第十五話 背負うもの
「――」
乗客の疎らになっていたバスを降り。
「――ここからは歩きになる」
遠ざかるエンジンの駆動音を耳にしながら、真っ直ぐに続く未舗装の土道を眺望する。リゲルとの話し合いを受けてもらうため。
ジェインのあとについて、三十分ほどバスに揺られてきた俺たちだったが、目の前の光景に少々驚かされているところだった。辺りを囲んでいる一面の畑。
高層ビルなどのない、広々とした青空から注がれる昼下がりの日差しが、視界の果てまで広がる景色を穏やかに照らし出している。素朴な雰囲気を感じる郊外――。
「結構距離があるのか?」
「そうでもない。普通に歩いて十分くらいだ」
バスに乗っていた時間からして、学園のある中心部から十キロ程度離れたところに来ただけだと思うが、それだけで随分と風景が様変わりするものだ。前を行く背中に続いて歩いていく。
「バス停から町までは一本道だから、帰りも迷うことはないだろう」
畑の間に距離を置いて散らばっているのは、レンガや漆喰で作られた古風な背の低い一軒家たち。都市部と比べて余地のある駄々広い空間に、何となく落ち着かない感じがする。風情のあり過ぎる田舎道を見回しながら、建物が密集している町中へ入る――。
「――ジェインお兄ちゃん!」
直前。飛び込んできた瑞々しい声音が、歩みを中断する。
「――マリア。今帰りか?」
「うん。買い出しをしてきたところ」
軽い足取り。ジェインの声に応えつつ、溌溂とした動きで此方に近づいてきたのは、一人の若い少女。
髪留めのつけられた短い黒髪。生活感に溢れた飾り気のない私服を着て、身体の正面にはざらついた麻色の紙袋を抱えている。テープで止めきれなかったらしい袋の口から覗くのは、ピクルスの入ったビンや生野菜、鶏卵に魚の缶詰。
「セールだったから、いっぱい買い込んじゃった。珍しいね。大学のお友達?」
「同級生だ。友人とは違う」
「そうなの? ――初めまして」
――妹さんだろうか?
慣れた様子でジェインの隣に並んだ少女の背は、フィアよりも少し低いくらいで、年齢的には中学生くらいに見える。チラチラとこちらを窺うような視線から、改めて俺たちに向き直る少女。
「私、マリアって言います。お二人とも、お兄ちゃんの同級生なんですよね?」
「はい」
「一応」
「普段、大学の様子はあんまり話してくれなくて。シトー学園って、どんな感じの学校なんですか?」
「そうですね――」
初対面の人間にも物怖じなく話しかけてくる様子は、年相応の好奇心旺盛さが溢れているといった感じだ。……薄いブルーの瞳。
「――あと、購買も独特で。執事みたいな店員さんがいて、七面鳥とか中華まんとかを売ってたりするんですよ」
「そうなんですか? 楽しそうなところですね……!」
隣に並んでいるジェインとは、髪の色も眼の色も似ていない。……義理の妹さんか?
「変わったところも多いですけど、いい学校だと思います。ね、黄泉示さん」
「そうだな」
まさかカラーコンタクトというわけではないだろう。……複雑な家庭事情があるのかもしれない。
余り突っ込まないようにするのが吉か。心構えをしつつ、和気藹々と花を咲かせる会話に耳を傾けていたところで――。
「――ここだ」
「――」
道の突き当りにまで来たジェインが、歩みを止めた。ここは……。
――空を衝いている尖塔。
敷地全体は小さな公園ほどの広さがあり、俺たちの背丈にギリギリ届くか届かない程度の塀に囲まれている。全体的に古びた外観。
敷地の中心にある、真っ先に目に入る石造りの尖塔の頂点には、取り付けられて久しいと思える金属製の十字架が。下の壁面にはくすんで皹の入ったステンドグラスが嵌められている。鎖された柵状の門扉。
装飾のない、簡素な鉄の扉は錆び付いていて、周りの石壁と同じように、あちこち塗装が剥がれ落ちている。放棄された教会――。
「固くなってるね」
「そろそろまた油を差さないとな。――入ってくれ」
「っ、ありがとう」
そんなイメージが浮かぶ。門を開けたまま待ってくれているジェインたちの横を通って、軋る敷居との境界線を踏み越えた。……中は案外綺麗だ。
定期的に掃除がされているのか、ゴミなどは落ちておらず。刈り揃えられた庭の下草などを見るに、きちんと手入れは為されているらしい。修理の追い付いていない、崩れかけの内壁を見ながら進んだとき。
「――あーっ‼」
建物の影になる庭の奥から、はちきれんばかりの叫び声が響いてきた。――ッなんだ?
