第十九話 冷酷鋭利
「――ハァッッ‼‼」
裂帛の闘気を込めた気迫と共に拳が打ち出される。
「――」
瞳に残像を残す速度で繰り出された会心の中段突きを、触れるのを避けるように体軸をずらす足さばきで父が回避する。攻撃へと移る起こりも見せないまま、流れるように首を落とそうと振るわれた反撃の一刀を――!
「――ッ‼」
肌の間近に出現した青白い魔力の盾が、力の張り詰める鋭い音と共に受け止めて。凝った動きの隙へ立慧さんが体当たりを繰り出す。下がる父の動きに食らいつくように、攻め手を打ち続ける突きと蹴り――‼
「……‼」
――なんだ?
命を燃やすような苛烈な攻勢の中で、一つの奇妙な現象を俺は捉えている。……通常の踏み込みとは違う。
鍛え上げられた肉体が突きや蹴りを繰り出す瞬間、予備動作もなしに、踏み込むより前に唐突に二人の間合いが縮まっている。彼我の間に空いた距離そのものが、立慧さんから仕掛けるときには近く――ッ。
父が刀を振るう際には遠く、変化しているかのように。変幻する間合いの援護。
運気を上げると言っていた術の効果も相まってなのか、常に冷静な面持ちを崩さない父が、微かにやり辛そうな表情を覗かせているように感じられる。――加えて。
「――ッ‼」
――この速度。
立慧さんの見せている動きの一つ一つが、純粋に速いのだ。先に鬼たちを蹴散らしていたときとは比べものにならない。
全身から烈火の如くに放たれている気のオーラに加え、それとは別の魔力の光が動きを補助するように肉体を包み込んでいる。恐らくは先輩の魔術による強化法。
どういう原理の術なのかは分からないが、二つを併せて身体能力に相当のブーストが掛かっていることには間違いなく。淀みなく動き回る二刀の斬撃に、武術の動きと魔力の盾が的確に反応していく。
先輩と立慧さんの持つ全ての技能がかみ合わさって、一つの強靭な戦闘様式を創り上げているのだ。あの父と――‼
「――二人の状態に問題はない」
蔭水冥希との戦いで、互角の立ち回りを見せられるほどに。リゲルとジェインの容態を診ていた先輩が立ち上がる。
「治癒の仕方も適切だ。蔭水の負傷も併せて、三人の治療はそのまま任せる」
「――っはい!」
戦いの余波が及ばないよう、俺たちを中心とした新しい結界を張った内部で、負傷を確認しながらフィアに指示を出してくれている。繰り拡げられる攻防に目を離せずにいる、俺の視線を読んだかのように。
「防御対象から一定範囲に迫った攻撃に反応して、自動で障壁が展開される」
「……!」
「【自律条件展開】の術式。鍛え抜かれた肉体技法相手に、目や魔力で追うんじゃ間に合わないからな」
黒茶色の眼で戦況を見据えた先輩が、自分の用いた術の中身を説明してくれる。中学生にも見える小柄な先輩の身体の内部から、目を疑うほど強力で活発な魔力の流れが熾っているのが分かる。
「魔力消費はその分増えるが、立慧一人を守るなら充分に持つ」
「――っ」
「【上守流・高位対物障壁】は並みの攻撃じゃ傷一つ付けられない。協会の障壁魔術に上守流の結界の術理を応用して作り上げた、私の主力技法の一つだ」
絶え間ない攻防の最中に次々と生み出される魔力の障壁が、一撃一撃が必殺の狙いを持つはずの父の斬撃を完全に防御している。これまでに費やされてきた修練の時間。
「純粋な物理攻撃によるものなら、相手が誰だろうと易々突破されることはない。――済まなかったな」
「え――?」
「幾ら蔭水冥希といえども、この部屋の入口に張った結界を、破壊もせず侵入することは不可能だ」
傷つけず傷つけさせない。仲間の身を絶対に守り抜く決意にて為されてきた日々の重さが、魔術を通して俺たちにも見えるようであり。――っそれは。
「結界の探知が働かなかった以上、私らが初めにここに来たときにはすでに内部に潜んでいたはず。相手と同じ空間に入っておきながら気付けなかったのは、私たち二人の落ち度だ」
