第二十六話 覚悟
――最高位属性魔術の組み合わせ。
「……」
一つで一軍を滅ぼすと言われた魔術が、計八つ。常識を塗り替える暴威の中で余程冷静に見ていなければ気付けなかったことだろうが、それもただ力任せに放たれていたわけではない。
各属性の力を殺さず増し合うような配置と操作、時間と労力とを掛けて緻密に組み上げられたと思しき構造は、永仙の得意とする【連携符術】の極致とも言える理屈の上に成り立っていた。眼前の全てを一様に薙ぎ払った壊滅的な威力は同時に、魔術師からすれば芸術とも言える複雑さを備えた術式であり――。
「……素晴らしいね」
その極大の【複合魔術】を撃ち放った本人、――ヴェイグ・カーンはしかし、敬服の表情で自らの正面を見つめている。術式に手落ちがあったわけでも、制御に乱れがあったわけでもない。
「……ッ……‼」
「今の魔術をほぼ無傷で耐え抜くとは。この時代における魔術師として、貴方はやはり明白な高みにある」
半径数キロを焦土へと変えるはずの、完全な複合魔術の威力の中で、ただ一つだけ原形を留めている永仙の姿がある。……眼前で交差させた腕。
幾重にも防御の術式の織り重ねられたローブは所々に焼け焦げた穴が開き、消しきれなかった炎熱と雷撃に火傷を負わされた肌の上を、浅手の切り傷が真新しい血の滲みを作っている。完全な無傷ではなく……。
「その研鑽は素晴らしいものだ。ただ……」
「……!」
「それでも、全てを失わずにいることはできない」
それでも無傷と言っていいほどの生存を披露した永仙を、穏やかに見つめるヴェイグの視線の先で。力の緩んだ指先の間から、炭化した紙片の欠片たちが零れ落ちていった。
――そう。
ヴェイグによって繰り出された極大規模の複合魔術を防ぐために、永仙はこの戦いに臨んで用意した装備のほぼ全てを使い尽くしていた。……神符、霊符を合わせて計四百四十枚。
異空間の収納から緊急時のストック全てを持ち出して構築した【四角四堺結界】と、各行三十枚の神符を用いて為された【比和相剋】。【太陰符】による強化の援護を惜しみなくつぎ込み、勝負所で使う腹積もりでいた『古典術式礼装』の機能さえ発動した。
神器である『名も無き栄華の剣』の【最善】を己の護りに振り向けてなお、それだけの代償がヴェイグの魔術を防ぎきるには必要だったのだ。……ッ桁が違う。
永仙の目の前にいる存在は、まるでヒトガタをした天災そのもの。……無理に稼働させた礼装の副作用。
限界以上の許容量で魔術を行使したことにより、全身の神経系が焼き切れるような熱気と痛みを発している。防御にて力を使い果たし……。
「……貴方の抵抗はこれで、幕を閉じた」
【真力解放】の効果を失って、色あせた長剣の姿へと戻った神器を握る指先には、汗も滲み出ないような、底冷えする冷たい震えが走っている。――勝機の完全なる喪失。
永仙が今し方体感した技法の内奥には、それだけの絶対的な力の差というものが横たわっていて。……あれほどの超規模魔術を打ち放っておいてなお、語るヴェイグの面持ちには、一片の疲労のあとも見受けられない。
「拠り所たる【世界構築】は見込み違いに終わり、戦術の核である符もそのほとんどが失われた」
「……!」
「用意してきた礼装も、神器でさえ、力の差を埋めるには至らない。この状況下で勝ち目がないことは、優れた技能者である貴方ならよく理解しているはずだ」
感じられる魔力の総量にも変化はなく、【三千世界】により数分の一程度には力を落としているはずの条件下で、大海と湖と言えるほどの差が、自分とヴェイグの用いる力には広がっている。……絶望的な違い。
「これが貴方の思う通りの戦いなら、ここであえなく決着がつくところかもしれないが……」
「……ッ」
「幸いなことにそうはならない。僕としては、これ以上貴方との戦いを続ける意義はないと思っている」
これほどの力の差が現実に在り得るとは、全くのこと想像していなかった。――ッなに。
「前々から一度、貴方と腹を割って話がしてみたくてね」
「――ッ⁉」
「そのための機会を探っていたんだが、中々いいタイミングが掴めなかった。結果として、貴方が僕を斃しに来るこのときを狙うことになってしまった」
「……話だと?」
自らの不備を詫びるようなヴェイグの態度に、永仙は己の消耗をこらえながら言葉を返す。……にわかには信じ難い。
「十年前の『アポカリプスの眼』に手を貸し、三大組織の構成員たちへの襲撃と、本部への強襲を行った時点で、お前が世界の破滅を目指していることは疑いようがない」
「……」
「互いの立場がこうまで隔たっている状況下で、この期に及んで、何を話そうと言うつもりだ?」
「……過去を見せるだけさ」
ここまで決定的な対立を見せたうえで、今更何を話せると言うのか? 小さく微笑んだヴェイグが、先の神器とは異なる一冊の本を手元に取り出す。
「この魔道具を使い、僕が滅世を志す理由、歩んできた道と物語を貴方に見てもらう」
「――」
「この世界の存続の仕方について、僕がこれまでに掴んだ事実も。――貴方の出す答えは、それから聞かせてほしい」
反応を待たずに本が開かれる。白紙のページに浮かび上がる文字たちの間から、精神的な魔術の干渉を覚えると同時――っ!
