第二十話 選ぶべき道のために
――天地を揺るがす威容のぶつかり合う戦場。
「……ッ」
七十二の黒符が織り成す力場の障壁に守られながら――協会の四賢者筆頭にして当代有数の召喚師、式秋光はその戦況を俯瞰している。――感知の感覚に伝わってくる震え。
広大な空間の各所から湧き起こる力の大きさは、矮小な人の身が紛れ込めばその余波だけで即座に消し飛ばされるほどの強さを持っている。絶大な力を持つ者同士の衝突を示す証でもあるが――。
「――!」
秋光の眼にする形勢はおよそ、一方的と言うに相応しい様相を露見していた。強烈な突進の衝撃に耐えきれず、鬼神が体勢を崩す。
膝をつきながらも反撃を繰り出さんと腕を振り上げたその所作を、固く強靭な瞬速の爪牙が抉り取っていく。腕、胴、脚。
剣山のごとく突き立った体毛は鬼神の肉体を触れた箇所から削り取り、豪速の瞬発力と相まって一個の鋼の砲弾と化している。鬼神の顎元へカウンター気味に頭蓋による突進を浴びせて、床へと沈み込ませる純白の猛獣――白虎。
「――」
加勢に加わろうとする二体の鬼神の猛進を、黒い小山のような塊が逆に押し戻していく。重厚なる漆黒の甲殻と、巻き付く巨大な蛇を備えた大亀。
動く山脈のような玄武の質量に押し負けながらも、鬼神らは執拗に己の拳を叩き込んでいるが、諸手の鉄槌すらはじき返す甲羅の硬度と、全身を覆う滑りに威力を殺され、開幕から傷一つ負わせることすらできていない。――甲羅に巻き付くしなやかな大蛇の肉体が鬼神たちの迎撃を俊敏に掻い潜り、守りを固めた腕を締め上げて、顕わにされた首筋へと食らいつく。
「――ッ」
身を襲う一切の反撃を無意味と成し、淡々と鬼神たちを押し込んでいく玄武の歩みの傍らで、空から迫り来る強襲が辺りに眩い紅蓮の炎を現出させる。優雅に、そして自在に空を舞う紅の翼。
放たれた炎の渦が身構えた鬼神の全身を覆い尽くし、余りあるその灼熱で、助けに入ろうとした別の鬼神の行く手さえ阻んでいく。身を焼き焦がされる苦痛の中で闇雲に振り回された両腕は、華麗に炎のうちを飛ぶ朱雀の羽根一枚にさえ掠ることはなく。
「……――‼」
青龍。蒼き威容を誇るその龍に、鬼神たちは近付くことすらできていない。台風もかくやと言うほどの集中した暴風が、中心を泳ぐ主を鎧の如くに守っており、
吹き荒れる突風に鈍くなる歩みを、天から落ちる激烈な雷撃が打ち崩していく。固めた守りにひとたび動きを止めてしまえばもう、龍の操る天候の餌食となる以外の道は残されてはいなかった。
――広大な空間の各所で繰り広げられる戦場全てにおいて、秋光の盟友たる四神たちは確実な優勢の戦況を展開している。鬼神が鬼の中で最上位に位置する異形であることは確か。
古くより厄災を起こすとして民間の中で恐れられ、ときに自然神とさえ称されるそれらが強大な霊的存在であることは確かだが、それでも神獣とまで崇められる四神と比べたならば、霊格も存在強度も数段は劣る。凡百の鬼神であればとうの昔に決着がついていると言ってよく――。
「ちっ! 愚図どもが……ッ‼」
数の上では勝るとはいえ、四神を相手にこれまで完全な活動停止に追い込まれていないことこそが、かえって零の集めた鬼神の格の高さを示していると言えるほどだった。吐き捨てる零の視線の眼前。
「……」
誰の目にも明らかな戦力の格差を前に、切り札として呼び出されただろう黒竜はしかし、全身に力を漲らせながら静かにその動きを止めている。――黄龍。
五体の神獣の中でも最大の霊格と存在強度を誇り、四神の長とも称されるその龍の威容が、黒竜に己の出陣という最終措置を取らせないでいるのだ。……洋の東西に差はあれども。
零に呼び出された黒竜と、黄龍とでは概ね互角の戦力を持つと秋光は考えていた。千年を超える齢を持つ黄龍に比べれば、目の前の黒竜は若く浅い。
積み重ねた年月による霊格の深みでは黄龍の側に分があるだろうが、竜種の持つ強靭な運動能力と、若さゆえの純粋な力の大きさでは黒竜の方が幾分か勝る。鬼神七柱と共にこれだけの異形を召喚してきたことに、僅かな惜しみの念さえ湧くほどであり。
「……」
正面からぶつかれば黄龍とてただでは済まない。傾向として高い知能を持つ竜種として、黒竜もそのことは理解している。――だが。
――白虎!
