第八話 乾いた決闘
「――ここがそうだ」
学園終わり。
正門で待っていたリゲルに連れられてきたのは、寂れた街角にある小さな空き地。広さは二十メートル四方ほど。
元は公園か何かだったのか、踏み固められた土の随所には遊具が撤去されたような跡が見え、周りには疎らな形で木々が生えている。砂の撒かれた地面……。
「親父のファミリーが持ってる土地でな。使い道がないってことで塩漬けにされてるみてえだから、迷惑になったりすることはねえ」
「……内容は?」
「警戒すんなっての。スポーツだよ、スポーツ」
入り口側の木の陰に隠れたリゲルから、投げられた何かが飛んでくる。受け止めた手のひらに響く質量と、硬く滑らかな表面の感触。
「――」
「球蹴りくらいできんだろ? そいつでOne-on-one」
サッカーボール。軽く土で汚れ、エアーの張りつめたそれを地面に落とす。足元で軽い音を立ててボールが弾む。
「互いのゴールに多く放り込んだ方が勝ち。シンプルだろ?」
「……」
親指で指し示されたゴールは、正面に生えた二本の木の間と、取り残されている木の支柱の間。……広さはさほど変わらない。
足場の感覚を確かめるよう、ゆっくりと辺りを回ってみる。地形も特に変わったところはなく――。
「ボールが外に出たらどうするんだ?」
「そのときは場外ってことで、真ん中から蹴り直し。出した方じゃない奴が先にタッチしてな」
「制限時間は?」
「特には決めてねえけど、三十分くらいでいいんじゃねえか? あんまダラダラやってもあれだろ」
細かいルールを答えるリゲルから、他に何かを企んでいるという感じはしない。――やはり。
「勝負方法が気に食わないってんなら、別の種目に変えてもいいぜ。バスケ、卓球」
「……」
「俺はスポーツ全般得意なもんでな。なるべく有利不利をなくすってことで、メジャーな中で一番やったことのねえこれにした」
「……始めっからスポーツになってるのは不利じゃないのか」
こいつの魂胆は始めから、勝負を単純な身体能力の土俵に持ち込むことにあったようだ。リゲルの運動能力については俺たちも目にした通り。
「知らねえなら言っとくけど、俺は昨年度留年なもんでな。試験の成績で勝負、とか言われちゃあ勝ち目がねえ」
「……ええと」
「そっちから言い出した話なんだったら、多少の融通がねえとな。別案があんなら聞くぜ?」
「……いや」
武器を持った二十人相手に危なげなく立ち回る、驚異的とさえ言える膂力と瞬発力。策を弄さずとも充分過ぎる有利があると見て、真っ向勝負で押し切るつもりなのだろう。……予想通りだ。
「これでいい。受けてやる」
「上等。――カタストには審判をやってもらおうと思ってるんだが、いいか?」
「え」
「二人の意見を受けた上での勝負なわけだしよ。何かしらの形で関わってた方が、カタスト的にも納得がいくんじゃねえかと思ってるんだが」
条件にも特別問題はない。リゲルの提案を受けたフィアが少し悩むようにする。……一応筋は通っている。
「ジャッジを任せるなんて、随分と余裕だな」
「別に点数を誤魔化すとかはできねえしよ。なんだったら、俺がレフェリーも兼ねるってことにしたっていいんだぜ?」
「分かりました。その……」
断る動機もないか。審判となることを承諾した上で、幾分慎重に、始めから気になっていたような素振りで、フィアがゆっくりと切り出した。
「時間は三十分で、……お互いゼロ点からのスタート、ってことでしょうか?」
「――」
「いや、流石にそいつはフェアじゃねえだろ。ハンデとして二十点、始めに黄泉示にくれてやるよ」
「そうですか……っ」
気前のいいリゲルの宣言を受けて、フィアがあからさまにホッとしたような表情を見せる。その反応のわけ。
