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彼方を見る者たちへ  作者: 二立三析
第二章 学園での出会い
23/153

第五話 青い嵐



 ――それから。

「えっと、黄泉示さん、包丁を使ってみたことは?」

「中学の調理実習くらいだな。そのときも、ジャガイモの皮むきくらいしかやってなかったんだが」

「なるほど……。――じゃあまずは、使い方に慣れるところから始めてみましょうか」

 フィアに付き添ってもらいつつ、指導を受け――。

「……あ」

「だ、大丈夫ですよ。そのくらいならまだ……」

 まな板に細切れに積み重なるリンゴの皮。幾つものジャガイモが、芽だけでなく皮ごと身をこそげ落とされていく。

「円を描くような感じで、ゆっくり動かしてみましょう。こんな感じで……」

「……よっ、と」

「そう、その調子です」

 隣で手本を示してくれるフィアに従って、動きを身に着けていく。夕飯のメニューが三日連続でカレーになったりと、アクシデントはあったが……。

「――合格です」

「……そうか?」

「はい、一応。上達はしてきてるので、何か作ってみましょうか」

 不器用なりにどうにかなるようになってきた。不揃いな乱切りにされた人参たちの隣で、笑顔を浮かべたフィアが俺を見つめてくる。表情に多少疲労が含まれている気もするが。

「簡単目のもので、試しに一品。作ってみたい料理とかあれば」

「そうだな……」

 きっと気のせいだろう。特にこれと言ったものはないが……。

「オムライス、とかかな」

「オムライス、ですか?」

「この間作ってもらったとき、凄く美味かったのが印象に残ってて」

 本心から言った台詞に、フィアが一瞬だけ瞬きする。問いかけるように彷徨わせた指先を、所在なさげに後ろ手に組み合わせた。

「……分かりました」

「……」

「きれいに包むのにはコツがいって、結構難しいんですけど。――っチャレンジしてみましょう」

「――頼む」

 そして――。

「――こっちの方も見てみるか」

「はい」

 ある日の日曜日。陽気のいい昼下がりの時間を、俺とフィアは街の散策に出てきていた。明るい人の行きかう通りを、普段着を着た彼女と並んで歩く。

「結構変わったお店がありますね……」

「四人のシェフが集まったエスニックキッチンか。どんな料理なんだろうな」

 単に散歩というだけではなく、街の開拓もかねてのこと。学園が始まってからの休日は、主に疲労の回復や勉強に当てるばかりで、外に出るのは買い物と食事のときくらいだった。

