第三話 初めての夜
「えー、私の講義では、古代から現代までの歴史を、地理と考古学の観点から通覧して学ぶものであり――」
……。
「芸術のそれぞれには繋がりがあります。彫刻などの造形美術や、視覚を主とする絵画、聴覚に訴える音楽といった分野が、どのような関わり合いの中で深化し、発展してきているのかを問い――」
……。
――一日の時間割を終えて。
「――ふぅ」
小さく零すような息を吐きつつ、敷地に投げかけられる夕陽の中を俺とフィアは歩いていく。二限目から五限目まで。
「終わったな」
「……はい」
計五時間を超える講義を受け終えると、流石にそれなりの疲労感が出てきている。挟まれる休憩のお陰で困憊というほどではないが。
久々に真面目な話に集中すると、やはりどうしても疲れるものだ。――フィアにとっては、特にそうだったに違いない。
記憶喪失ならば、これまで過ごしてきた学校などの経験もないはずで、過去の経験を理解の足場にすることができない。ただ……。
「……教授の格好が凄かったな」
「個性的な感じの方が多かったですよね……」
――そのことを抜きにしても、大分変わった学園らしい、というのが感想だ。現れる教授たちは皆個性的。
今どきどこで売ってるんだと思うような渦巻模様のびん底眼鏡を掛けた教授がいるかと思えば、舞台俳優かと思うほど華美な衣装を纏った貴公子風の教授、ローブを着た魔法使い風の教授がいる。……始めの二人の教授が実に真面目な部類に見えるほど。
「……どうして薔薇だったんでしょうか?」
「……さあな」
食堂の様子も凄いと思わされたが、教授たちがああいった雰囲気だからこそ、学生たちもあの奔放振りを発揮できるのかもしれない。芸術論の講師が講義中ずっと薔薇を咥えて喋っていたのを思い返しつつ、歩いていく。講義の内容はちゃんとしていた。
どの講義もユニークで、面白い内容が多かったと思う。特定の狭い分野で閉じた話ではなく――。
複数の領野に跨るような話が多く、視点の新しさにちょくちょく意表を突かれる気がした。……充実した初日。
そう言ってもいい。学園の雰囲気は何となく掴めたし、今のところ変えたいと思うような講義もない。順当な滑り出しであり――。
――だが。
「……」
フィアにとって今日がどうだったのかは、少し、話が異なる。傾き始めた日に照らされて、敷地内がオレンジ色に染まっている。
輝く光の中で、フィアは気持ち言葉少なに思える。何かを考えているような横顔……。
「――学園内でも見てくか?」
「えっ?」
「教室棟はいいとして、それ以外の場所も見といたほうがいいんじゃないかと思ってな」
視線を感じつつ、携帯で学園の地図を開く。施設名称のところを拡大し。
「使うかどうかは分からないが、専門のエリアとか。食堂のメニューや位置なんかも、把握しといたほうがいい」
「……そうですね」
提案を受けたフィアが、普段より明るく輝いている白銀の髪の毛を少し揺らす。影に沈んでいた表情を、引き締め直すようにして。
「――見てみましょうか。どこから回ります?」
「図書館棟とかどうだ? 通りがかったとき、外観が気になって――」
交わされるのはいつも通りの会話。夕陽の中で前を向く姿に、胸の奥に湧く感情を抑え込んだ。
………
……
――帰宅して。
「――済みません」
互いの荷物を部屋に置いたのち、リビングのソファーに腰を下ろしたタイミングで、フィアが訊いてくる。予想していた申し出。
「キッチンのテーブルをお借りしても大丈夫でしょうか。今日の復習をしておきたくて……」
「ああ、別に。俺は部屋に机があるから」
「ありがとうございます」
律儀に礼を言ってテーブルへ。今日の講義で使用したノートを取り出し、ページを開いて筆記具を手に向かい始める。……学園の講義。
――俺とフィアが受けた講義は、二限目から五限目まで、全て同じものになっている。
今日一日だけではなく、月曜から土曜日まで全て。中学や高校までとは違い、大学であるシトー学園は単位さえ満たしていれば、講義の取り方は個人で自由なのだが――。
〝……済みません、黄泉示さん〟
〝ん?〟
〝その、ご迷惑でなければなんですが……〟
