第七話 ユーアーマイフレンド
――翌日。
「……」
窓から陽の光の差し込む二限目。クラス講義の始まりを待つ中で、俺は教室後方の座席に腰掛けている。隣にはフィア。
筆記具とノートを用意し、姿勢を正して座っている。並びだけ見ればいつもの通り。何ら変わりのないように見える風景だが。
実際は違う。硬い表情で視線を落とすフィアの唇は結ばれていて、長い白銀の髪が互いを隔てる簾のように真っすぐ垂れ落ちている。変わらぬ距離があることを確認して、胸のうちで小さく息を吐いた。
――昨日。
「……」
リゲルの一件を経て家に帰った俺とフィアは結局、一言も言葉を交わすことはなかった。互いの間に蟠りが残っていて。
話そうにも切っ掛けは掴めなかった。予定していたスーパーには寄らず、勉強と料理指導は先送りにして、視線を合わすことさえないまま眠りについた。――夜が明けて。
〝……おはようございます〟
〝……ああ〟
「……」
朝になれば夢になっているなどということはなく、ぎこちなさは昨日のまま。言葉少なにルーティーンを終えると、気まずさを間に挟んだまま登校してきたのだ。……隣に座るフィアとの距離が。
いつもより開いている気がする。開かれたノート。
講義の中身が几帳面な字で綴られたページが、いつもより遠い。ささくれだった感情が心中を過り、そのことを自覚してまた意識が漣のように揺れていく。……らしくない。
あの一件以来、少なくとも高校に入ってからは、こんな感情になることはなかったはずだ。……謝ればそれで済む。
主張自体は正しいとはいえ、声を荒らげてしまったのはやり過ぎな節もある。心を決めて、適当なタイミングで言ってしまえば。
「……」
……だが。
あのときのことを思い返すと、未だにざわつく情念が蘇ってくる。走り出したフィア。
振り向かずに向けられた背。他のどんな危険性よりも、ただ誰かを助けるためだけに走った。
光の筋のような細い白銀の髪の毛をはためかせて遠ざかる背中が、まるで――。
……。
隣に気付かれないよう、微かに頭を振る。……考えすぎだ。
あのときのフィアの行為は、軽率で、無謀だった。俺がフィアに言ったことは。
間違っていない。胸の奥に溜まる感情を無視するように、無理やり思考の方角を変える。……あいつはいつも通り遅刻か。
教室中央に開けられた空席。乱闘に明け暮れるマフィア関係者、リゲル・G・ガウスの席は、通算三度目となる講義のうちでも、定位置として固定されつつあった。いたずらに混乱を生むことになると分かっているのか。
本人も敢えて別の席に座るようなことはせず、二回の講義を中央でふて寝することで浪費している。……そこまでやる気のない態度を貫くなら。
いっそのこと出て来なければいいものを。講義を受けるつもりもないのに、なぜ学園に通ってなどいるのか。八つ当たりのように浮かんでくる思考を、小さく息を吐いて紛れさせる。考えるのはよそう。
クラスの開始時刻までは二、三分。いつも通りに講義が始まってくれれば、きっと――。
――瞬間。
「――」
ドアの開く音が教室内に響き渡る。対照的に静まった辺りの会話。
大きく開け放たれた扉の前に、馴染みのスーツ姿をした男が佇んでいる。頬には大き目のバンドエイドが当てられ。
額や顎には絆創膏が何枚も。同じデザインの別服に取り換えたのか、手袋や衣服に乱闘の形跡は見られない。リゲル・G・ガウス――。
――おかしい。
あからさまな異変に、教室中の動揺する空気が伝わってくる。なぜこの時間帯にここにいる?