 ルーティーンが定まり始め、新しい生活に慣れが出てきたこのところ、ようやく余裕が出てきた気がする。ゆっくりと外を見て歩く時間……。

「帰りはスーパーに寄るんですか?」

「ああ。卵と、牛乳も買っておかないと」

「オムライスも、だんだん上達してきましたからね」

 柔らかな秋の日差しを受けて、俺の方を見たフィアが微笑む。親の仇のようにごちゃ混ぜになっていた卵とライスも。

「次こそきっと上手く作れますよ」

「そうかな」

「そうですよ。コツは掴んできてますから――」

 最近はどうにか互いの領分に留まることを覚えてくれている。懇切丁寧な、フィアの教え方のお陰だろう。……。

 ――不思議なものだ。

 周りとの齟齬で日本にいられず、新しい生活を探しに来たはずの俺が。いつのまにか、こんなにも安らげる時間を過ごせている。

 フィアと共にいる時間。柔らかな空気を纏うこの相手が隣にいることが、いつの間にか当たり前のことのようになっているのだ。最近の毎日を振り返ってみると……。

「……」

 なんだか、妙な錯覚に陥りそうな気がしてくる。やけに心穏やかというか。

 行く先を見つけられずに飛び続けていた中で、やっととまる枝を見つけられたかのような。広がる高い青空と雲が、太陽の光を受けて、やけに明るく輝いて見える――。

「――」

 ――つまらない勘違いだとは分かっている。

 フィアは記憶喪失。自身の素性が分かるまでだけの居候の身で、いついなくなっておかしくない相手だ。長く続くはずもない。

 小父さんから手掛かりの連絡が来ればそれで終わり。俺からしてもフィアからしても、事態が進展した方が良いのだろうことは確かで。

 ……ただ。

「~~」

「――なんて曲なんだ? それ」

「あ。……この間お店で流れてたのを、何となく覚えてただけなので……」

 歩みに従って鼻歌が零れていたのを、気恥ずかしそうに小さくフィアが笑みを零す。――それでも。

 今。何かを憂うことも厭うこともない、この瞬間だけは――。

「……なあ」

「はい?」

「フィア。その……」

 翡翠色の目が俺を見つめる。底抜けのような透明さで澄んだ瞳。

 その瞳を覗き込む度、世界が止まっている感覚がする。外で流れているのだろう時間の経過を意識して、固まっていた唇を動かした――。

「――嘗めてんのか‼ テメエ‼」

 ――瞬間。

「――ッ」

「無視しやがって。格上気取りのつもりかァ⁉」

「まあまあ、落ち着けよお前ら」

 粗暴な叫びが世界を烈断する。弾かれたように声の方角を向いた俺たち。……幾分狭くなった通り。

「退け退け‼ 見せもんじゃねえぞ‼」

 往来を塞ぐようにたむろした男たちが、周囲の通行人を散らすように押し退けている。――何の騒ぎだ?

「ガキ相手に熱くなるもんじゃねえ。――やっと会えたなぁ。リゲルさんよ」

 穏やかな昼下がりの陽気とは余りにもそぐわない、二十人以上はいると見えるゴロツキの集団。剣呑な気配に足早に立ち去っていく人々を尻目に、ガラの悪い一団の中から、一人の男が歩み出てきた。

「空気の読めねえ邪魔どもも消えた。改めて、挨拶と行くか」

 ――葉巻にテンガロンハットをつけた出で立ち。

 グレーのジャケットの袖を外し、ベージュのベストを着込んだ初老の男は、到底堅気には見えない。漂っている雰囲気の通り……。

 ヤクザの親玉か、ヒットマンと言った感じだ。老いてなお鋭い眼光の先にいるのは。

「――っ」

 ――光を通さないサングラス。

 ワックスで固められたオールバック。艶のないダークスーツに身を包み、非光沢のレザーグローブを嵌めた手をポケットに突っ込んでいる人物がいる。――間違いない。

「あの人……⁉」

「まったく苦労したぜ。人を集めようにも、根無し草となっちゃあ簡単にはいかねえ」

「……」

「どこへ行っても親父さんの硬い警護。部下の連中がコバンザメみたいにくっついてやがる。――だが、ようやくそのガードが外れた」

 クラス講義で周りの連中から遠巻きにされていた、あの学生だ。テンガロンハットの男が言葉を切る。葉巻を口から外し、悪意のこもった眼差しで相手をねめつけた。

「ルートのトラブルで親亀が海外に飛んで、打ってつけのチャンス到来ってわけだ。なあ、リゲルさん」

「……」

「その辺りのチンピラじゃあ、どいつもこいつも親父さんの威光にビビっちまうみたいだが、俺たちは違う。――先日もゴロツキとやり合ったんだったって?」

 ……リゲル。

「元気なことだ。若いうちは好きなだけ羽を伸ばすのがいい。その身軽さを発揮して、ちょいと着いてきてくれるとありがたいんだがね」

「テメエら……」

 それがあいつの名前か。話の流れから察するに、あいつも連中と同類。

 堅気でない組織の関係者であるらしい。貫禄ある皺の刻まれた面の下で煙をくゆらせる男に対し、無言だったリゲルが口を開いた。

「――誰だ? 一体」

「……」

 ……。

 …。

「……え」

「……誰だ、だと?」

「いや、さっきから思い出そうとしてんだが。てんで心当たりがねえんだよなぁ」

 隣のフィアから声が零れる。耳を疑って訊き返したような男に、ポケットから片手を抜き出したリゲルは、緊張感のない様子でガリガリと頭の後ろを掻いている。……。

「どっかの乱闘で凹された口か? それなら悪いが、勘弁――」

「ッテメエのオヤジに潰された、カッサンドラファミリーだ‼」

 ……正気か?

 これだけの人数、これだけの不穏な空気を前に、あんな態度で。彼我の温度差に耐え切れなくなったように、集団のうちにいたゴロツキの一人が、噛みつくよな眼つきで叫びを上げる。……無理もない。

「ふざけやがって。ガキだからって()めてると――!」

「――知らねえつってんだろ」

 どんな事情にしろ、あのおちょくるような返しでは。――ッ‼

「っ‼」

「――ッ⁉」

「――黙って聞いてりゃ、俺じゃなく親父の客じゃねえか」

 ――一瞬。

 大気の温度が変わったかのように、背筋に震えが走る。血気に逸る形相で詰め寄ろうとしたはずのゴロツキが、反射的に足を止めている。……なんだ。

「ならとっとと親父を追いかけに行けよ。タクシーでも呼んで、ぶっ飛ばせば間に合うかもしれないぜ?」

「……!」

「……分かってねえな、ガキ」

 今の気迫は。遠目で見ているだけの俺たちにも、はっきりと感じられた。

「こいつは復讐なんだよ。ただの報復じゃあ面白くねえ」

「……」

「野郎の大事なもんを、片っ端から踏み潰してやる。テメエを人質にして――」

「人質?」

 男たちが挑発してもどこ吹く風という様子だったリゲルの空気が、あの瞬間だけ別物のように変化したことが。唯一たじろがずに言葉を紡いでいるリーダー格の男の台詞を聞いた、リゲルの表情からふっと力が抜けた。