二十点という、通常では埋まりようのないような点差を言い出したリゲルの大胆さも、理解ができないものではない。つまるところ――。
「妨害行為はその場で失格。あくまでスポーツ勝負だからな」
――俺とリゲルとでは、勝負になると思われていない。
目の前にいる二人ともそう考えている。不慣れな種目とはいえ、肉体競技という土俵でコイツと互角に立ち回るのは不可能。
まともにぶつかれば敗北は必至。勝負が成り立たないという共通の認識があるからこそ、こうまであっさりとハンデの件を受け入れているのだ。……俺とフィアとの関係は……。
「手荒な真似はなしってことで、フェアプレイの精神でいこうぜ。反則に見えたところがありゃ、カタストの側で指摘してもらってもいい」
「えっ」
「突っ立ってるだけじゃあれだろ? 場合によっちゃあ、得点の取り消しとかを主張してもいいぜ」
以前にぎこちなくなったときのまま、蟠りが残った状態のまま改善していない。リゲルに日常を掻き回されたことで、うやむやのうちに勉強や料理指導を再開するようになってはいるが。
互いの間の気まずさは変わらず、ふとした拍子にどことなく、相手と壁があるように感じられるときがある。意識することで、ぎこちなさが増していく毎日。
そのことも――。
「そうですね。それなら……」
「――必要ない」
今俺を苛立たせている、一つの原因なのかもしれない。――面倒だ。
「へ?」
「――黄泉示さん?」
「ハンデは要らない」
以前より距離を空けながらも、俺に気を遣っているようなフィア。此方の事情に関係なく、無遠慮な絡みを続けようとしてくるリゲル。
何もかも面倒で、癇に障る。全てを吹き飛ばしたいという暴力的な衝動が、沸々とうちに湧いてくる。……いいだろう。
「そんなので勝っても、勝たされた気しかしないからな」
「――っ」
「スコアは0-0から。最終的に多く得点を入れた方の勝ちだ」
蹴散らしてやる。餓狼のようなこの情動に従って、全力で。正面から叩き潰して――。
この鬱陶しい毎日への、蹴りをつけよう。俺の提案が余程のこと意外だったのか。
「……」
「……いいのかよ?」
言葉を失っているようなフィアに代わって、リゲルが尋ねてくる。思ったよりずっと冷静な口調で。
「んな破れかぶれに決めちまって。自分だけの勝負じゃないってのに――」
「勝負なんだろ?」
その鼻づらを叩く。余裕を湛えたサングラスの奥の瞳を、冷えた情念で睨み付ける。
「なら対等な条件でやれよ。それとも、負けたときの言いわけが欲しいのか?」
「よ、黄泉示さん⁉」
「……いいぜ」
慌てたようなフィアの隣で、リゲルの声の音がすっと低くなる。……好漢を装っていても。
「ハンデはなし。イーブンでやろうや」
「え、その――!」
「……」
今のは神経に触れたらしい。片手を上げたリゲルが背を向ける。中央へ歩き出そうとした俺に――。
「っ黄泉示さん」
「……」
「どうして。その――」
「……心配いらない」
動揺したフィアが詰め寄ってくる。久々に合わせた視線。
穢れのなく澄み切った翡翠の中に、不安の色しか見当たらないのを見て取って前を向く。分からなくていい。
「俺は勝つ。絶対に」
「え……」
話せることもない。理解のできていないフィアを置き去りに、風の吹く中央へ歩き出した。――向かい合い。
「――ボールは互いの真ん中」
「……」
「コイントスで手番を取った方がファーストタッチ。以降はゴールが決められた方が先番だ」
「――ああ」
迫る勝負を前にして、細則を確認する。……確かに。
俺の眼からしても、リゲルの運動能力は凄まじいものだ。百八十はあると思える身長は、俺より頭一つ分ほど高く。
