第二話 謎の少女
「……?」
新居到着を目前にして。
意気揚々に『ギムレット』の看板を曲がった俺だったが、その先で思わず足を止めることを余儀なくされていた。……周囲を人が歩いている。
それは別にいい。この先にはもう住宅地しかないせいか、さっきより通行人の数は明らかに疎らになっているが、それ自体は極々当たり前のこと。おかしなことなど何もない。
――俺から見て左側。六、七メートルほど離れた位置、きれいに舗装された道の脇に、人が一人倒れている。
……百歩譲ってというところだが、これもそこまでおかしなことではないだろう。病気か、事故か、はたまたそれ以外の何かなのか。頻繁に起こり得ることではないが、事態として充分あり得はすることに違いない。
本来ならすぐさまにでも駆け寄って、しかるべき対応をするべきなのかもしれず。しかし――。
「……」
湧き上がってくる警戒心を抱えながら、倒れている人影に目を凝らす。……白い、ドレスにも似たワンピース。
装飾の少ない簡素な造りの布地の横、腰まであると思しき白銀の髪の毛が、艶やかな輝きを放って地面に流れ落ちている。俯せ気味に倒れている表情までは分からないが、女性だろうということは見て取れる。
――いや。
少女と言った方がいいかもしれない。そう表現するのが相応しいと思えてしまうほどに、見つめた人物の体躯は華奢に思えた。……時刻は午後六時過ぎ。
傾いていた陽はすでに沈みかけ、寒々しい秋の風が、街路に立つ樹の梢を揺らしていく。人通りが少ないとはいえ、倒れている人物の衣服は夕陽や店の明かりを照り返す真白色だ。
白銀の髪の毛の輝きも相まって、例え一切の関わる気がなかったとしても、自然と目を惹いてしまうくらいには目立っている。かくいう俺もこの通りに入ってすぐ、その姿が視界に入った瞬間に、倒れている彼女に気が付いたのだ。
――それなのに。
「……」
――誰も気づいていない。
先ほどから通りを行き交う人間の、誰一人として少女に視線を向けていない。じろじろと奇異の目で見るような人間がいないのは喜ばしいことかもしれなかったが、
ほんの少し、気になってちらりと目に留めるような素振りでさえ、ただ一人も見せてはいないのだ。……見て見ぬ振りをしている?
だとしても、ここまで完全にそれが行われるのは妙だ。素通りしていく人々の態度は、どこまでも自然体。
敢えて無視しているという罪悪感や、躊躇いといった様子がまったく見受けられない。どう考えてもおかしなことではあるが……。
誰も少女に気付いていない、見えていないのではないかと思えてしまう。これはつまり――。
「……」
――異常だ。
間違いなくこれは、向こう側の出来事だ。関われば巻き込まれるかもしれない。
周りの人間と同じように、何事にも気づいていない振りをして、素直に此処を立ち去る。それが一番の賢明だろう。
面倒事と関わらずにいられる唯一の方法だということは、未熟な知識からも知っている。……だが。
「……」
俺がここを通るまで、通行人の誰もが気付かず通り過ぎて行ったのであれば。当然のことながら、少女は道に倒れたままずっと放置されていたことになる。
こちらの気温は日本より低く、秋口ということもあって、立っているだけでも肌寒さを感じるほど。コートを羽織っている俺でさえそうなのだから、上着も着ていない少女がどうなのかは考えてみるまでもない。……確認した気温は十三度。
夕方でこれであることを考えると、夜になれば一桁を下回ってもおかしくはない。俺以外に気付いている者のいない、この状況下では――。
「……」
――面倒だ。
内心で大きく息を吐き出す。こちらに着いて早々、こんな面倒事に出くわすことになるとは。
しがらみの多い日本を離れてなお、こんなアクシデントに遭遇する己の不幸を呪いたい気持ちもあるが、そうしていても問題は何も解決しない。……手早く接触して。
早めに片付けて離れるか。諦めの気分を緊張と警戒で上塗りし、一歩を踏み出す。他人からして見えない少女に近づくというのは……。
考えてみれば中々にシュールだ。路上で考え込んでいる外国人という素振りも相俟って、他人からすればさぞかし不審に極まりないだろう。……頭のおかしい人間と思われるかもしれない。
何もない空間にしゃがむのを見ればそう思うはずだ。通報されなければいいがと、憂鬱な気分で前に進み――。
「――」
倒れている少女の間近にまで来たところで、変化に気付く。……なんだ?
