第二十話 最後の交渉
――それ以来。
「よい……しょっと」
休日などを使い、俺とフィアはちょくちょく教会に顔を出すようにしていた。何ができるというわけでもないが。
ジェインたちの負担が少しでも軽くなればと、夕飯づくりを手伝ったり、子どもたちの面倒を見たりしている。学園の方はいつも通りだが……。
「……」
――このところ、リゲルと余り話せていない。
最近のリゲルは何か忙しいようで、昼や放課後も一緒でないことが多くなっている。講義中も――。
〝――リゲルさん?〟
〝……おお?〟
〝……ペンが滑ってるぞ〟
〝――っと。悪いな、ついウトウトしちまってよ〟
最近ではめったに見なかった舟を漕いだり、集中を切らしたりと、疲れているようだ。自然と行動を共にする機会も少なくなり――。
「……」
今俺は、ジェインの話を考えている。……リゲルの過去に。
そんなことがあったとは。目撃者の話も交じっているとはいえ、あくまで伝聞。
全てを鵜呑みにしたわけではないが……。
「……」
……俺からすればきっと、事情があったのではと思う。
ギャングを襲わなければならなかったような理由。酷く考えづらいが、そうでもない限り、一人でギャングに挑もうとする無茶はしないはずだ。今のリゲルを見て、そう思っているのは事実で。
「……」
だが。……ジェインの気持ちも、理解はできる。
話の規模から考えて、少なくとも起きた結末はその通りなのだろう。実際に人一人が死んでいる。
リゲルの無謀な決断がその引き金で、引き留めさえ振り払ったうえで、父親の力という点で生死に差が出たのだとすれば。……好意的な目で見ることはできない。
それが本意でないと公言している力によるものであれば――。
「――そうでしたか」
なおさらのこと。――頷いたエアリーさん。
「ジェインとあの方が、そんなことを」
「はい。……っでも、その」
教会で、俺たちは壊れた棚を修理している。俺の家での一件。
「リゲルさんにもジェインさんにも、悪気はなかったというか。二人とも、凄く真剣で――」
「ありがとうございます」
あの場で行われたリゲルとジェインのやり取りについて、関係者であるエアリーさんにも一応顛末を伝えておいた。言葉を重ねたフィアに、エアリーさんが微笑みを見せる。
「気を遣ってくれているんですね。ショックを受けてはいませんから、大丈夫ですよ」
「っ、いえ……」
「私自身も軽率だったと反省はしていますし。ジェインにも、厳しく叱られてしまいましたから」
こちらに気負わせることのない、大人びた対応に、かえって申し訳なさが昇ってきてしまう。――ジェインからすれば。
エアリーさんのしたことも、俺たちのしたことも、余計なお世話でしかなかっただろう。リゲルと歩み寄るという選択肢はあり得ない。
環境も立場も、何もかもが違い過ぎ、地上げに噂の件も含めればそれは確定的とも言えることだ。……エアリーさんにとってもそう。
「家の周りをうろつく不審者にそんなことを話してくれるなと。――彼もこの間、自分が友人でないというのは打ち明けてくれていたんですけどね」
「え?」
「話を聞いたあとで、最後に言ってきたんです。〝本当はダチじゃないんです〟って」
「……!」
「〝どころかむしろ、喧嘩相手みたいなもんなんです〟とも。聞いたときには少し、驚きましたけど」
リゲルの素性はばらさないようにと思ったところで、事実を告げられる。……リゲルが。
「素性や恰好はともかく、正直な方のようでしたから。信頼できる若者だと思ったんです」
「そうだったんですか……」
「ええ。今の話を聞いても、やっぱりそう思いますよ」
そんなことを。――やはり。
「不器用なところはあるようですけれど。――親の影響で子どもが決まってしまうなら、ここにいる子どもたちはどうなるのかという話ですしね」
リゲルは。視線をずらしたエアリーさんが、手にしていた工具を置いた。
「ここにいる子どもたちが、孤児だというのは聞きましたか?」
「はい」
「想像がつくかもしれませんが、ジェインもそうでしてね」
初めてここに来た日。ジェインから聞いていたことが、改めてエアリーさんの口から語られる。昔を振り返るような目をして。
「私がここを開いて引き取った、最初の子どもでした。あの子は昔、火事で家族を亡くしまして」
「……!」
「家一つが全焼する大きな火災でした。何もかも焼け落ち、あの子以外、生き延びた人間はいなかった」
――火事。
俺もフィアも言葉を出せずにいる。……それが。
「天涯孤独の身でここに来ました。初めて来たときは、随分と警戒されていましてね」
「え……?」
「突然見知らぬ大人に引き取られたのだから、当たり前ですけど。他人の助けは借りないというふうに、一人でベッドを作って、一人で何もかもやっていました」
ジェインがここにいる事情なのか。――今のエアリーさんたちとはまるで違う。
「生活するに従って、少しずつ信頼ができてきて。他の子どもたちも来る中で、次第に年長者としての振る舞いに変わっていって」