「あの親父が、ガキ一人盾に取ったくらいで何とかなる相手だと思ってんのか?」

「――っ」

「笑わせてくれるぜ。んな夢見がちな判断で動いてるとか、親父に潰されなくても、どうせとっとと潰れてたんだろうな」

「……言ってくれるじゃねえか」

 ――煽っている。

 隠す気もない呆れの口ぶりに、テンガロンハットの男が憎々し気に口元を押し上げる。怒気のこもった厳めしい眼光が、内に秘める炎の大きさを一段増したようにぎらつきを放つ。

「親父の威光を笠に来たガキが。――なんだっけか」

「――あ?」

「『クレイジー・ウルフ』のリーダーだったんだって? お前」

「――っ」

 その怒りをぶつけると思いきや、口調を変えて話し続ける男。――なんだ?

「若い連中が集まって威勢がいいかと思えば、あっというまにおじゃんだ」

「……ッ!」

「儚いもんだなぁ。――どうだったよ?」

 その話を皮切りに、遠目から見ていてもはっきりと分かるほどリゲルの表情が変化した気がする。予想通りの反応を得られたと言うように、男の口から満足げに煙が吐かれる。

「自分のミスで自分たちの組織が潰れる感覚は。いい教訓になったんじゃねえか?」

「……」

「パパに守られてるお坊ちゃんにはな。親父がどれだけやり手だろうと、テメエ自身はただのガキだ」

 あからさまな見下しを含んだ台詞。含み笑いに、背後のゴロツキたちから忍び笑いが起きる。リゲルの表情は固まっている。

 言い返すことはしない。サングラスの奥の瞳も見せないまま、黒革に包まれた拳を――。

「世間知らずのお子様が、大人にどうこう言うもんじゃねえ。分かったんなら」

「――黙れよ(・・・)

 握った。――……ッ‼

「グッ⁉」

「な――⁉」

 ――っ速い(・・)

「……え?」

 目を見張るほどの瞬発力。四メートルは離れていたはずのリゲルと男との間合いが、瞬きするほどの時間で消失している。遅れて声を出したフィア。

「ぼ、ボス⁉」

「頭数集めてやりに来たと思えば、講釈をペチャクチャ垂れやがって」

「……ッ‼」

「油売りに来たジジイじゃあるまいし。その話がテメエらに関係あんのか?」

 慌てだす背後の集団。首元を捻じり上げられたリーダーの男が、声も出せずに足をばたつかせている。……変わった。

「親父の件でぼこりに来たってんなら、相手してやる。――ガキ一人に寄ってたかって来るような連中だ」

「――うッ!」

「ぶちのめしても大した肥やしにゃならねえかもしれねえけどな。憂さ晴らしの運動と思って、付き合ってやるよ」

 拳を握り締めた瞬間、リゲルの纏う雰囲気が明らかに。口元から葉巻を落とした男を群れの中に放り投げ、両拳を上げたスーツが構えを取る。――ファイティングポーズ。

「ほら来いよ。立てるまで待っててやるぜ?」

「……ッ! 嘗めくさりやがって」

 両腕を顔の高さまで上げた構えは、紛うことなきボクシングのスタイルだ。酸欠に赤らんだ顔から低く唸り声を発した男が、帽子を押さえた額にミミズのような青筋を浮かばせた。

