第十三話 ピエロの指先
――休日の街並み。
「大変でしたね……」
隣を行くフィア。思い起こしたのだろう情景に、桜色の唇が小さく息を吐く。目元に残る憂いの表情。
「昨日は。なんとか収まってくれましたけれど」
「そうだな……」
つられるようにして疲労感が昇ってくる。昨晩に起こった一件。
「リゲルもあいつも、一触即発の状態だったな」
俺たちの瀕した事態は、正に一大事というべきものだった。――オールド・パルの店内で睨み合った二人。
〝……〟
リゲルがジェインの襟首を掴み、そのリゲルの腕を俺が押さえつけている。どうしたものか分からずにいるフィア。
〝――どうかなさいましたか?〟
〝あっ――〟
息を呑んで割り込めずにいる店員たちに、周囲の客も興味深げに視線を送ってきている。誰もが動けずにいる膠着の中で、調理場から出てきたアレンさんが、頼もしいガタイで割り入ってくれた。周囲に満ちる緊迫をものともせずに。
〝ここはひとまず、私の預かりということにさせていただけませんか?〟
〝――店長〟
〝古い知り合いと、見込みのある従業員が殴り合いとあっては、私も立つ瀬がありませんから。――皆様もどうか、学生同士の熱のある交流と見なしていただければと存じます〟
リゲルとは知己、ジェインにとっては雇用主となる立場からの仲裁で睨み合いを中断させ、互いに矛を収めるところにまで収束させた。手慣れたそつのない取り成しの仕方に、周りの客もそれ以上の反応をやめ。
〝……済みません〟
〝あ、ありがとうございます〟
〝とんでもありません。店内でのトラブルの対応も、オーナーの職分ですので〟
事なきを得られたが。……内心はかなりのことハラハラしていた。
「……一瞬、本当にリゲルさんが殴るんじゃないかって思っちゃいました」
「相手の方も黙ってはいなかっただろうな……」
マフィア関係者から注目を浴びているのもそうだったが、何より中心にいる二人の敵意が尋常ではなかった。不倶戴天の仇でも睨み付けているのかと思うほど。
「ジェインさんも、どうしてあそこまでリゲルさんに」
「……さあな」
僅かの切っ掛けで均衡が破れてもおかしくない。火の付いた火薬庫の前にいるような危機感に、生きている心地がしなかった。……ジェインに言われたときのあの感じ。
以前にゴロツキに絡まれていたときもそうだったが、リゲルは何かしら、過去に触れられたくない事情を抱えているらしい。――ジェインの側も謎が多い。
今考えてみると始めの教室のときから、リゲルに対するジェインの当たりは必要以上にキツイものだった気がする。単に衝突する事由があったというだけでなく……。
個人的な因縁でも抱えているかのような。……勉強の方はさぞかしできるのだろうに。
「――あ」
その思考力の高さを、対人方面でも活かしてくれないものか。意味のない願望を浮かべている俺の隣で、フィアがついという調子で足を止めた。どうし――。
「……」
「――っ」
相手の方に気付いたのを皮切りに、向こうも俺たちの姿に気が付く。ピエロの仮装をして、店の前に立っている人物。
ファンシーな手袋を嵌めた手には、ひもを伝って宙に浮くカラフルな風船たちが握られている。トナカイのような赤い丸鼻と、白く塗りたくられた頬には金銀の星屑が煌めき。
「……君たちか」
「はい。ええと」
「ジェイン……だよな?」
鮮やかなストライプの入った衣装を身に着けている。服装は似ても似つかないが――。
「ああ。――バルーンショップのバイトをしていてな」
間違いない。――ジェイン・レトビック。
「ハロウィン前の宣伝ということで、今日は道化役をやらされている。奇遇だな」
「……そうだな」
「休日にデートとは羨ましい。良かったら、何か買っていかないか?」
特徴的な鋭いふさの髪、眼鏡の奥から覗いている理知的な瞳が、目の前の相手が昨日の/先日の事件の当人だと教えてくれている。……気まずい。
「この時間は中々子どもたちが通らなくてな。ノルマが履けそうになくて困っていたんだ」
「……普通の風船以外にも何かあるのか?」
「バルーンアートがある。犬、猫、馬」
気付かないふりをして通り過ぎていればよかったが、そんなことを思いつけないくらい自然に話しかけられてしまった。……浮いている風船は一個百円程度。
「この本に載っているものなら大抵は作れるつもりだ。長くても五分程度でできる」
「――何がいい?」
「えっ。ええと……」
バルーンアートはものによって値段が違うが、どれだけ高くても三百円程度のようだ。希望のない俺から振られたフィアが、渡された本を見つめる。悩んだ末――。
「――じゃあ、これを」
「了解した」
白とピンクの風船で作られた、デフォルメチックなウサギを選んだ。――手に持っていた紐を、手近の留め具に絡ませて。
「上手ですね……」
「――上手いな」
「この手のバイトは、昔からよくやったからな」
素材となる長細の風船を膨らませたジェインが、素早い手つきで形を作っていく。ねじ込み、捻り。
空気を調節する。流れるように指の間で動き回る風船は、既にそれ一つが別個の生き物のようだ。話している間も止まらない指先。
「最近はいい教本も多い。腰を据えて勉強すれば、それほど難しいことじゃないさ」
「そうか……?」