「……」
「最近は特に頑張って、勉強もバイトも、あらゆる意味でこの場所を支えようとしてくれている」
エアリーさんの言う通り、長い時間をかけて、徐々に信頼を築いてきたのだろう。記憶の中の情景に向いているようだったエアリーさんの眼が、憂いを帯びた表情に変わる。
「感謝もしています。けれど……」
「……」
「本当は。あの子には、もっと――」
途切れた台詞。エアリーさんからすれば――。
「……ここにいる子どもたちはみな、何かしらの事情で帰る場所を失った子どもたちです」
多くを一人で背負おうとしている今のジェインは、昔のジェインに戻っているように感じられるのかもしれない。窓の外に目を向けた、エアリーさんが再び話し始める。
「親や身寄りもなく、家もない。それでも彼らはこの場所で、一生懸命に生きている」
庭を走っていく子どもたち。遊具で遊んでいる子どもたちを目にして、エアリーさんの目じりのしわが深くなる。
「自分たちなりの仕方で。親の影響は大きいものですけれど、それがなければ生きられないものでも、受けたからそれで決まってしまうというものでもありません」
「……」
「誰もが自分を変えていくことができる。――ジェインもきっと」
木漏れ日のように温かいまなざし。俺たちを見て、穏やかに微笑んだ。
「分かっているはずですから。貴方たちのように」
「……ありがとうございます」
受けた気遣いが身に染みる。フィアと二人して、居住まいを正す。……そうなのかもしれない。
リゲルとジェインの分かり合いは困難だ。だが、共通する何かがないわけではない。
諦めれば違う結末を目にすることはない。……無理なのかもしれないと思っても。
それでも、もう一度――。
「――⁉」
外から響いてくる音。……車の音。
「――神父!」
「ジェイン兄ちゃん!」
「――来ましたね」
教会に似つかわしくない場違いな音に続いて、ジェインたちを呼ぶ子どもたちの声がする。一体――。
「――まさか」
「道義を守ることのない人たちですから。期限の前倒しくらいは、やってきておかしくはありません」
立ち上がったエアリーさん。先ほどまでの語りが嘘のように、力のこもった瞳を覗かせた。
「正念場ですね、ここが」
――。
「――よう」
外に出た俺たち。固まった子どもたちの集まる中で――。
「神父さん」
門の外に、黒塗りの乗用車が止まっている。……やはりと言うべきか。
「……期日は今日ではないはずですが」
「予定が早まったのさ。あんたたち風に言うなら、神の御心は量れないってところか」
「――神父!」
ドアを開けて中から出てくるのは、あの男たち。飴色のサングラスをした長身の男に、小太りの体格。
見間違えるはずもない。のうのうと口にしたセリフのあとで、駆けて来たジェインと男たちの視線がぶつかり合う。
「……貴様ら」
「へっへ。また会ったな、じゃりんこ」
「どうぞ中へ」
小太りの男がにやついた笑みを浮かべる。子どもたちの視線が集まるのを見て取ってか、エアリーさんが舵を切った。
「立ち話もなんですから。お茶でも飲んで、ゆっくり話しませんか」
――。
食堂にて。
古びた丸机を挟んで、俺たちと男たちが相対している。差し出された紅茶を飲む長身の男。
「――香りの弱い茶だな」
緊張感の漂う空気の中で、表情を変えずに男が言う。この間は遠目に見ているだけだったが……。
こうして近くで対面すると、やはり特有の雰囲気があるのを感じられる。リゲルの持っているような凄味を、一段深めたというか。
「安物だが、淹れ方は悪くない。年季相応の工夫が出てるってところか」
「どうも」
「うえっ、渋っ……」
「こっちの用件は変わらない」
長年裏社会を渡り歩いてきた人間、自分たちとは別の秩序にいる人間だと思わせられる。茶葉の渋みに唇を歪めている連れを無視して、カップを置いた男が、本題を切り出してきた。
「土地の明け渡し。荷物は置いて行ってもいいが、人は完全に退いてもらう」
「……」
「期限は今日から三日。できなかった場合、どうなるかは想像の通りだ」
ジェインたちからも聞いていたが――。
「もし仮に、貴方たちの要望通りに立ち退いた場合……」
――相変わらず無茶苦茶な要求だ。これだけの人数がいて、道理もないのに出て行くことなどできるはずがない。
男たちの要求は一方的で、何の根拠もない。ひたすら険しい眼つきで睨み付けているジェインに代わるようにして、エアリーさんが話を繋げにかかる。
「孤児院を続けるための、代わりの土地は見つけていただけるんでしょうか? 相応の立ち退き料でも構いませんが」
「――」
――そうだ。
何を考えているにせよ、そのことだけは話しておかなくてはならない。相手は力のあるファミリーのメンバー。
断れるのが理想的だが、もしそれができないとした場合、今いる子どもたちの生活を維持するための条件は最低限必要になる。こちらの事情を相手も把握している以上――。
「――それはあんたらの都合だ」
少なくとも、その点だけは。――なに?
