第二十五話 圧倒
――雨あられの如くに降りしきる魔術弾幕。
「――‼‼」
身を揺るがす衝撃に大きく立ち位置をずらしつつ、可能な限りの速さで永仙は四方に向けて対応する属性の符を撃ち放つ。――【相剋】の術理。
「【比和相剋】ッ‼」
陰陽道における五行が互いに互いを打ち消し合う連環の関係を用い、相反する属性を当てることで属性の威力を一方的に打ち消す技法。衝突する一瞬の機を逃さず解放された神将符の力。狙い通りにぶつかり合い消滅する威力の余波から、僅かに自分の方角へと流れた爆風が肉体を揺らしたことを永仙は自覚する。――っ押し負けている。
【相剋】で有利関係にある属性をぶつけている以上、言わずもがな威力の相殺では永仙の側が有利であるはずである。……【太陰符】の強化法を用いることにより、肉体的な能力を代償に魔術関連の能力を増幅してもいる。
「――やるね~」
「……!」
「この弾幕をここまで完璧に防ぎ切るなんて。一体何枚の符を持って来てるんだい?」
リスクを負ってまで符術の威力を上げているにもかかわらず、不利を超えるだけの威力を難なく、凄まじい速さで連発してきているのだ。数百以上の法陣を同時展開しながら余裕の表情を保つヴェイグの相貌を、永仙は今一度睨みつける。広大な空間の各所で休みなく力の衝突が起こり――‼
「――ッ!」
相殺を続ける永仙の視界端、視覚に残る微かな揺らめきを置き去りに、赤い羽根飾りの長槍を携えたヴェイグが弾丸もかくやと言わん速度で疾走する。辛うじて把握だけはした強襲に対し、魔術を捌く状況下で応じられるだけの余裕はなく――‼
「――おっと‼」
首級を上げんと加速したヴェイグの踏み込みを、神速で飛来した金色の剣閃が妨害する。けたたましい金属音を上げて後退したヴェイグの眼の前で、強大な力を湛える古き諸刃の刃が、輪を描く軌道で主への接近を牽制している。――『神器』。
『名も無き栄華の剣』。本山における秋光との戦いでも披露された、世界に八つのみ存在を確認されている古の魔道具。
普段古びた長剣の形を取っているそれは、所持者による【真力解放】を行うことにより、本来の姿である強大な力を秘めた八片の剣片へと変貌を遂げる。……『名も無き栄華の剣』の持つ能力は、【最善】。
一つ一つがに匹敵するほどの力を宿した八対の光芒が、所持者の望む目的に対して、常に最善の選択肢を自律的に取り続ける。神獣種たる黄龍の攻撃を防ぎ、近づけなかったあの戦いと同じように。
「いやぁ、硬い硬い」
「……」
「流石は神器の一つ。二十三雄の一人たる《緋槍天子》の愛槍とはいえ、正面からの衝突では分が悪いね」
――今の永仙の望む目的は、〝自身の生存〟。永仙を脅かすあらゆる攻撃の訪れに対し、周囲を回る八つの剣が自動的に最善の形での迎撃を行う。魔術の展開を止めたヴェイグの引き戻した槍の先。
熟練の名工により極限まで鋭利に鍛え上げられている刃の先端は、今しがたの接触によって僅かに欠けが見えてしまっている。ヴェイグの手元で流麗に回転させられた宝槍が、手品の如く淀みない変化で消え失せる。
「真の武人と言える領域の技法であっても、過たず的確に反応してくる。流石は、持つだけで組織幹部に匹敵する力を得られると言われる魔道具だ」
「……」
始めから何もそのうちに無かったかの如くに振られる手のひら。相手の余裕で生まれた間隙に心のうちで息を吐きながら、永仙はこれまでの戦況を分析していた。――強い。
その一語に尽きる。魔導協会の頂点たる大賢者に至ってなお、魔導の真髄を求め続けた自らを凌駕する魔術の腕。
強力無比な魔導具の現出に、それらの得物の格に引けを取ることのない練達した武術の技量が備わっている。どちらか一つだけでも脅威と言える技量が集約されている事実に、今この時に至るまで突破口が見出せないでいるのだ。……防ぐだけでも難関。