両者の陣営の戦い方には、ここに見られるまで決定的な違いがある。青龍の嵐を抜け出そうとした鬼神の動きを、戦場を自在に駆け巡る白虎の強襲が妨害する。
朱雀、青龍――ッ。
玄武の側面へ回り込もうとした鬼神の動作を天から降る炎が途絶させ、空を舞う朱雀を捕えようとする鬼神の努力を、青龍の嵐と雷撃が打ち砕いていく。【盟約】の繋がりを持つ秋光と四神たちは、戦いの始まりから連携して敵方の対処へと当たっている。
「――ッ」
鬼神たちも各々で勝機を捉えようとはするが、基本的にその動きは孤立した個が別々に判断を下しているだけ。唯一敵方に勝る数の優位すら活かせずに、分断された状態で目前の脅威に短絡的な判断を下しているに過ぎないのだ。――召喚相手である異形と結んできた信頼の深さ。
「っ何をしている……! ――ッさっさとその龍を片付けろ‼」
「……」
仲間として共に戦場を駆けてきた時間の長さこそが、そのまま戦術の差に表れていると言え。主の叱責に動かない黒竜も、それをまた重々承知している。
ここで黄龍と自分がぶつかり合えば、仮に黒竜の側が勝利を収めたとしても、手傷を負った状態で残りの四神たちを相手取るのは難しい。味方と言えるはずの鬼神たちが……。
「……自分たちからでは動けない、というわけですか?」
「――」
「抗議はいいです。――分かりました」
こうまで頼りにならないのでは、なおのこと。低く咆咻を漏らした黒竜。異形からの提言と言える応答を受けて、零が息を吐く。
「少しは好きに動かしてやるのも面白いかと思いましたが。まさか、貴方たちがここまで使えないとは」
「――ッ」
「中世の欧州を混乱に陥れたという、魔竜の血を引く異形の名が泣きますね。――いいでしょう」
慌てるように翼をはためかせた黒竜の動作を、冷え切った主の宣告が断ち切った。
「――もうお前たちの意志は、必要ない」
「――!」
零から立ち昇る荒々しい魔力の波動。秋光が眉を上げると同時――‼
「――ッ⁉」
これまで冷静に機を窺っていたはずの黒竜が、突如として目の前の黄龍に突貫する。翼を大きく広げ。
「――‼」
地を蹴り低く滑空した上での突進。絶大な質量を持つ者同士の激突に地面と空間が震え、鱗を立てた尾の一撃が顔面を打ち据えるのも構わずに、顎を開けた黒竜が黄龍の喉笛へと食らいついてくる。――寸前で身体を捻ることで空を切らせた黄龍。
「――‼」
行動に異変が起きているのは、黒竜と黄龍の側だけではなかった。優勢を保っていた四神たち。
その各々の戦況で、鬼神たちがこれまでにない行動を見せ始めている。白虎の突進を正面から受け止めた鬼神。
「――」
これまでにない剛力の発揮に不意を突かれた白虎の顔面を、固められた鬼神の拳が全力で打ち据えていく。剣山の如き体毛で、自らの身体が削り落ちていくことも構わずに。
何度も何度も。部屋の床を砕き割り、瓦礫を掴んだ鬼神が豪速で空へと巨大な石材の塊を投げ放つ。狙い撃たれた朱雀。
「――‼」
高度を低くして回避するその所作に、あらかじめ狙いを合わせていたかのように、側方から走り込んできた鬼神が跳躍する。炎を纏う片翼を僅かに掴み――‼
「――‼」
燃え盛る業火でその身を焦がされる苦痛も無視し、翼に滲む血を代償に脱出した朱雀の舞う先を、感情のこもらない瞳で執拗に見つめ続ける。玄武と青龍――。
「……‼」
援護に回ろうとする二体の神獣も、互いの戦場で勢いを増した鬼神の挙動に向き合うことを余儀なくされている。――【隷属】の召喚式。