「……っ……⁉」
「――どうだったかな?」
永仙の意識が、此処ではないどこかへと飛ばされ。……刹那。
幾星霜が過ぎたと思える時間感覚ののち、現実の中で目覚めた永仙は、変わらない眼前の光景を目にしている。元のようにページの閉じていく魔道具を手にした、ヴェイグの姿。
「あまり愉快なものでないことについては、容赦して欲しい」
「……」
「強引なやり方であることも承知しているが、立場の隔たる貴方と話をするには、どうしてもこれを見てもらう必要があると思ってね。この魔道具の力に嘘がないことは、貴方なら分かってもらえていると思う」
瞬きするほどの短い時間のうちに圧縮された、精神世界におけるビジョンの再生。自らが今体感させられた現象の正体を把握して、永仙は、続くヴェイグの言葉に黙考を保つことしかできないでいる。……自らが体感した物語。
「『私のための物語』は、同意した人間の魂に刻まれた記憶を、物語の形で相手の精神へと投影する」
「……」
「余力のある状態なら、貴方はどうあっても僕を斃そうとするだろうから、話を聞いてもらうためには、貴方を一度追い込まなくてはならなかった」
目の前の相手の半生だと言うそれに、偽りがないということ。ヴェイグの言葉に嘘のないことが、分かってしまっていたからだ。……これが。
この男の――……。
「……」
「……貴方の扱うこの独自魔術は、特異なものだ」
明確な答えを返せないでいる永仙に何を思ったか、自分たちを納める【三千世界】の様相を目にしたヴェイグが、今一度自分から話し出す。
「かの魔導連合の始祖であり、稀代の大魔術師と謳われた《魔導翁ハイム》。歴史の中で生まれては消えていく幾多の秀でた術者たちでさえ、貴方のような【世界】の概念魔術を扱うに至った人間はいなかった」
「……!」
「この時代に至るまで、一人も。貴方一人を除いて、他には」
遥かな年月の重みを宿したヴェイグの黒い瞳が、永仙の思考の核心を射抜くように、正面から合わせられる。
「――貴方は、『世界』に利用されている」
「――」
「僕らのいるこの『世界』には、『管理者』と呼ばれる高次の超越者が存在している。先に貴方も見た通り」
語られるのは、ヴェイグが生涯の中で突き止め、先に永仙も物語として目にしていたその事実。
「太古の昔にこの星を訪れ、地球の『星の意思』と合一し、僕らのいる『世界』を管理する存在」
「……」
「人と世界が滅びようとした境目には必ず干渉が行われ、今日この日まで両者を存続させてきた。人の身では本来掴めないはずの【世界】の概念魔術を、君が扱えるようになった事情の背景には……」
古びた丸眼鏡のフレームを、ヴェイグが指先で僅かにずらす。
「世界と人とを存続させようとする、『管理者』の思惑があったと僕は見ている」
「……」
「自身が不要な干渉をせずとも『世界』の意志を代行する、都合のいい守り手としてね。これだけの技法を手に入れさせるとなれば、その経緯も通常の事象ではなし得ない」
永仙の脳裏に蘇ってくる、忘れることのできない記憶。
「本来なら起こり得ないはずの何かが、絡んでいるはずなんだ」
「……」
「……心当たりがあるようだね」
異空間に収納したままの、古びたペンダントに収められた写真を思い返す永仙の耳に、ヴェイグの放つ静かな声が響き渡った。
「――僕と同じ道を行かないかい?」
「――ッ⁉」
「九鬼永仙。『管理者』の思惑に動かされ、世界のために己を費やして来た貴方なら、その動機は充分にある」
永仙に歩み寄ったヴェイグが、自分の手を差し伸べてくる。
「君が体感した通り、僕らの同志の中には、かつての君の友もいる。君自身が望んでいた道とは異なるかもしれないが……」
「……」
「僕は、僕らは全ての地獄が未来永劫生まれないようにする。世界の嘆きを止めようとする志は、同じであるはずだ」
……蔭水冥希。