手足もその分長い。全身には溢れんばかりの気力が漲り、スーツの上からでも分かるほど鍛えこまれた筋肉からは、蒸気機関のような熱気さえ立ち昇っているように感じられる。フィアが不安そうな顔をするのも。
本人が自信を持つのも道理。自棄になっているのは俺の方。
元から込みでも覆すつもりだっただろうハンデが消えた以上、勝敗は最早動かないと思っているに違いない。……事前の情報はすべて正しい。
誰が見てもそう思うだろう。判断の過程に間違いはなく――。
「……」
「――よっと」
――だが。スーツのポケットから取り出した硬貨を、リゲルがグローブのまま親指で空中へ弾き上げる。……教えてやる。
「っと。どっちだ?」
「裏」
「よっ。――悪いな、表だ」
手のひらを退けて表面を見せたリゲルが、ボールに近づく。世の中には、常識を超えた世界があるということ。
「……」
お前が絶対だと思っている自信など、いとも容易く崩れ去るのだということを。開始に備えて腰を落とす。
「――」
「す、スタートです!」
一瞬だけ過る静寂。緊張に満ちたフィアの声が上がると同時、睨み合っていた状態から、革のスニーカーのつま先が表面に触れた。
――瞬間。
――ッッ‼‼
トップスピードで踏み込む。リゲルが始めようとしたドリブルの出だし。
ボールが足から離れる瞬間を見越して、彼我の間合いを一遍に消し去る。加速した轟速をもって――‼
「っ⁉」
「あっ――⁉」
動体視力の低い相手なら消えたように見えるかもしれない本気の踏み込みで、斜めにボールを奪い去る。予想外の速度に虚を突かれたのか。
「――ッ‼」
完全に反応を遅らせたリゲル。反転するその足取りが追い縋ろうとするより先に、対面のゴール目がけて過つことなくシュートを打ち放った。――ゴールイン。
「……」
「……」
蹴り出されたボールが呆気なく境界を超える。茂みに入ったボールを目に、言葉のないような二人……。
「あ、よ、黄泉示さん一点です!」
「……」
――どうだ。
立ち尽くしているリゲルを、してやったりという気分で見遣る。俺が勝負を受けたのは決して、あとの納得だけを考えてのことではない。
――俺のこの身体能力。鍛えていなくても一般のスポーツマンに匹敵するほどの能力を保持できる、特殊な事情を踏まえてのこと。俺の生家に由来するこの特徴は……。
通常の運動能力とは違い、筋肉量などから量ろうとしても判断がつかないものだ。予測できない要素で相手の虚を突き。
勝ちを狙える判断があってこそ、ここまで敢えてリゲルの提案に乗ってきていた。……得意であると自負して臨んだはずのスポーツ勝負。
自分の土俵で先手を取られたリゲルの頭は、これで混乱一色のはず。出鼻のくじきも強襲も決まった。
あとは主導権を握ったまま俺がリゲルを叩きのめすだけ。優位は完全に――。
「へっへっへ……」
「――」
俺の側にあると。……なんだ?
「なるほどなるほど。そういうわけだったか……」
「……」
「納得だぜ。――ハンデなんて言っちまって悪かったな、黄泉示」
不敵な笑い声。一人で勝手に頷いて、気色の悪い笑みを浮かべているリゲルが俺を見る。……嬉しくて仕方がないというような表情。
「こっからはガチで行くぜ。勝負はやっぱ、こうでなくっちゃな」
「……何を今更」
滲み出る本心からの喜色に、凹んだ様子はまるでない。へらへらと笑いながらボールを拾いに行く姿に、治まっていたはずの苛立ちが再燃してくる。……いいだろう。
元よりこれで勝負は終わりではない。一度で分からないのなら、分かるまで叩きのめしてやるまでだ。力を込めた手のひらを解いて――。
「……」
ボールを挟んで再び中央に対峙する。……リゲルの運動能力の高さは分かっている。
俺が動けるのを把握した以上、相手も無理な動きはしてこないはず。始めからトップスピードで仕掛けてくるかもしれないが。