「ジェインだ! ジェインが帰ってきたー!」
「マリアもだー!」
曖昧につけられた道の先、溌溂とした幼い声が共鳴を交わす。雪崩のように響く足音に眉を上げた瞬間――。
「――っ」
「お帰りなさい!」
庭の裏手から、何人もの子どもたちが勢いよく走り出てきた。全速力で――!
「――ッ兄ちゃん、お帰りー!」
「ただいま、フレッド」
「お帰りマリアー」
「ただいま。パンプキンパイ買ってきたよ」
「マジで⁉ ありがとー!」
「――誰だー?」
ジェインやマリアへぶつかっていく子どもたちに、何の反応をする暇もなく、あっと言う間に囲まれて身動きが取れなくなる。庭の真ん中に立ち尽くしたまま……。
「知らない人がいる~っ」
「初めて見る人だー‼」
「っほんとだー!」
「あ、えっと……」
くりくりと動く幾つもの瞳が、興味津々に俺たちを捉えている。――っ小さい。
「なんだなんだ~?」
「どっから来たのかな!」
髪色から性別まで様々な子どもたちは、背丈や年齢もばらばらで、多くは俺やフィアの膝上から胸下辺りまでしかない。正確な判別はし辛いが……。
「――すげー! この髪!」
年頃は幼稚園から小学校低学年程度だろう。間近でフィアを見た子どもの一人が、興奮した声を挙げる。
「きれい~」
「サラサラ~っ」
「っあっ、ちょっと」
「なんだこの兄ちゃん」
「薄のろなんじゃねえの? けっ、しけた面しやがって」
「……なんだと?」
フィアの制止も訊かずに、幾つもの無邪気な手が髪を掴んでいく。俺の前に立ち塞がる二人の少年。
「絹糸みたいー」
「つやつや~」
「やめっ。引っ張らないでくださ――っ」
「どうします? ボス」
「駆けっこ勝負で相手してやるぜ。俺サマに勝てるかな? 兄ちゃん」
「……」
ピラニアの群れに飲まれたようになっているフィア。好戦的な眼つきで跳ね始めている子どもに、口を開きかけたところで――。
「――こらっ」
「いてっ!」
青天の霹靂のような助けが入った。子どもに軽い拳骨を落としたマリア。
「他人の髪を引っ張っちゃダメでしょ。ジェインお兄ちゃんのお客さんなんだから、ほら、離して」
「え~っ」
「――まったく」
フィアに纏わりついていた子どもたちを、慣れた手つきでひょいひょいと離していく。保護者ぶりを披露するマリアの横から。
「いつまでたっても子どもっぽいのね。私たちの次に年長なんだから」
「うげっ」
「そろそろ大人の振る舞いを身に着けるべきじゃないかしら? お客には敬意と誠意をもって接するが、紳士淑女の作法よ」
「ちっ、マナー星人が」
歩み出てきた一人の少女が、俺に絡んでいた二人組に苦言を呈している。……小四くらいだろうか?