「……っ」
「……いえ」
小さく視線を眇めた先輩に首を振る。……安全であるはずのこの場所に父が潜んでいることなど、あの時点では誰も想像していなかった。
「――シッ‼」
無尽蔵に湧いてくる鬼の群れという、尋常ならざる異変に対処しながら、こうして駆けつけて来てくれたことに充分過ぎるほどの感謝がある。響いてくる気合いの息。
「――フゥッ!」
「……なるほど」
互いに相手に対する一つの仕掛けの段階を終えたのか。切り結ぶように交錯した両者の距離が離れ、刀をゆったりと身体の横に下ろした父が、ひときわ大きな息を吐いた立慧さんを目に呟きを零す。滝のような汗に濡れて張り付いた衣服の下からは、蒸気のような呼気が立ち上り……。
「初めはただの無謀かと思ったが。――少しは考えているらしい」
「……ッ」
「間合いを術者の意志に応じて変化させる【縮地法】に、後衛からの強化と障壁による援護」
語る父と俺たちの視線の先で、熱気を纏う立慧さんの上腕から、今しがた負わされた真新しい切り傷が即座に塞がれていく光景を目にする。――先輩による回復の魔術。
「継続する治癒の術式に加えて、符で己の身体機能に更なる増幅を掛けている」
「――っ」
「消耗の激しさを顧みずに、一切の出し惜しみをしていない。格上の敵との力量差を埋めるため、支部長二人分の力と技術を、一つの戦力としてまとめ上げたというわけか」
「……一々分析しないと気が済まないわけ?」
平静な面持ちを変えずに言う父に対し――弾む息を整えていた立慧さんが、構えを保ったまま挑発的な声を飛ばす。
「その粘着質な視線には嫌気がさすけど、今は素直に誉め言葉として受け取っといてあげるわ。この二週間、千景とみっちり修行してきたんだから」
「――」
「あのサボり魔は結局一度も来なかったけど。凶王や救世の英雄の戦いを間近で見れたお陰で、これまでとは段違いの連携がこなせるようになった」
――っそうか。
「こいつらの戦い方を見習って、次に格上の相手とぶつかることになったとき、一人じゃ足りない力を補い合うためにね。支部長っていう肩書へのプライドを捨てて、一旦初心に帰ることにしたの」
「……」
「そのお陰で今こうしてあんたと戦える。あんたの仲間が何人いるのかは知らないけど、こんな法外な転移と混乱の状況を、長くは続けられるはずがない」
以前意識の戻った先輩への見舞いに訪れたときに、立慧さんは支部長同士での鍛錬を提案していた。退院した先輩が復帰してからも、俺たち四人が直接その光景を見ることはなかったが……。
「長引けば長引くほど、形勢はこっち側に傾いてくる。千景の補助と回復がある以上、体力面でも負ける気はしないわよ」
「……」
退院から半月と経っていないこの短期間で、以前までの自分たちでは通用しない格上にも通じる戦い方を築き上げてきたということなのか。――ッ凄い。
父と拳を交えながらも一歩も引くことのない姿を前にして、純粋な尊敬の感情が心に溢れてくる。奢りも緩みもなく磨かれた一つ一つの技の冴え。
「先輩、立慧さん……!」
父は始めに二人を支部長と言って軽んじたが、己の立ち位置を自覚し、手札を吟味した上で最善の選択肢を模索することによって、力の差があってもこれだけの戦い振りを見せられるということであって。己の全てを尽くして均衡を支えている二人に対し、治療に力を注ぎ続けるフィアもまた、戦場を見つめる瞳に明白な希望の面持ちをみせている。――。
……だが。
「……っ」
対峙を見つめる俺の胸の中には、治まり切らない一つの不安が湧いてきてもいた。……っ確かに先輩たちは強い。
僅かな期間の訓練で二人の技法を嚙み合わせ、あの蔭水冥希にほぼ無傷のまま食い下がっている現状には、一体どれだけの苦労と努力が必要だったか知れない。紛れもなく先輩たちの力と工夫の掴み取った成果だが――。
「……そうか」
