第四話 クッキング・チャレンジ
――一週間後。
「……どうでしょうか?」
「……ああ」
提示された課題を見る。抜かりのないように走らせる視線。
「できてるな。問題ない」
「――」
見る限りで間違いはない。息を止めるようだったフィアの表情に、安堵の明るさが差した。
――手探りだった初日から、数日が経過し。
俺とフィア、マンツーマンでの勉強は、すっかり習慣化していた。学園から帰ってきて、一日二、三時間を勉強に使う。
素直で真面目な性格ということもあってか、フィアは予想以上に呑み込みが早く、基礎的な段階の話を終えると、すぐに説明が理解できるようになってきていた。できるだけ噛み砕いて教えているつもりとはいえ。
「今日もよろしくお願いします」
「ああ」
躓きのなさにしばしば驚くことがあるほど。手がかりがなさ過ぎて検証はできないが。
一から学んでいるというよりは、自覚はなくとも、知っていたことを思い出しているのに近いのかもしれない。……年齢的に、少なくとも高校には通っていたはずだ。
思い出せずとも、習った知識自体は残っているとか。最大のネックになっていた数学も、今では講義の内容に大分着いていけるようになってきている。それに――。
「――っていうことでしょうか?」
「そこは――……どうだったかな」
教えるというのは始め、できる方からできない方への一方的なやり取りかと思っていたが。思わぬ質問に手を止める。
他人に教えるためには当然、自分が説明できる程度に内容を理解していないといけないわけで。意味の伝わらなかったところや、思いついた内容によっては質問が飛んでくる。
相手の反応で自分の抜けている箇所や、理解の不備、なかった視点に気付くことになり、結果的にこちらの理解を深めることにも繋がっているのだ。フィアに教えるつもりが……。
「そういうことなんですね……」
「ああ。……」
同時に俺の側も、フィアから学んでいるような気がするほど。……カリキュラムが一致していなければこう上手くはいかなかった。
問題への対応が齎した意外な幸いと、そう思っていいのだろうか。忙しく日々が続き――。
「……黄泉示さん」
帰宅して、いつもならノートを広げ始めるはずの時間に、フィアが言ってくる。何かを思い詰めたような顔つきで。
「どうした?」
「その……」
言い淀んでいる。瞳に覗く僅かの躊躇い。
こんな目を、以前にもどこかで目にしたような気がする。……そう。
あれは確か、フィアをここに連れて来た日。初対面の俺に対し、居候を言い出したときの――ッ。
「――っわ、私に、夕飯を作らせて頂けないでしょうか⁉」
「……」
……夕飯。
「……夕食を?」
「っはい。その……っ」
何を言い出すのかと構えていれば。半分肩透かしを食らったような気持ちでいる俺とは対照的に、フィアの表情には力がこもっている。……。
――なるほど。
「いつも勉強を教えてもらっていますし。その、お礼と言うか……」
「……分かった」
「……!」
「今日の夕飯は任せる。――M&Tでいいか?」
「は、はいっ。大丈夫です」
上着を羽織って、寒風の吹きすさぶ外へ出る。フィアは――。
――フィアは、何かがしたいのだろう。
スーパーの中。陳列棚に並べられた野菜たちを検分する姿を目に、思う。前々から色々と気にする素振りを見せてはいた。
学園が始まれば、カリキュラムをこなす忙しさでその辺りは紛れるかと思っていたのだが。知識の欠落から俺に勉強を教わる流れになり、余計に負担をかけてしまっているような感覚になっているのかもしれない。……気に病む必要はない。
「……」
勉強を教えるのは俺自身の為にもなっている。気にしなくていい。そう素直に伝えたとしても、フィアは納得できないかもしれない。以前にもあったこと。
気遣いだと受け取られれば、更に気にしてしまう可能性もある。――納得がいかなければ、無力感や罪悪感は消えてはくれない。
当人が決めて言い出してきたのなら、その何かをしてもらってもいいだろう。――何を作るつもりなのか。
「お肉はこれで……」
チャレンジしてもらうとはいえ、無際限に失敗してもらっても困るのは事実。見遣る先で、フィアは真剣に食材を選んでいる。近所で一番大きい食料品店。
『メイ&トムス』には、国際色豊かな食材が揃っていて、足りない物はほとんど見当たらないくらい。これまでも何度かパンや牛乳を買いに来たことがあり、ある程度の勝手はフィアも分かっているはずだ。あれだけ真剣な様子なら。
「……卵、魚は、ええと――」
多少上手くいかなかったとしても、食べられない物体ができることはないに違いない。初めて口にした小父さんの料理。
無気力だった俺が衝撃を受けるほどマズかったカレーを思い出す。物色する様子を見つめ――。
「……よし」
帰宅して。食材たちの並んだキッチンで、腰紐を結んだフィアが調理場を見渡す。清潔感のある白地に、桜色と言える薄桃色の線の入ったエプロン。
「えっと……」
髪の毛が入るのを防ぐため、纏めた髪の上に白色の三角巾もつけている。先ほどスーパーで一緒に購入してきたもので――。
「……じゃあ、始めます」
気合と形は十二分。あとは実践あるのみだ。――俺の方も準備はできている。
これまで自炊はしておらず、料理はできない俺だが、中学のころから小父さんの失敗を散々目にしてはきた。火加減の調整。
フライパンや鍋の扱いに、包丁の使い方。危険があるようなら、すぐにでも止めに入る心構えを保っておく。腕組みして注視する視線の先で――。
「……」
気持ちを固めた様子のフィアが、始めの手順に取り掛かる。手をつけたのは魚。
野菜などは置いておいて、時間がかかるものから先に片付けるつもりのようだ。調理の順番として、それは全く構わないのだが――。
「……」
――どういうことだ?