【最善】の能力を持つ神器にて守りを張っているとはいえ、仮に自分がヴェイグの魔術を相殺し切れなければ、神器の処理能力に綻びが出る可能性があることを永仙は把握していた。……唯一無二と言える強力な性能を持つとはいえ、神器は決して万能の道具ではない。
秋光と黄龍の連携に僅かに突破を許したときのように、神器自体の持つ限界値を超えてしまったなら、その対応にはいかんともしがたく不備が出る。神器の力に加えて自分が全ての手札を出す心づもりでいる以上、起こり得ないと思っていたはずのその事態が……。
「……」
目の前のこの相手、ヴェイグ・カーンを前にしては、現実に起こり得るかもしれないのだ。――自らの置かれている現状。
誰の眼から見ても明白な劣勢を享受しているこの状況こそが、正に永仙が当初から狙っていたはずの状況だった。十年前の『アポカリプスの眼』との戦いより見え隠れする、世界の安寧を脅かす不吉な影。
構成員たちの素性は掴めず、ただ組織方と凶王派の情報網を潜り抜けることからして、何かしらの強大な力を持つものが背後にいることだけは推測できる。力の大きさも、技能者としての特徴も不明であり、
だからこそ永仙は、相対を目論むにあたって万全を期した。ほぼ完全と言える気配の隠匿を用いた上での、初手からの【世界構築】の発動。
襲撃に対する警戒が最も薄いその瞬間に、回避も防御も望めない独自魔術で状況を決する。自分たちのいる現実世界に対象の存在しない九つの平行世界を重ね合わせ、構築した異位相閉鎖空間領域である【世界】にて、対象のあらゆる力を十分の一にまで落とす秘奥――。
【世界構築】の中でも最大の秘術である【三千世界】の完成こそが、永仙が己の勝利を託した最大の要因だったのだ。……【三千世界】による存在の薄弱化は、単に対象の能力を落とすだけに留まらない。
世界に認知されるはずの存在が薄まることにより、一定以下の力しか持たない対象の場合、【世界構築】が完了した時点で存在の消滅すら引き起こすことが可能になる。いかなる魔術的な防御や技能を用いても、一度【世界】が完成した以上は決して影響を避けることはできず。
例え存在崩壊に至らないとしても、全ての力が十分の一にまで落とされた状態で、自分と神器の総力を超えることなどできはしない。万難を排しての確実な必勝となる――。
「……」
その、はずが。……目の前に立つ男。
これまで間断のない戦闘を続けてきて、僅かの消耗すら窺い知れないヴェイグの様相を前に、永仙の思考には一つの疑念が浮かんできている。自身が主力とする【神符術】と【霊符術】は、あらかじめ道具の側に魔力と術式を付与しておくことにより、行使時の消耗を大きく軽減することができる。
道具を用いる術法の利点の一つでもあるが、その手の媒体を用いずに法陣による術式を展開するヴェイグには、必要となる魔力の消耗がそのまま圧し掛かっているはずだ。……神器を突破する試みを繰り返している以上、体力的な消耗も避けられない。
いかに達人級の武術の腕を備えるとしても、身体機能を十全に発揮し続ければそれなりの消耗はあるはずだが、そうした肉体的な疲労でさえ目の前のヴェイグには生じているように思えないのだ。……【三千世界】の術式は十全に作用している。
「――僕が貴方の【世界】の中で、ここまでの力を振るえることが不思議かい?」
全ての目論見が誤りなく叶えられたうえで、描いた戦況にここまでの齟齬が生じるとするならば、それは。――ッ問いかけ。
「……」
「疑問に思うのも当然だろうね。平行世界の合一による、対象の存在強度の低下……」
自分たちを閉じ込める空間を見回したヴェイグが、永仙に敵意のない穏やかな眼差しを差し向ける。無言を貫く永仙に対し、優秀な疑問を持つ学生を前にした教師のように。