それでも有利が俺の側にあることは変わらない。パスをする相手もない一騎打ちであるのなら、とにかく引き離されなければいいだけだ。
例えボールを取らずとも、相手のシュートを妨害し続けることさえできれば先制点のある俺が勝つ。……最後まで守り切って勝ち。
「っ、スタートです!」
隙があれば追加点を奪って俺の勝ちだ。フィアの声が砂地に響き渡る。一挙一動を注意深く見つめる中で。
「――」
流石に慎重になっているのか、リゲルはすぐには動きを見せてこない。黒革のつま先で、ゆっくりとボールに足を――。
「――オラァッ‼」
「――ッ⁉」
触れる刹那。素早いステップインでボールごと左にずれたリゲルの右脚が、その場で弓なりに大きく引き絞られる。――ッなに。
――ッまさか。
「くッ‼」
この距離からゴールを狙うつもりか⁉ 一直線にゴールだけを見据えるコバルトブルーの眼光。もしやと思った一瞬、危険を覚えた身体の方が先に反応する。リゲルに合わせてステップを踏み――‼
「――へへっ」
「ッ――」
左脚を伸ばしてシュートコースを断とうとした瞬間、ボールを蹴る直前で変えられた足の向きに、大きく身体のバランスを崩された。――ッ。
――しまった。
「――ウラァッ‼」
気が付いたときにはもう遅く。シュートのフェイントで俺の重心を乱したリゲルが、蹴り出したボールを追って一気に右へ駆け抜けるように走り出す。――ッ速い。
「――ッ‼」
踏み込みからの唐突な加速。勢いの付いた疾走の速度は、先の俺のトップスピードと変わらないもの。切り返しで遅れた身体を置き去りに、スーツの足先が悠々とボールを捉え――。
「よっ! ――と」
「――」
遮るもののなくなったゴールに、余裕のサイドキックでシュートを決めた。――1対1。
「……っ」
「り、リゲルさん一点です!」
「へっへー! どうよ、見たか⁉」
傾いていた優勢がイーブンに戻る。間に合わなかった追い上げに、大きく肩で息をする。……ここまで。
ここまであっさりと、一点を返されるとは。注意はしていたにもかかわらず……。
「そう簡単に終わりにはさせねえぜ。こいつでイーブン」
「……!」
「こっからが本当の勝負だ。俺と、お前らのな」
こうまであっさりと。……そうだ。
思えばコイツの脅威は、ただ身体能力の高さにあるのではない。ゴロツキたちとの乱闘で見せていたような、立ち回りの上手さ。
ただ能力一辺倒ではなく、恐らくは喧嘩に明け暮れる中で磨かれたのだろう、駆け引きの巧みさがある。真っ向から向けられたブルーの瞳……。
「――覚悟しとけよ、黄泉示」
ぶつけ合わされていた双眸が後ろを向く。手のひらを強く握りしめながら、ボールの回収に向かった。
――
――中盤戦。
「……」
グラウンドの中央。ボールを持った状態で、構えているリゲルと睨み合う。膠着状態。
何回かの交錯を繰り返した結果として、今の俺とリゲルには、互いの身体能力がほぼ互角であるということが分かっている。僅かでも甘い動きを披露して……。
隙を作った方がつけ込まれる。……今はまた俺の方が追い付かれた状態。
下手な動き出しはできないとはいえ、できればもう一度優位を取っておきたい。右へと見せかけて、フェイントで一気に――ッ。
――っ⁉
「おっ――とッ‼」
慎重にボールを蹴り出そうとした右脚が、加減を間違える。弾みで僅かに強く蹴られたボールの挙動を、リゲルは見逃さない。――ッ一気に。
「――ッ‼」
来るッ! 奪い取ろうとする突進。直感的とも言える反応で体軸を反転し、ボールの向きを入れ替えることでキープに成功する。よし――ッ!
「――甘えっての‼」
「ッ⁉」
内心で喝采を叫びかけた瞬間、背後から突き出てきた踵がボールをあらぬ方角へ蹴り出す。咄嗟に走り出そうとしたつま先が――!