「――やれッッ‼ レイルの野郎に、目にもの見せてやれッ‼」

「おおッッ‼」

 怒号の号令を受けて、ゴロツキたちが一斉にリゲルへ飛び掛かる。始まった乱闘。

「あっ――!」

「……行こう」

 人通りを排された閑静な通りが、たちまち怒号と悲鳴の飛び交う喧騒に包まれる。転げまわる音。

「ああいうのに関わると面倒だ。避けて通るに限る」

「えっ、で、でも」

「なんだ?」

「リゲルさんが。このままじゃ……」

「……心配いらない」

 不規則に響いてくる打撃音。立ち止まってフィアに視線を合わせる。本気の心配と見て取って、今一度騒ぎの方に目を遣った。

「どうせ大した怪我はしない。――ほら」

「――」

「――ぐふぅァッ⁉」

 促されたフィアが振り返った瞬間、背中を曲げて回転するゴロツキの一人が、唾を吐きながら街路の壁に激突して動きを止める。目を見張るフィア。

「オラオラッ‼ どうしたどうしたァッ⁉」

「ウッッ‼」

「ゴフッ‼」

 続けざまに二人。殴り倒されたあとからすぐさま別のゴロツキが襲い掛かるが、迎え撃つリゲルは余裕の表情で構えを保っている。――掠り傷さえない。

「ガハァッ⁉」

「くっ! こ、このッ‼」

「――遅えってんだ」

 二十数対一。数の上では圧倒的不利にもかかわらず、リゲルの動きは完全にそれを覆せる領域にあった。――街路を発火させるような俊足のステップワーク。

 四方八方から繰り出される拳と蹴りをしなりのある上半身がいなし、唸りを上げるグローブの剛腕が、回避と同時にゴロツキたちの急所を重々しい衝撃を立てて打ち抜いていく。――顔面。

「クソッ!」

「囲めぇッ‼」

「グファ……ッ!」

 (ボディー)、脇腹、鳩尾(みぞおち)。狙い澄ました一撃一撃で確実に相手を殴り倒し、敵の身体や陰を利用して有利を取る立ち回り。――戦い慣れている。

「……ッ……‼」

 明らかに。背後からの攻撃を見ないまま躱したリゲルが、裏拳で流れるようにゴロツキの身体を吹き飛ばす。男たちの側も荒事に心得のある人間のようだが――。

 練度の差が圧倒的だ。標的の戦いぶりに狼狽えた何人かが棒や鉄パイプ(得物)を取り出しているものの、味方の数が多すぎて振り回す機会を見つけられていない。一方的な戦況に……。

「あれなら大丈夫だろ」

「……っ」

「大事にはならない。――行こう」

 怒気を昇らせるリーダー格の男でさえ、目をむいて硬直している。暴力の現場を見て固まっているフィアの、返事を聞かずに歩き出す。……本当に。

 ――どうでもいいことだ。リゲル(あいつ)がどうなろうが。

 ゴロツキたちが叩きのめされようが、その逆になろうが、俺には全く関係のない話。会話を聞く限り、恐らくは双方ともマフィア(・・・・)の関係者。

 教室で避けられていたのも、今なら自然と納得がいく。昼間から下らない暴力に精を出す連中と、関わり合いになりたいと思う方が珍しいだろう。近づかないのが最良の選択で。

「話にならねえなぁ‼ テメエらぁッ‼」

「――ッ」

「ガキ一人どうにかできねえんじゃよっ‼ 親父が帰って来ねえうちに、とっとと逃げちまった方がいいぜ‼」

「……」

 それに。……楽しんでいる。

 離れていてなお、鼓膜を震わせてくる高揚の声。絡んできたのは男たちの方だが、火種を煽ったのはあいつの側。

 自分から問題を大きくし、暴力を楽しむ相手に関わるなど、時間と労力の無駄でしかない。足取りの不確かなフィアが、迷いながらも着いてくる気配がする。早急にその場を離れようとして――。

「――待ちやがれッ‼」

 空気を断ち切るような叫びに、つい、足が止まった。振り返った先。

「動くんじゃねえッ、リゲル‼ 止まらねえとどうなるか‼」

「あっ――‼」

「……⁉」

 (わめ)くように叫びを上げているのは、テンガロンハットを被ったあの男。皴のよったシャツの腕の中にいるものに、思わず目を見張る。――まさか。

「このガキが見えるか⁉ 真新しい死体を作りたくなかったら、大人しくしてろ‼」

「……っ」

 ――子ども(・・・)

 命綱と言うようにガッチリと抱え込む男の腕に、一人の少年が捕まっている。どこかに隠れでもしていたのか。

 年のころは小学生程度。蒼白になった小さな顔面の下、前腕で押さえ込まれた華奢な首筋には、鈍色に光る鋭いナイフの刃が突きつけられている。っ――無茶苦茶だ。

 脈絡のない行動に、頭の中で思わず声が上がる。幾ら劣勢だったとはいえ。 

 通りすがりの人間を人質に使う? 男たちの相手は警察でも、他人の犠牲を見過ごせないヒーローでもない。

「……お前ら」

 マフィア関係者に無関係の人間を人質にして、一体何の意味があるというのか。丁度一人を殴り飛ばしたところだったらしい、拳を引いたリゲルが振り向いて男たちを見る。声も出せずに震えている少年に――。

「……ファミリーの復讐で来てんだろ? ちっとはプライドとかねえのかよ……ッ」

 小さく舌打ちを零して、ゆっくり腕を下ろした。……静寂。

「……へっ」

 通りの中心で棒立ちになったリゲルに、立ち上がったゴロツキの一人が近付いていく。頬の汚れを拭う手で仲間から鉄パイプを受け取ると、口元を大きく歪ませて振り被り――!