「貴方の言う通り、世界のうちに在る者である以上、この術の影響を避けられるはずもない」
「……」
「貴方の技法は全て正常に作用している。その上で見込んだほどの効果がないとなれば、答えは単純だ」
一つ指を立てて、純粋な善意から生まれる微笑みを贈った。
「この【世界構築】による能力の減衰は、こと僕の力については効果が薄いんだよ」
「……なに?」
「並行世界の重ね合わせは確かに強力な術法だが、ただでさえ法外な術理である以上、どうしても避けられない制約を受けることにもなる。――環境が違い過ぎる世界は合一できないんだろう?」
見つめるヴェイグの黒い瞳が、永仙が答えずとも正答であることを確信している。
「人を含めた生命がまったく無い、荒野のような世界を重ねられるとなれば、それは人の手による領域を超えてしまう」
「……!」
「対象だけがいない並行世界というのは、単にそれが狙いというだけではなく、術法の行使にあたって、なるべくそのズレを減らすためのものでもあるわけだ。――この術法で弱体化できるのは、指定した対象の存在だけ」
よどみなく語ってきたヴェイグの手のうちに、一つの物体が出現した。あれは――⁉
「――ッ」
「力の源が自分以外のところにあるのであれば、影響は最小限度に留められる。――『残影の書典』」
題名の無い、古びた表紙を持つぶ厚い一冊の本。赤地に金色の文様が刻まれた豪奢な装丁を目にする永仙の前で、無造作にページを開いたヴェイグが話し続ける。
「貴方の持つ神器と同じく、便利なものでね。この神器は一度内部に記録したものを、現実のものとして再現することができる」
「っ……!」
「再現中に破損した道具も、呼び出し直せば記録した時点の姿を取り戻すし、【真力解放】を行った場合、物だけでなく人間の記憶や経験を再現することもできる。技能者たちの力と技……」
語るヴェイグの傍らに出現した、貴族風の装飾の施された煌びやかな短剣が、無数の傷跡を持つ大斧や、見慣れぬ古式の銃器、竜の牙に囲われた不可思議な光を放つ宝玉へと変化する。――正確に言えば変化ではない。
「過去に世界に存在した高名な武人たちの力を、自分のものとして再現したりすることもね」
「……」
「魔術についても同様だ。この本に記録された七百以上の魔道具と技能者の集積が、貴方が相対している厚みの正体なんだよ」
あの神器に記録された過去の道具たちが、ヴェイグの意思によって頁を捲るように入れ替わりで再現されているに過ぎない。披露されていた事象の絡繰り。
自分やリアを凌駕するほどの魔術の腕を持ちながらにして、卓越した武人の腕を持つことについてはこれで納得がいく。あれだけの種類と質を誇る得物の数々を、自在に使いこなしていたことにも説明がつき。
――だが。
「……それだけではあるまい」
もう一つの矛盾点。戦況の問題となる本当の核心について、永仙は問いを投げかける。
「いかに多くの技能と道具を扱えようとも、人の身である以上、元となる力の総量には限界があるはず」
「……」
「【三千世界】の内部に在りながら、極めて高度な魔術と武術を同時に振るい続けられるその余裕。尽きる気配のない、お前の力の源は、一体どこに由来するものだ?」
「……その質問に答えるのはあとにしようか」
ヴェイグの微笑みが、微かに哀愁を浮かべるような気配を帯びる。――そう。
「話すにはもう少し相応しい場面が来るだろうし、僕としてもあまり、声高に叫びたいことでもない」
「……」
「楽しい気持ちで話せるようなものではないからね。貴方のような、生涯を世界を守るために捧げてきた人にとっては、特に。――一つだけ教えておこうか」
これまでの現象の分析から、永仙はおぼろげながらに相手の力の仕組みを掴んでいた。……ヴェイグの持つ異様と言える魔力体力は、目の前に相対するヴェイグ自身から引き出されているのではない。
