第九話 雨降って……
……帰宅までの道のり。
景色を照らし出す陽が、徐々に傾き始めている。人気のない住宅地を通る家路を……。
「……大丈夫ですか?」
「……ああ」
俺とフィアは並んで歩いている。ゆったりとしたペース。
ふらつく足取り。一歩一歩を踏むのにも気力を使う俺に、隣にいるフィアが、心配そうな表情で見つめてくる。……疲労は重い。
だがなぜか、心は清々しい気持ちがしていた。身体の方は精魂尽き果てそうだというのに……。
「帰るまではもつ。……今日の復習は無理かもしれないが」
「別にそれは。夕飯は、私が作りますから」
「……悪い」
不思議なものだ。口の中で呟いて、さらに歩くことを続けていく。互いの足音だけが響く時間が続き――。
「……よかったのか?」
「はい?」
「本当に。俺が言うのも何なんだが……」
立場の無さから、声が途切れる。――リゲルとの一戦のあと。
〝――〟
〝……はぁ?〟
〝スライディングを仕掛けたときに、勝負はついてた〟
唐突な俺の敗北宣言に、目を大きくしたフィア。訝し気に声を挙げたリゲルに、告げる。
〝何もなしにあそこで二点差をつけられれば、取り返せる気はしなかった。だから〟
〝……気にしなくていい、つってんのに〟
自分の中では過ぎたことになっていたのか、短く息を吐いたリゲルが、頭の後ろを掻く。手のひらを差し向けて。
〝事故だろありゃ。結果的に俺がきめてんだから、別に――〟
〝――自分が負けたと思ったんだ〟
衝突を避けて倒れたリゲルは、あのとき自分の勝利を主張することもできた。
俺の繰り出したスライディングは、傍目からすれば明らかな妨害行為。始めに取り決めていた条件に従えば、あの時点で俺の反則負けだったのだ。
――それに。
〝だから、俺としてはこう言うしかない。納得はいかないかもしれないが〟
〝……カタストはどうなんだよ?〟
そのことを抜きにしても、この話はそもそも、リゲルの絡みに対する俺たちの納得の話。撥ねのける動機が無くなってしまった以上。
〝二人の勝負だろ。黄泉示はこう言ってるけど、文句とかねえのかよ〟
〝……私は……〟
反発を続けることはできなくなってしまった。リゲルに連れてフィアを見遣る。そう――。
「――はい」
俺としては。目の前にいるフィアの声が、記憶に沈んでいた意識を現実に引き戻す。
「私も、あれでよかったです。二人の勝負を見ていて……」
「……」
「色々と、思うところもあって。リゲルさんも、始めに思っていたのとは違いそうだって思いましたから」
「……そうか」
静かな肯定を示したのち、思い起こすようにフィアが一拍、目を閉じる。長い睫毛を揺らして開いた翡翠色の瞳に、前を向く。
〝なっんか釈然としねえなぁ……〟
俺が敗北を主張し、フィアが頷いたあともぼやいていたリゲルの姿が思い起こされる。
〝そ、そうですか?〟
〝そりゃそうだぜ。一旦勝負にした以上、白黒つけねえとすっきりしねえっつうか。筋ってもんが――〟
〝――なら、もう一回戦るか?〟
間に落ちていたボールを拾い上げる。瞬きして俺を見る、リゲルとフィア。
〝今からでも一戦。受けて立つぞ〟
〝ちょっ――、黄泉示さんっ〟
〝――ははっ!〟
よろめきながら立ち上がろうとする俺を、支えようとするフィアが止めてくる。俺たちの様子を交互に目にして、笑いを零したリゲルは。
〝やめとくぜ。今回は、勝ちをもらっとくよ〟
そう言って、少年のような笑みを浮かべた。……思い返してみても大変な一日だったが。
掛けた時間と労力は大きかったとはいえ、リゲルとの件は、これで一つ決着がついた形になる。……残っていること。
「黄泉示さん、その……」
躊躇いながらも出されたようなフィアの声。向き合わなければならないことを前にして、自分の心を決めた。
「この間のことについてなんですが。私――」
「――済まなかった」
「――っ、え」
「あのとき怒鳴ってしまって。そのほかにも、色々と……」
緩く食い込む爪の感触を覚えながら、手のひらを握る。――子どもが乱闘に巻き込まれていたあのとき。
駆け出していくフィアを見た俺は、無謀だと叫ぶと同時に、心のどこかで誰かの姿を重ね合わせてもいた。何よりもまず、人を助けに走った父と母。
「あのときフィアが子どもを助けに出なければ、あいつを殴らせたままだったかもしれない」
「――」
「今日みたいなことにも気付かずに。――悪かった」
「……いえ」
子ども心に尊敬し、憧れを抱いていた人たち。両親の面影を見たからこそ、冷静になることができないでいた。……今日だけの話ではないのだろう。