「オラァッ‼」

「――ッ!」

 裂帛の勢いを込めて、力任せに肩口へ振り下ろした。――鈍い音。

「あっ――!」

「いよし! やっちまえぇッ‼」

 肉の潰れる音を合図に、ここぞとばかりに男たちが殺到する。腹を蹴り上げられ、頭部を殴打され。

 歯を食いしばったリゲルは、殴られたまま動かない。サングラスを飛ばされ、額から血を流した姿が、人垣と煙のうちに見えなくなっていく……。

「よ、黄泉示さん‼」

「……」

 血相を変えたフィアが俺を見る。……言いたいことは分かっている。

 彼女の眼と表情に浮かんだ感情は、それだけ明白だ。読み違えるはずもなく――。

「――行こう」

「――え⁉」

 その訴えを無視して、歩き出した。通りの向こう。

「っま、待ってください!」

「――警察にはもう通報されてる」

 リゲルたちの騒動とは、反対側の方角へ。追い縋ってくるフィア、必死で止めようとしてくる態度に、視線で答えを返す。――男たちから死角となる位置。

 近くの家屋の二階に、乱闘の様子を覗く女性の姿が見えていた。子どもが捕まったのを一大事と判断したのか。

「親への人質にするなら殺されはしない。捕まってる子どもも、用が済めば解放されるだろ」

「っで、でも」

「――俺たちが出たところで何もできない」

 カーテンの陰に隠れながら、切迫した表情で電話を掛ける姿。既に通話は終わり、祈るような眼つきで眼下の惨状を見つめている。……どれくらいで来るのかは分からない。

 少なくとも五分、悪ければ十分以上はかかり、その間に骨の一つや二つは折られるのかもしれない。取り返しのつかないような怪我を負うかもしれず――。

「下手に動けばこっちが巻き込まれる。そうじゃないか?」

「で、でもっ」

 ――だからどうした(・・・・・・)

 自業自得だ。訴えるフィアの瞳は、俺とリンチの現場を焦るように交互に行き来している。……面倒だ。

「……喧嘩を買ったのはリゲルの側だ」

「……」

「自分で喧嘩を売り買いしたんなら、どうなろうと自業自得。違うか?」

「……でも、子どもを人質にされて……」

 ……言いたいことは分からないでもない。

 もし何事もないままなら、あの乱闘には恐らくリゲルが勝利していた。人質をとられたとしても。

 無視して殴り合いを続けていれば、リゲルが男たちをぶちのめせたのは変わらなかったはず。確実に勝つ手段があったにもかかわらず、無関係の子どもを守るために自分の身を犠牲にすることを選択した。

 自分たちのために他人を盾にした男たちより、リゲルの方がよっぽどマシな性根を持っていると言えるのかもしれない。心意気に思うところがなくはないが――。

「だとしても、どうにもならない」

 できることは何もない。あの人数を相手に出て行ったところで、殴られて終わるのが関の山。

 被害を増やし、問題を面倒にするだけだ。それに……。

 ――俺が誰かを助けるのは、本当に(・・・)助けが必要とされている場合だけだ。

 手を伸ばすことが本当に必要で、俺以外手を伸ばす人間がいない場合にだけ、仕方がなく手を伸ばすと決めた。……自分から問題を招き入れ。

 助けられない状態に陥った相手を、無理を押してまで助けようとは思わない。関われば問題が増えるだけ――。

「……っ」

 ――それでもまだどこかが引っかかっているのか。

 胸の奥に痛みを抱えるような表情で、立ち止まっているフィア。……無闇に走ろうとはしない。

 だが、見捨てて行ってしまおうともしていない。迷いの中に踏み止まっているような、翡翠色の瞳を見て取ったときに。

「――」

 ――そうか。

 心のどこかにふと、場違いな納得が落ちた気がした。……考えてみれば。

 このところの生活はどこか、おかしいような気がしていた。やむを得ない事情で少女を家に置き。

 都合のいい事情で学園に通い、勉強と料理を教え合って、穏やかな日常を過ごす。何もかも順調で、でき過ぎだ。

 昔の俺が抱いていたような、らしくもない絵空事。何もかもがふわついた安寧の中にあって――。

 ――ここから(・・・・)だ。

「……黄泉」

「――勘違いしてるのかもしれないが」

 ここからようやく始められる。新しい俺の生き方のための、第一歩。

「俺は好きで誰かを助けたわけじゃない。自分から喧嘩に走るような奴がどうなろうが、俺には全くもってどうでもいい」

「……!」

「一度誰かに助けてもらって――」

 到着したあの日に始まるはずだった、正しい一歩を、ようやく踏み出すことができる。切り付けられたようなフィアの表情に、更に言葉の刃を突き立てにいく。瞳に浮かぶ純粋さを振り払うよう――。