「ッ! チッ――!」
「ウラッ‼」
地面の起伏にとられてたたらを踏む。よろめいた隙にリゲルが先んじて追いつき、突き出した爪先を交わして強烈なシュートを放った。
「――リゲルさん、一点です!」
「……っ……!」
ポスト代わりの木にぶつかったボールが、揺れる枝の下でゴールの境界線を越えていく。――更に。
「――ウラウラウラァッ‼」
「ッ‼」
全力のドリブル。ボールを長時間保持したまま、フィールドを縦横無尽に爆走するリゲルに並走する。――体力勝負。
互いの動きの読み合いで長引き始めた膠着を破るため、技術などなりふり構わない力勝負に来ている。潰れそうになる肺に必死に息を継ぐ。取れる――ッ‼
「ッウラッ‼ まだまだァッ‼」
「ッ――‼」
交錯一閃。奪い取ろうと仕掛けた俺の足先を、素早くバックした革靴が掻い潜る。これまでより一際強くボールを蹴り出したリゲルが、加速のため踏み込みつつ、勢いよく右脚を引き絞った。――ッコイツ。
「――ははッ‼‼」
この距離からシュートを決めるつもりだ。本気と見て取って身体を反転させる。足を出してコースを止めることもできるが――ッ!
「させ――るかッ‼‼」
それでは弾いた俺の方が蹴り出したボールになる。流れるボールを捉えた二対のインステップキックが、ドンピシャのタイミングで真っ向から激突した。ッ――‼
「――クッ‼」
「――チィッ‼」
――動かない。互いのインパクトが推力を打ち消し合い、挟まれたボールはそのまま。受けた衝撃に体軸がよろめき、相手のそれを見て取って、すかさずシュートを打ちに行く。二度。
「……ッ!」
三度。ボールが両側から蹴り出されるたび、張り詰めた皮の弾ける音が空気に響く。何度目かの衝突を繰り返したとき――。
「――っ」
やにわに均衡が崩れる。僅かにタイミングのずれた俺の蹴り脚。
不均衡なベクトルに弾き出されたボールをすぐさま二人して追い駆ける。――っクソッ‼
「オラオラオラァッ‼ MAXで行くぜェッッ‼‼」
――なんて速さだ‼ 歯を食いしばるほど全力を出しているのに、引き離されないようにするのが精一杯。……ッマズい。
このままでは先にボールに追いつかれる。追加の一点を決められれば、初めて点差が二点まで広がる。
ここまでなんとかギリギリの均衡を保ってきたのに、こいつから連続して追加点を奪えるとは思えない。ここを押さえなければ――‼
……っ嫌だ。
結実し始める敗北を前にして、自分の中で叫び声が木霊する。――嫌だ。
――あの日以来、俺は鍛錬をして来なかった。
父と母の結末を前にして、これからの自分の人生にもう、そんなものは必要ないのだと思ってきた。やめてしまってもいいことだと――。
――今日ここで負けたのなら、俺はなんだ?
僅かに残ったなけなしのプライドで、つまらない意地を張ろうとして。フィアとの一件にも向き合えず、助けたい誰かも助けられない。
――ッ俺は。
俺は……ッ……。
「……ッ……‼」
屈強な肉体。乱闘を支配していたときと同様に駆動する、強壮な相手の姿が映り込む。……嫌だ。
嫌だ、嫌だ。
殴り合いを楽しんでいたこんな奴に。あの絶望も知らないで戦いを楽しんでいる人間に――ッ。
「――ッ‼」
――負けて、なるものか。全力を踏み超えてギアを上げる。
筋肉が千切れるのではないか、骨が砕け散るのではないかと思うほどの力を脚に込める。この瞬間だけでいい。
心臓が破れても、直後にどうなっても構わない。絶対に――ッ‼
「――あぁッッ‼‼」
「ッ⁉」
――ッ止めるッ‼ 渾身のスライディング。
一刹那でも早くボールに届かせるという、それだけの執念。ボールだけを凝視する一念が通じたかのように、リゲルより一瞬早く、古びたスニーカーのつま先がボールに接触する。やった――‼
――っ。
衝撃。後ろから飛び込んできた、俺の脚を躱そうとしたのか。
「――」
反応する間もない一瞬の中で、軸足を刈られたリゲルが転倒する。倒れまいとする虚しい抵抗に――。
歯を食いしばって。現実とは思えない転び方で、地面を転がる。背筋の凍る嫌な音を立てて、スーツの身体がうつ伏せに倒れ伏した。……静寂。
「あ……ッ」
「……っ! おいッ⁉」
足元を離れたボールが小さく転がっていく。――っ動かない。
頭を強く打ったのか、サングラスの外れた状態のまま、身体を投げ出したリゲルは沈黙している。……しまった。
「大丈夫か⁉ おい――」
やってしまった。頭から冷や水を浴びせ掛けられたような感覚。抱いていたはずの敵意も何もかも消え去って、倒れた姿に駆け寄ろうとした――。
「――ふんぬッ‼」
「――」
瞬間。伸ばした手のひらの先で、時限式の発条仕掛けでも仕込んでいたかのようにリゲルが立ち上がる。……え?