「人と世界が在る以上、僕の力の源となることは、必ず在り続けるものだ」
「――ッ」
「どんな並行世界を重ね合わせようと、決して消し去ることはできない。無限を半分にしたところで、あまり意味はないのに等しいものだからね。とはいえ……」
ヴェイグを通じて、彼と接続した何かしらがその消耗を担っている。永仙の目の前で、ヴェイグの纏う気配が変わる。
「貴方のその神器は、厄介なものだね」
「――」
「『残影の書典』による真の武人たちの技術をぶつけてみても、そう簡単に突破することはできない。元大賢者である貴方の魔術の技量も、僕の使う生半可な魔術弾幕程度では崩せない」
顎に手を当てるわざとらしい悩みの素振りを見せたのち、ヴェイグが正面から永仙を見つめてくる。これまでの飄然とした雰囲気にはない、戦いの意識を浮かべて。
「このまま長引かせてしまえば、思わぬ敗着があるかもしれない。――いっそのこともう少し、大きな力をぶつけてみるとしようか」
――ヴェイグの秘める魔力の総量が増大する。
「ッ〝礼装稼働〟――ッ‼」
「ここは貴方の【世界】の内側」
神速で展開されたこれまでとはまるで別次元となる複雑な術式と、惜しみなくつぎ込まれる大海の如き魔力の大きさに、本能的な危機を覚えて永仙は己の纏う衣の性能を稼働させる。魔導協会より持ち出した、戦時に古の賢者たちが用いたという『古典術式礼装』。
「内部の損壊は分離後の現実世界にも引き継がれるけど、ここで起きる事象を目にする者はいない」
「――〝選ばれし賢人の名において、不屈の宿命を我は欲す〟――‼‼」
「僕らの振るう力の余波に巻き込まれるものも。派手に行こうか」
己の魔術的な能力を、ごく短時間だけ飛躍的に増大させる切り札を切りつつ――懐に突き入れる手で異空間の収納から取り出したのは、百の神符と霊符を重ねた束の計四つ。己の全身全霊で対処を整える永仙の態度を前にして、ヴェイグの唇が、ゆっくりと詠唱の終わりを発した。
「【Catastrophe】――」
力みもないただ一語の言の葉に連れて。
「――‼‼」
天地を覆う規模の属性の威力たちが氾濫する。世界を引き裂くほどの破壊が、永仙の全ての感覚を埋め尽くした。
――第六支部支部長からの説明を受けた、数時間後。
「……」
魔導協会の四賢者たる魔術師――九鬼永仙は、特に問題とぶつかることもなく、目指す目的地へと辿り着いていた。うらぶれた田舎の町。
辺りに牧歌的な風景が広がっている。支部の担当となる区域の最西端に位置し、山と丘陵とに囲まれた辺鄙な地形は、特別な目的でもなければ足を運ぶことはないと思える。……此処で自分がすべき事柄。
仕事の中身を今一度確認して、永仙は恐れのない歩みを進めた。――支部から送られてきた書状の内容。
今から三年ほど前、協会の拠点としての職務に励む第六支部宛に、一通の嘆願書が届いた。差出人の名前はなく、記されていたのは管轄区域内にある一つの町の名称と、その他に一言の要望だけ。
通常であれば単なるいたずらか、些事として無視するところだが、文章の切実さから技能者絡みの事件の臭いをかぎ取った支部長の指示によって、数人の協会員たちが派遣されることになった。手紙に記されていた町を訪れ、調査に当たり――。
結果としてしかし、一切の手掛かりを掴むことはできなかった。住人たちへの聞き込みでも情報が得られることはなく、首をひねりながら帰還した三人の報告書を受けたのちに、この件は不明の案件として処理されたのだが。
それから一年後、全く同じ文面の書状が第六支部宛に届けられた。町の名も文面も同じ。
流石に無視はできず、支部長本人が赴くことになった。思い当たる可能性を吟味し、前回の無成果を踏まえて入念な用意と共に出向いたのだが――。
その調査もまた、先の三人と全く同じ空振りに終わらされた。支部長クラスが当たってなお、手掛かりの片鱗も掴めない事件。