また俺に(・・・・)、誰かを助けて欲しいのか?」

「――っ」

 傷口を抉るつもりで出した言葉に、声にならない息をフィアが吐いた。目を見開いた表情が――。

「……」

「……行こう」

 強張ったまま固まったのち、俯くように目を逸らす。……終わりだ。

 これでもう、何か余計な期待をされることもない。フィアは俺への信頼を失う。

 俺はフィアという人間からの信頼を失う。何もかもがきっと、元に戻る。

「此処にいても仕方がない。巻き込まれれば面倒だ」

「……っ」

「早く家に帰って、今日のやることを――」

 それでいい。頑なに逸らされた顔。服の裾を握り締めて俯く姿に声を掛けたとき――。

「――ッ!」

 ――踵を返し始めていた俺の前で、フィアが、駆け出した(・・・・・)。――っ‼⁉

 余りのことに一瞬意識が空白になる。――何を。

「ッ、おいッッ‼⁉」

「――‼」

 走った、なんで。視線の先のフィアは止まらない。一度たりとも見せたことのない勢いの走りで。

「ハッハーッ‼ いいぞお前ら‼」

 叫ぶ俺の声には振り向かずに、向けた背に煌めく長い白銀を波打たせながら駆けていく。リゲルのやられざまを見て拳を突き上げる男の――‼

「足腰立たねえ程度には痛めつけてやれ! これでようやく、レイルの野郎を――‼」

「――っえいッッ‼」

「うおッ‼⁉」

 懐に飛び込んだ。叫ぶことに夢中で意識が緩んでいたのか。

 ナイフと喉の間に腕を割り込ませたフィアが、身体ごとぶつかるようにして男から少年を引き剥がす。抱き締めたまま距離を開けて。

「――お、おねえちゃ」

「っ大丈夫です。もう」

「……なんだぁ? 嬢ちゃん」

 腕の中に隠すように引き寄せる。暫しの呆気から立ち直った男の瞳が、剣呑に眉を顰めてフィアを向く。

「いきなり割って入ってきて。ダンスの相手でも探してんのか?」

「……」

「悪いがお遊びでやってるんじゃねえんだ。とっととそのガキを――」

「……私は貴方たちの間で、何があったのか知りません」

 ――っフィア。

「でも、子どもを盾に使うなんて、間違っていると思います」

「……分からねえ嬢ちゃんだ」

 睨みつけてくる瞳に面倒くさそうに息を吐いて、男が近くのゴロツキに合図する。棒を持って近づいてくる男に、フィアが子どもを抱き寄せる腕に力を込めた――!

「――ゴハッッ⁉」

「――ッ‼」

 ――瞬間。足払いを受けたゴロツキが、側頭部から地面に転倒する。鈍い衝撃の残る足刀を、舌打ちして引き戻す。――クソッ!

「なんだテメエはァッ⁉」

「新手かあッ⁉」

「――っ黄泉示さ」

「馬鹿! 逃げるぞ‼」

 やってしまった。後悔と共に状況を確認する。ゴロツキの大半はリゲルの方に行っている。

「来い! 今すぐ――ッ‼」

 行く手を塞ぐ数人の間を、全力で駆け抜ければ。叱咤しつつフィアの手から子どもを抱え上げようとした刹那――。

「――あー、あー、あー」

「……!」

 正面から上げられたその声に、全身の血が凍り付く思いがした。……視線の先。

「何の冗談だ? こいつは」

「……っ!」

「折角途中まで気分よくいってたってのに。いい年してヒーロー気取りか? お前ら……」

 視線の先、テンガロンハットを被ったリーダー格の男が、キレた眼で熱のない声を発している。懐を(まさぐ)る動き。

 灰色のベストの生地が蠢く。節くれだった指が、何かを――。

「――ッ‼」

「――カッサンドラつったら、泣く子も黙る裏家業の大御所だ」

 ――ッ()

