第二話 昼食の時間
――講義後。
「――なんだったんでしょうか」
廊下に出る学生たちに紛れて歩いていく中で、フィアが言い出す。思案気な瞳の色。
「あれは。普通じゃない空気でしたけど……」
「……さあな」
次の教室の位置を確認する傍ら、考えを巡らせながら返す。――間違いなくあの男のことを言っているのだろう。
教室中から避けられるようだったスーツの男。居眠りを決め込んだあとには結局、何事もなく。
最後まで案外興味深かったマテリアル講義が終わり、予鈴が鳴るやいなや、起き上がって教室から出て行った。……いじめという感じではない。
どちらかと言えばむしろやる側。あの格好では、下手にちょっかいを出そうという輩もいないだろう。……恐れられているという感じ。
「何かしら問題でもあるんじゃないか。――ひとまず、次の講義に行こう」
「は、はい」
気になるところではあったが、考えたところで分かるものではない。思考を切り替えて、次のカリキュラムを端末上に表示させる。――シトー学園の敷地は割と広く。
建物間の距離は最大で約1.5キロ。端から端までの移動では、空き時間の十分に辿り着けない場合も出てくる。とはいえ。
講義に使われる教室の殆んどは中央の主要棟に集結していて、そういった移動上の遅刻は起こらないようになっている。地図通りに南棟に辿り着き――。
「――では、今日の講義はここまで」
特徴的なチャイムの音を合図に、ノートPCを抱えた初老の教授が教室をあとにする。……実に。
「ふぅ……」
「ようやく昼だな」
「っ、そうですね」
実に真面目な講義だった。半分イベントのようだったクラス講義と比べると、まるで雲泥の差。……講義の話は敢えてしない。
「一番近い学食は確か、西棟のだったか」
「はい。――通ってくるとき見た場所ですよね。綺麗な場所でしたけど」
「どんなメニューがあるかだな」
したとしても、益にならないのは目に見えている。――『中級数学』の講義。
初回でありながらオリエンテーションを前半で済ませ、後半からほぼ通常通りの講義に入るというストイックぶりだった。学生側としても、内容を見て取る取らないを選ばなければならないわけではあるのだし。
実際の講義がどんなものなのか、早めに体感させようという狙いは理解できる。ただ単に真面目なだけでなく、途中途中で上手い説明の仕方をするものだと感心させられるところもあった。
――ただ。
「……」
誰もにそれが填まるわけではないというのも、また事実だ。幾分重く聞こえるローファーの足取りを耳にしつつ、一階への階段を下る。通路の先に構える大扉から中に入ったところで――。
「――っ」
「……うわぁ」
二人して思わず、広がる光景に目を見張らされた。――人。
「おばちゃん! ランチAプレート一つ‼」
「こっちは三つだ‼ それにDセットも‼」
「……」
「……凄い人ですね」
人、人、人。活気と熱気に包まれた食堂内は、見渡す限りの人間でごった返している。――整然と並んだ長テーブルと椅子。
三百人程度は余裕で入れるはずのスペースだろうが、今俺たちの目にする空間は、端から端まで完全に埋め尽くされている。……壁際の席も駄目。
グループ同士の間にはチラホラ空席が見えるものの、空いているのは殆んど一人席。仮に運よく空席が見つかったとしても……。
「くぉら! 中央テーブル真ん中は教授の席! 百年前からキッチリ決まっとるんじゃい‼」
「十年も経ってない学園の講師のくせして、伝統とか抜かす道理もありゃしねえだろうが‼」
「……どうする?」
「今から他の場所に行っても、同じくらい混んでるかもしれませんよね……」
肩と肩が触れ合いそうになるこの喧騒の間に、腰を下ろすかはかなりの疑問だが。目を凝らしつつ呟き合う。体育祭か何かで発散した方がいいのではと思うほどの熱量に、後ろから来た何組かの学生が立ち止まって引き返していく。――同じ新入生だろうか。
「食べ物だけ買って、場所は他で見つけないか?」
「あ、なるほど」
中央にある調理場は暴挙する人だかりで寄り付く島もないほどだが、端にある購買の方はそれほど混んでいなさそうだ。並んではいるが……。
「貴様ァ! よくも俺の限定デザートを‼」
あくまで常識の範囲内。乱闘が勃発したりもしていない。新たに生まれた騒ぎをスルーして、ゆっくりと俺たちの並んだ列は進み――。
「次の次くらい……ですね」
「ああ」
ケースの中身が見える距離にまで近付いてくる。奥行きのある棚板の上には、パンにサンドイッチ。
シチューにオムライス、カレー。飲み物が並び、サラダと一通りのメニューが取り揃えられている。ピロシキやボルシチ……。
サムゲタンまである。……七面鳥?
「フィッシュアンドチップスと、ドネルケバブ一つ」
「畏まりました」
映画の中でしか見たことのないような丸焼きが、ケースの左奥に綺麗に鎮座している。……あんなのを頼む人間がいるのか?
「今日のおススメはなんですの?」
「本日のおすすめは、揚げたてのフィッシュサンド、ローストビーフに、サツマイモのポタージュでございます」
二、三人でも食い切れなさそうだが。紙袋を受け取った学生が列を離れる。それと――。
「――お待たせいたしました」
「……」
――執事、だよな?
