第二十二話 雨上がりの虹
「……ッ‼」
その挙動に息を呑む。動きを封じられている俺たちの目前。
「は――?」
「……何の真似だ?」
「――子どもに問題を負わせるわけにはいきません」
銃を構えた男が目を眇め、小太りの男があんぐりと口を開けて呆けている。そうと気付かないほど自然な仕草で前に出た――。
「神父――!」
「テーブルに乗せるなら、私の命に。勿論、話を続けさせてもらうつもりではありますが」
エアリーさんが、ジェインと拳銃の間に割り込んでいる。身体の前に手を下ろした状態で、無防備な眉間に銃口が触れる位置に。
「……エアリーさ」
穏やかな視線のまま、正面から立ちはだかっている。……駄目だ。
俺の持っている手札。一縷の可能性に賭けるかとも思ったが、やはり動けない。下手に動きを見せたなら、いつ男の拳銃が火を噴くとも限らない。
「……!」
エアリーさんと拳銃の距離が近いこの状態では、特に。震えるフィアの手のひらがギュッと握り締められる。固唾を飲んで見つめるしかできない中に、古びた木製の壁に掛けられた、時計の針の音だけが響いていき――。
「……」
「――大した度胸だ」
数分にも数時間にも思えた緊迫感のあとで。銃の狙いを外さない男が、ポケットから銀白色のシガレットケースを取り出した。親指で蓋を弾き。
「こんな仕事をやってると、嫌でも境目ってものを目にする」
「あっ、ほい……!」
「綺麗ごとをのたまって、自分の身可愛さに手の平を返す連中。土壇場になればプライドを捨てる人間を、何人も見てきた」
中の煙草の一本を、歯に咥えて抜き出す。隣で控えているだけだった部下の男が、慌てたようにライターで火をつける。吸い込めばむせるほど濃い香りの煙。
「……」
「――あんたは違うらしいな、神父さん」
白の煙が、ゆっくりと天井に広がっていく。命の懸かった緊迫感の中で、視線を交わす二人だけが、まるで別の世界にいるかのように感じられて。
「落ち着いた凄みのある、いい目をしてる。度胸が報われるかどうかは別の話だが」
「……」
「聖職者にしては珍しい。どんな経歴の持ち主なのか、興味がそそられ――」
――重厚なクラシックのメロディが、紡がれようとしていた台詞を止める。
「……待て」
左手で上着のポケットを弄り、右手の銃を構えたまま、携帯を耳に当てる男。……なんだ。
「ああ、俺だ」
「……」
「――そうか」
何の話だ。驚くでも慌てるでもない口調に、疑問が昇ってくる。誰からの連絡なのか。
教会の一件に関わるものなのか、全く別の話なのか。数語の短い言葉を交わしたのちに、注目を集めている男が通話を切断した。
「兄貴……?」
「――帰るぞ」
懐に携帯をしまった男が、狙いを定めていた銃を下ろす。……かえる。
「買い上げ話はご破算だ。この土地に用はない」
「――ッ⁉」
「な――ッ」
――帰る⁉ 青天の霹靂。
「――良かったな、神父さん」
驚天動地の衝撃を受けている俺たちの前で、立ち上がった男が悠々と言ってのける。なにを突然――ッ。
「覚悟が無駄にならずに済んだ。神のご加護っていうのは、必ずしも嘘じゃあないらしい」
「あ、兄貴? え、でも、ここまでしといて」
「済んだことに拘るな」
「……」
……本気なのか。
小太りの男の狼狽え振りと、それを窘める男の所作で理解させられる。あれだけしつこく押しかけてきていたというのに……。
「俺たちファミリーが動くのは、相応の義か利のある場合だけだ」
「――」
「指しかけの仕事に執着を持てば、上手くいく仕事も行かなくなる。この世界で生き抜きたいなら、状況に即応する素早さを身に着けろ」
「……待て」
こうまであっさりと。――ジェイン。
「……あれだけの面倒をかけておいて、自分たちの都合で何の清算もせずに出て行くつもりか?」
「ッ、なんだぁガキが‼ 調子こいてんじゃ――!」
「そう怒るなよ」
うろたえない口調。男の手に押し留められた小男が、噴気しかけていた口を噤む。……当然だろう。