「ドンが健在の頃は、んな下らねえ真似をする必要もなかった。テメエらみてえにふざけた茶々を入れる野郎もな」

「……ッ‼」

「頭のおかしいクソガキ二人が。折角の復讐に水を差しやがって……」

 取り出されたのは一丁の拳銃。重々しく黒光りする金属のフレーム、磨き込まれた武骨な銃身を、慣れた手つきで男がスライドさせる。憎しみのこもった眼光が。

「恨むんなら、馬鹿やったテメエらを恨めや……ッ‼」

 殺意を込めて照準を合わせてくる。……ッ駄目だ。

 この距離では躱せない。仮に避けたとしても、後ろの二人に。底なしの穴のような銃口が俺たちを睨みつける。引き絞られるトリガーの動きに、絶望的な恐怖を感じた――。

 ――刹那。

「――ガッッ‼⁉」

「――」

 俺たちの後方、リンチの現場だったはずの位置から、唐突な苦悶の声が上げられる。意識のない肉体が倒れ伏す音。

「――っ通行人にぃッ――‼」

「ッ‼ チィッ‼‼」

「手ぇ、出してんじゃ――ッ‼」

 ――ッリゲル。血と打撃痕で全身を汚しながらも、凄まじい豪速を伴ってブラックスーツが疾走してくる。俺たちの真横を大きく回り込む形で駆け抜ける姿に――‼

「クソッ――‼」

「ねえッッ‼‼」

 男の手から放たれた銃弾が、地面の石畳に火花を散らす。残像を残す稲妻のようなステップで懐へ飛び込んだリゲルから、体重と勢いを乗せた豪速のアッパーが打ち出された。ッ――‼

「――ッ、ガハッ――⁉」

 ――痛烈(・・)

