第十七話 激突対話
――二日後の放課後。
「……」
見慣れた八畳間のリビング。灰色のローテーブルを挟んだソファー席にて、仏頂面をした二人の人物が向かい合っている。――リゲルとジェイン。
リゲルの隣には俺が、ジェインの隣にはフィアが座り、決闘を見守る立会人のような気持ちで両者の対峙を見つめている。中立的な緩衝地帯。
人目につく場所では話し辛いだろうということで、うちを提供したわけではあるが。……以前までのやり取りを考えると、どんな事態に発展することになってもおかしくない。
二人とも他人の家で暴れるような性格でないとはいえ、ヒートアップすればどうなるかは未知数だ。早めに止められるようにという意識を持ちつつ――。
「……」
睨み合ったままの両者を改めて見つめる。ジェインの方は無表情な真顔。
自分の意志でここにいるのではなく、あくまで約束を果たすためにいるのだと言った様子だ。ジェインの側に……。
あんな事情があったとは。古びた教会の建物。
聖職衣を纏うエアリーさんと、個性的な子どもたち、針を動かしていた手つきが思い出される。孤児院と子どもたちのため。
あれだけの努力をしている以上、マフィアという事情で経済的に苦労はしてこなかったはずのリゲルに、反感を覚えるのも無理からぬことなのかもしれない。それでも約束を守って来る辺り、律儀ではあるが……。
「……」
――リゲルが承諾してくれたのが、意外だった。
眉間にしわを寄せ、いつにない仏頂面で腕を組んでいるサングラス。これまでの反応からして、かなりのこと渋られるのではないかと思っていたのだが。
〝――いいぜ〟
〝え?〟
フィアと共に慎重に話を切り出したところ、あっさりと頷かれてしまった。身構えていた此方が気抜けするほど。
〝あいつと話してくれってことだろ? 俺としても一言、言っときたいことがあったからよ〟
俺たちの知らないところで、心変わりする要因があったのかと思ってしまうほどだ。……言いたい一言というのは不安ではある。
――だが。
「ええと」
「その、だな」
俺たちの提案で来てもらった以上、躊躇っていても始まらない。タイミングを見計らっていたフィアと、綺麗に被った出だしを脇に置いて、話し始める。
「お互いまあ、色々とあったわけだが……」
「……」
「互いの事情を知らない分、誤解や行き違いがあるんじゃないかと思うんだ」
――この話し合いは難航する。
俺にも、恐らくフィアの胸にも、ほとんど確信と言っていい予感がある。抱えている事情が各々あり。
その様相が全くのこと異なっている。……互いに引くような相手でないのは確かだが。
「相手への偏見を捨てて話してみれば、案外――」
「――偏見か」
この二人の間で、どうにか和解のできる点を探っていかなくては。――ジェイン。
「相手の表情を見る限り、そう言ったつもりで来たわけではなさそうだが」
「えっ」
「不満と嫌悪がありありと出ている。――相変わらずの悪人面だな」
ジェインが、先制と言った感じで眼鏡の奥の目を鋭くする。――っおいおい。
「君の友人二人に免じて顔を出すことにしたが。そんな威圧的な態度では、日頃からどれだけ迷惑をかけているかが知れるというものだ」
「――自分を棚に上げてよく言うぜ」
そんな敵対的な。あいさつ代わりのような挑発を受けて、リゲルも皮肉気に口の端を上げて応じてくる。二人とも……。
「他人んちだってのに、んな居丈高な態度でふんぞり返りやがって。自分の理解だけが正しいと思ってる高慢ちき野郎と、まともな話ができんのか疑問だな」
「鏡を見たこともなさそうな野蛮人に諧謔が扱えるとは意外だな。縄張りに入られた類人猿のように、拳を振りかざすしか能がないかと思ったが」
「……ええと……」
――なんで初めから喧嘩腰なんだ。右往左往するフィアの対面、開始数秒で頭を抱えたくなる。これでは全くのこと意義がない。
「その、お互い自分の意見をぶつけるだけだとあれですから」
「……」
「二人とも、歩み寄って。リゲルさんもジェインさんも」
「……落ち着いてくれ、二人とも」
話し合いどころか、互いの溝を深めるだけで終わりそうだ。どうにか執り成そうとするフィアと、力を合わせて火を消しに回る。
「熱くなってちゃ意味がない。俺とフィアが間に入るから、ひとまずお互いの話に耳を――」
「――だがまあ」
仲裁の台詞を完全に無視して、眼鏡を上げたジェインの視線が今一度リゲルを向く。おい――。
「始めの教室の件について言うなら、僕から謝ってもいい」
「……⁉」
「あの発言は確かに行き過ぎだった。食って掛かりたくなったのも、無理はない」
「……え」
……どういうことだ?