脳裏に浮かぶのは、かつて共に世界を救った至誠な技能者。……ヴェイグから見せられた過去の記憶。
今この時になって判明した事実に、積み重ねてきた自己から溢れ出る思考と感情が心のうちで氾濫している。差し伸べられた手を――。
「――ッ‼」
湧き起こる、紅蓮の炎幕が遮った。後退したヴェイグ。
「……滅世か」
残された数少ない神将符の一枚を、力を失った紙切れへと変えて。膝をついていた、永仙が立ち上がる。
「お前が……お前たちが、並みならぬ動機で悲願を目指していることは分かった」
「……」
「どれだけの試みと、苦悩の上に立ってきたことなのかも。――だが」
両の脚に力を込め、上げた面の中から、確かな光を宿す双眸がヴェイグを見つめ返す。
「お前たちの選び取ったその志は――私の進む道とは決して、相容れはしないものだ」
「……まだ、偽物の光を守ろうとする気かい?」
払われた手のひらを見つめるヴェイグ。指先に負わされていた僅かな火傷の痕が、ほんの一瞬だけ瞬いた治療の光のあとに消失する。
「世界と人のためだと大義を掲げて。自分と自分の存在を削り続けながら」
「……」
「かつて目にしたはずの、確かに在ったはずの光を拠り所に、何度でも苦痛の中に立ち上がろうとする。――哀しいね」
ヴェイグの瞳に浮かぶのは、深い惜しみの念。
「九鬼永仙。貴方ほどの聡明さと技量を持ち、己を錬磨し続けてきた人間であっても、『管理者』の思惑から外れることは難しい」
「……」
「世界と人によって与えられた輝きが、僕らにとって強すぎる/その陰で続く犠牲の痛みを忘れさせてしまう。何にも換えて己を存続させようとする両者の方向性を変えようとしない限り、僕らと、僕らと共にある世界は、永遠に地獄の中を彷徨う誰かを生み出し続けるだけだ」
ヴェイグの言葉を耳にしつつ、永仙は懐にある魔具たちの感触を確かめる。己に残された最後の道具。
「協会の賢者として、一人の魔術師として世界のために戦ってきた貴方なら、気付いているはずじゃないかな」
「……」
「数千年の昔から、人が如何なる活動をしようとも、この世界では怨嗟と嘆きの声が消えたことなどないということに。世界と人の在り方は決して、美しいものなどではない」
「……聡明か」
そのうちから取り出した符、梵字の記された一枚の紙片を目に、老人が目を瞑る。開けた瞳でヴェイグを目にし、
「尋常ならざる力と来歴を持ちながら、ただの人間であるこの私を、随分と高く買ってくれる」
「……」
「そこまで見込まれるとは光栄の極みだが――」
言葉の残響の残るうちで、微かな自嘲を浮かべた。
「――私はお前が思う以上に、愚かだよ」
「――っ⁉」
自らにその符を叩きつけると同時。爆発的な勢いで、永仙の纏う気配が増大する。流れる所作で腰を落とし、
大地そのものを陥没させるような剛力で地を蹴り出した永仙が、神速と呼べる速度で荒野となった世界のうちを駆け走る。ヴェイグより放たれた迎撃の魔術。
「――最後の『太陽符』か」
その全てを純粋な走力のみで掻い潜って走り続ける魔術師の姿に、ヴェイグが静かに呟きを零した。――『太陽符』。
己の魔術的な能力を減衰させる代わりに、身体能力を飛躍的に跳ね上げる霊符。弾幕を避けて相手の周囲を駆け巡り、僅かでも虚を突こうとする永仙の動きにしかし、ヴェイグは些かの動揺も見せていない。
「貴方に似つかわしくない、決死の突貫だ。――無駄だよ、九鬼永仙」
「――‼」
「貴方が如何に『世界』と『管理者』からの導きを受け、一人の人としてどれだけ優れた魔術の腕を持っていようとも、僕を斃すことはできない」
意志に応えてヴェイグの周囲に現前したのは、異様な覇気を纏う幾本もの長柄武器。極限まで鍛え上げられた刃先を輝かせ、地面に突き立てられたその得物たちを――。
「共に在り続ける世界と人とを終わらせ、永劫に続く無限の怨嗟の叫び声を終わらせる」
「――ッ‼」