「俺たちのやってるのは、慈善事業じゃない。ファミリーに取っての利益をどう生み出すか」
「……!」
「効率的なビジネスだ。どうして相手の負担を考える必要がある?」
「……正気で言っているのか?」
耳を疑った俺の意識に、刺すような敵意のこもったジェインの目つきが映り込んでくる。……当たり前だ。
「自分たちの都合だけでやってきて、一方的に何もかも渡せだと? そんな横暴が――!」
「――前にも言ったはずだ」
男の言っていることは、単に土地を渡せと言うだけでなく、ここで営まれている生活そのものを放棄しろということに他ならない。怒気を漲らせるジェインの視線を気にも留めずに、サングラスの奥から男が見遣る。
「ファミリーの要求である以上、あんたらは黙ってそれを受け入れればいい。――なにも、死ねと言ってるわけじゃない」
「……っ!」
「ここにいる子どもたちが大事なら、期日までに他の施設に都合をつければいい。纏まって受け入れてくれる場所がなくとも、ばらけてなら話もつくだろう」
冷ややかな口調で言ってのける男。……本気なのか?
怒りよりも先に、愕然とした驚きが襲ってくる。……そんなことが受け入れられるはずもない。
エアリーさんたちも、子どもたちにも、これまで築いてきた関係性というものがある。少しでも相手の立場を考えれば分かるはずのことなのに。
「今の形を壊したくないってんなら、それはあんたらが努力することだ。ガキを抱えて路頭に迷うのも自由」
「――っ」
「飢えと寒さで野垂れ死ぬのも自由。自分たちの判断で、好きに決めればいい」
「そんな……」
目の前のこの男は、どうして。
こんなことを。――瞬間。
声を零したフィア。翡翠色の瞳と、語る男の瞳を比べたときに理解が及ぶ。……そうか。
分かっていないわけではない。虎の威を借るような小太りの男はともかくとして……。
このリーダー格の男に、話をする相手のことが分かっていないはずはないだろう。相手の事情は承知していて、ただ。
――無関心。
この場所と子どもたちがどうなろうが、男は本気でどうでもいいと思っている。誰が死のうと関係ない。
頭の中にあるのはただ、自分たちにとってどれだけ都合のいいことを現実化できるかどうかだけ。力関係は圧倒的に男たちの方が上にある。
無理を突き付けてもリスクは低い。たとえその過程でどれだけの誰かを踏み潰そうと……。
自分たちが何かを奪えるなら、それでいいのだ。そのことを理解したときに――。
「――ッふざけ」
「……なんでそんなことができる?」
口を突いて出た、言葉があった。……そうだ。
「……っ⁉」
「脅しのために何度もここに来たなら、分かってるはずだ」
ふざけるなと言ってやりたい気持ちはある。……この男たちのしていることは、横暴で不条理だ。
受け入れる必要などない。耳を貸す必要などなく、撥ね付ける態度を選んで何も間違っていないだろう。仮に力づくで事を運ぼうとしてくるのなら、何としても立ち向かわなければならないはずで。
ただ……。
「ここがどんな場所なのか。子どもたちやエアリーさん、ジェインにとって、どんなに掛け替えのない場所か」
「……黄泉示さん」
「それが分かっているのに……」
それではきっと、問題そのものをどうにかすることはできない。……根は残ったままになる。