「――けっ」
余りの豹変ぶりに、思わず俺もフィアも真顔でジェインを見てしまう。さっきまで害虫を見るような目で睨み付けていたというのに。
「ようやくかよ。頑固な野郎だぜ」
「ただし……」
ここに来て、いきなり自分の落ち度を認めるような真似をするとは。理解が追い付かない中で、眼鏡の奥の瞳が理知的な光を放った。
「――オールド・パルの件については、お前から謝ってもらう」
「……!」
「あそこで吹っかけてきたのは君だからな。教室の件とはちょうど逆」
――そうか。
「お互い忙しい身だ。いつまでも過去の件でいがみ合っているほど、暇じゃない」
「……」
「気に食わない相手とこうして顔を突き合わせているメリットもない。互いに頭を下げて、手打ちにするのが一番だと思うが」
そういうことか。急速に思考が回転する。……確かに理性的な提案ではある。
関係者としてその場にいただけではあるが、俺からしても始めの一件はジェインの方が、オールド・パルでの件ではリゲルの側に非があったように思う。互いに自分の過ちを認めて……。
「……ええと」
謝罪し合う。本来この諍いを終わらせるのに必要な手順とは、言ってしまえばそれだけなのだ。事情を説明する必要などない。
「その、事情を話し合ったりとかは……」
「必要ないだろう。――僕とリゲルとでは、分かり合いの接点が見つかるとも思えない」
動機を理解する必要もない。互いに頭を下げれば、例え形の上だけでもそれで収まったということにできてしまう。分かり切っているかのように答えるジェイン。
「話すだけ時間の無駄だ。争いの原因ごとを、打ち切る方が利口じゃないか?」
「それは……」
難しい顔をしたフィアが押し黙る。……ジェインにとって、リゲルとの話し合いは眼中にない。
教会や子どもたちのことなど、やるべきことを抱えているジェインからすれば、始めから解決すべきなのは、リゲルや俺たち相手に時間を取られているという状況の方。これ以上労力を削られないうちに――。
俺たちとのやり取り自体を打ち切れれば、それで充分だったのだ。……流石と言うべきか。
相手への嫌悪が本物でも、状況からして賢明と思える選択肢を選び取れる。目の前でジェインが見せているのは、俺が始めに期待していたはずの理性的なやり取り。
特待生としての思考力を使った、これ以上ないほど賢明な提案であるはずで……。
「……っ」
――だが。
「……その――」
それでは、二人の認識は何も変わらない。互いの偏見は、そのままに留まる。
「そっ――」
誤解は固定化される。続けざまに言い出そうとした俺たちの仕草を――。
「――嫌だね」
「……!」
他ならぬ一声。突然の、リゲルの一声が遮った。なに――。
「……なに?」
「優等生ぶりやがって。なんなんだよ、その偉っそうな態度」
長い足を大上段に組んで、気に食わないと言った目つきで話し始める。
「色々言ってきてみたところで、元はと言やあ、テメエが暴言吐いてきたのが全部の始まりじゃねえか」
「――」
「なんで片方でも俺から謝んなきゃならねえんだ? 自分の都合のいいように手打ちとか言いやがって」
「……!」
「誰がテメエの指図なんか受けるかよ。この自己中眼鏡が」
「リ――」
「――なるほどな」
完全否定。取り付く島もないような拒絶に、跳ね付けられたジェインの瞳の温度がすっと下がる。眼鏡を押し上げて。
「物の道理も分からない原始人に、理解を求める方が愚かだったか。――済まないな、二人とも」
「――ジェインさん」
「話し合いはここまでのようだ。二人の顔を立てるつもりだったが、相手がこの調子では――」
「――逃げんのかよ」
席を立とうとしたジェインの動作を、リゲルの声が引き止める。