いつもならリゲルが教室に入るのは、講義が始まって二十分を超えたタイミングだったはず。ざわめく予感が不吉な警鐘のように胸を波立たせる。事態の意味を直感が導き出すより先に、サングラスの眼が教室を見回し――。
「――よーうっ‼」
俺たちの方を向いた瞬間、レンズの奥の瞳がにっかりと円を描く。傷だらけの口角と、光沢のないグローブの手。
持ち上がったそれらが、溌溂とした一声を響かせる。誰に向けられているのかを理解するより早く、緩やかなスロープを上がり切ったリゲルが。
「黄泉示! フィア! 元気してるか?」
「――」
俺とフィアに向けて、朗らかに挨拶してきた。……。
――は?
「え……?」
「よっこいせっと。――昨日は大変だったよなぁ! お互い」
ペンを手にしたフィアが呆けている。俺たちの周囲から、波のように学生たちが引いていく。文具を纏めて慌ただしく移動する女学生を尻目に。
「まだ身体中が痛えぜ。お陰様で夜にはぐっすりだったけどな!」
「……ええと……」
「二人はどうだったよ。あのあと帰ってから、どっか行ったりしたのか?」
黒鞄を手にしたリゲルが前の席にどっかりと腰を下ろす。避難を完了した学生たち。
二席を空けた向こう岸から、信じられないものを見るような瞳が俺たちを射抜いていく。――ッ待て。
「いえ。私と黄泉示さんはその……別に」
「だよなぁ! あんな一件があったんじゃ、せっかくの休日でもはしゃぐ気分じゃなくなるってもんだぜ」
説明して欲しいのはこっちの方だ。机に鞄を放り出して、物凄く気安げに話しかけてくるリゲル。……どういうことだ。
明らかな異常事態。やれやれと言わんげに肩を竦めて大きく首を振る動きは、格好も相俟ってかなり鬱陶しい。……なんなんだ、このテンションは。
「いい迷惑だっての。――どうした黄泉示! やけに元気ねえじゃねえか」
「……」
「疲れが溜まってんのか? 無理もねえけどよっ」
時折不自然に弾むような語尾は、まるで十年来の友人にでも接しているかのよう。俺の知らないところで、いつの間にか見えない絆が結ばれでもしたかのようだ。――冗談じゃない。
「そんなんじゃ、隣の連れが心配するぜ。なあフィア!」
「え……」
昨日の一件は期せずして関わり合いになっただけ。俺からすれば、不本意なのもいいところだ。やけに上手いウィンクの洗礼を躱して、無視するという戦略に出るが――。
「あ……その、今日は早いんですね。いつもより」
「まあな。三週目にして心を入れ替えた、ってかよ」
話を振られたフィアが、正直に答えてしまう。――ッそうだ。
「いつまでも不真面目じゃいけねえって思ってな。一年ほど遅れちまったが、ここから取り返してくぜ!」
「――おはようございます、皆さん。――⁉ ⁉」
フィアは基本的に生がつくほど真面目な性格。いきなりの親友面とはいえ、相手を無視するなどという選択肢は持ち合わせていないのだ。舌打ちしたくなる気分の中で講師が入ってくる。親しげに弁を振るうリゲルの姿に、びん底眼鏡を二回ほど上げて瞬きして。
「え、え~。では、今週のクラス講義を」
「でよ! 傑作なんだよ。それでな――」
俺たちを置き去りにしたまま、そそくさと始まる講義。見て見ぬふりを決め込む学生たちが、一目散にノートやPCに向かう。乱れぬ連携を披露する教室内で――。
絶望的な気分を味わう、俺たち二人だけが取り残されていた。――。
……
…
――放課後。
「――ふぅ」
「ふぅ……」
帰宅した俺とフィア。靴を脱いでリビングまで来たところで、どちらからともなく息を吐き出す。思い浮かべていることは恐らく同じ。
「……疲れましたね」
「疲れたな……」
二人して感想を体内から零す。今日という日は、正しく災厄と呼ぶべき一日だった。
〝ようやく講義も終わったぜ!〟
二限目の終わり。クラス講義の間中俺たちと一方的なお喋りをしていたリゲルは、教室を抜けたあとも付き纏ってきた。話に曰く。
