「ええ、もちろん構いませんよ」
通過儀礼のような社交辞令。本当にどうでもいいことのようにのんびりと頷いたあとで、小さく伸びをしたエアリーが、ゆっくりと古びた樹の幹に寄りかかる。
「引退した年寄りの相手ですもの。それで、ご用件の方は何でしょうか?」
「――バーネット殿に、聖戦の義からの復帰要請が出ております」
本題に入った途端、使者の口調が変わる。言葉の一音一音を刻むような真剣な口調。
「現役時に使われた聖宝具の再授与のほか、位階などの待遇も以前の通りに。ご要望があれば条件の追加を願い出ることもできますので、なにとぞご一考くださればと」
「またその話ですか。再三再四、何度も断らせていただいているはずですが」
「昨今の組織方は、何れも低迷の基調にあります」
気乗りしなさそうな溜め息を吐くエアリー。姿勢を崩さない使者の口調は、あらかじめ頭に叩き込んだ文言をそのまま口にしているかのように淀みない。
「魔導協会大賢者であった九鬼永仙の離反に、神器の奪取。英雄として名を馳せたバーネット殿に帰還して頂ければ、我々も権勢を新たにすることができましょう」
「大袈裟ですね。私のようなロートルが戻っても、組織の足を引っ張るだけでしょうに」
「――お言葉ですが」
取り合わない。のらりくらりと躱そうとするエアリーの態度に、信徒が幾分語気を強くする。
「聖戦の義への所属中も、そうでない現在であっても、エアリー殿は組織に多大な恩恵を負っておられます」
「……どういう意味でしょうか?」
「アルバーノファミリーによる地上げの一件について、私どもの方から働きかけをさせていただきました」
決定打のつもりで出したのだろう使者の台詞に、エアリーの指先が止まる。指すところが伝わるよう――。
「僭越とは思いましたが。我々の力添えがなければ、今頃この孤児院は閉鎖――」
「――そうだったんですね」
たっぷりと間を置いて言葉を続けた使者の耳に、場違いと思えるような、喜色のこもった台詞が響いてきた。――振り返り。
「どうやって言質を取ろうかなと思っていましたが。近頃の聖戦の義は、本当に人手不足なんでしょうか」
「……は?」
「引退した私のような人間にまで、お芝居を使ってちょっかいを掛けてくるなんて。過去に使徒の一員だった身として、その点にだけは同情します」
「……!」
ゆっくりとした歩みで木の後ろに回ってきたエアリーに、事態を飲み込んだ使者が顔色を変える。フードで隠されたこめかみを、気温のせいではない汗が伝っていく。
「始めから不思議には思っていたんですよ」
膝を着く使者を見下ろす形になったエアリーが、胸前で手のひらを合わせて話し始める。殺気などまるで感じさせない、穏やかな笑顔を浮かべて。
「こんな一円にもならないような土地と教会を、地上げなんかしてどうするつもりなんだろうって。ジェインや旧友が調べてくれても、何も出てきませんでしたし」
「……」
「対価に見合わない手間までかけて、何を得られるのかって。でも、やっと繋がりました」
つばを飲み込んだ信徒。目を合わせぬよう俯いたまま、手の震えを押さえる。
「……何の話だか」
「いいんですよ、皆まで言わなくて」
優し気な声でエアリーは続ける。肩に手のひらをそっと置くような素振りで、軽く流し目を送った。
「使いの一信徒である貴方に、拒否権の裁量がないことは承知しているつもりですから。――連れない話ですよね?」
「……」
「高々十年が経ったくらいで、私の二つ名の意味を忘れてしまうなんて。上の方が変わったんでしょうか」
答えを求めていない問いかけ。自身に向けられる柔らかい響きに、信徒は膝につけた拳を握り締めたまま、震えることしかできないでいる。身を固めるほどの圧力に押さえつけられて……。
――理解はしていた。
かつて世界を滅ぼさんとする脅威に立ち向かった、技能者界の英雄が一人。前線を引退し、十年というブランクを置いてなお、並の幹部クラスに匹敵するとされる《逸れ者》の勧誘に当たるのだと。組織に所属する者として、間違いのない知識が使者にはあり――。
……ッ。
――しかし。
「前はここまで明け透けではありませんでしたし、もう少し手心というか。――そうそう」
今実際に体感するエアリーの気配は、使者が想像したイメージとは全く質を異にしている。……次元が違う。
人の形をした巨人を相手にしているかのよう。一線を退いたロートルであるにもかかわらず、まるで抗える気がしない。身体全体が噛み合わない歯車にでもなったかのような錯覚を覚える使者の前で、思い出したと言うように、エアリーが無邪気に手を叩いた。
「貴方ならご存じなんじゃないですか? 上の方への連絡先」
「え――……は……?」
「今回の件を受けて、一度お話しておきたかったんですよ。冗談でも子どもたちに手を出したらどうなるかについて、心を込めて、じっくりと」
可愛らしい語調に、天使のような笑顔。じわじわと距離を詰めてくるエアリーに対し、使者は噛み合わない歯の根の音を辛うじてどうにか押し殺す。――断れるはずがない。
「っど、どうぞ」
「ありがとうございます。短縮ダイヤルで掛ければいいんですか?」
「は、はい」
《怒りの使徒》。聖戦の義の最高幹部である十二使徒の一角を担い、天災の如き暴力によって幾つもの粛清対象を壊滅させてきたという逸話は、下部の構成員である使者とて何度も耳にしたことがある。数コールの短いダイヤルののち、向こうの相手が携帯を取る音がした。
「――初めまして」
「――」
「私、エアリー・バーネットと申します。今回こちらが受けた勧誘の手法について、是非お話ししておきたいことが――」