食材選びのときも、帰って来てからも、フィアは、何かしらのレシピを参考にしている様子がない。当人は集中している様子なので訊かなかったが。
レシピサイトの検索などができるスマホは貸しておらず、調理本さえない状態だ。記憶喪失である以上、覚えている料理などもないはずで。
「……」
疑問の中で、丁寧な手つきで包丁と魚の表面を洗ったフィアが、鱗を落としにかかる。――あれは難しい。
フィアが買い物かごに入れたのは切り身ではなく、頭から尾までが付いた一匹の鮮魚。小父さんも始めの頃に揚々と買ってきて、まな板をみじん切りにするほど悪戦苦闘していた。
「――っ」
上手く使えば宝の山、素材の宝庫になるのだろうが、慣れない人間にとっては扱い辛い食材の代表格だ。真新しいプラスチック製のまな板の上で動くフィアの手つきは慎重で、素人というのに相応しいもののように見える。指を切らないよう。
切り方を間違えないよう、色々なことに気をつけて手を動かしている感じ。……大きな失敗はしなそう。
油断はできないが、少なくとも小父さんよりはマシだろう。内心で軽い安堵を覚えていたところで――。
「――」
――なに?
唐突に、変化が起こった。恐る恐るといった様子だったフィアの手つきが。
「――」
次第に滑らかに、動きの精度を徐々に上げていく。苦労していた鱗を落とし終えると、手早く腹を開いて内臓を取り出し、血を洗い流す。――速い。
始めが何だったのかと思うほど淀みない動き。手を止めることなく捌きへ移り、包丁の刃筋で一瞬だけ狙いを定めたのち、一刀ずつで見事に三枚に下ろし終える。綺麗に抜き取られた中骨を洗い――。
下処理をしてオーブンに入れ、時間と出力を設定する。次に向かったのは野菜たち。
根菜から葉物まで、種類も様々な色とりどりの野菜たちが、まな板の上で踊るように切られていく。各々に見合った形で等分にしたのち、鍋に水を張り。
混ぜ合わせた調味料を入れて蓋をして、フライパンにバターを投げ入れる。一口サイズにカットした鶏むね肉を炒め――。
加えるのは玉ねぎとケチャップ。出かける前に炊いておいた白米を投入して、更に炒める。――っこれは。
「――ふっ!」
チキンライス。食欲を誘う香ばしい香りが昇り立つ中で、ケチャップがムラなく行き渡るよう、気合のこもった呼気でフライパンを振るうフィア。……力の足りない分をてこの原理で補っている。
勢いよく持ち手を振るって、中身を天井にぶつけていた小父さんとは雲泥の差だ。火加減を調節し、盛り付けの終わったフライパンをさっと洗ったのち、卵を手早くボウルに割り入れてかき混ぜる。黄身と白身が馴染んだのを見計らい――。
「……!」
そっと鉄板の上へ。集中するフィアの額を、一筋の汗が伝う。別人のような腕前の披露を……。
背後の俺は、半ば呆然と見つめていた。……。
――
―
――数十分後。
「――で、できました」
「……」
畳んだエプロンを脇に置いて言うフィア。俺たちの見下ろしている食卓には、色とりどりの皿が並べられている。
野菜炒めにエビチリ、焼き魚に煮物、春雨サラダに味噌汁ときて、中央にはオムライス。
絢爛な黄金色をした卵焼きは輝いていて、本格的なレストランで出るかと思うくらい、綺麗な楕円形をしている。……フィアの作り上げた料理たち。
これだけの品数を……。
「その、冷めないうちに」
「っああ」
この短時間で、失敗もなく作り上げるとは。……どれから食べるべきか。
「……」
一瞬迷ったのち、オムライスに手をつける。他の料理も見事な出来栄えだが。
黄金色に輝く卵は、中でも一際目が惹き付けられる。スプーンで端を切った――。
「――」
端から中身がとろりと溢れ出してくる。加減は半熟で。
中身はトマトケチャップのチキンライス。スタンダードな組み合わせではあるものの、酸味と肉汁の混ざった香りがいかにも食欲を誘う。ゆっくりと口に近づけ――。
「……っ!」
……美味い。
一噛み、二噛み。噛み締めるごとにじんわりと広がる味わい。口の中に広がった風味の深さに――。
「……美味い」
「……!」
「美味い。凄く、美味い」
気付いたときには、思わず感想が零れ出ていた。――いや。
「ほ、本当ですか?」
「ああ」
全くもって見事な味わいだ。卵だけでなく。
米と肉、歯切れのいい胸肉に、染み出した旨味を米がしっかりと吸い取っている。半分まで食べ進むほど堪能し――。
「――」
次に手をつけたのは焼き魚。張り詰めた厚い身は、焼き加減が難しいはずだが。
「……!」
フィアのそれはしっかり中まで火が通っているだけでなく、銀色の皮目が美しく映えるように調節されており、お手本のような出来栄えと言っていい。小父さんは何度も炭の塊のようにしていたのに……。