「地獄の中で己を磨り潰されている者たち全ての遺志を継いで。その悲願のためだけに、僕はここに立っているのだから」
掴み取ったヴェイグの右腕が、霞む勢いの踏み込みで全身のバネを躍動させる。音速を超える衝撃波を生み出して投げ放たれた槍の先端が――ッッ‼‼
「――‼」
雷鳴の如き速さで移動する永仙の肉体を、確実に捉え。――ッ串刺し。
「ッッ‼‼」
鏡の如き先端が己の胴体に食い込むその寸前で、永仙の拳が磨かれた兵器の刃先を側方から強引に打ち据えていく。増大した気により強化された肉体の弾きを受けた宝槍が、唸りを上げて景色の向こうへと消失すると同時に、拉げた永仙の小指から血が噴き出す。――二度、三度。
回避が不可能な速度で迫りくる豪速の投擲に流しを見舞うたび、鍛え抜かれた金属の得物と衝突する身の一部が打ち砕かれ、赤黒い壊死の色に染まっていく。膂力だけでは防げない真空の刃たちが、直撃を貰わない頬や脚にさえ深々とした裂傷を刻んでいき――‼
「――ッ‼‼」
血風。自らの生命を乗せた緋色を纏いながら突貫した永仙の長剣と、記録から現出させられた稀代の輝きを放つヴェイグの長刀とが、苛烈な閃光と火花を散らして両者の中心で打ち合わされた。――ッ一合。
二合。身体能力のブーストを頼りに切りかかる永仙の猛攻を、武人の技量を借りるヴェイグは全て正面から対処していく。渾身の膂力の込められた決死の一撃を、澱みのない流れで円を描くように己の威力へと転換し。
「ッ――なに」
「――〝請い求むるは護身と破敵〟」
狙いのままにその首を刎ねようとした瞬間、ヴェイグを囲む周囲から突如として起こり来た魔力の波動に、刀の先端が阻まれる。目の前にいる姿と別に、背後から響いてくる新たな永仙の声。
「〝日月の守護、三公闘戦の破邪〟――」
「〝鳴動し、共鳴し、連携せよ〟――‼」
「――ッ『形代符』か」
大気を揺らす膨大な魔力を動員する、二重の詠唱がヴェイグの身と鼓膜を震わせている。自身の背後に現れたもう一人の永仙の姿が、魔術弾幕を避ける動きの中で仕込まれていた霊符の陣と共に、正面の永仙と併せてヴェイグを挟み込む戦型を構築している。――『形代符』による分身。
特殊な術式により、外見のみならず肉体や魔力の質さえも完全に模倣するその分身は、技能者として破格の経験の蓄積を持つヴェイグの眼力をもってしても、容易には見分けがつけられない。魔術的な能力を減衰させる『太陽符』の発動下では、ありえないと踏んでいた術法の行使――。
「――っ」
初手で下した見立てと現実との乖離が、ヴェイグにこの状況に持ち込まれる間隙を作らせていた。――永仙が己の強化として用いていた霊符は実のところ、魔術的な能力と引き換えに身体機能を高める『太陽符』ではない。
九鬼家の霊符として代々より伝わり、各々が精神的能力と身体的能力とを強化する『太陰符』並びに『太陽符』だが、双方の術理の元となる陰陽道の思想には、そもそも太陰と太陽の概念を一つに束ねた概念が存在する。
相反する二つの気を合一させ、束ね上げる〝太極〟の概念。誰しもが利用は不可能と考えていた概念を術理とし、永仙によって作り出された『太一太極符』は、己の精神的能力と肉体的能力を全く同時に高め上げることを可能にする。強大な陰陽の気を均衡させることの難しさゆえに、符の持続時間は『太陰符』たちに比べて半分にも満たないが――。
「〝万有を調伏す〟――ッ‼」
『太陽符』たちを用いたときの数倍に近い効率でもって、肉体と精神のどちらも損なわずに力を増幅させることができるのだ。――設置した陣によって永仙の展開した術法は、【護身破敵剣法】。
本来なら練達の術師数十人掛かりで行われるはずの広範囲殲滅術式は、符と歩法をもって描かれた陣の内部に強大な力場を発生させ、標的の脱出を封じると同時に、術者への攻撃を遮断する効力を持つ。如何なる強大な力を持った異形をも滅するために、黎明期の九鬼家において生み出された――!