記憶喪失ということもあり、フィア自身、自分が何に興味があるのか分からないこと。
学園内で一人になることに不安を感じていそうだったことなどがあって、そういう事の運びになっていた。……俺としても、フィアを一人にするのには少々不安がある。
一人で行動してくれる分には全くもって構わないのだが、理想的なまでに整ったフィアの容姿は、どうしても人目を惹きつけがちになる。一人で構内を右往左往していれば、下手な連中に目をつけられるかもしれず。
その場合、フィア一人で問題を解決することは難しいだろう。携帯も持っていない以上、同じ教室にいてくれた方が都合はいい。
苦手な科目があったり、余りに興味が持てなかったりするようなら変更も視野に入れる。仮決め期間中の講義体験と、学園自体への慣れを進めるということも兼ねてそうしたのだが……。
「……」
真剣な表情。一心にノートを見つめる翡翠色の瞳を横目に、思う。――やはりそうだ。
真剣さとは裏腹に、ほとんど動くことのないシャープペンシル。フィアの指先は、迷うように止まっている。次第に増えている瞬きの回数。
改善の兆しのないことを見て取って、小さく目を瞑った。……関係がない。
手段を用意したのは小父さんだが、学園に通うことを選んだのはフィア自身。そこでどういう問題が起ころうとも。
それは本人が引き受けるべきことだ。累が及んできそうなら手を出さざるを得ないが、今回の件ではそういったことはない。
影響があるのはあくまで学業、フィア個人の問題だ。何とはなしにポケットからスマホを取り出す。音楽でも聴こうかと、イヤホンを取り出そうとして――。
――脳裏に過った情景。
「――ッ」
踏み固められた目の細かい土の上で、一心に剣を振るっている自分。後先を考えない全力での素振りに、心臓が跳び跳ねる。
荒い呼吸に連れて、こめかみから汗が流れ落ちる。何も握っていない手のひらを見返して――。
「……」
小さく息を吐いた。……仕方がない。
「――どこが分からないんだ?」
「――えっ」
立ち上がって声を掛けた俺に、フィアが驚いたように顔を上げる。白銀の髪が揺れ。
「分からないんだろ? 講義の内容が」
「……その……」
どう答えたものか迷ったような素振り。ごまかしを見逃さないといった視線に、フィアは僅かに躊躇うようにして――。
「……はい」
恥と慚愧の混ざったような眼で、小さく項垂れた。――そう。
「そもそも、どの辺りまでの知識ならあるんだ?」
「ええと……」
考えてみれば、当たり前のことだ。フィアには自分が過ごしてきた時間の記憶がない。
これまでどんなことを勉強してきたか、何を覚えてきたのかも思い出せずに、いきなり大学レベルの講義に放り込まれれば、着いていけないのは半ば必然と言える。今の復習でも……。
「……四則演算と、二次関数の辺りなら……」
ノートのページが進んでいないのを見るに、何度も同じ箇所を読み返していたらしい。……分かるはずがない。
数学などは特にそうだが、学問とは基本的に、基礎から段階を経て応用へと進んでいくもの。俺とフィアが取っている講義に、そこまで専門的な内容のものはないが。
「ならその辺りの解説から行くか」
それでも中高の知識がゼロでは理解はほぼ不可能になる。……数式の変形より、図的に解説した方がいいか。
「グラフが放物線になるのは分かるよな?」
「はい」
「そこから発展する話なんだ。つまり――」
――好きで助けているわけではない。
現状の講義はまだオリエンテーションの最中。モラトリアムの期間が終わり、本格的に講義が始まれば、無理解の溝は更に深まる。毎回の講義で狼狽え振りを目にし。
家では実らない努力を見続けるなど、趣味ではないというだけの話。同居人の苦労が増えれば、俺の方も困る。それに……。
「ここは――」
――努力するフィアの姿勢は、真剣だった。
学園での講義の時間も、先ほどの復習のときも、分からない内容に真剣に立ち向かっていた。誰に助けを求めるでもなく。
「――こうなる。これを使って――」
「……あ」