これまで周囲から向けられていた視線が、不意に外れたような。向けた視界に映るのは、スーツを着たビジネスマン。
さっきまで眉間にしわを寄せて俺を見ていたその相手が、不意を衝かれたかのような奇妙な表情を見せると、首をひねりながらその場を去って行く。突然俺のことを忘れてしまったかのように……。
「……!」
――そうか。
他人から見えない少女に近づいたことで、俺もこの異変の影響を受けるようになったということか。少女の近くにいる限り、俺の行動は認知されない。
それまで見ていた人間の、意識からも外れてしまう。注目を浴びずに済んだのに安堵する反面、正に本物の異様と相対しているのだと分かって、嘆息したい気分になる。……まあいい。
これ以上の異常がないうちに、片づけてしまおう。小さく息を吐いて、倒れている少女の傍へと身をかがめる。眩しいような純白の衣服。
地面に零れ落ちる長い髪。地面に寝ていることで多少の汚れはついているが、感じられる清廉さは全くのこと損なわれていない。簡素な飾り布に覆われた背中が、微かに上下していることからして。
「……」
生きていることは間違いがない。……妙な感じはしない。
霊的な何かではなく、本物の人間と考えていいだろう。次に問題となるのは、なぜ倒れているかだが。
「……」
改めて少女の姿を検分する。……外傷はない。
「……聞こえてるか?」
軽く土ぼこりが付いている以外、衣服はどこも汚れてはいないし、あの嫌な鉄錆の臭いもしない。当然のことながら返事は返ってこない。
鞄のような、手掛かりになりそうな持ち物は転がっていない。起こす以外に道がないことを把握して、躊躇いながらも身体に手を――。
「……う……」
「――ッ」
伸ばそうとしたとき。反射的に止めた指の先で、僅かに少女が頭部を身じろぎさせる。今の声。
「――大丈夫か?」
聞き間違いかもしれないが、苦痛が強く滲んでいた。意識が戻っていないことに唇を噛みながら、細い線を描く肩に手を乗せる。――必要なことだ。
「……っ!」
息遣いと共に伝わってくる体温と柔らかさ。無関係なことに流れそうになる意識を叱咤して、その意外なほど軽い体躯を、仰向けに寝かせ変えた。
――瞬間。
「――ッ‼」
――呼吸が止まる。
全身の意識が釘付けになる。構えていた考えが、一瞬だけ静止する。……目を奪われた、と言ってもいいかもしれない。
目に飛び込んでくるのは白く抜けた頬。桜色をした小ぶりな唇に、閉じられた目に被さる長い睫毛。
少しのあどけなさが残り、だがそれでいて整えられた、驚くほど愛らしい容貌が目の前にあった。寸分の曇りもない。
ここにいること自体が夢ではないのかと思うほど、非現実的な美しさを持った少女だ。……齢は十代後半くらいか。
「――っ」
可憐さに加えて、どことなく儚い印象をもっている。――だが。
思考を取り戻した俺の意識は、少女の持つその美しさにはすでになかった。仰向けになったことで見て取れた少女の表情。
誰かの夢のように整えられた顔立ちが、一目ではっきりと分かるほどの苦悶にゆがめられている。――小さな唇からは断続的に荒い息が吐かれ、
整った眉根は必死で苦痛に耐えているようにきつく歪められ、額には大粒の汗が浮かんでいる。浅い呼吸を繰り返す様子に――ッ!
「おいッ!」
呼びかけと共に手を握り締める。陶器を連想させるほど白く滑らかな手のひらはしかし、生きているとは思えないほどに体温が低い。――ッただごとじゃない。
「っ……はっ、はっ……!」
医学の心得などなくても、尋常でない事態が起きていることだけはハッキリと感じられる。今にも途切れそうなか細い少女の息遣いが、耳から俺の意識に侵入して思考を急かしてくる。――ッどうすればいい?