【盟約】に基づいた自由意思によって異形と共闘する秋光と違い――今の零は、古くからの召喚術師たちと同じ、自由を奪う【隷属】の契約式によって戦力となる異形たちを従属させている。賢者見習いとしての姿の中では見せなかった知識と技術。
両者の信頼と誓約に基づいて異形が行動する【盟約】の召喚関係と違い、異形を術式で強制的に服従させる【隷属】の術式は、術式の維持に掛かる魔力消費が増大する代わり、異形の行動を術者が完全に統御できるという特徴を持つ。――【完全従属】。
隷属の術式にて枷を嵌めた異形たちの意志を奪い、術者の意志を実行する傀儡として機能させる。……零が用いているのは【直接召喚】。
特殊な零符を用いて為される秋光の【間接召喚】と同様、異形本来の力を百パーセント用いることが可能な召喚法だが、隷属による【完全従属】を行使した場合の効力はそれだけに留まらない。意志を奪いとることにより、痛覚や疲労の訴えを無視し、
「――‼」
異形の肉体が完全に破壊し尽されるまで、限界を超えたパフォーマンスを発揮させられるのだ。かつて召喚術が使役する異形たちの損耗を招き、異形種の絶滅を引き起こす原因にさえなった理由。
「……【装甲強化】」
当代の召喚士では絶対に振るってはならない力を振るう零を前にして、秋光は静かに、四神と黄龍へ送る魔力量を増大させる。……ここまでの戦況は予測している。
「【出力解放】、【回復促進】――」
自分たちの目的を達成するため、重要なのはむしろここからの局面になる。……強制的な能力の解放により奮迅の活躍を発揮している鬼神と黒竜だが、当然その状態が長く続けられるわけではない。
己の肉体へのダメージを無視して戦わされれば、強大な力を持つ異形といえども、いずれ必ず限界が来る。異形の肉体が崩壊を迎え、手駒が完全に使い物にならなくなるそれ以前。
鬼神と黒竜の絶命までに決着をつけなければならない零としては、四神や黄龍を討ち取ることを狙うのではなく、どこかで必ず術者である自分の首を取りに来るはずだ。……僅かな隙を見せれば食い破られる。
【黒符七十二符】の副次防壁は強力だが、タガの外れた神霊格や竜種を前にそれだけで安全を確保できるとは言い切れない。然したる守りを持たずに戦場に立っている零も、条件としてはほぼ同じであり――。
「……」
異形たちへの指揮により陣形の隙間をこじ開け、どちらが先に術者の首を取るのかの勝負。少なくとも零の側は、そう思っているはずだ。――自らの弟子の狙い。
「〝黄泉を渡り、澱みを超え、我らは暁角に清光を仰ぐ〟……」
敵として対峙する相手の目論見を想定して、秋光は己の側の狙いを通す用意を整え始める。……自然神としての性質を持つ鬼神は、周囲の気を取り込むことにより自らの肉体を再構築する高い再生能力を持つ。
直接的な戦闘能力の大きさというよりも、むしろその再生能力に由来する継戦能力の強さこそが、零が彼らを駒として見込んだ理由なのだろう。持続力で勝る鬼神たちを盾に、黒竜という矛で殺意を押し通す。
相手の戦型が真価を発揮し始めた以上、四神や黄龍といえども、これまでのように容易に優勢を保つというわけにはいかない。零による異形たちへの呪縛が続く限り、
長い戦いになる。身を襲う魔力消費に消耗する自らを感じながら――。
「〝積もりし深更は黒符の淵源となりし〟。【符力再生】――」
――四神や黄龍と共に決めた道筋を胸に。秋光はひたすらに、己の目指す決着を見据えていた。