身だしなみに気を遣っているのか、他の子どもたちより恰好が洒落ていて、今いる中では最年長に見える。相性の悪い相手なのか、ガキ大将と思しき少年がしかめ面をする。
「こんな規則女に付き合ってたら、俺たちの熱い自由が奪われちまう。――命拾いしたな! 兄ちゃん」
「したな!」
「……」
「誰がマナー星人よ。――全く」
絡んできたときとは正反対に逃げていく。華奢な腰に小さな手首を当てたポーズで、溜め息を零した少女が俺たちに向き直った。
「ごめんなさいね? ろくに気も遣えない子どもばっかりで」
「……ええと……」
「人が訪ねてくることなんて滅多にないことだから、物珍しさでみんな、興奮してるの」
――年齢に似つかわしくない物言い。
「悪気はないし、ああ見えて根はいい子たちなのよ。私やマリアに免じて、赦してあげてくれると嬉しいわ」
「いや、……まあ」
「かみ……」
「え?」
頭二つ分ほども低い背丈から披露される大人顔負けの仕草に、却ってこちらの方が戸惑わされる。振り向いたフィアの隣に。
「きれいなかみ……」
「あ、えっと」
「……いたずら、だめ」
いつの間にか、物静かな雰囲気をした少女が近づいてきている。先ほどの弄りで枝毛ができていたらしいフィアの髪を、そっと手のひらで撫でて。
「……おわび」
「あ、ありがとうございます」
「じゃあ、失礼するわ。午後のお勉強があるから」
「……」
水玉の包装に包まれたキャンディーをフィアに渡す。満足げに頷いた少女が、優雅な仕草で振り返るおしゃまな少女のあとについて、ててっと駆けていった。……。
なんというか――。
「……随分個性的な面々だったな」
「ですね……」
「――大丈夫だったか?」
入って早々、思わぬ洗礼を受けた気がする。どうにか平穏を取り戻した俺たちに、タイミングを見計らっていたらしい相手が近付いてくる。
「……ジェイン」
「始めから止めようと注意すると、余計に面白がるからな。無遠慮な歓迎で悪かった」
「いえ……」
「こらー!」
視線の向こうで、捕まらない子どもをマリアが追いかけている。まあ――。
「……元気がいいのはいいことだよな」
「そうですよね、はい」
まだ髪を気にしているらしいフィアと、二人して頷く。――それはそう思う。
見ているだけでも色々な性格の子どもがいるようだが、どの子どもたちも、奔放でのびのびとしている。押さえつけるような接し方をされていてはこうはならないはずで。
「――あらあら」
少なくともこの教会の管理を務める人物には、子どもたちを無闇に縛りつけないだけの度量があるということなのだろう。扉の開く音が響く。
「なんだか外が賑やかと思えば」
「――」
「お客様ですか? ジェイン」
「――ええ」
古びた木の扉の音。塔に繋がっている木製の家屋から、誰かの影が歩み出てきた。っ――。
――白く、落ち着いた基調の衣服。
長い服の裾を揺らす柔らかな仕草で俺たちの前に立ったのは、穏やかな雰囲気を纏う一人の女性。首元にはくすんだ金の小さなロザリオを下げ、皴の見える目元に穏やかな微笑みを浮かべている。年齢は五十台前後……。
「学園の同級生です。ただいま戻りました、神父」
「あっ、ただいま、エアリー神父」
「お帰りなさい、二人とも。――そうですか」
プラチナブロンドの髪には白いものが入り交じり、年を経た深みのある声音をしている。清潔感のある衣服のところどころに入った装飾は、普通の洋服に備わっているものではない。
「ジェインがお友達を連れてくるなんて、珍しいこともあるものですね」
「ええと、その」
「――初めまして」
――聖職衣だ。幾度となく身につけられてきたのだろう、僅かにほつれのある麻布の衣の袖を揺らして、茶目っ気のある微笑みを浮かべた女性が俺たちに挨拶してきた。
「この教会の神父を務めております、エアリー・バーネットと申します。日頃からジェインがお世話になりまして」
「っ、いえ。こちらこそ……」
「ただの同級生ですよ、神父」
想像されているような関係とはやや違う。応じ方に困った俺たちの反応を見てか、ジェインが説明に入ってくれる。……神父?