それだけでも不可解だが、それから更に一年後となる先日、再び同じ内容の手紙が支部に届けられたというのだ。……情報が掴めていない以上、内容の詳細は不明確となる。
正式な職務として要請はできないが、三度手紙の来たものを捨ておくことにも不安が残る。かくなる上は本山で更なる調査を行い、適切な人員を派遣して欲しい――。
「……」
――それが永仙の元に届いた書状の内容だった。支部長たちの慌てふためき。
あり得るとは思っていなかった四賢者の来訪を前にして、必要以上に畏まっていた支部の空気を永仙は思い返す。四賢者は通常、重要性の不明確な案件にわざわざ足を運ぶことはない。
大賢者であるリア・ファレルはその地位に比してフットワークの軽い振る舞いに定評のある人物だが、まさか新任の四賢者が似たような行動に出るとは思ってもいなかったのだろう。足取りを進めつつ……。
「……」
懐で手にした書面の感触を、永仙は今一度確かめる。……間違いない。
支部に送られてきたという手紙。受け取った現物を確かめた永仙は、そこに誰もが気づかなかった微かな力の痕跡を見てとることができていた。……非常に微細。
通常の感知では気取ることさえできない、消えかけの残り香にも近いものだが、確かに異質な魔力の気配が備わっている。緻密な術式や定式化された詠唱の気配は感じられず……。
協会で言う【原始魔術】。情感や思念を切っ掛けとして引き出される、原初の魔術に近いカタチに該当するものだろうが、手紙そのものに付着する気配だけでなく、そこに書かれている文字自体にも、ある種の魔術的な働きかけの力が宿っている。支部長を始めとした支部の魔術師たちが、情報の少なすぎる件への人員の派遣を決めたのも……。
この無意識に訴えかけてくる、原始的な魔術の働きがあったからだということは想像に難くない。とはいえ。
〝――ここから出して〟
「……」
例えそれを抜きにしたとしても、手紙の中に書かれている文面は、大いに人の想像を刺激する内容ではあったが。短い一文。
インクの滲んだ拙い筆跡を思い返し、永仙は今一度己の判断を確かにする。あれだけの文章で何かを確定させることはできない。
助けを求める人間が本当にいるのかも分からず、協会の支部に仕掛けられた、手の込んだ罠か嫌がらせという可能性もある。事態の緊急性がどれだけのものかは不明瞭で。
「……さて」
だがいずれにせよ、魔術師としての腕を活かせずに無聊を持て余していた自分にとって、動機としてはそれだけで充分に足りることなのだ。行く手に広がるのどかな町の風景を見て取って、永仙は暫し思案する。――どこから始めるか。
地図の上で地形と見取り図の確認はしてきたが、実物を前にしても、決して広いとは言えないこの町だ。端から順番に当たる工夫のないやり口でも、下策とは言えないのだろうが……。
「――済まない、少しいいか?」
「――おお、どうなさった?」
石橋を叩いて渡るような地道なそのやり方では、本山の机に腰を下ろしているのと大して変わりはしない。畑のうちへ伸びるあぜ道から歩いてくる、農作業を終えたらしい一人の老人に永仙は声をかける。着古された麻布の上着。
「見たところ旅の御方らしいが。道にでも迷いなさったかな?」
「全くもってその通りでな。――私は実は、支部の方から派遣されてきた者なのだが」
ウサギのなめし革で作られたと思しき靴は、咽るような自然の香りのする黒土に模様を施されており、肩には収穫したばかりと見えるジャガイモの詰まった布袋をかけている。――支部。
「っおお、そうでしたか」
「――」
「知らぬこととは言え、これはとんだ失礼を。どのような用件でしょうかな」
「私の所属する支部に、このたび妙な書状が届いてな」