「腰抜け野郎が。いっつもそうやって立ち回ってんのか?」
「……なに?」
「頭使ってるように見せかけて、真っ向からのぶつかり合いを回避して。あ~、情けねえ」
大袈裟に首を振り、肩を竦め、嗤いを浮かべて煽り立てる。……おかしい。
「〝親のすねかじりのボンボンが〟だっけか? 完全に僻みじゃねえか」
「……⁉」
「自分の家が貧乏だからってよ。沢山いる子どもの世話に、金稼ぎのバイトもしなきゃならねえ」
「えっ……?」
気に食わない相手とはいえ、普段のリゲルの話し方は、決してこんな露悪的なものではないはずだ。っなぜ――。
「そんだけ大変なことをきちんとやってる自分は、いい子で偉いんです、ってか。大層な理屈じゃねえの」
「……僕の家のことを調べたのか?」
リゲルが、そのことを。底冷えした声のうちに凝縮した感情を滲ませて、ジェインが眼鏡の奥の眼に険を覗かせる。
「マフィアの父親を使って。それとも――」
「――っ」
「着けてったんだよ」
俺たちの方に向きそうになった視線を、リゲルの一声が引き戻す。――なに?
「こないだ、二人が案内されてたときに。こっそりお前のうちまでな」
「え――ッ⁉」
「――」
「そしたら偶然外で神父さんと会ってよ。愉快だったぜ~?」
リゲルが更に口の端を上げてみせる。ジェインのうちに行った、あのときに――!
「俺をお前の友達だと勘違いして、色々教えてくれてるサマはよ。友達も碌にいない野郎で助かったぜ」
「……ッ……ここまでとはな」
リゲルが、俺たちをつけていたのか。紛うことなき怒りを瞳に込めたジェイン。憤怒を辛うじて噴き出さずにいるような、拳を握り締めているような音が耳に届く。
「噂通りとは思っていたが、想像以上か。貴様は常識の欠片もない、最低の部類の人間だ」
「常識なんてなくて結構。テメエみたいに、自分の考えに閉じこもってるだけの狭っ苦しい野郎になっちまうからな」
「え、えっと……」
もう話し合いの空気など完全にどこかへ行ってしまっている。殺伐した敵対の緊迫感の中で、軽くリゲルが言う。
「マフィアの関係者ってだけで、人の古傷をむしりやがって。相手が悪けりゃなんでも口にしていいのかよ?」
「――ッ事実だろうが」
ジェインが切り返す。これまで押さえつけていた怒りを、全て言葉に乗せるように。
「お前が高校のときに何をしでかしたのか、周りの連中は皆知っている。暴力を振るうしか能のない」
「――」
「マフィアの庇護下でぬくぬくとしておきながら、さも自分の望みではないかのように振舞っている。――親の影響がどうこうというのなら」
更に語気を強めたジェインが、審判者のような強い眼光でリゲルを睨み付けた。
「なぜそんなスーツを着ている? どこから見てもマフィアだと言わんばかりの外見では、周囲に恐怖と威圧感しか与えない」
「……!」
「周りに溶け込む努力もしていない。自分の立場を誇示しているようにしか見えないがな」
「俺が普通の服着て溶け込んでたら、それで安心するのかよ?」
その攻勢をものとしない。何も分かっていないのはそちらだと言う風に、リゲルがジェインの怒りを鼻先で笑い飛ばす。
「んなことも経験してねえと思ってんのか? どう足掻いたって、俺はマフィアの息子だ」
「――」
「ガワだけ素性を誤魔化して何になる? 近づく連中があとから知って後悔しないようにすんには、始めから立場を明確にしとくしかねえだろ」
「開き直りだな。立場が望みでないというのなら、縁を切って家を出ていけばいいだけのことだ」
「――できると思ってんのか?」
切り込むような一言。陽炎を生むような覇気に一瞬、空気が静まり返る思いがする。
