第零話 未明
〝人間の生とはすなわち、結局みな、終点の決められた旅路のようなものだ〟
「……」
窓のそと、過ぎていく雲、暮れていく日を眺めながら、空を映す意識にふと、そんな言葉が蘇ってくる。
離陸してからすでに数時間の経つ機内の中、隣に座る人間の身じろぎする振動を感じながら、背もたれの薄いエコノミークラスのシートに俺は腰かけている。生まれて初めて乗ることになった飛行機だったが、
想像していたほどの感動はなく、時間が経つにつれてむしろ、座席の狭さが気になり始めていた。――こんなところで、あと十時間以上も座っていなければいけないのか。
思ってみたところでなにも変わりはしない。一つ溜め息をついて、配られた毛布をかぶって寝てしまうことにした。
……。
……広い、日本風の家屋が見える。
外観から初めに目に入るのは、手入れのされた古風な瓦葺の屋根。門から左手に入ると広がる庭には、緑の下草が生い茂り、塀の傍では老年を経た松と梅が、静かにこずえを揺らしている。
細砂を踏む簡易な修行場に面しているのは、食卓にも使われる畳敷きの大部屋だ。どれもこれも、懐かしい感覚を覚えるものばかり。
〝……〟
子どもの頃の夢を見ている、と直感する。小さいころに父と母と、三人で過ごした思い出の屋敷。
十歳のころに小父さんに連れられて家を離れて以来、一度も目にしに戻ったことはない。色あせない記憶の中で、あの頃のまま保たれている家の姿に、懐かしい気持ちが溢れ――。
――そんな居心地の良さに考えることを忘れて、気を緩めてしまったのが失敗だった。
〝……?〟
上がった部屋の障子が、開け広げられているのに目を止める。縁側に誰かが座っているのが分かるが、差し込む日の光が反射してよく分からない。
……誰だ?
答えを知っているはずなのに、頭の中に鉛が溶け出したかのように思い出せない。正体を確かめようとして、一歩近付いた。
〝――ッ⁉〟
瞬間。それまでの畳を踏む感触とは明らかに異なった、滑りの感触が足裏に張り付いてくる。背筋に走った怖気に、危険を見定めようとした視線が本能的に自分の足元に下ろされる。
〝――〟
生温かく、僅かに滑りを持った液体が視界を覆う。
噎せ返るような鉄錆の臭いが、いつの間にか周囲全体から立ち昇っている。――ッ赤。
緋、紅、朱。
赩、あか、アカ、あカ―――‼‼
〝……ッ……‼〟
自分を取り巻く光景の悍ましさに、震えた四肢から力が抜ける。後退のできなかった脚が、戦慄くように無様に尻餅をつく。周囲の畳一面を覆い尽くす夥しい量の血が、畳を越えて縁側さえ赤く染め上げている。
赤一色に染められる視界のうちで、唯一輝きを放つのは、磨き上げられた真剣の刃。男の腹から突き出る、一振りの日本刀から、赤い雫が床へと滴り落ちている。朧げに差し込む陽の光を、鈍い切っ先の輝きが冷たく受け止めている……。
〝……〟
あまりの恐怖と不気味さに、全身の毛が逆立っている。……一刻も早く逃げ出したいはずなのに、
〝……‼〟
身体がいうことを聞いてくれない。力の入らないはずの手足は独りでに、俺の意志など関係ないかのように、這うようにして人影の方へ進んでいく。手足を血だまりの中に浸し、
骨の髄まで染みつくような血生臭さのする地獄絵図を這い進んで、男のところにまで辿り着く。肩の上で短い黒髪が揺れる。
幾度となく目にしてきたはずの背中の中心に、刃に貫かれた大きな血の染みが滲みだしている。赤黒く汚れた指先を、丸まった肩の向こうへと差し伸べて……。
――眠るようにして座っているその人の顔を、すがるようにして覗き込んだ。
「……ッッ‼⁉」
――突如として意識が覚醒する。
額に浮かんでいる脂汗。激しく脈打っている心臓の鼓動を認識して、荒い呼吸を抑えながら、辺りを見回す。……ッ夢。
眠っている間に就寝時間になっていたのか、機内の照明はほとんど落とされており、周りの乗客も大半が眠っているようだった。……夢だ。
理解して自分の手のひらを見つめ直す。赤黒い血に濡れる肌はそこにはなく、ただ、少しばかり汗ばんだ右手があるだけだ。……もう一度周囲を見て、
自分が飛行機の中にいることを再確認して、息を吐いた。……また。
――また、あの夢か。
痛みの残るこめかみを、揉むように押さえつける。あの日以来、何度も見続けてきた悪夢。
分かっていても決して慣れるものではない。夢を見るたびに記憶は鮮明なものへと移し替えられ、この十年間、俺の中で決して色褪せることはなかった。