 シルバーグレイの髭に覆われた顎元を打ち抜かれ。七十キロを越えるだろう男の肉体が、地上からふわりと真上に浮き上がる。一階分近くの上昇に。

「ひ――ッ⁉」

「――グッ⁉ ゴハッ‼‼」

「り、リーダーッ‼」

 二階で手を合わせていた女性が口を押さえて奥へ引っ込み。直後の落下で地面へ叩きつけられた男の手のひらから、役立たずの拳銃が転がっていく。白目をむいた姿……。

「う……っ!」

「……」

 反射的に声を出したゴロツキの一人を、リゲルの目がじろりと睨みつける。気配の圧にたじろいでいる男に向けて。

「――」

「――っ」

 顎で指示。意図を受けた相手の瞳が、息を呑んだまま、うめき声を上げる仲間たちの方へ向けられた。

「――た、退却!」

「……!」

「引き上げだ。撤退――っ!」

 仲間の上げた号令に、ゴロツキたちが反応する。仲間を担ぎ上げ、リーダー格の男に肩を貸し。

 引きずるように逃げていく。這う這うの体で去っていく集団に――。

「……」

「……ふう」

 最後まで睨みを利かせていた、リゲルが小さく息を吐く。静けさの戻った通りで肩の力を抜くと、歪んだサングラスの位置を直して振り返った。

「――災難だったな、お二人さん」

「え」

「まったく無茶しやがって。ゴロツキの喧嘩なんかに飛び込んできたら、命がいくつあっても足りねえんだぜ?」

「……いや……」

 予想以上に気さくな口調に、戸惑う。……俺たちのことを言えた状態でもないと思うが。

「ダイジョブかよ? 坊主」

「う、うん」

「危ないところだったな。この二人が助けてくれなきゃ、今頃どうなってたか分かんねえぜ」

 他意のない言葉。此方を見る少年のあどけない眼つきに、ぎこちなさが過る。……リゲルは詳しい事の経緯を見ていない。

「ありがとう、お姉さん、お兄ちゃん」

「いえ」

「オジサンも。映画みたいでかっこよかった」

「お兄さんだっての。――気をつけて帰れよ!」

「うん!」

 フィアが子どもとリゲルを助けに走ったのは事実だが、俺については違う。思いのほか平気そうな様子の子どもが駆けていく。足音が遠くなってから――。

「……ふぃーっ!」

「――っ」

「流石に堪えたぜ。あいつら、荒っぽいからよ」

 気の抜けたように息を吐いたリゲルが、改めて笑いかけてきた。こめかみから頬に流れ出る血を拭い。

「加減も分からねえのにバカスカ殴りやがって。――二人とも、怪我とかしてねえか?」

「あ、私はその」

「……特には」

「そうか。鉄パイプで殴られなかったんなら、ラッキーだぜ」

 痣や切り傷の残る顔で、ジェスチャーをしてウィンクしてくる。……今一つ反応に困る。

「にしても助かったぜ。まさか、無関係のガキを人質にするとは思わなかったからよ」

「そうですね……」

「――悪いが、俺たちはその」

「仁義のねえ野郎どもだぜ。――二人とも、同じクラスの奴だろ?」

 喋っている暇があったら、とっとと病院に行った方がいいのではないか。――っまさか。

「……覚えてるのか」

「まあな。俺が言うのもなんだが、そこそこ目立つからな、お二人さんは」

「そ、そうでしょうか」

「おうよ。枯れ木の賑わいみたいなクラスでも、ばっちし印象に残ってるぜ」

 リゲルの軽口に、舌打ちしたくなるような心境を押し殺す。――フィアのことだ。

「挨拶が遅れたが、俺はリゲル」

「――」

「リゲル・(ギャンビット)・ガウスだ。よろしくな」

「は、はい」

「ああ。……」

 枯れ木のうちの一本だろう俺はともかく、これだけ容姿の整った人間を片割れに持つ二人組なら、あの狭い空間で目立たない方が難しい。何かを待つような相手の態度に、黙殺を決め込んでみるが――。

 ……駄目か。

「……蔭水黄泉示だ」

「フィア・カタストです。……よろしくお願いします」

「ふむふむ。黄泉示に、フィアね……」

 相手の視線が逸らされる様子はない。これ以上答えなければ不自然になるだろうタイミングで名前を言った俺たちに対し、口の中で呟いたリゲルが何かを考えるようにする。……早く。

「分かったぜ。とにかく今日はありがとな。恩に着る」

「いえ、その」

「一応通報されてたみてえだし、お二人さんも逃げといた方がいいぜ。昼間っからサツに引っ張られて尋問なんてなっちゃ、せっかくの休日が台無しだからな」

 早く終わってくれ。辟易(へきえき)するこちらの内心も知らずに、にかっと笑ったリゲルが、地面に落ちていたサングラスを拾い上げる。歪んだフレームを無理やり顔に嵌め。

「――じゃ!」

「……」

「また明日学校でな! 黄泉示! フィア!」

「……ん?」

「え……」

 高らかな挨拶と共に、走り去っていった。……また。

 明日? 耳に残る台詞の残響に、しばし呆然とする。その言葉が何を意味するのか。

「……ふぅ」

 考えようとするのを脳が拒絶する。……ただの社交辞令だろう。

 憂鬱になるだけの想像を振り払い、立ち込めていた沈黙を息で断ち切る。色々と問題はありはしたが……。

「……黄泉示さん」

 ともかくこれで、事態が一段落したことになる。面倒事から解放された気分の中で、聞きなれた声を掛けてくるフィア。

 銃口を向けられたままの位置。近くからこちらを見つめる表情には、躊躇いながらも何かを言わなくてはならないと思っているような素振りがある。揺らぎのある瞳を見たときに――。

「その――」

「――ッなんであんなことをしたんだ‼」

「――ッ‼」

 抑えられていた激情が、一気に溢れ出てしまっていた。――そう。

 あのとき走り出したフィアの行為は、ただの無謀(・・・・・)だった。無傷で済んだのはただの幸運。

 俺が跳び出さなかったなら、リゲルが間に合わなかったなら、子どもを抱え込んだまま殴られていても、撃たれていてもおかしくはなかった。見ず知らずの人間のために――。

「……っ」

「……ごめんなさい」

 本当に死ぬ羽目になったかもしれないのだ。怒号を受けたフィアが、肩を強張らせながら声を絞り出す。

「放っておけなかったんです。あの子と、リゲルさんを見たときに……」

「……ッ」

「ごめんなさい……」

 (うつむ)いて、ただただ謝ってくる。震えて潰されそうなその姿。

「……」

「っ……」

 垂れ下がる銀の髪を目にした意識に、自分の叫びの激しさが理解されてくる。感情を拳の中に握りしめたまま、項垂(うなだ)れる姿を見つめた――。

 ――っ!

 ――フラッシュバックした光景。

 用意を整えて出て行こうとする二人。掛けられた言葉と、頭の上に置かれた手。

 静まり返った家の中と、畳を濡らす血の色が目の前に蘇る。馴染みのない不協和音が……。

「……」

「……っ行くぞ」

 頭の中で鳴り響いている。……サイレンの音。

「警察が来れば面倒になる。その前に戻る」

「……はい」

 遠くから徐々に近付くパトカーの合図だと気づきながら、それだけを言う。こめかみを押さえて歩き出した俺の背中に。

 項垂れたまま動かないでいたフィアが、着いてくる足音がする。――足早に歩いて行く間。

 家路へ着いた俺たちの間に、交わされる会話は、一語もなかった。


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