あの父の。……蔭水冥希という技能者の本領とは、決してこれだけの攻防に収まるものではないのだ。迫り来る予感に息を呑んだ俺の視線の先――‼
「――その様子を見るに、本当にこれがお前たちの全力か」
「……⁉」
「支部長の身であれだけ勝気のある態度を示してくるからには、何かしらの秘策があると思っていた」
唇を開いた父が、警戒を破りきたように語り出す。相対している先輩と立慧さんの連携。
「例え支部長であろうとも、優れた術師であるならば、魔導の深みに触れぬ者の常識を覆す技法を持ちうることがある」
「――」
「この場所がお前たちのホームである以上、予測のつかない仕込みが掛けられている可能性もある。搦め手を加味しての自信だと思っていたが……」
これまで実際に自身と互角に立ち回ってきたはずのそれが、始めからまるで問題ではなかったと言うかのように。――ッそうだ。
「まさか、正面からの戦闘で自負があったとは」
「――⁉」
「予想を超える愚かしさだ。その場に倒れている三人と、何一つ変わらない」
覚えていた胸騒ぎの正体を今更になって理解する。……先輩たち二人分の全力による攻勢を受けてなお、父の姿には、僅かに拳の一片すら掠めた形跡もない。
「お前たちは所詮、協会という組織の庇護下で小技を磨いていたに過ぎない」
「――ッ」
「本当の命のやり取りの中で、己の存亡を懸けて技量を研ぎ澄ませた者たちに及ぶべくもない。地獄のうちで戦い抜いてきた者たちと……」
全身から滝のような汗を流すほどの全力を見せてしまっている立慧さんたちと違い、蔭水冥希はいまだ、己の力の僅かな淵でさえ覗かせてはいなかったのだ。息一つ切らさぬ面持ちから断罪する眼差しを送った父が、身体の前に下げていた二振りの刀身を持ち上げる。
「そこで練磨されてきた、本物の技とには」
「――ッ‼」
言葉の覇気に身動きを取れないでいる立慧さんの前で、自らの中段で二刀を交差させる、独特の構えを取った。ッあれは――‼
「――立慧さんッ‼‼」
「――ッッ‼‼」
見知った構え。背筋の凍る寒気に叫ばずにはいられなかった俺の眼前で、直前まで緩やかに保たれていたはずの父の両腕が、爆発的な勢いで跳ね上がる。――視覚に結ばれる像が霞む。
「――ッ‼⁉」
「ッ⁉ ――ッ立慧ッ‼‼」
空間ごと何重にも分割されたように揺れ動いた景色の内側で――辛うじて急所だけを守る姿勢を見せていた立慧さんの身体の随所から、幾つもの鮮烈な血の花弁が咲き誇った。――ッ【釽嵐】。
「……ッ‼」
「――大したものだな」
蔭水流における連撃の太刀である【風の太刀】の奥義。斬撃同士の音すら重なるという超高速の連撃に、同時に発生する無数の風圧の刃を重ね合わせることによって、如何なる異形をも微塵に刻むという荒技だ。僅かの呼吸も乱さずに奥義を披露した父が、全身から血を流して膝をつく立慧さんの姿を、どこまでも冷徹さの変わらない瞳で捉えている。
「それだけの強化を重ねているとはいえ、【釽嵐】の連撃を受けて、まだ原型を保てているとは」
「ッ……!」
「未熟な支部長とはいえ――流石は、二人分の全力と言うだけのことはある」
「り、立慧さ……っ」
「ッ【魔力増幅】‼」
一振りにしか見えないほどの剣速で返り血をも吹き飛ばしたのか、父が身体の横に下ろした二振りの刀身には、一片の血糊さえ付いていない。……ッ自動で展開する障壁の速度さえ追いつかなかった。
「【術式変換】、【高速治癒】――ッ‼」
「懸命な判断だな」
先輩の治癒の光が立慧さんを包んでいるが、一秒にも満たない間に負わされた無数の裂傷を、即座に癒すことはできていない。先輩の対応を見る父の瞳は、相変わらず冷ややかで。
「不要となった強化を治癒の術式に転換し、送る魔力量を増大させることで、失血死を辛うじて食い止めている」
「……ッ‼」
「後衛として的確な手腕だ。障壁も意味をなさない相手が眼前に留まっている状況下では、無用の時間稼ぎに等しいものだが」