「坊主。誰だって、テメエの状況が自由になるもんじゃねえ」
「……」
「本当に悪い奴ってのは、決して表に素顔を出さねえもんだ。下で動いてる使い走りに食いついてちゃ、まんまと裏でほくそ笑まれることになるぜ」
「……だから見逃せとでも言いたいのか?」
「まさか。――忠告さ」
この男たちが起こしたことで、ジェインや教会にどれだけの負担がかかったか。問い詰めるような視線に晒された男が、顔つきを変えないまま煙草の火を揉み消した。
「まだ若いハヤブサへのな。不条理への怒りを抱いて潰れるか、その先へ進むか」
「……」
「決めるのは俺たちじゃなく、自分自身だ。――あんたはどうだ?」
ジェインを見る男の瞳は、本心から言葉を口にしているようにも、皮肉を交えた冗談を言っているようにも感じられる。暫しジェインを見つめていた視線が、今一度エアリーさんを向く。
「殊勝な神父さん。子どもと同じように、不条理な動きをする俺たちに怒ってみるか?」
「……散々脅しをかけてくれましたが」
……そうだ。
この事件のもう一人の当事者。銃口さえ向けられることになったエアリーさんは――。
「――ハッタリでしょう?」
「――っ」
「……え?」
「少なくとも、今日の振る舞いは。力のあるマフィアと言っても、白昼から堂々と死体を出していたら大変でしょうし」
絶句する俺たちの前で、エアリーさんがにこやかに言い切る。……っなにを。
「話の破綻は筋書き通りで、お連れの方の教育もかねて、ということかと思ったのですが」
「な……?」
「……なるほど」
エアリーさんの視線が向いたのは、目をパチクリさせている小太りの男。視線を追った男が、言い当てられたと言うようにサングラスの奥の眼を細くする。まさか……。
「ただ齢を食ってるわけじゃあない。随分と強かなんだな、神父さん」
「愚直に純朴なようでは、聖職者という仕事はやっていけませんから」
「よく言うぜ」
ハッと息を吐いた男。頬にサメにも似た鋭い犬歯を見せて、今日一番のサプライズを受けたかのように笑った。
「今回は、あんたたちの勝ちだ」
「――」
「その嘘のない度胸で、子どもたちを守ってやるんだな」
――
―
「……どうにかなったな」
「……そうだな」
――数分後。
一気に人数が半分になった部屋の中で、俺たちは疲労に溜め息を吐いている。……黒服たちはもういない。
〝またな~、ぽっちゃりヤクザ!〟
〝なんだよ面白かったのに。ポンポコタヌキの腹太鼓、また今度しに来いよ〟
〝もう来ねえよ、じゃりんこども!〟
主に小太りの男の方が好奇心旺盛な何人かの子どもたちに絡まれたあと、念のため外まで見送るということで、エアリーさんが着いていった。……疲れた。
「……手は大丈夫なのか?」
「あ、……はい」
リゲルといると麻痺してくる面があるが、裏家業の人間とのやり取りはやはり、神経を削られるものだ。エアリーさん曰く本気ではなかったらしいが……。
「そこまで強く握ってたわけじゃなかったので。――怪我がなくてよかったです」
「――本当にな」
銃を出されていたときの緊張感などは、確実に俺たちの精神に負担をかけている。――今一度大きく息を吐き出すジェイン。
「色々と釈然としない部分はあるが、とにかく、面倒なことは消えた」
「……!」
「地上げの件は消え、万一のための金を集める必要もなくなる。これからは――」
――そうだ。
色々と展開はあったものの、結局のところはどうにかなったのだ。厳し気だったジェインの眼が、少しだけ弛んだように見え。
「――ッジェインお兄ちゃん!」
「――」
――次の瞬間。食堂に飛び込んできた子どもに、俺たち三人の視線が一斉に向いた。走って来たのか。
「っ……!」
「……どうした?」
「っ、外に……」
息を荒げさせ、肩を弾ませながら言う子ども。幼さの残る表情の中には、隠し切れない怯えの色が広がっている。
「外に、別の黒い服の人が来てる」
「――」
――なに?