どうすれば。必死で考えを巡らせてみても、事態を好転させる術はなに一つ浮かんではこない。爪を食い込ませる焦燥だけが頭の中を巡り、思いを空回りさせている。――なんとかしなければ。
「――ッ‼」
その一心だけで携帯を取り出す。無駄かもしれないと分かりつつも、緊急のダイヤルへと指先を走らせた――ッ‼
――ッ‼
無限とも思える激痛。
止むことを知らない痛みに、私は誰かに向けて必死に助けを願っている。誰か。
――っ誰か‼ 求める先すら定かでない祈りは届かないまま、身を襲う苦痛だけが答えとなって意識に降り続けてくる。――ッ痛い。
苦しい。心臓を動かしている胸の奥、骨と肉と血で作られた身体のうちを、無数の棘と触腕を持つ何かが這いずり回っているような、堪えることのできない不快感が断続している。――息ができない。
「――ッ‼」
バラバラになりそうな肉体の訴えに、喘ぐようにして必死で空気を求めるけど、助けとなるはずの空気は僅かな量しか肺には入って来ずに、肉の裏から押し付ける痛みによってすぐ身体から出て行ってしまう。――痛い‼
ここに来る途中からずっと、私を苛んできた苦痛。引きずるように進んできた身体を支えられずに倒れたときから、身体の中を蠢く痛みは、ますます強くなっている。
どれだけ耐え続けても、決して止んでくれることはない。ここに来たときから、ずっと――!
――っ。
……ずっと?
自分で思ったはずの言葉に、なぜだか説明のできない違和感を覚える。……私。
――私は、いつから?
いつから、ここに――?
――ッ‼
心に浮かんだ問いを考えようとした瞬間、波打つようにぶり返してきた苦痛に、思考から意識が無理矢理引き剥がされてしまう。――苦しいッ‼
痛い――ッ‼ 精神の限界を超えているのではと思える痛みに、自分の意志とは無関係に汗が吹き出し、手足が小刻みに震え出すのを感じる。……ッどうして?
――どうして、私がこんな目に遭うのだろう?
――どうして、私はこんな場所にいるのだろう?
……私は、
私は、ただ――っ……。
「……っ」
心の中に浮かんだ想い。
苦痛の中にある一点の望みに従って、残された僅かな力で首を動かす。……血肉に絡みつく怖気に抗い、
堅く瞑っていた瞳を、最後の力を振り絞って、どうにかこじ開けようとする。……空が見たい。
この得体のしれない苦痛に焼かれて、ここで終わってしまうのなら。
せめて、最期に。喘ぐような呼吸が荒く続く。手足の力が奪い取られるのを感じながら、ゆっくりと瞼を開いていったとき――。
「っ……」
闇に慣れた目に、光が差し込む。――眩しい。
視界を覆う白に目を細めた瞬間、倒れている自分の上に、誰かの影が覆いかぶさっているのに気がついた。――。
……誰?