「どれに致しましょうか」
「――ええと」
「……フィッシュサンドを三つに、オレンジジュースを」
「ミックスサンドイッチを一つと、ハーブサラダを一つ。あと、その、レモンティーをお願いします」
「承りました」
ガラスケースの向こうで応じるのは、仕立てのいい燕尾服を着た初老の男性。注文を受けた白手袋の指先が、板についた仕草で品々を用意していく。……。
「ありがとうございます。――またのお越しを」
「……」
「あ、ありがとうございました」
――謎だ。紙袋に入れられた品物とレシートを受け取り、年季の入ったエレガントな一礼を受けて、賑わう食堂をあとにした。……一呼吸置いて。
「――どこに行きましょう」
「そうだな……」
廊下を進みつつ、フィアと考える。……この分だとカフェテリアも混んでいそうだ。
通りや広場にあるベンチも一杯だろう。窓からちらりと外を見てみるが、青々とした芝生はシートと弁当を持参した学生たちに占拠されている。折り畳み椅子などの持ち合わせもなく。
「屋上なら空いてるか? 確か、鍵は開いてるって話だったよな」
「あ、そうでしたね」
限られた選択肢の中で、上に活路を見出す。中央に集められている教室棟たちは――。
中途の回廊のほか、屋上部分で繋がっていて、その部分には広いスペースがあるはず。今さっき降りて来たばかりの階段を上がり直す。
二十メートルの四階建てとなると、階段を上がるのもそれなりに一苦労だ。すきっ腹には堪える階段を、ペースに気をつけつつ上がり切り――。
「――っ」
頂上に立ち塞がる鉄扉を開けた瞬間、青々とした空と共に、清澄な空気が飛び込んできた。――涼しい。
「……凄い」
晴れ渡る視界。フィアと共に踏み出した先にあるのは、化粧石のタイルで舗装された美しい遊歩道。
間隔を置いて所々にベンチと花壇が設けられ、低めの柵の向こうには学園の敷地と、遠くの街並みまでもを一望することができる。……見事な眺望。
ここまで来た疲労を一瞬忘れるほどだ。巨大な建築物の上に立っているという感覚を覚えつつ、ゆっくり足を進めていく。――風はそれほど強くはない。
「なんでしょうか、あれ」
「庭か……?」
季節的には秋だが、晴れの日の昼間なら気温はこれくらいが丁度いい。視線の先、フィアの指摘で、ロの字型になる屋上の一角が緑の箱のようになっているのを見咎める。……なんだろうか。
「行ってみるか」
「はい」
気になったのなら確かめればいい。興味の赴くまま近づいて行くうちに、正体がはっきりとし――。
「――」
花と草木に囲まれた、箱庭のような空間が目の前に現れた。――適度に葉を茂らせている樹木。
穏やかな木漏れ日を作り出している、緑色の天井。壁代わりの茂みは人の手で綺麗に刈り揃えられていて、内部に伸びる道の通りを妨げることがない。確かに学園の屋上にいるはずなのに。
「凄いな……」
「綺麗ですね……」
ここだけまるで、森の中を散歩でもしているかのような空気に満ちている。ところどころに咲いている、鮮やかな白色の薔薇。
道の途中途中に幾つか区切られたスペースがあり、机を挟んで学生たちが談笑している。設えられた空間の優美さに感嘆しつつ、ゆっくりと散策していたとき――。
「……!」
突然、目の前の視界が開ける。庭園の奥。
恐らくはこの空間の最奥となる場所に、鄙びた木のベンチと机が置かれている。丁度屋上のへりとなる位置なのか。
柵の向こうには、これまでより一段広々とした景色が広がっている。――丁度いい。
「ここにするか」
「そうですね。――っあ」
思いがけずいい場所が見つかった。袋を置いてベンチに座ろうとした矢先、反対から座ろうとしていたフィアが、何かに気付いたように目を丸くした。――どうし。
「……」
「――」
――人。
通路側からは見えない壁の陰に、目立たないように、一人の女学生が座り込んでいる。幾分仕上げを雑に纏められたような、セミロングのポニーテール。
「……」
よく見なければ黒に見える暗めの髪の下からは、睡眠不足が目立つクマのある目つきと、唇に咥えられた紙巻き煙草が覗いている。立ち止まった俺たちに目を細めて、煙の上がっていたそれを唇から離す。取り出した携帯灰皿に先端を擦り付け……。
反対側のポケットから取り出したらしい、ビニール袋に吸殻を放り込んで口を縛る。……用意がいい。
「あ、あの」
「……」
構内は一応、屋外なら喫煙が許可されているが、他人が来た際の配慮は必要だ。無言のまま立ち上がった相手の姿を見て――。
「――」
「――あ」
思わず、目を見張ってしまった。―小さい。
鋭い眼つきや擦れた雰囲気からは一転、焦げ茶のつむじを覗かせる女学生の背丈は、フィアより頭一つほど低く、中学生かと思うくらいになる。……恐らくは百四十センチ代。
「……っ」
「あ、その」
どう頑張っても百五十センチはないだろう。声を挙げたフィアと、あからさまに瞬きした俺に、女学生が気のない目線をやる。どことなく不愉快そうな光が瞳を過り――。
「……」
「……ふぅ」
背を向け直すと、一瞥もしないで立ち去っていった。……ああいった学生もいるのか。
「……座るか、取り敢えず」
「そうですね」
背丈的には完全に中学生だったが、雰囲気はどことなく凄みのようなものがあった。気を取り直してベンチに腰掛ける。外気に触れるベンチは少しだけひんやりとしていて。
吹き抜けであるせいか、煙草の臭いや煙は残っていない。数枚の葉の落ちている天板に紙袋と飲み物を置く。サンドイッチの包みを取り出して――。
「――っ美味い」
「美味しいですね……!」