仮決め期間中ということで、選択講義を変更したらしく、たまたま俺たちと被る講義が多くなったのらしい。三限目もそのままの勢いで講義に突入し――。
〝よかったら、一緒に昼飯食わねえか?〟
〝――え〟
〝お勧めの食堂があんだよ。穴場になってるとこで――〟
昼休みまで同じテンションでぶつかってくる。此方に選択権を残しているように見せかけて、決定事項のように事を進めていく強引さ。
〝美味いだろ⁉ 一日十食限定、スタミナ丼定食‼〟
〝は、はい……〟
流されまいとする間もなくペースに巻き込まれていく。途中で一限だけ姿を見ない時間があったのが、救いといえば救いだったが。
〝んじゃ、また明日な!〟
「――っ」
帰り際。正門を出たところで叫んでいた台詞を思い返して、背筋に震えが走る。……まさかとは思うが。
「……明日もずっとこんな感じ、なんでしょうか」
「……いや、流石にそれは……」
散々だった記憶がフラッシュバックする。答えたくないという沈黙が、俺とフィアの間に過ぎり。
「……それより」
「……はい」
「復習をしよう。忘れないうちに、講義の内容を」
「そう、ですね」
曖昧な笑みを向ける。
「大事ですから、復習」
「そうだ。復習は大事」
壊れたロボットのように繰り返して、白々しく鞄からノートと筆記具を用意する。……間にあるぎこちなさが消えたわけではない。
「……ここは、こうなる。つまり」
「はい。……ええと、だとすると、こっちの方は――」
だとしても、あいつの相手をしているよりよっぽどマシだ。顔を突き合わせて勉強に集中していくうち、少しは冷静な思考が戻ってくる。……そうだ。
今日のリゲルは明らかに、何かしらの目的をもって俺たちに接していた。ほぼ全ての講義が被るなど、意図的でなければまずあり得ない。
狙いの詳細は不明確だが、なぜかこちらと親し気な関係を築こうとしているようなのは明白。であるならば。
「ここのところは――」
――無理だと、分からせればいい。
あいつとて、連日あんなことを続けるほど暇ではないはず。こちらに応える気がないと分かれば、自然と離れていく。
フィアが返事くらいは返すかもしれないが、数日もすれば諦めるだろう。希望的観測に伴ってペンが進む。それからはいつも通り。
いつも通りの毎日が続く――。
「……」
――そんな希望に満ちた予測をしていたのが、十日ほど前のこと。
「おっ、今日はスープパスタにしたのかよ!」
「は、はい」
昼休憩の時間。屋上の青々とした木陰のベンチに座る俺たちの前には、相変わらず黒スーツのサングラスがいる。――リゲル・G・ガウス。
「小食だよなぁ。俺なんか、デカ目のサンドでも六つは食わねえと、夕飯までに腹が鳴り出しちまうってのに」
「あはは……」
友情の押し売りのようなやり取りは、この十日間、たまにある合間と休日を除いて、ほぼ隈なく続いていた。いい音を立てて腹を叩く仕草に、力ないフィアの愛想笑いが吸い込まれていく。なんと言うか……。
――めげない。
その一語に尽きる。俺はもちろんフィアとしても、親し気な返事を返しているわけではない。
俺の方は殆んど無視か、たまにあっても相槌程度の反応しかしていないし、フィアの返答は丁寧ではあるが、いかんともし難い距離の遠さが滲んでいる。脈なしだとは気付くだろうに。
リゲルのテンションは初日から、一向に衰えることがない。……恐ろしくタフな精神の持ち主だ。
そういえばバンドエイドを貼っていたとはいえ、例の一件の翌日にはもう登校してきていた。二十人以上と乱闘を繰り広げ、鉄パイプや拳でサンドバッグにされたというのに、あれだけピンピンしていたのは明らかにおかしい。凄まじいタフネスの持ち主……。
「だろ? 全くおかしいってもんだよなぁ!」
既に包帯も取れている面を見て、思う。――駄目だ。
このままではこの関係は断ち切れない。リゲルから離れるという展開は期待できない。