状況が同じになれば、また同じことを繰り返してしまう。――だからこそ。
「どうしてそんなことができる? どうして何も、思おうとすることをしないんだ?」
「……」
この男たちが何を考えているのかを、本気で知らなければと思ったのだ。……今のこの状況についてだけではない。
両親を失ったあの日から、この問いはずっと俺自身のうちに沈んでいた。……なぜ奪おうとするのか。
「なんだこの陰気野郎が。部外者がしゃしゃり出て来てんじゃ――」
「――おかしなことを訊くな」
なぜ自分のために誰かを利用し、他人を見捨てることができるのか。エアリーさんたちを向いていた男が、サングラスの奥から俺の方に瞳を覗かせる。気持ち冷たさを削いだ声で。
「青年。俺たちは皆、何かを食わなくちゃあ生きていけない」
「……」
「鳥や魚、野菜や果実。世界に生まれ落ちたときから、常に自分以外から何かを取り込まなくちゃ存続できないようになっている。人一人なら糊口を凌ぐだけの食い物があればいいが」
語る男の口調は重々しい真剣さこそないものの、冗談や誤魔化しを言っている感じはしない。話を……。
「組織になればもっと多くを食らう必要が出てくる。俺たちのファミリーのように」
「……」
「誰だって同じことをしてる。刺身を食うとき、一々食われる魚のことを考えるのか?」
「……誰もが同じやり方をしてるわけじゃない/なんで大きくする必要があるんだ?」
続けることはできる。繋がった糸を切られないように、言葉を選びながら口を開く。
「自分以外から取り入れなければ存続できないとしても、誰かを踏みつけにして、奪う以外のやり方はできる」
「……」
「違うやり方を探してる人間もいる。レイルさんのファミリーを知ってる、リゲルだって――」
「――リゲル?」
口にしていた名前。サングラスの奥の、硬質な瞳が俺を見る。
「どこかで聞いた名前だと思えば。レイルファミリーの小僧と知り合いなのか?」
「……!」
「素人のくせに怖じ気がないと思ったが、そういうわけか。灰色の人間がうろついてると、境目に乱れが生じていけねえ」
――っしまった。
俺と話を続けていた男の雰囲気が、リゲルの名前を切っ掛けに変えられたのを感じられる。気風はあれどもどこか静かだった、
「始めのときから気になっちゃいたんだ」
「――」
「この教会に所属する人間は調べがついてる。ここの一員でもないのに、問題を扱う場所にいる」
これまでとは違う空気。凄味を帯びる男の瞳に、剣呑な光が宿される。
「俺たちファミリーの流儀じゃ、仕事だろうと関わり合いのない人間に手は出さないことになってる」
「――!」
「堅気となれば猶更。だが、首を突っ込んでくるってんなら話は別だ」
突き付けるように言った男の眼が、俺とフィアを真っ向から捉えた。
「――改めて訊こうか」
「――ッ」
「俺たちと神父たちの話にしゃしゃり出てくる。自分のことのような顔をして座ってる――」
力のこもった言葉。一言一言に宿る気迫が、俺たちの心を恐怖で揺さぶってくる。見定めようとしているかのような瞳で――。
「そこの二人は一体、なんなんだ?」
「……」
はっきりと、その問いを突き付けられた。――一瞬。
浮かんだ想像に一瞬だけ、迷いが浮かぶ。……いいのか?