「え……」
「――は?」
「おうらッ‼ うらうらうらッ‼」
フィアと俺、二人の呆然を置き去りにして腿を叩くと、勢いよく地面を蹴り出して走り出す。半端な位置で止まっていたボールに追いつき――。
「ウラァッ‼」
「――」
右足でシュートを放った。……蹴り飛ばされたボールが、てんてんとゴールを超える。
「よぅし! やったぜ!」
「……」
「いいシュートじゃねえの、こんにゃろめ! ……フィアッ!」
「は、はいっ」
名前を呼ばれたフィアがビクリとする。言われて初めてそちらの方に気が付いたように。
「り、リゲルさん一点です! その……っ」
「……! おい――っ!」
「――ペッペッ。なんだよ、黄泉示」
言葉を切ったフィア。砂を吐いて鬱陶し気に視線を寄こしたリゲルが、頬についた汚れをごしごしと拭い落とす。何でもないと言うような――。
「泣き言なら聞かねえぜ。こいつで二点差。どうなるか――」
「ッ、そういうことじゃない」
その姿を見返す。平然と立っているようなリゲル。
「……お前、今の」
「ああ?」
だがよくよく見れば、僅かに右足を庇っているようにも感じられる。問い質そうとした俺に、知らん顔のまま舌を打ってくる。
「なに騒いでんだ。ただ転んだだけだろうが」
「転んだ……?」
「ちょっとしたトラブルで取り乱しやがって。なんともねえっての、こんくらい」
「っ、いや――!」
――違う。
「――ガチの勝負やってんだ」
さっきの転倒の仕方は、決してそんな程度のものでは。追及を続けようとした俺を見ないまま、ブルーの視線を遠くに固定して、リゲルがぶっきらぼうに言い放った。
「事故くらいあんだろ。お互い、全力でぶつかってんだからよ」
「……!」
「――続けんぞ」
余りに決然とした物言いに、二の句が継げなくなる。横目で俺を見遣ったリゲルが、ボールを取ってこいと言うように顎を押し上げた。
「お前が負けたら関わり合いになってもらうって約束、忘れんなよ」
「っ、言われなくとも……!」
――
―
――そして。
「……っ」
――チャンス。スペースに零れ出たボールを先んじて捉える。背後に迫る足音を聞きつつ――ッ。
「っ。――」
「――っどーした、黄泉示」
放ったシュート。渾身の力を込めたはずのボールは勢いのないまま、ぼてぼてと地面を転がって、逆風に吹かれてゴールの遥か前方で静止する。……後ろから飛ばされて来る野次。
「入ってねえぞ。ばててんじゃねえのか? っヘナチョコがよ」
「ッ、お前こそ、動きがガタガタ……だっ」
追い抜きざまに汗まみれの面でニヤリと笑っていった、リゲルを追いかける。よたよたとボールに追いついて、もたもたとした仕草で奪い合う。気力だけが先行して、どちらも相手を抜けないまま……。
「そ、そこまでですっ!」
「――」
シュートを打とうとしてパスを出し合っているようになっていた戦線に、ジャッジの声が響き渡った。――タイムアウト。
「――うっ」
「ぷふぁ~っ‼」
三十分に及ぶ戦いが終わった。解放感と共に圧し掛かってくる疲労に、どちらからともなく地面に仰向けに倒れ込む形になる。……沈黙。
「……っ……」
「……まあ? 結構、やるじゃねえか」
全身の力が抜け落ちた気持ちがする。見上げた高い空を、数羽の鳥たちが飛んでいく。……リゲル。
「見た目陰気なくせして、パワーも体力もありやがる。ここまでとは思ってなかったぜ」
「……そっちこそ」