「見せたいものがあるので来てもらっただけです。長居はしませんから」
「あら、そうですか?」
「はい。――行こう」
さっきもそう呼ばれていたが。注がれたままの視線に後ろ髪を引かれつつも、足の向きを変える。ジェインのあとに続き――。
「入り口が低いから注意してくれ」
「ああ」
木造の建物へ入った。――古い廊下。
元からあった礼拝堂に、居住部として付け加えられたのか。石造りの教会本体に付随するように建っている平屋の内部には、壁や天井など、そこかしこに補修や修復の跡が見える。体重を掛けるたびに軋む床板。
「その、ここは……」
「ああ」
ともすれば次の瞬間に抜けてしまうのではないかと思うような感覚に慎重になる俺たちの前を、ジェインは平然と進んでいく。何となく想像はついているが……。
「エアリー神父が経営する教会、兼孤児院」
「――!」
「ここにいるのは全員、親や身寄りのない子どもたちでな。神父のほか、年長の僕やマリアが面倒を見ている」
――やはりそうなのか。
ジェインとマリアについては、来る途中に見ていた通り。……先ほど集まってきていた子どもたちにもまた、外見的な共通点というものが見当たらなかった。
「神父、って言ってたよな」
「職位については、特例らしい」
血縁的な繋がりがないことは明らかで、エアリーさんと苗字を異にしている以上、ジェインも同じ境遇にあるということなのだろう。……神父という役職は確か、男性しかなれないと聞いたことがある。
「詳しくは知らないが、エアリー神父は教義のために色々と貢献してきたそうでな。この教会を運営するに当たって、聖職者の位階を授与されて、それを名乗ることも許されているそうだ」
「! へえ」
「そんなことがあるんですね……」
カトリックとプロテスタントで別で、後者の牧師ならばなれるのだったか。――そんなことがあるとは。
「時代に合わせた結果、ってことなのか?」
「いや。どちらかというと、極めて例外的な措置らしい」
「例外的……ですか?」
「神父以外の例は聞いたことがない。職位は許しても、金銭的な援助までしてくれるわけではないしな。――さて」
教義と聞くと鉄の掟か何かのような印象があったが、たまには融通が利くということなのだろうか。廊下の突き当たりにまで来たジェインが、ポケットからチェーンで繋がった金属製の鍵を取り出す。
「ここが僕の部屋だ」
「――」
「元は物置として使われていた部屋だから、手狭だが。気にせず入ってくれ」
「――っお邪魔します」
全てが古びて見える木製の扉の中で、そこだけが比較的新しいシリンダー錠が回される。開かれた扉から――。
フィアと並んで中に入った。――っ。
「……」
「適当に座ってくれ」
ジェインの声に続いて、背後からドアの閉まる音が聞こえてくる。見回している俺たち。
「邪魔な物があれば退かしてくれて構わない。茶が出せなくて悪いが、喉が渇いていたら、水くらい持ってこよう」
「っ、いえ」
「大丈夫だ。……」
顕わになる光景に、二人して口を噤むことを選ぶ。なんというか……。
――随分と、殺風景な一室に思えてしまう。正方形に近い、六畳ほどの一間。
正面の壁には木製の学習机がつけられ、飾り気のない椅子、右手には布団の乗ったシングルベッドが鎮座している。左の壁と一体化するようにつけられている、簡易式クローゼット。
「少し待ってくれ。ごちゃごちゃしていてな――」
部屋の壁と同様、いずれの家具も木目が剥き出しで、最低限の用途さえ果たせればいいという意向が見えるようだ。正面の壁に一つだけついた小窓からは……。
くすんだ窓ガラスを通してぼやけた陽の光が入り込み、質素な室内を照らし出している。机の上に平積みになっている本。
図書館から借りてきたのだろう、分厚く古めかしい表紙を持つそれらと交互に重なり合っているノートの束が、唯一のインテリアと言えるかもしれない。布団の上に置かれた、学園で使っているのだろうノートPCが、アナログな景色の中で場違いなもののように畏まっている。腰を落ち着ける場所を見いだせないでいる俺たちに――。
「――これだ」
「――」