「そんなことが。離れりゃ簡単に殺される」
「……ッ」
「生まれたときからマフィア絡みの因果に飲み込まれてんだ。そこをどうにかするには、今は親父の元にいるしかねえ」
息を呑む俺たちの前で、強く拳を握り締める。血の通わない黒革の手袋に、血管が浮き出るのではと思うほど強く。
「今はな。ただ捨てればいいとか、んな単純な話じゃねえんだよ」
「……何を盾にしようが」
峻烈に輝くブルーの眼。リゲルの瞳から出る光の強さを嫌うように、ジェインが怜悧な指使いでチタンフレームの眼鏡を押し上げる。
「僕はお前とは違う。誰にも咎められることのない、至って真っ当な仕方で努力している」
「……」
「やらなければならないことが山のようにある。教会と、子どもたちの為に――」
「――テメエがやんなきゃいけねえってのはどうしてだよ」
――変調。
「……なに?」
「それだけ重荷があるってんなら、周りと分け合えばいいじゃねえか。わき目もふらずにテメエが頑張っても、される相手はんなこと望んでないかもしれねえぜ」
「……何を」
言いかけたジェインが口を止める。……俺たちにも分かる。
「神父さんの言うところじゃ、子どもたちも自分も、不甲斐なく思ってるってよ」
「……!」
「自分の身を削ってるみたいなテメエは見たくねえ。信頼して、できれば重荷を分けて欲しいってな」
いま語られているこれは、リゲルの思いではない。エアリーさんが――。
「……」
「テメエが本当にどうでもいいって思ってんなら」
そんなことを。考えるように黙っているジェインに、リゲルが話し掛け続ける。
「あんな暴言は吐かなかったはずだ。正論だけ言って無視して、腹ん中で下らねえ野郎だって見下してりゃあいいんだからな」
「――」
「なのにそうならなかった」
俺たちも気付かなかった指摘。ジェインの肩が一瞬、傍目にも分かるほど強く強張る。
「テメエは俺に突っかかってきた。――自分は真っ当なやり方で苦労してんのに、間違ってる野郎が笑ってんのが許せねえってか?」
「……!」
「テメエだけで苦労を背負い込んでるつもりになってやがる。仕方がいくら真っ当だろうが――」
烈日のようなリゲルの瞳が、正面からジェインを見据えた。
「傍にいる人間に目も向いてねえ。今のテメエの努力は、独りよがりなんだよ」
「――ッ」
……。
……沈黙。
膝上の拳を握り締めたジェインと、背筋を伸ばしたまま座っているリゲルの間を、息詰まるような沈黙が支配している。……五秒。
「……随分と上からの説教だな」
十秒。いつ終わるともしれない、互いの喉に刃を突き付けるような無言の鍔迫り合いから、俯き気味だったジェインが声を発した。
「金のために働いたこともないような人間が。僕の事情は分かっているとでもいうつもりか?」
「――ああ?」
「笑わせてくれる。――お前は」
双眸に力がこもる。理性に溢れたライトブラウンの瞳が、一瞬刃物にも似た鋭い閃きを覗かせた。
「何も、聞いてなんかいない。――教会にはもう、近づくな」
「なに?」
「お前のようなゴロツキがうろつくと、子どもたちが不安がる。――済まなかった、蔭水、カタストさん」
「え」
「提案を無下にするようなことになって。ただまあこれも、そこのマフィアが余計な首を突っ込んできたせいだと思っておいてくれ」
「んだと――⁉」
不意の当惑。噴気するリゲルの怒気を無視して――。
「……ジェイン」
「今回の件では、随分と時間を取られた」
ジェインが立ち上がる。リゲルの方だけは振り向かないまま。
俺たちにだけ声を向けるように。玄関へ続く扉の前で、レンズの縁だけを動かした。
「バイトや勉強、子どもたちの世話もある。――これ以上、僕に関わらないでくれ」