完璧と言っていい素晴らしさだ。――煮物もいい。
醤油を使った和風の味付けで、沁み込んだ出汁がいい味を出している。野菜炒めも、味噌汁も。
エビチリと中華風のサラダも期待に違わない。日本を離れて以来、口にすることのできなかった優しい味わいで――。
「……」
これだけジャンルの違う料理を作ったことに、改めて驚かされる感じがする。……こうして見ると。
一つ一つは決して手の込んだ料理ではない。どれもお馴染み、基本と言える料理だが、その全てが非常に高いレベルで調和している。
「……凄いな、本当に」
「ほめ過ぎですよ……。さっきから」
素朴で家庭的な味わいというものの、一つの完成形を見ている感じだ。――照れているのか。
座った食卓の対面で面映ゆそうに頬を染めるフィアは、それでもにこにこしながら自分の分の焼き魚を口へ運んでいる。……嬉しそうだ。
「どうやったらこんな味になるんだ?」
「それはその、お魚のアラを使っているので――」
今回のフィアの挑戦は、紛れもなく大成功。考える限りで最良の結果に違いない。話をしながら食事を楽しむ時間が、暫し続き……。
「――正直その、驚いた」
「はい」
ある程度食欲が満たされたところで、気になっていた点に話を移す。これだけのものを作るからには。
「レシピも見ずに作ってたから。どこかで勉強したりしたのか?」
「ええと……」
相当念入りな準備が必要だっただろう。作ってもらった此方が少し申し訳なくなるほど。
「それはですね。その……」
一つ一つの手順を僅かの間違いもないよう反復するのは、とにかく相当な努力が要るはずだ。ほとんどの行動は一緒にしているはずなのに、いつのまにと思う前で、フィアは少し困ったように食べる手を止めて。
「……こう、料理を作ろうと思って、目を閉じると、頭の中に手順が浮かんでくるんです」
「……?」
「なんとなく。それで、その通りに身体が動くというか」
「……そうなのか?」
「はい。……不思議な話なんですけど」
自分で再確認するように目を閉じていたフィアが、極まりが悪そうに居住まいを正す。……信じ難い話ではある。
作ったこともない料理のレシピがそらで浮かんでくるとなれば、それは丸っきりファンタジーかSFの世界。いきなりこんなことを言われれば、到底信じることはできなかっただろう。
だが――。
「……手続き記憶、って奴なのかもな」
「……?」
「ほら、身に染み付いた技術は忘れない、とか。よっぽど料理が好きだったのかもしれない。もしかすると」
「そう、かもしれませんね」
現にこれだけの腕前を見せられると、疑う方がおかしなことのように思えてくる。考えてみれば……。
自然な光景として受け入れてしまっていたが、こちらの人間には馴染みがないはずの箸も普通に使えている。余程のこと料理に造詣があったことは確かで。
案外その辺りに、素性の手がかりが隠されていたりするのかもしれない。――食後。
「……フィア」
「はい」
食べきれなかった分を冷蔵庫にしまい、片付けた食器を洗っている最中、煮物に使われた鍋の汚れを落としつつ、言葉を纏める。
「できればなんだが……」
「?」
「――俺に、料理を教えてもらえないか?」
「――え」
「元々こっちに来る上で、簡単なものくらいは作れるようになるつもりだったんだ」
丸くされたフィアの瞳。スポンジを握る手を動かしながら話し続ける。――そう。
「将来的なことを考えれば、自分で作れる方が経済的だろうし。料理ができるって分かった上での話で、虫がいいんだが」
「……」
「……頼めないか?」
「あっ、いえ」
一人暮らしを始める上で、元々自炊は目標の一つではあった。買い食いばかりでは出費も栄養バランスも悪くなる。
本来は自力でやるつもりだったのだが、これだけ上手い人間が身近にいるのなら、教わった方が上達の為になると判断した次第。考え込むようだったフィアが――。
「大丈夫、だと思います」
「……!」
「大抵のものなら、作れるとは思いますし。黄泉示さんさえよければ……」
「――助かる」
手を止めてフィアに向き直る。まだどこか戸惑いの見える翡翠色の瞳に、真っすぐそのことを伝えた。
「ありがとう、フィア」
「――っ」
――一瞬。
「……いえ」
一瞬だけ瞳を大きくしたフィアが、口の中で小さく何かを呟く。聞こえなかった言葉をかき消すように。
「勉強のことでも、お世話になってますから。――そのくらいならお安い御用です」
いつもより僅かに気合の入った声。力のこもった光で真っすぐ俺を見つめ返して、泡の残った手のひらをぐっと握り締めた。
「料理ができるようになるよう、一緒に頑張りましょう!」