何が目的かは分からないが、こいつのペースでズルズルと引っ張られてしまうだけ。折れるまで粘られることになりかねず。
「――リゲル」
「お? どしたよ、黄泉示」
「はっきり言うんだが――」
――言うしかない。
きな臭い事情を抱えた人間が相手である以上、できるだけ事を荒立てることはしたくなかったが。……このままこんな毎日を続けていれば、こっちの身の方が持たない。
「っ、黄泉示さ」
「こんな調子で絡んで来られると、迷惑なんだ」
「――」
「あのときのことは別に、そっちを助けようとしたわけじゃない」
フィアの制止。――止めるつもりはない。
「捕まってる子どもを助けようとして、たまたまそれがそっちのためにもなったってことだ」
「……」
「こんな風にされるほど親しくなったつもりもない。だから――」
耳にしたリゲルの眉が、ピクリと動く。誤解のしようもないほどキッパリと――。
「構わないでくれないか。俺たちに」
――完璧に言い切った。髭を生やしたサングラスの表情との間に、沈黙が過る。……三秒。
「……なるほどな」
たっぷり五秒以上の沈黙を挟んだのち、リゲルがベンチをきしませるほど大きく椅子の背にもたれかかる。右手のひらを上にして。
「確認なんだが、そいつはフィアも同じ意見ってことでいいのか?」
「……はい」
片手を後頭部に当てたまま訊いてくる。一瞬だけ迷うような素振りを見せたフィアが、躊躇いながらも俺と同じように頷く。……よし。
これで――。
「――よし、分かった!」
二人分の明確な答えを受けたリゲルが、大きく頷いて一気に身を乗り出す。――一件落着だ。
ここまではっきりと言ってしまえば、向こうとしても無理を押し通す利点がなくなってしまう。これで終わりだと。
「――俺と勝負しろ、黄泉示」
「……は?」
安堵しかけた意識に、意味不明な文言が届いてきた。……なんだ?
「――え?」
「お前が勝ったら、望み通りお前らには関わらねえ。被っちまった講義も変える」
聞き間違いか? 思わず瞬いた俺に対し、サングラスの奥のブルーの瞳が逃さないかのように向けられてくる。ただし、と勿体をつけて。
「俺が勝ったら、難儀だろうが、今学期中だけは付き合ってもらう。勿論無理に態度を変える必要はねえけどな」
「――っ」
「――なにを」
急速に回る思考。冷えた意識で言われたことを反芻する。……無茶苦茶だ。
「意味がないだろ、そんなの。こっちが嫌だって言ってるんだ」
「そいつは分からねえ話だろ。案外途中で心変わりってこともあるかもしれねえし」
当然ともいえる俺の反論に、リゲルはしれっと惚けた顔で嘯いて見せる。こいつ――ッ。
「この条件なら飲んでもいいぜ。どうする?」
「……っ」
……ふざけた話だ。
筋が通っているところは一つもなく、条件からして身勝手極まる。どう考えても受け入れる道理などない。
ふざけるなといって突き返したいところだが……。
……。
……コイツがかなり強引な性格であることは、身に染みて分かっている。
正論を拠り所に突っぱねたとしても、コイツ自身は絡むのを諦めないかもしれない。相手の提案に乗るなら、向こうから言い出したこととして言質を取れる。
あとの治まりの良さまで考えれば――。
「……」
「……フィアはどうするんだ」
「カタストとは勝負しねえよ。怪我させちまってもあれだし、黄泉示が代表としてやってくれりゃあいい。その方がいいだろ?」
「け、怪我って」
不吉な予感を覚えたようにフィアが声を上げる。……なるほど。
「っその、危ないことをするなら――」
「――分かった」
そういうことか。勝気なリゲルの表情。
「黄泉示さん――ッ」
「ただし、中身は事前に聞かせてもらう。フェアだと納得できれば受けてやる」
「そいつはもっともな話だな」
驚いたようなフィア。ある程度の内容を予想している俺に、挑戦的な視線をリゲルが差し向けてきた。
「放課後付き合えよ。勝負のフィールドに、案内してやるぜ」