理解した瞬間に悪寒が走る。……別。
奇襲、騙し討ち。不安の色濃く浮かんだ顔を見合わせて――。
「――ッ!」
――誰からともなく、俺たちは走り出した。――っ。
飛び出してきた道路。
「おっ――」
「……⁉」
開いている正門のすぐそば、突発的な運動に暴れる心臓を抑えつつ、その人間の姿を注視する。特徴的なダークスーツ。
オールバックで固められた頭にはサングラスが上げられ、身体と一体化するように馴染んだ非光沢のレザーグローブをつけている。マフィアと見紛うに相応しい全身黒づくめの姿で、教会の正面に立っているのは――。
「リゲル……?」
「――リゲルさん?」
「二人もいんのかよ。しまらなくなっちまうな」
俺とフィアの友人、リゲル・G・ガウス。気まずそうにガリガリと頭を掻くリゲルを前にして、俺たちと共に駆けだしてきたジェインも言葉を失っている。なぜ――。
「……なぜお前がここにいる」
「テメエに会いに来たわけじゃねえから座ってろ。――どうも。こないだぶりっす」
「――あなたは」
なぜリゲルがここに? 共通の疑問を抱いている俺たちの前で、黒服たちを見送ってきたらしいエアリーさんが、リゲルと挨拶を交わす。
「どうしました? なんの――」
「蹴り、着けときましたんで」
「え?」
――っ。
「もう、連中が来ることはねえと思います。そんだけなんで」
「……!」
「え……」
端的な説明。
皆まで言おうとはしない台詞に、じわじわと理解が染みわたっていく。……まさか。
リゲルが、あの連中を? 黒服に入った電話、破算になったという買い上げ話。
「――んじゃまたな、二人とも!」
幾つもの推測が脳内を巡る前で、スーツの姿が迷いなく身を翻す。俺たちに向けられた踵が――。
「――ッ待て!」
走り去ろうとした瞬間、誰かの一声が、その背中を呼び止めた。迷うような数秒を置いて。
「……なんだよ、眼鏡野郎」
「……お前が」
決めきれなかったように、サングラスをかけたオールバックの面が振り返る。瞳の見えない相貌に見つめられ、言葉を濁したジェイン。
自ら口にしていながら、受け入れることを拒まずにはいられないかのように喋るのを躊躇っている。一語一語を区切るようにして……。
「……お前が連中に働きかけたのか? この件から手を引くように……」
「……一々訊いてくんなよ、んなこと」
「――何が目的だ」
呆れたように溜息を吐いたリゲルに、ジェインが詰問するような視線を送る。
「この教会を救って、お前に何の得がある? 何のためにこんなことを――っ」
「――ッ」
リゲルの表情が変わる。皆まで聞くのを耐え切れなくなったように、視線を隠すサングラスを勢いよく毟り取った。
「――ッバーーッカッ‼‼」
「――」
「思い上がんな、眼鏡が‼ ッ誰もテメエのためなんかにやったわけじゃねえ」
立てた中指を突き上げ、天を衝くような剣幕で捲し立てているリゲル。エアリーさんや俺たちを目にして、後悔したように舌打ちをする。
「……ガキどもが不憫だろうがよ。その齢で、家まで失っちゃあよ」
「……!」
「知らんぷりして路頭に迷わせろってのか? ――マフィア絡みの件なら、俺が一番手近だからやった」
苛立ちを紛らわすように手のひらをポケットに突っ込み。ズボンのサイドを思い切り撓ませながら、ジェインを睨み付けるようだったブルーの眼差しを、悪態を吐き捨てるようにして逸らす。
「それだけだ。恩着せだなんて誰が思うかよ」
「……」
「テメエからの感謝なんぞ、持ってきたところで熨斗つけて送り返してやるよ。っあばよ――」
「――待て」
「ッ、――なんだよ」
今度こそ去ろうとした背中が、また止められる。煩わしさを隠そうともせずに振り返ったリゲル。