父の手にしている刀の刃が、目の前で熾される治癒の光を反射して無情に輝いている。……ッ動けない。
「……っ、は……ッ」
「――言い残しておくことはあるか?」
僅かでも不要な素振りを見せたのなら、次の瞬間にでも立慧さんの命が断たれる。血の気の引いた身体を震わせて息を吐き出した立慧さんに向けて、父の言葉が死の宣告の如くに響き渡る。
「いたずらに苦痛を長引かせる趣味はない」
「ッ……‼」
「最期の一言を聞いたのち、いつ切られたのかも分からぬよう楽にしてやる」
「……はッ……」
どこまで静かな父の宣告を聞いて、首を落としていた立慧さんが、消え入るような小さな声で笑みを発した。
「……いい気な……もんね……」
「――っ⁉」
「大技を……一発当てて、これで、勝ったつもり? ……っ私はまだ、ピンピンしてるわ」
「――立慧ッ‼」
傷口の内側から更なる血が溢れ出るのにも構わずに、辛うじて維持していた気の光で肉体を支えたまま、四肢に力を込めて立ち上がろうとしている。――ッ無茶だ‼
「あの三人と同じ、救世の英雄って聞いたからには、どれだけぶっ飛んだ奴なのかと思ってたけど……」
「……!」
「……私らみたいな格下に、これだけ時間をかけてくれるんだもの。……案外小心者みたいね?」
先輩から全力の治癒を受けているとはいえ、とてももう、戦える状態では。自分の手を握りしめている俺とフィアの前で、生気を失って青ざめた唇が、弱々しく言葉を紡ぎ続ける。
「凶王や、九鬼永仙が相手なら……。……きっと、こうはならなかったわ」
「それが遺言か?」
動じない父の言葉が、どこまでも冷ややかに響く。
「支部長が最期に残す言葉にしては、やけに夢想の混じった言葉だが」
「……ッあんたらみたいな連中を見てると、本当にムカつくのよ」
――失血により意識が混濁しているのか。
「それだけの力を持ってるのに、世の中に混乱と悲しみを振り撒こうとする」
「……!」
「どうしてもっとまともなことに挑もうとしないわけ? ……私は絶対に、そんなのは御免だわ」
父の問いかけを無視した立慧さんの双眸に、心の奥底から湧き上がるような勢いで怒りに似た激しい炎が宿る。情念の込められた言葉が、裂けた唇から血と共に吐き出される。
「どれだけ力を持つ立場になったとしても、どんな重荷を背負うことになったとしても、……ッ必ずこの世界を、マシにするために使ってやる」
「――ッ」
「いつか必ず、協会の上に立って。っ私や千景が、技能者界の在り方を、変えていくんだからっ」
「……大した理想だな」
死に際でなおも信念を保つ気迫に言葉のない俺たちの前で、父は相変わらず、冷たい眼差しを立慧さんへと送り続けている。
「お前たちがどんな志を持とうとも自由だが。――人のなしうることとは元来、己を囲む状況によって決められている」
「……っ」
「どれだけ高邁な理想も、純粋な志も、いずれは地獄の中で消え失せることになる。この世界が、そうである形を保つ限り」
「……それが、あんたたちの動機?」
うつむいたまま朦朧としている立慧さんの視線が、弱々しい意識の光を瞬かせるように煌めきを放つ。微かに口元を上げて、
「世界を救った英雄の言葉にしちゃ……随分と、哀しい台詞だわ……」
「……理解する必要はない」
静かに心情を呟いた立慧さんに向けて、父が、下ろしていた刀の切っ先を僅かに揺らした。
「何を語ろうが、お前たちは今ここで死ぬ。支部長としての責務も果たせず」
「……‼」
「己の理想を追う半ばで、無力さゆえに――」
「――分かってたわよ」
濃厚に漂い始めた死の気配を、突如として紡がれた変化の言葉が一蹴する。
「初めから。どれだけいけ好かない奴だろうと、私たちに勝ち目なんてないってね」
「――っ⁉」
「あんたらのしてきた活動の記録は、魔導院時代に嫌ってほど読み込んできた。あれだけの困難と強敵に立ち向かって、戦い続けてきたあんたたちは、正しく雲外の高みにある技能者だわ」
