第十六話 綱渡り
「ぜっ、はっ、ぜぇ……」
――前後を塀に挟まれた狭い歩道。
「クソっ……あの野郎。手間かけさせやがって……」
通りがかる人間から目立たない位置を取って、呼吸を整えるリゲルは額に浮く滝のような汗を拭いとる。連れ立って学園を出ていった三人の追跡。
裏門を潜ってすぐに見知った影を見つけ、首尾よくあとをつけ始めたところまではよかったのだが。揃って赤塗りのシングルデッカーに乗り込むのを見たときには、思わず天を仰ぎそうになった。……同乗すれば確実にばれる。
人混みの中ならいざ知らず、狭い車内では黒スーツにサングラスという自分の服装は大いに目立つ。あとをつけてくれるような都合のいいタクシーも見付からず――。
「ディーゼルエンジンと追いかけっこは無茶があんだろ……。……っ」
発進までの僅かな時間で考慮した結果として、己の脚で追う以外の選択肢は残されていなかったのだ。……鞄を手にしたまま三十分以上の全力疾走。
「……っさあて」
途中で何度か停留所に停まってくれなければ、見失わないことは難しかっただろう。澄んだ秋の空気に汗と熱が引いてきているのを感じつつ、顔を上げる。黄泉示たちが入っていった目当ての建物。
「どうすっかな。忍び込んでってわけにもいかねえし」
ところどころに罅の入った色褪せた外壁には、剥がれつつある漆喰と塗り直しの跡が見える。敷地の広さは小さな公園ほど。
侵入については正直、バレなければいいかくらいに思っているのだが、郊外とあってか周囲には遮蔽物が少なく、塀を乗り越えるとなると人目につき易いことこの上ない。突破口を探して周辺を見回しつつ……。
――ここが、あいつの家なのか?
リゲルの胸に、素朴な疑問が昇ってくる。年月の風雨に削り落とされたかのような外観。
敷地の中心と思しき尖塔は色あせていて、教会のシンボルであるはずの十字架さえ、ところどころが欠け落ちているように見える。石壁上の鉄柵は塗装が剥がれ落ち。
去りし日の栄光を懐かしむかのような、くすんだ色の地金を外気に晒している。……一時は間違いなく放棄されていたのだろう。
「……」
ところどころに覗く生活感に気付かなければ、今でも廃墟だと思われておかしくない。内部から見つけられるだろう正門を避けて、ゆっくりと壁の外を回ってみる。亀裂の隙間から覗いた裏庭。
居住区と思える木造の建物に面した裏庭には、布団や子ども用の衣服が干されている。兄弟なのかどうかは知らないが、かなりの人数がいることは確かだ。
こんなところに住んでいるとは……。
「……」
――いや。
考えるべき問題はそこではない。今重要なのは、あの陰険にして冷血な眼鏡が、黄泉示とフィアに対して何をしようとしているのかということ。
自分に報復するため、二人に何かを仕掛けてくるつもりかもしれない。……着いていく二人に脅されているような様子はなかった。
「――あら」
だとしても、万が一何かに巻き込まれていたならば。――本能的。
「――ッ‼⁉」
総毛だつ背筋に弾かれて反転する。――背後に立っていた相手。
「どうしましたか?」
「……⁉」
「若い人が一人で、こんなところに。教会に、何か御用でしょうか?」
道の真ん中に佇んでいる、一人の妙齢の女性が映り込む。……背は中背。
清潔そうな白い麻の衣に、手には木の柄の付いた長帚を握っている。血色のいい面立ちに浮かべられるのは、意気に逸る若者には出すのが難しいだろう、年齢の重みを経た温和そうな微笑みであって。
――だが。
「……あー、えっと?」
「ああ、すみません」
リゲルが今の一瞬で振り向かされたのは、相手の持つその雰囲気が原因ではなかった。……何も感じなかった。
声の届く距離、隙だらけの背後を、いつの間にか捉えられていた。思考に気を取られていたとはいえ……。
「私、エアリー・バーネットと申します。そこの教会の神父をしておりまして」
「……‼」
「道の掃除をしていたら、つい悩めるような方の背中を見かけたもので。どうかなさいましたか?」
「……あー……」
乱闘で磨かれた直感を持つ自分が、背後からの接近に全く気づけないことなどあり得るだろうか? 重ねて浮かべられる笑みに、理解した首筋を汗が伝う。――ヤバい。
インテリ眼鏡の住んでいる建物の関係者。立場を考えれば、今最も事情がばれてはいけない相手になる。笑顔の双眸に見つめられた――。
サングラス越しの視線が思わず左右に泳ぐ。――明らかに疑っている。
気づけなかったことを考えるに、塀の中を覗いていたところを目撃されていたのかもしれない。当たりのいい笑顔を湛えつつも、逃がさないと言うようにリゲルを見つめてきている女性。早鐘のように心臓が鳴り打つ。
不意を衝かれたという事実と、見つかったという緊張のコラボレーション。加速する脈拍に、手のひらに汗が滲み――。
「――っ実は、その」
飲み込むつばと共に、覚悟を決めた。――言うしかない。
「俺は、その」
「……」
「ジェイン――君の、……友達でして」
「――まあっ」
にょごりと絞り出した一言を聞いた瞬間、警戒の色を濃くしていた女性の面持ちが、一気に和らいだものになる。安堵した自身。
「ジェインのお友達ですか? あの子、そんなこと一言も言っていなくて」
「ちょっと前までよくつるんでたんすよ! 最近誘っても断られるんで、どうしてるかなーって!」
――マジでだせえ。
「そうでしたか、済みません。――でしたら上がっていかれませんか? ついさっきも、学園のお知り合いが来てくれたところですから」
「い、いや、いいんです!」
裏家業でもない相手にあっさりと背後を取られ、自分のミスを取り戻すため、嘘でもあの眼鏡の友人を名乗ってしまうなど。……苦汁をなめるような不覚。
弱みを握る予定だったはずが、かえってこちらの弱みを増やしているようなものだ。歯軋りしたくなる自己嫌悪を笑顔の裏側に隠しつつ、なるべく自然体に見えるよう、リゲルは表情を取り繕う。――尾行もこれまで。
「ちょこっと気になって、来ただけなんで。元気ならそれで」
「……そうですか?」
「はい、そりゃあもう。――お邪魔しましたーっ!」
先日の喧嘩相手が自分をつけてきたなどと知ったら、あの眼鏡がどういう行動に出るのか分からない。余計な火種が飛び火する前に、さっさと退散するのが吉であり――。
「――待ってください」
「――」
背を向けたその瞬間。肩に掛けられた声が、逃げようとしていた出足を止めた。――緊張。
「……どうしました?」
「その……」
バレたのか? 振り返り際に笑顔を浮かべた背中を、冷や汗が流れ落ちていくのが分かる。……何とか。
なんとかこの窮地を――!
「私からこんなことを言うのもなんなんですが」
「……はい」
「ジェインの付き合いが悪いのは、あの子のせいだけではないんですよ」
「――」
――違う?
エアリーと名乗った女性の態度は、相手の虚偽を問い詰めるようなものではない。安堵が湧き上がると同時――。
深刻そうな女性の表情に、如何ともし難く好奇心が昇ってくる。……事情は分からないが。
「そいつは、どういう?」
「実は――」
わざわざここまでスリルを味わって、手ぶらで帰るというのも癪ではある。真面目な面持ちで向き直ったリゲルを前にして、神父が話し始めた。