「……子どもたちに顔を見せていけ」
「……ああ?」
「今回の件について、お前の口替わりをするつもりはない」
淡々とした口調でジェインは続ける。剣のようにささくれ立った髪の下から。
「誰が黒服を追い払ってくれたのかと訊かれたとき、事実と違うことを教えるつもりもない」
「――っ」
「今後のためにも子どもたちには、マフィアとそれ以外との見分け方を学んでおく必要がある。――お前がこの教会を助けたなら」
銀色の眼鏡が輝きを放つ。中指で上げたレンズの奥から覗くのは、燃えるような理知に満ちたブラウンの瞳。
「最後まで責任は取ってもらう。自分が何をしたのか、子どもたちに説明していけ」
「……」
……沈黙。
リゲルもジェインも言葉を続けない。睨み合ったまま、傍観者である俺たちも、何も言うことはできずに。
「……」
「……けっ」
互いのプライドをぶつけ合うような沈黙が続く。不意にその沈黙を打ち切ったリゲルが、ぶっきらぼうな仕草で身体を反転させた。
「――礼は言わねえからな、インテリ眼鏡」
「こっちのセリフだ。マフィアもどきのグラサンゴリラが」
さぞ不満だと言うようにポケットの両手を突っ張りつつ、並べた肩を、反発させるようにして歩いてくる。二人の並び立っているその光景が――。
「……ふっ」
「フフッ……」
「何笑ってんだよ、二人とも」
「いや……」
「――ジェイン」
喜ばしいと同時に、どこか微笑ましく感じられて。毒気の抜けたような顔で言うリゲルの反対側から、老成した別の声がジェインに掛かった。――エアリーさん。
「神父」
「これを見てあげてくれませんか?」
「――」
――いつの間に近づいてきていたのだろう。
エアリーさんの後ろに、見覚えのある何人かの年長の子どもたちがいる。差し出された小さな手のひらから……。
「――これ」
「……カロリーネがこれを書いたのか?」
それぞれの持っていたノートを受け取る。手に取ったジェインが、中身を見て確かめている。一枚一枚。
「リーゼも。あれだけ苦手だったのに」
「……ぶい」
「ま、私もリーゼも、お姉さんだからね」
勉強の成果がつづられていると思しきノート。捲られるページを前に、物静かな少女がサインを作る。おしゃまな少女が、少し照れたように手のひらを上向けて語る。
「それくらいはできるわ。いつまでもマリアやジェインに見てもらってばかりじゃ、いられないもの」
「へっへ~! そうだぜ!」
ここぞとばかりに飛び跳ねるガキ大将。手には、何度も読み込まれたような低学年向けの問題集がある。
「俺サマが本気を出せばこんなもん、ちょちょいのちょいで片付けられるってもんよ。兄ちゃんに寄っかかりにならずともな!」
「流石だぜ! イックの兄貴!」
「貴方が頑張っていることを、私たちもみんな、知っています」
BGMのように響くカスタネット。子分の少年が見事な手つきで軽快にリズムを刻む前で、エアリーさんが言い出した。
「多くを学ぶ貴方からしたら、私たちは頼りない支えるべき相手なのかもしれません。けれど」
「……!」
「これからは、私たちにもあなたを支えさせてください」
ジェインを見つめるのは、思い遣りに満ちた穏やかな眼差し。
「貴方だけに重荷を背負わせることなど望みません」
「――」
「血の繋がりがないのだとしても。私たちは皆、家族ですから」
「……ありがとうございます」
眼鏡の面の下から、絞り出されたような声が漏れる。
「神父、みんな」
「……」
「――世話になったな」
一瞬だけ声に感情を滲ませて。次の瞬間には元に戻った表情で、俺たちを振り返るジェイン。
「出せるものは何もないが、遊んでいって欲しい」
「――」
「三人とも。子どもたちもきっと、喜んでくれる」