攻防一体の奥義。――与えられた時間で殺れるのはどちらか一人。
「【無為の一閃】――ッッ‼‼」
神器の有無、入れ替わりの気配のなかったこと。判断材料となる要素から己の直感に命運を託したヴェイグの放つ神速の剣閃が、立ち塞がる力場の結界を空間ごと割り開くようにして、眼前の永仙の首筋を引き裂いた。――散る鮮血。
絶技を披露した武人の感覚に、過ちようのない確かな手応えがある。双眸の光を失った目の前の肉体から、命の拍動が消失していく。完全なる絶命。
……しかし。
「――【護身破敵」
「……ッ‼」
「――一閃】‼」
「ッ――‼」
それでも詠唱は止まらない。叫び上げた背後の気配に向けて眉根を歪ませるヴェイグの周囲から、収束した膨大な呪力の気が、天まで上る一筋の柱となって世界を揺らした。……散る光。
遅れてやって来た轟音が空間を戦慄かせていく。地鳴りのような鳴動が、秒を追うごとに次第に収まっていく。静寂。
「……っ」
「……っ読み違えたね」
魔力の閃光の晴れた先に、背後にいた永仙の首筋を掴み上げる、矍鑠としたヴェイグの姿があった。……纏う衣服には微かに焦げ目が付き、
「陰陽道の大家である九鬼家の秘奥、【護身破敵剣法】は、確かに強力な術法だ」
「……‼」
「その特殊な霊符による強化を受けている貴方が放つのなら、なおのこと。竜種や神獣種であろうとも、一撃で滅することのできる威力ではあるが……」
乱れた黒髪と、頬の汚れからは、無量と言える魔力を扱えるヴェイグをして、今の一撃の影響が決して皆無ではなかったことが窺える。細かな傷のついたレンズをそのままに、己の運命を悟った目の前の相手を、悠久の歳月を過ごしてきた黒色の瞳が見つめ続ける。
「半無限の魔力を用いることのできる僕を、この術では殺せない」
「――ッ」
「保険として掛けていた複合障壁が破られるほどとは、予想外だったけれどね。……ここが、貴方の道の終着点になる」
平静に語るヴェイグの表情からは、己の手のうちに掴んだ勝利への喜びなどまるで感じられない。去りゆく者への偽らざる悼みと、別れを告げることの虚しさだけを声に込めて。
「僕と、僕らに対する貴方たちの戦いを――人が自分と世界のために行う、最後の抵抗としよう」
「ッ……‼」
「さようなら、九鬼永仙」
武人の技量で固められたヴェイグの左指先が、掴んだ右手のひらで永仙の頸椎を粉砕すると同時に、老人の心臓を過たず貫く。背部まで貫き通した強靭な貫手。
「貴方は実に――」
「……」
「強く、……それと同じだけ、痛ましかった」
僅かの痛みも苦しみも与えぬよう、即座に意識と命を刈り取る手段を終えたヴェイグが、血にまみれた左腕を老人の遺骸から引き抜く。指先の血糊を振り払い、瞼を閉じさせ。
眠るような永仙の面を確かめたヴェイグが、生命の消えた老人の身体を地面に横たえる。立ち上がりと共に顔を上げて、主の消えた【世界】の崩壊を待とうとした。
――その、刹那。
「――ッ‼⁉」
物言わぬ骸となったはずの永仙の肉体が、微かにその輪郭を揺らめかせたかと思うと、梵字の描かれた無数の紙片へと分割される。縦横無尽の勢いで空間を飛び交う霊符たち――ッ‼
「――ッぐうッ‼⁉」
武人の感覚をもってしても本物と違わない、『形代符』の分身。驚愕に虚を突かれたヴェイグの意識の隙に、紙片の中から舞い踊った一枚の霊符が胸元に触れたかと思うと、その痩身からは考えられぬほどの力をもってヴェイグの能力を封じ込めに掛かる。――【太極封印】。
陰陽の気の合一を実現し、強化に用いれば多大な恩恵を齎す『太一太極符』だが、命令式を反転させて術法に用いた場合、その力は対象の魔術的な能力と肉体的能力の完全なる封縛として作用する。他の霊符の力を借りない単独の効力であっても――‼
「……ッく……ッッ‼‼」
大海の如きヴェイグの力の行使を封じ、その動きを完全に封じ込めるほどに。……ッ破れない。