通常の会話であれば何気ないただの一単語であるが、ここが協会の管轄区域となる地域である以上、事情を知る者からすればその意味は違ったものとなる。袋を下ろして身体の前で手を重ねて見せた老人に向けて、永仙は懐から例の手紙を取り出して見せる。
「一年前と、二年前にも同様のものが届いている」
「……」
「その都度調査を試みてはきたが、未だに詳細が掴めないでいる。この手紙について、何か知っていることはないか?」
「……さぁ……」
節くれだった農夫の指先が便箋を開く。中の短い文章を見つめた老人は、困ったと言うように眉根を寄せて。
「情報があればお伝えしたいのは山々ですが。何分この辺りは、至って平穏な田舎町でして」
「……」
「人の往来はときおりありますが、それ以外には変化もなく、退屈極まりないほどです。ここ数年の間であっても、特別変わったことなどは……」
「……そうか」
老人の答えに永仙は溜め息を吐く。丁寧に閉じ直して渡された手紙を受け取り。
「足を止めさせて済まなかった。町人たちの間で、何か変わったことや、心当たりのある者がいれば、伝えてくれるよう声をかけて欲しい」
「承りました。老骨ではお役に立てずに、申し訳ありません」
互いに謝意を示して別れ合う。腰を曲げたその姿が、家々の並ぶ道筋へと入っていき――。
「……」
――嘘だな。
消えていくその後ろ姿を見送って、永仙は心のうちでそう判じる。経験に裏打ちされたと思しき、極めて巧妙な演技ではあったが。
手紙を見た老人の瞳に、ほんの一瞬、針の軌跡ほどの光が瞬いたのを永仙は見逃さなかった。始めの一人から収穫があるとは思っていなかったが。
少なくともあの老人は、手紙の件について何かを知っている。その上で回答を拒んできたということは、知られたくない事情が事態の裏に潜んでいることを示しているのだろう。支部員たちが行った聞き込みの成果は……。
やはり、始めから誤謬を含んでいた。全員か、たまたま内実を知る者に当たっただけなのかは分からないが、この町とこの町の人間が関与していることは間違いがない。推測していた状況を確信し――。
「……」
根拠のない推測の頼りともなっていた、一つの異質な気配を永仙は改めて把握する。街道より離れた町の裏手。
町中というよりも山の麓に近いその位置に、不可思議な魔力の気配が感じられる。あの手紙に付着していた魔力とは違う。
周囲に漂う自然の空気に紛れるように散らされてはいるが、紛れもなく、意図的に構築された術式の気配だ。……魔術的には特徴的な要素を持たないはずのこの土地。
名のある『逸れ者』や技能組織の関係者もおらず、地脈を見ても特異な要因のないようなこの場所で、そんな異様な術式の気配が感じられることは、余りに不自然であり。……そこに事態の手掛かりがある。
「……さて」
理屈と推論でそのことに確信を得ながらも、永仙は木造の家屋の立ち並ぶ町の方へと踏み出していく。事情を知る老人に正体を明かした以上、協会の関係者である魔術師の来訪は、町中にいる他の人間たちにも伝わることだろう。
この町にとって秘匿すべき事情があるのなら、隠蔽か妨害かのための、何かしらの行動が起きてくるはずであり。それらの反応を引き出すことこそが、素性の分からない町人に声を掛けた、永仙の元々の意図と言える。
地道に一つ一つの可能性を虱潰しにしていくよりも、相手の側から行動を起こしてもらった方が見当を付け易くなる。本命の動き出しを待ってから――。
知恵と技術を尽くした大立ち回りで、一気に片をつける。磨き上げた自らの技量を発揮できる機会の訪れがあるかどうか。
自分から動き出すのは、その有無を確かめてからでも遅くはない。己の望みを叶えるアクションを期待しつつ……。
「どこにするか……」
久方ぶりの自由を謳歌する四賢者、九鬼永仙は、拠点となる当座の宿を探しに歩いて行った。