答えないわけにはいかない。眼を開けているのも億劫な意識の中で、声を絞り出す。
「途中で怪我しながら、よくやれたな」
「ああ? 怪我なんてしてねえっての。……っ」
掛け合う声は呼吸が切れていて、貶す響きにも互いに迫力がない。この期に及んでまだ繕う姿勢を見せた、リゲルが大きく息を吐く。再びの沈黙の合間に――。
「……」
「……もう、動けねえな」
「……ああ」
澄んだ空気が、闘志に熱された身体を優しく冷やしていく。泥のような困憊感の中に、どこか心地のいい平静がある。
「久々にんな動いた気がするぜ。つまらねえ喧嘩とは違ってよ」
「……つまらないなら喧嘩を売るなよ」
「うっせえな。色々と事情があんだよ、こっちにも」
互いの吐き出す息に紛れて、そよぐ風の音が聞こえている。細砂を踏む軽い足音――。
「……大丈夫ですか? 二人とも……」
「――」
「――おうよ」
視界に映り込む清楚なローファーと、白いワンピースの裾。近づいてきたフィアが、恐る恐るといった様子で俺たちを覗き込む。
「ピンピンしてるぜ。そっちの軟弱野郎とは違ってな」
「全然大丈夫だ。そっちの怪我人と違って、まだまだいける」
「そ、そうですか」
「……で」
風になびく白銀の髪。翡翠色の瞳を前に無意味に強がって、二人して視線を向けた。
「どっちの勝ちだったよ、カタスト」
「――え」
――そう。
「遠慮はしなくていいぜ。俺が勝ってるか、黄泉示が勝ってるか、はっきり言ってくれりゃあいい」
「ああ。……正直に言ってくれ」
「え、ええと……」
経緯はどうあれ、これは勝負だ。……途中から点数など忘れてしまっていた。
息つく暇もない接戦の最中に、そんなことを考える余裕はなかったとも言えるが。俺たちの眼差しを受けて、フィアが思い出すようにする。幾つか指折り数える仕草を見せたのち――。
「……す、済みません。忘れちゃいました……」
「――」
「――はぁっ⁉」
思いもしなかった、予想外の台詞を言ってくれた。っ――。
「っマジかよ⁉ え、ガチで覚えてねえのか⁉」
「す、済みません! 三十ちょっとくらいのところまでは覚えてたんですけど……っ」
「うぉ~っ⁉ なんだそりゃあっ‼」
「……まあ」
リゲルの上げた叫びに、遠くの木から鳥たちが飛び立っていく。……無理もない。
「長い上に泥試合だったからな。忘れてても仕方ない……」
「済みません……」
「いやまあ、忘れちまったもんはしょうがねえけどよ……」
冷静に考えてみれば、勝負と言っても素人二人がボールを蹴り合っていただけ。当事者にとってはどれだけ熾烈な戦いだったとしても、見ているだけのフィアからすれば、大層退屈な時間だったのだろう。……責める気にもなれない。
「……仕切り直しだな」
審判を任せた以上、結果を受け入れるだけだ。ぱったりと声を切っていたリゲルが、腕を衝いて上体を起こす。
「また改めて勝負ってことで。ジャッジのミスなんだったら、それくらいは許してくれんだろ?」
「か、重ね重ね申し訳……」
「いいっていいって。次はもうちょい考えてやろうぜ。またこんな調子じゃ、何回やっても決着がつきそうにねえ」
「……いや」
遅れないように俺も起き上がる。服についている砂を払うのも脇に置き。
タフに笑んでみせるリゲルの眼を向いて。平謝りのようになっているフィアに、心の中で頭を下げた。
「必要ない。――俺の負けだ、リゲル」