全ての力をレジストに振り向けることにより、身じろぎするほどの抵抗は可能だが、それでも三十秒ほどの時間は持っていかれる。半無限の魔力を運用する自らを――。
「……っやるね……ッ」
いかに強力とはいえ、符の一枚でそれだけの時間無力化するとは。偉大な賢者の置き土産に、抵抗を続けながらも、微かな苦笑いが自らに浮かぶのをヴェイグは自覚していた。勝算の皆無と思えたあの状態からこれだけの仕込みを仕掛けるとは、自身の想像を超えている。
兜を脱ぐほどの手腕だが、今この状況下に至ってしまっては、卓越したその技巧も最早意味を成しはしない。自分の背後に現れた永仙が分身だったということはすなわち、正面で神器を手にしていたあの永仙が本体だったということ。
【形代符】による分身のつぎ込む魔力で【護身破敵剣法】こそ止まらなかったものの、本物の永仙はすでに、ヴェイグの一刀に完全に息の根を止められている。本来なら分身との虚実で反撃の機会を作るはずだったのだろう仕込みだが、
「く――っ……‼」
二分の一という確率の厚みを超えられなかったがゆえに、今はただ、九鬼永仙という人間の遺した遺志として最後の輝きを放っているに過ぎない。……分にも満たない僅かな時間を、手向けとして捧げるだけ――。
そう、思っていた。
「――ッッ‼⁉」
唐突に湧き起こったその気配に対し、封印への抵抗に振り向けていたヴェイグの思考の運動全てが、一瞬だけ硬直する。……僅かな自由で瞳を動かした先。
「――‼」
首筋を引き裂かれ、斃れていたはずの永仙。とうに熱を失い、生命のない肉塊と化していたはずの九鬼永仙が、立ち上がっている。裂かれた首筋から血を流し――!
「……っ……‼」
幾重もの壊死と裂傷を負わされた肉体は満身創痍。命の灯火を消えかけさせながらも、支えとなる霊符の放つ光に身を包みながら、古びた長剣の神器を握り締めて。……有り得ないはずの光景。
「……なぜ」
起こり得ないはずの事態の実現に、符の束縛を受け続けるヴェイグの口元から、辛うじて小さな疑問の声が零れ落ちた。――永仙の生家である九鬼家。
陰陽道の大家として、千年近くに渡る歴史の中で紡がれてきた数多くの技法には、その残酷性から禁忌とされ、封印された複数の秘術がある。一族の中でも特別力の強い術者の血肉を利用して作成され……。
術を施される者が生まれたときより肉体に埋め込まれ、成長と共にいずれはその者の一部となる〝生ける霊符〟。血を分けた直系の肉親の肉体を素材とし、己の身体の一部を取り込んで完成する『落命受護符』は、霊符と同化した者の死を、その生涯において一度だけ肩代わりする性質を持つ。
「……ッ……!」
「……【真力解放】」
古の政において九鬼家が宮中と結びついていた時代、骨肉相食む陰惨極まりない権力争いの備えとして成立し、『祓紋の八家』として政治の中心から外れる過程で忘れ去られ、零落の道を辿った近代にはすでに使える者も途絶えていたはずの技法。永仙の曾祖母にして、九鬼家が陰陽道の大家として名を馳せた最後の時代の当主――。
九鬼銀揺が、生まれ落ちた彼の天稟を前にして、己の右眼と左腕を犠牲に作成した最後の一枚。生涯に一度だけ力を発揮する切り札を以てして、紡ぎ上げられた詠唱にヴェイグはただ目を見張っている。煌々と輝く金色の剣たち。
「……ははっ」
来る機会のために力を蓄えていた神器が、真なるその八片の威容を露にしている。一撃のために大地を踏みしめる構えを取った永仙が、正面からヴェイグを見据える。
「……まさか、ここまでとは」
「ッ【避け得ぬ――」
「恐れ入ったよ。九鬼、えいせ……」
「――終焉】ッッ‼‼」
揺らぐことのない、燦然たる星々の光にも似た決意を瞳に宿して。殲滅のための【最善】を目的とされた神器の刃たちが、その強大な力の全てを、目の前の囚人に向けて解き放った。