自力で問題をどうにかしようとする目を思い返したときに、心の中でどこか、決心がついてしまっていたのだ。解説の途中。
「分かったか?」
「……」
書いていた手を止めて訊く。……分かり辛かったか。
「……別の説明の仕方もできる。例えば――」
「……す」
「――?」
人に教えるなど、こちらも初めての経験なので、どうしても勝手が分からない。やり方を変えて説明しようとしたときに――。
「――凄いです、黄泉示さん」
「――っ」
「何も言ってないのに、どこが分からないのか分かるみたいで」
目を輝かせたフィアが、そんなことを言い出してくる。……予想外の反応。
「凄く分かり易いです。――ありがとうございます」
「……大したことじゃない」
本気でそう思っているような仕草に、かぶりを振る。――大袈裟だ。
「自分が知ってることを教えてるだけだ。分かり易いのは、たまたまだろ」
「でも……」
「――続けるぞ」
俺がしているのは、あくまで通り一遍の説明。特別な工夫や発想があるわけではない。……中学のとき。
それまであまり勉強をしていなかったこともあって、周りのレベルに着いて行けずに苦労した時期があった。学校のことに色々気を遣ってくれる小父さんを心配させたくなくて、自室で毎晩机に嚙り付いて復習をした。
もし仮に、分かり易さがあるとすれば――。
「そうだ。だから――」
元々俺にも同じ、できなかった頃があるせいかもしれない。……フィアの疑問点は素直なもの。
素人の俺でも、説明にそこまで苦労はしない。ノートに書かれた内容の整理が、着々と進んでいき――。
「なるほど……」
「――っと」
フィアが頷きを零したところで、ふと時計に目を遣る。集中し過ぎていた。
「もうこんな時間か。――夕飯から帰ってからまたやろう」
「あっ、はい。そうですね」
いつの間にかもう、十九時を回っている。ノートを閉じたフィアと共に、外に出るべく立ち上がった。……。
――帰宅して。
「……」
「……ええと」
宣言通りに勉強を再開した俺とフィア。間に広げられたノートを、隣に座った状態で見つめ合う。
「ここは、その、さっきの通りでいいんですよね?」
「ああ。……そうだ」
食事に出る前と何も変わらない構図。至極真面目なやり取りではあるのだが……。
「……」
――互いの格好。
ノートの端に爽やかに流れ落ちている白銀の髪。サラサラとそよぐ銀の糸から、仄かな石鹸の香りが漂ってくる。……白地にブルーのラインの入ったパジャマを着ているフィア。
グレーの長ズボンに、えんじ色の長そでという着古しのパジャマを着ている俺。ファミレスでの夕飯どき――。
〝――あっ!〟
会計を済ませる段になって、走って来た子どもがフィアの洋服に水を零してしまった。平謝りしてくる両親に、大丈夫と言いつつ。
季節は秋の夜。早めに着替えた方がいいということで、帰宅して早々、フィアは風呂に入ることになった。出てきたところで、俺だけを待たせるのは申し訳ないという話の運びになり……。
「……」
「……」
俺も入浴を済ませたのだが。……近い。
ノートを見て教える都合上、どうしても互いの距離というのは近づくことになる。構図は夕飯前と変わっていないはずなのだが。
膝の触れそうになるその近さが、今はやけに気になってしまう。……柑橘系の香り。
「……そこは違うな」
「あっ、はい」
シャンプーとリンスを使ったフィアの髪は、ドライヤーでしっかり乾かされているにもかかわらず、昼間より艶があるように感じられる。微かに上気している頬。
「……」
「……」
風呂上りのせいなのか、自分の体温さえやけに高くなっている気がするほどだ。互いに意識している事実から眼を逸らしているような、気恥ずかしい沈黙が続いていて……。
「……」
――冷静になれ。
「……集中しよう、集中」
「そ、そうですよね。――大事な勉強ですから」
気もそぞろになっていては、何のために教え役を買って出たのか分からない。学園の講義についていくための勉強なのだということを意識して。
「しっかり集中しないと。お願いします、黄泉示さん」
「こちらこそ」
ノートの文字に集中。拭いきれない心地よさを感じつつ、互いに兜の緒を締め直した。