収納があるらしいベッド下から立ち上がった、ジェインが何かを差し出してきた。渡されたのは――。
「……本?」
「ああ」
一冊の本。普段手に取るもののように、綺麗に製本されたものではない。
「物語を作るのが趣味でな。数年前から、自分で書いているものなんだ」
「……!」
「神父たちには見せていないが、完成すると他人の感想が聞きたくなってな。君たちなら丁度いい」
文章を印刷した用紙をホチキスで止め、綴じ本の形にしたもののようだ。……なるほど。
「俺たちなら、ただの同級生だからな」
「そういうことだ。――これを読んで、それぞれの感想を聞かせて欲しい」
大して親しくもなく、リゲル以外に交流のなさそうな俺たちならば、読ませてもここ以外に話が広がることはない。意味ありげな視線でジェインが眼鏡の奥から俺たちを見てくる。
「それが僕からの条件だ。大して難しくはないと思うが」
「……まあ」
――確かにそうだろう。渡された本は見た感じ、それほど厚いものでもない。
読む速さにもよるだろうが、長くても三十分はかからないくらい。……リゲルとの話し合いは本来、ジェインにとって乗り気でないことのはず。
承諾の難しい事柄を、それで了承してもらえるなら――。
「――分かった」
「分かりました」
「よかった。ここで断られれば、僕も君たちも無駄足だからな」
俺たちからしても、断る理由はない。ジェインの頷きを合図に、本を開いた。……。
本は一冊しかないとのことだったため――。
「……」
布団をどけたベッドに座らせてもらい、広げた本を両側から、フィアと覗き込むようにして読み進める。……言葉遣いは平易。
本人の雰囲気から勝手に難しい小説のようなものを想像していたが、どちらかと言うと児童向けの物語と言った感じだろうか。……少々意外に思える。
学年唯一の特待生にして真面目な優等生。これまでのジェインのイメージからすれば、子ども向けの物語などには興味がないのではという気がしていた。……自身の印象とのギャップ。
その辺りも案外、エアリーさんたちに見せにくい理由なのかもしれない。気を逸らした思考を文字に戻し――。
「……」
「……どうだった?」
時計の針が半を回る頃。背表紙を閉じた俺たちに、ジェインが訊いてくる。……考えが纏まっていない部分はある。
文章から思い描かれた幾つものシーンに対して、思ったことや感じたことがまだ混ざり合っている感じ。それでも正直に言うならば――。
「――面白い」
「面白かったです」
充分にそう言える内容だった。――恵まれない環境に生まれた、一人の少女の物語。
生みの親も知らずにガラクタ置き場に取り残されているところから始まって、様々な人との出会いを経験しながら、数々の困難を乗り越えて幸せになっていく。妙に凝った表現や難解な言葉遣いなどはなく。
「冒険の内容がワクワクして。全体的に読み易かった」
「出てくる人たちが、凄く生き生きしてると思います」
情景の描写も、何をしているのかが明白に伝わってくる。ストーリーも王道の冒険譚。
「意地悪なドラゴンとか、ヒントをくれる魔法使いとか。途中の絵も凄く素敵ですね」
「――自分で描いてるのか? もしかして」
「ああ」
このまま本屋に並んでいてもおかしくはなく、趣味として書いているのであれば、充分過ぎるほどだろう。場面ごとに挟まれていた挿絵。
「昔から趣味で描いていて、その延長線でな。絵の具を使って本格的に描くこともあるんだが」
「凄いですね……」
色鉛筆を使って描いたと思しき背景は、色彩が細妙かつふんわりとしていて、素朴で温かみのあるタッチが、物語の世界観によくマッチしている。神妙な顔つきで唸るフィア。
「何年も描いていれば、素人でもそれなりに上手くはなるさ。――そこのベッドと机も、僕が作ったんだ」
「えっ」
「ここに来た当時にな。本を読んで、材木はホームセンターで揃えた」
「そうなのか……」
売り物にしては飾り気がなさすぎるとは思ったが、自作だったとは。言われてみればどことなく荒削りに思える、家具の外観を見つつ……。
「……結構シリアスな場面もあるんだよな」
改めて手のうちの本を捲る。物語の終盤、同じ境遇の元で出会い助け合ってきた少年が、閉ざされている道を開くために自分の命を捧げる場面。