見つめようとした視界がぼやける。若く黒い眼をした相手の顔立ちが、一瞬だけ映ったと思った瞬間。
――私の意識は、糸が切れるようにしてそこで途切れた。
「――」
無意味だろうと理解しながらも、緊急ダイヤルに指を走らせかけていたそのとき。
「──ッ」
倒れていた少女の瞼が、微かに開かれる。不意打たれて固まった俺の目前で、少女は朦朧とした顔つきでゆっくりと視線を動かし。
震える翡翠色の瞳を合わせて。湛えられた小さな光で、一瞬だけ俺を見た――。
「――ッ!」
瞬間、事切れたように少女の頭が落ちる。肩を滑り落ちる髪。
「ッおい‼」
「……」
「大丈夫か? おい――ッ‼」
閉じられた瞳の上を、絹糸のようにサラリとした銀髪が柔らかに撫でていく。――ッ反応がない。
手をかけて揺さぶっても、少女は動かないまま。最期の力を使い切ってしまったかのようにッ。
――っいや。
「……ッ?」
滑らかに動く微かな胸のふくらみを目にしたことで、動転していた意識に待ったが掛けられる。……あんなに荒かったはずの呼吸が、
今は、落ち着いている? 髪の下に隠れた表情は、よくよく見れば安らかに変わり、苦悶の痛みを浮かべていた先ほどと違って、ただ眠っているだけのようにも見える。額に浮かんでいたはずの汗も引き……。
すやすやとした寝息を立てている様子を、まじまじと見つめ直す。……何が起きたのかはさっぱりだが。
「……ふぅ」
一応落ち着いた、ということでいいのだろうか。少しの間観察してみても、少女の様子に変化はない。
いつの間にか寝顔を眺めているだけになっていることに気付いて、気まずげな気持ちを覚えながら、周囲の様子に目を逸らす。……事態に注目している人間はやはりいない。
今しがたの動揺を見られずに、騒ぎにならないことには感謝したい気分だが、初めに見て取っていた異常はまだ続いているらしい。……どうするか。
初めの予定では、声を掛けたあとすぐに立ち去るつもりでいたのだが、こうなってしまうとそうも言えない。得体の知れない症状が落ち着いたことは確かだが、
それでも大丈夫と判断するには怪しいところだ。……このまま路上に放置していくわけにもいかない。
「……おい」
先ほどの様子を見た心情では、休ませておきたいのが本心だが、起こして別の場所に移動させるほかないか。迷いを感じながらも、選択肢のなさに、少女の肩に手をかけようとしたとき――。
――っ。
不意に。手の甲に落ちてきた冷たい感触が、それまでの思考を途絶させる。――まさか。
思わず見上げた空から、一滴、二滴と頬を濡らしていく雫が、降り注ぐ頻度をゆっくりとしたペースで増していく。先ほどまで晴れていたはずの空に、俄かに灰色の雲が立ち込め始めたことに、通行人たちが我先にと軒下を求めて散らばっていく。にわか雨。
「雨か……」
予報では、今日一日は晴れだったはずだが、ここに来てそれが外された。……雨脚は徐々に強くなっている。
遠くに見える雲の流れからしても、すぐに晴れるということはなさそうだ。――ついていない。
つくづくそう思う。バッグパックには折り畳みの傘が入ってはいるが、一人用としても狭い傘の下に、二人を入れることはできない。
路上に寝かせたままではずぶ濡れになる。陽の光が遮られたせいか、先ほどより一層冷たい風が、撥水性のある黒いコートの表面を撫でていく。これでは……。
「……おい」
――選択肢など、あってないようなものではないか。念のため、揺さ振っても目を覚ます気配がないことを確認してから、諦めの溜め息を吐く。……仕方がない。
「……我慢してくれよ」
「……んっ」
苦い気持ちを零しながら、横たわったままの少女の身体の下に両手を入れ、一息に持ち上げる。抱え上げた瞬間に唇から零れた声の音に、ドキリとした緊張を覚えながらも、想像していたのとは違う重みに驚く。──軽い。
抱え上げた少女の体重は、まるで羽のよう。女性に触れたことのないせいかもしれないが、果たして同じ人間なのかと思ってしまうほどだ。……体つきは柔らかくも華奢で、
「――っ」
下手に扱えば壊れてしまいそうに感じる。思いがけない感触に未知の不安を抱きながら、なるべく少女が濡れないよう、抱えた身体に負担を掛けないようにして走り出す。――今はとにかく、雨を凌げる場所に移動させることが重要だ。
今日この国に着いたばかりの俺に土地勘はなく、思い付ける候補は一つしかない。リスクのある選択肢ではあるが――。
「――ッ!」
この状況下では致し方ない。強さを増していく風雨の中を、自分に言い聞かせるようにしながら駆け走る。あの場に見捨ててくことはできない。
この場さえどうにか切り抜ければ、あとはそれ以上関わる必要はない。目が覚めればすぐにさよならするだけのこと。
何もかもそれで元に戻り、予定していた通りの行動を進められる。わざわざ日本を出て来てまで、新しい生活を始めようとしているのだ。
――どうか厄介事にだけは、ならないでくれ。
頭に浮かんでくる祈りを反復しながら、記憶していた地図の位置を確認する。曇天の覆う灰色の景色の中を、俺はひたすらに、目指す建物に向けて駆け進んでいった……。