初めてフィアと出会い、その純真さと眩しさに触れたときからずっと。俺は――。
「謝るのは私の方です。向こうみずに走って、黄泉示さんまで危険にして」
かつて失った自分の理想を、フィアに見ている。頭を下げた俺に、逆に自責の念を強くしたようなフィア。零れそうな気持ちを抑えるように、胸の前でぎゅっと手を握った。
「そのあともずっと。リゲルさんとのやり取りも、私じゃ、何もできずに……」
零れ出た言葉の終わりが空気に消えていく。握り締められていた手のひらが、ゆっくりと解かれる。
「……あのとき黄泉示さんが助けに来てくれなければ、私もあの子も、無事ではいられなかったと思います」
「――」
「だから」
白銀の髪を茜色に流した、フィアが顔を上げる。曇ることのない、真っ直ぐな瞳のままで。
「私たちを助けてくれて、ありがとうございます。黄泉示さん」
「――。……っいや」
――一瞬。
その表情に心を奪われる。真っすぐに俺を見てくる笑顔。
溢れている純真さ。迷いのない、翡翠の美しさに呆けている自分を自覚して、叱責するように我に返った。
「俺の方こそ。……ありがとう」
「っ、はい」
いつの間にか立ち止まっていた二人。互いの礼を受け止めて、照れくさくなるような空気が満ちてくる。……どこかぎこちない感覚。
「……帰るか」
「そうですね」
だがきっと、前よりも深く通じ合えたのだという予感がする。見つめ合っていることに笑みを零し合って、晴れやかになった心で、歩き始めた。……近付いた距離。
「……その……」
「? どうした?」
「前から、気になっていたんですけど」
歩みの遅い俺に歩調を合わせている隣から、フィアが何かを言い出す。躊躇いを押し切るようにして。
「黄泉示さんは、どうして私を助けてくれたんですか?」
「――」
前を向いたまま声を発した。……その問いかけ。
「……」
「……誰からも」
不意を打つ言葉に一瞬だけ、意識が止まる。胸に湧くイメージ。
「誰からも手を差し伸べられないのは、辛いだろ」
「……」
重苦しい気持ちが出ないよう、視線を上げる。意味が通じたかは分からない。
発した言葉の意味は、俺自身のうちにしかないものだ。敢えて抽象的な台詞を選んだような俺の答えに、フィアは少しの間沈黙して――。
「……そう、ですね」
何かが通じたような声で、静かに呟いた。歩き続ける俺たちの影を、夕陽が長く伸ばしていく。
家に帰り着くまでの間。隣にいる互いの足音を、俺たちは無言のうちで感じ続けていた。
「――なんだかんだで、上手くいったようです」
調度の行き届いた室内。机脇の壁際に直立したまま、無線で連絡を受けた部下の男が、目の前のデスクに座す人物に報告する。回転式のビジネスチェア。
「ようやくのご友人ですね。例の事件以来、――っ」
「――どうかな」
俳優のような細面に、見た者を委縮させるだろう切れ長の瞳。タブーに触れたものとして言葉を切った部下の様子を気にしないように、ダークスーツの脚を組んだドン、レイル・G・ガウスが口を開く。
「リゲル君のことだからね。羽目を外して、またすぐ喧嘩別れになるかもしれない」
「っご冗談を。セキュリティはいつも通りに?」
「――いや」
不同意。天然木の机で、レイルが視線を天板に差し向ける。
「ようやくお友達ができたなら、環境も少し変えようか。レベルの高いプロはこちらで処理」
「――yes」
「これまで通していたゴロツキもシャットアウト。運動にもならないレベルか、害にならないような人間だけ通過させて、監視の方は外してくれて構わないよ」
「了解。――通達します」
指示を受けた部下の男が、端末を操作して素早く伝達事項を送信する。リゲルを警護するチームのメンバーに行き渡ったのを確認して、端末を胸のポケットにしまい入れた。
「全員の了解を確認しました。――五分前になります。ボス」
「ああ、先に出ていて欲しい。軽い情報の整理があるからね」
「分かりました」
心得たような素振りで黒服が外に出て行く。室内に一人残った状態で、腰を下ろした椅子をレイルがゆっくりと回転させる。
「……奇妙な偶然もあるものだ」
呟くように零し出す。黒い深みを湛えた瞳が捉えるのは、デスク上にあるタブレットの中身。
「彼の忘れ形見に、調査を依頼された人間が友人とは。昔馴染みとも、縁が続いているらしい」
画面に表示されている電子調査票。これまでに得られた情報が連ねられていると思しき欄の隣には、流れる白銀の髪と、翡翠の瞳を持つ少女の写真が写し出されている。
「先がどうなるかは分からないが。――少し、予定を調整しておこうかな」