「始めは子ども向けなのかと思ったけど、俺たちくらいの年齢で呼んでも、ハッとさせられるって言うか」
「――子ども騙しでは意味がないからな」
食料のこと、怪我のこと、病気のことなど、現実的と言える要素が所々に散り嵌められている。眼鏡を上げたジェイン。
「ご都合主義な夢物語ではなく、ある程度現実的な要素を含んだ上で、それでも幸せになる物語を作りたい」
「――」
「そう思って書き始めたんだが。ある程度は様になっているようで、何よりだ」
「……なるほどな」
差し出した本を俺から受け取って、微かに目元の険を緩めたジェイン。……何となくの事情は察せられる。
身内に見せられないと言っていたのは、親しい関係性抜きでの評価を得るためだけでなく、考えた内容が書けているか分からないうちに、本命に見せるのを避けたかったからでもあるのだろう。つまり――。
ここにいる子どもたち。孤児として現実の厳しさを知っている子どもたちのために、書いてきたということ。――これからを進む相手に何かを伝えるための物語。
「……それで、その」
「ああ。約束だからな」
思った以上に真剣な頼みだったが、条件は一応満たしたことになる。遠慮がちに言い出したフィアに、ジェインが頷く。
「もう一度だけ奴との話に応じてみることにしよう。時間や日にちについては、あとで――」
「――」
連絡先の交換に、携帯を取り出したところで響くノックの音。
「誰だ?」
「ジェインお兄ちゃん、その……」
「エミリアか。どうした?」
声に続いて、年少の子どもが部屋に入ってくる。俺たちがいるのを知って来たのか、おずおずとした様子を見せつつ。
「お人形が……」
大事に抱えていた人形を、ゆっくりとした仕草で差し出した。……それなりに古い。
「――大丈夫だ」
「――!」
「これくらいならすぐにつく。同じ色の糸もあるしな」
「本当⁉」
「ああ。少し待っててくれ」
布で作られ、右腕の取れたそれは、今まで何度も遊びに付き合ってきたのか、生地全体が褪せて古ぼけて見える。顔を明るくした少女の前で、俺たちに断りを入れたジェインが、机の引き出しから糸と針の入ったケースを取り出し。
「――ほら」
「わあっ!」
「これでもう治った。友達を大切にな」
「うん! ありがとう!」
一分と立たないうちに縫い合わせてしまう。――速い。
「――裁縫までできるのか」
「簡単なものくらいはな」
心得のない俺でも分かるくらいの早業だ。出て行った子どもがドアを閉めたあとで、裁縫セットの蓋を閉じたジェインが言う。簡単とは言うが……。
「服なんかは、破れたからと言ってすぐには買い換えられない。必要だったから覚えただけさ」
「……頭が下がるな」
ただ針と糸を動かすのが速いだけではなく、傍からしても、どこを縫い合わせたのかぱっと見では分からないくらいしっかりと縫われていた。ケースが机の中にしまわれたのを見て、携帯を取り出す。
「家のことまでやって、勉強もできるなんて。どこまでも勤勉と言うか」
「――大したものじゃあないさ」
――低い声。
「僕は単に、学ぶことを知っているだけだ。どんな事柄にせよ、やらずにできたことは一つもない」
「――」
「手本になるものを分解し、何度も学んで自分のものにしなければ。――僕は天才じゃない」
謙遜などではない。淡々と事実だけを述べているような言葉の最後に、一際力が籠もったような気がした。
「だからこそ、やれることは全てやるつもりがある。神父と子どもたちの為に」
「……」
「自分の興奮のためだけに、乱闘に明け暮れることのできる誰かとは違ってな。――よし」
連絡先の交換が終わる。メッセージが届くのを確かめて。
「これでいい。日にちの方は、目途がついたらまた相談してくれ」
「……ジェインさん」
「今日は助かった」
ジェインがポケットに携帯を仕舞い入れる。用は済んだと言うように。
「約束通り、リゲルともう一度だけ話してみよう。まあ」
含みのある眼つきで俺たちを見た。
「向こうを説得するのは君たちの仕事だ。あいつがもう一度、僕と話す気になるとも思えないがな」