――このまま死ぬまで、忘れたくても忘れられない……。
「……」
暗雲のように浮かんできた考えを振り払う。……根拠のない妄想だ。
これから慣れない土地に一人で住むというので、少しナーバスになっているのかもしれない。無理にでもそう思い込むことにして、気持ちの切り替えのため、いったん自分の状況を整理してみる。……ここは外国に向かう飛行機の中。
到着時刻は明日の午後。高校を卒業した俺は日本を出て、これから数年の間、一人で向こうに暮らすことになる。面倒な手続きはほとんど終わらせてあるし、
住む場所も、通う学園も決まっている。大きな荷物はすでに送ってあり、学園が始まるまでには数日の猶予がある。……特別な問題はない。
「――ふぅ」
全て順調で、予定通りだ。頭の中で反芻してみただけにもかかわらず、これまでの経緯全てを思い出したような感覚がして、ぶり返してきた疲労感に溜め息をつく。自分で望んでいたこととはいえ……。
これからのことを考えると、どうしても多少の不安が昇ってくる。果たして上手くやっていけるだろうか。
失敗するんじゃないか。思い浮かぶことは多くあり、湧いてくる懸念の種は尽きることがない。
だが――。
「……」
それでもひとまず、うなされて眠れないような気分からは解放された。今の自分にとって最も重要な事実に頷いて、毛布を手繰り寄せて目を閉じる。睡眠不足となれば明日の行動にさしつかえる。
新しい生活のため、早めに寝ておくに越したことはないだろう。瞼の裏に今度こそ、何も浮かばないことを祈って――。
――そう、なにもかも、これからだ。
――叫びと悲鳴。
一体どこで擦れ違ったのか。
一体どこで間違えたのか。
目の前で繰り広げられている惨憺たる光景の意味を、男は未だ信じられずにいる。胸のうちで疑問を何度投げかけてみても、返ってくる答えなどどこにもない。
「――秋光ッ‼」
意識の不意を衝くように、慣れ親しんだ老女の焦りに満ちた声が飛ぶ。危険が迫っていることを直感的に理解した、身体が反射的に術法を起動させる。
「式神――【黒四天】‼」
指先から放たれた四枚の霊符。秋光の秘奥たる各々の媒体を核として、空気を震わせる強大な力が顕現していく。現世へ降り立った圧倒的な霊格を誇る異形たちが咆哮を放つと同時、男に差し迫っていた全ての敵意が勢いを失い、地に墜とされていった。
「……ッ」
――襤褸切れのように舞う紙片。
見慣れた式によって刻まれた呪。散りゆく術法の残滓を目に、男は最早確信以外の選択肢を持てずにいた。かつての友が放った符術には、幾許の加減も手心もなされていない。
「……っこのままでは、逃がすことになるぞ」
「……【青龍】‼」
白髪をなびかせる、厳格な老人の声音を受けた直後に、覚悟が決まる。盟友の呼び掛けに応え、強大な蒼き龍が地に伏せるようにして己の首筋を差し下ろす。燦然たる鱗の上へ迷わずに飛び乗り。
「――秋光様⁉」
「やめな、秋光ッ‼」
舞い上がる龍の背に乗って、男は必至で友の背中へと追い縋る。信頼する補佐官の声も、仲間の声も後方に置き去りにして――!
「――ッ!」
「……」
崩落する最上階。今まさに協会を脱出しようとする友の前に、男は立った。七十前半にして些かも衰えない、矍鑠とした鋭い眼光が、男に対して向けられる。
幾度となく隣に立ち、志を共にしてきたはずのその瞳。理想を語り合い、困難を乗り越えてきたはずの相手は、今、決然とした決別の意志を込めて男を見ている。
「……なぜだ、永仙」
「……」
「なぜ私たちを、協会を……」
「……お前たちが知る必要はない」
痛みの滲む声で男は問い質す。問わずにはいられない、無駄だろうと知ってなお、言葉にせずにはいられなかった問いかけに、答える友の声は冷ややかで、
「私は……私の道を行く」
「ッッ‼」
そこにはもはや、一片の躊躇いも含まれてはいなかった。言葉と同時に男の視界が魔力の奔流で埋め尽くされる。
「馬鹿ちんがッッ‼」
「――ッ⁉」
不意を突く一撃の衝撃を覚悟した刹那、瞬間に響き渡った老女の罵声に連れて、男の目にしていた景色が入れ替わる。何が起きたのかを悟った男が、上空を振り仰いだときには……。
――そこにはすでに、友の痕跡は僅かも残されていなかった。
……。
――魔導協会の長、九鬼永仙の突然の離反。
のちの聖戦の義からの強奪、執行機関における手配も含めて、このあと長らく特殊技能者界を騒然とさせることになる事件だった。