口にした場合に累が及ぶのは、自分だけではない。一緒に住んでいるフィア。
日本にいる東小父さんにも影響が及ぶかもしれない。ここにいないリゲルにも、迷惑がかかるかもしれず――。
「っこの二人は」
「――関係者です」
響いた声。
「私は。ジェインさんたちの」
「……!」
――フィア。
声を遮られたジェインが、驚くようにフィアを見ている。……机の下。
男たちの視線からは隠れた指先が、震えに負けないよう、手に強くくい込んでいる。真っすぐに前を向く翡翠色の瞳。
……そうだ。
「……ああ」
俺たちがここに来たのは、誰のせいでもない。自分がジェインやエアリーさんの力になりたいと感じたから。
関わり続ける立場としていようと思うなら――。
「――関係者だ。俺たちは」
「……なるほど」
ここで、引き下がるわけにはいかない。俺たちを見た男が、ゆっくりとした仕草で頷きを見せる。
「――そっちの方にも訊こうか、神父さん」
「……!」
「俺たちは詐欺師じゃない。大人しく要求を飲んでくれれば、それ以上の取り立てはしない」
移された視線。言の葉から険を除いた男が、エアリーさんの方へ問いかける。本心を語っていると言うような。
「ここで折れるのが最も賢明な選択肢だ。――土地を明け渡すつもりはないか?」
「――ありません」
その要求に、はっきりとエアリーさんが否を答える。
「子どもたちが、今の毎日を続けられること」
「――」
「あの子たち自身の生き方を歩めるように。足場となる居場所を守ることが、私の役目ですから」
「マフィアの勝手を受け入れるつもりなどない」
間を置かずに眼鏡を上げるジェイン。
「始めから。どうしてもというのなら、神父の言うように、今の生活を再開できるだけの代価を用意するんだな」
「……そうか」
問答を終えた両者の間に沈黙が降りる。……交渉決裂。
そう捉えていいのだろう。息詰まるような、それでいてやけにクリアな沈黙。
緊張が喉を乾かす。じりじりと身を焼かれるような静寂の中でしかし、一縷の希望にも似た思いがあった。男の対応は……。
始めに俺が思っていたよりも、理性的だった。相手からすれば部外者だろう俺の話を聞き。
何度もこちらの意思を確認してきていた。案外――。
「兄貴……」
「――連れてこい」
何もせず、帰るということも。――なに?
「へ?」
「誰でもいい。外のガキを一人、この場に連れてこい」
確固たる意志のこもった言の葉に、突然の指示を受けた小太りの男が惚けたような顔を見せる。言葉の意味を理解した瞬間――!
「あづッ⁉」
俺たちの側から、勢いよく椅子が宙を横切った。――ッジェイン。
「ッ! ってんめぇ~!」
「――大した動きだな」
迷いながらも出口に向かおうとしていた小男に投げつけられた丸椅子が、呻きを上げた太鼓腹からドアの前に転がり落ちる。一瞬の判断――。
「咄嗟の思い切りもいい。教会のボウズにしとくのが惜しいくらいだが……」
「……!」
「ホンモノには通用しない。狩りを知らない若鳥だ」
自らの目論見を崩す果断を目にした男の顔色はしかし、髪の毛一つほども変えられていない。……動けない。
淀みなく次へ移ろうとしていたはずのジェイン、ドアを塞ごうとしていた俺の身動きが、同時に止まっている。男の起こした一手。
たった一つの仕草に、全ての挙動を封じられているからだ。――黒塗りの拳銃。
男の懐から取り出された凶器、リゲルの家の地下で見たのと同じ得物が、真っ直ぐジェインの左胸に向けて構えられている。……やられた。
「……ッジェインさ」
「へ、へへっ。流石兄貴」
「ぼやっとしてんじゃねえ。素人なんぞに抜かれやがって」
意識に止まらぬ所作。一分の隙もない抜銃は、間違いなく男がその技術を練達のものとして磨き上げてきた証。立ち上がってきた小男を、ドスを利かせた声で男が一喝する。っ先の一声――。
「兎を兎と思うからんなザマになるんだ。――さて」
「……!」
「分かり易くなったところで。新しい取引といこうか、神父さん」
子どもを捕らえに行かせようとしていた男の言動は、全てブラフだった。俺たちの注意を部下へ引きつけ。
確実にこの状況を作り出すための。……ッダメだ。
「テーブルに上がったのはガキ一人の命。大事な子どもを助けたかったら、証文と権利書を出してもらおうか」
相手の視線と表情。銃を構える男の意識は、話しながらでもはっきりこちらの一挙手一投足に向けられている。……あのときとは状況が違う。
フィアが子どもをゴロツキの手から奪い取ったとき、俺がゴロツキの一人を蹴り倒したときは、俺たちはどちらも相手の意識にない完全な部外者だった。関係者として意識されているこの状況では――。
プロである男の手のうちの拳銃を、どうにかすることはできない。……なにも。
「……」
「幸い俺たちのファミリーは、そう気の短い方じゃない」
――なにもできないのか。握る手のひらに自問が木霊する。じりじりと這い進むような絶望が胸を焦がしていき。
「あんたたちの諦めがつくまでは待てる。――五分だ」
腕時計に目をやった男が、響く声で宣告した、
「――っ」
「五分やる。何が最善か、じっくり考えるんだな」