整えた風船をもう一つの風船に絡ませ、形を作っていく。……俺には逆立ちしても無理そうだが。
得意なのは、勉強だけではないということなのだろう。徐々に複雑化していく手順。追い付かなくなってきた理解に、何となく目を逸らした――。
「――昨日は済まなかった」
「え?」
唐突な発言に、思わず前を向く。手元に視線を落としたままのジェイン。
「つまらないトラブルで、君たちの時間に水を差した。怒りを向けるべき相手は、あのゴリラだけだったというのに」
「いや」
「そんな……」
予想だにしなかった謝罪に、戸惑わされる。……ここでその件を出してくるのか。
「昨日はその、一応大事にはならなかったわけですし」
「済んだことだからな。掘り返してどうこうとは思ってない」
「そうか」
何も話さなければ、それでお互い触れずにいたような気もしなくはないが。……ジェインの答え方は真っ当なもの。
「まあ、迷惑をかけたことは事実だ。こうして風船も買ってもらっている」
「……一応はな」
「何かあれば、軽い頼みくらいは聞こう。共通している講義の不明点を教えるくらいならできる」
俺たちに対して敵意が発動することはないようだ。――実際に頼むことはしない。
「真面目そうな二人なら、そんな助力は必要ないかもしれないが」
「……オールド・パルでのバイトは続けるのか?」
「店長が寛大な人でな」
俺たちも向こうも、それは分かっている。これはあくまでも建前。
「厳重注意は受けたが、減給もなしに続けさせてもらえることになった。マフィアが上客というのは不本意だが、あそこは色々と条件がいい」
「……」
「暫くは続けるつもりだ。君たちには済まないがな」
「……そうか」
この場、俺たちとの間だけでも問題を片付けておくための名分に過ぎない。大した仲でもない俺の質問に、律儀に答えてくる。
どちらかと言えば、その態度の方に詫びの意味が含まれているのだろう。会話の途切れ目に、またしばらくの沈黙が続く。
「……ジェ」
「――正直言って、意外だった」
フィアが何かを尋ねようとしたとき。手元に目を落としたままのジェインが、再び何かを切り出してきた。――?
「リゲル・G・ガウスの友人と聞いたときには、どんなに粗暴な連中かと思ったものだが」
「――っ」
「至って普通の学生。脅されて友人役をやらされている様子もない」
「……⁉」
俺とフィアをちらりと見て、また風船にレンズの奥の目を戻す。……何を――。
「僕からすれば、余り関わり合いにならない方がいい相手だとは思うがな」
視線を動かさないまま告げてくるジェインの口調は、単なる事実を告げているだけであるかのように淡々としている。九割方完成しているウサギの顔に、サインペンでひげや目の部分を描きつけて。
「暴力組織と繋がりのある人間など、所詮まともとは言えない」
「……!」
「仮に当人にその気がないとしても、トラブルに巻き込まれる危険性は消えない。何事もないうちに――」
仕上がったバルーンの状態を確認した、ジェインが眼鏡の奥の瞳で俺たちを見る。
「離れるのが賢明なんじゃないか。余計なお世話かもしれないが」
「……ありがとうございます」
伸ばしたフィアの手が、三十センチほどのウサギを受け取る。長耳から足まで再現されたバルーンアート。
「話はそれだけだ。買い上げ感謝する」
本に乗っていた手本と比べても遜色ない、バイトでやっているとは思えないほど見事な出来栄えの作品だ。言いたいことは本当にそれだけだったのか、俺たちの前でジェインが別の風船を膨らませ始める。客引き用の作品でも作るつもりなのか。
同じ手順を幾度となく繰り返す機械のような正確さで、器用に指先を動かしていく。興味のなくなったような横顔――。
「――もう一度、リゲルと話してみてくれないか?」
その無関心さについ、心に浮かんだ台詞が出てしまっていた。……数秒。
「――っ」
「……なぜそんな真似をする必要がある?」
その間だけ止まっていたジェインの運指が、すぐにまた一定のリズムを刻み始める。驚いたように俺を向いているフィアの視線と、向けられることのないレンズの奥の視線を意識しつつ。
「すでに君たちへの謝罪は済んでいる。道理のない話だと思うが」
「……あいつは、ジェインが思ってるような奴じゃない」
考えを巡らせながら先を紡ぐ。……単に願いを突き付けるだけでは駄目だ。
相応の理屈がなければにべもなく断られるだけ。ここでジェインに乗って来させるためには――。
「講義が被ってるなら、今後も顔を合わせることになるだろうし。俺たちも一緒にまたオールド・パルで鉢合わせることがあれば、お互い良い気分じゃないんじゃないか?」
「……」
僅かな沈黙が場を過る。作業をこなしていた指が、完全に静止している。
「――意外に踏み込んで来るな」
「……」
「消極的そうな相手だと思ったが。あのリゲルの友人だけはある、というところか」
顔を上げたジェイン。冷たい理知を纏う瞳が、眼鏡越しに俺を覗く。見本となる花のバルーンアートを、静かに看板の横に置いて。
「軽い頼みなら聞くとは言ったが、その条件だと、僕の側の割が合わなくなる」
「――」
「君たちにもそれなりのことをしてもらわないとな。――明日の放課後、時間が取れるか?」