先輩の治癒の効果のお陰なのか、語る立慧さんの声には先ほどより力が戻ってきている。……っ傷自体は回復しきっていない。
「少なくとも組織幹部と同等か、それ以上の力を持ってる。……悔しいけど、今の私らじゃ、敵う道理なんてない」
「……ならばなぜそうした?」
刻まれた幾つもの裂傷はいまだに痛々しい傷口を身体の各所で晒しており、崩れそうになる身体を支える四肢が、疲労と消耗の苛みに微かに震えている。俺と同じ判断を下してか、刀を手にしたまま父が問いを続けてくる。
「己の命を散らすと分かっていて。足搔きに終わるだけの戦いを――」
「……決まってるでしょ?」
膝をついたまま呼吸を整える立慧さんの声に――聴く者の不意を打つ、微かな誇りの色が交じった。
「例えこの場所で、自分が命を落とすことになろうとも……っ」
「――」
「目の前で起きそうになってる惨劇から。災禍を引き起こす人間の手に落ちそうになってる連中を、――守るためよ」
気勢のこもった目つきで、立慧さんの瞳が父を睨み上げた瞬間。
「ッ――!」
「――ッ⁉」
俺たちの立っている地面を、唐突に強大な魔力の波動が走り抜ける。大気の震えるような脈動の起こりに連れて、
「……っよくやってくれた」
「……!」
「立慧。構築までに時間はかかったが――」
梵字の交じる複雑な法陣が、刹那にして俺たちの足元に出現していて。煌々とした静かな光を湛える円陣の中心に立っているのは、俺たちの傍で立慧さんの治療に力を尽くしていたはずの、千景先輩。
「お前が稼いでくれた時間のお陰で、この結界は、それだけ盤石なものになった」
「――」
理解のできない不可思議な文様が、倒れている立慧さんまでを内部に収めている。眼前で起こされた異変に小さく目を眇めた父が、切っ先を下ろす刀の握りに、僅かに力を込めた。
「――ッ‼⁉」
「きゃッ――ッ⁉」
「――無駄だ」
刹那。目に見えぬ速度で振るわれた裂帛の白刃が、円陣の端で手痛い反撃を受けたかのように、鋭い衝突音を立てて弾かれる。――ッ上がる魔力の閃光。
「立慧の言動に気を取られすぎたな」
「――……」
「二人掛かりの戦術とは言え、前衛が主となる戦闘様式なら、後衛の方が本命とは思わない」
円陣の端から伸びる不可視の防壁が、刀そのもの、いや、踏み込もうとした父の行動自体を拒んでいるように見えた。……間違いない。
「本気の気迫と喋りで注意を引き付けられる、立慧が相方だからこそ、成立した戦略だ」
「……ちょっと? これだけ身体張ったってのに、褒められてる気がしないんだけど……っ」
父の侵入を阻み、その攻撃を完全に防ぎ切るほどの強力な防御結界が、先輩の手により構築されているのだ。苦笑いを零した立慧さんが、傷の痛みに顔を顰めつつも、ゆっくりと父に視線を差し向ける。
「一か八かの賭けだったけど、どうにか通ったわね」
「……」
「私が千景の援護を受けてあんたに接近戦を挑んだのは、自分たちの力で蔭水冥希を倒せると思ったからじゃない。あんたの魔力と気に近場で触れて、千景がそれを解析する時間を作るためよ」
語られるのは、水面下で二人が抱いていた本当の狙い。
「あいつと同じ蔭水の一族だから、身に流れる暗黒の魔力を掴むのは簡単だったけど、起こりの少ないあんたの気を捉えるのは難しかった」
「……」
「ギリギリまで時間が掛かっちゃったわけだけど。相手の気の性質さえ掴めれば、千景はそれに応じた最適の防御結界を作ることができる」
ここまで隠し通していた、本当の勝算を突き付けて、裂傷の刻まれた面の中で、立慧さんが今度こそ、誇りに満ちた輝きを両の瞳に灯した。
「この結界の起動こそが――私たちの目指してた、本当の終着点だったのよ」
「――貴方の生家、蔭水家が異形の討伐に注力してきた家系であるように、私たち上守家もまた、異形や技能者を相手に独自の術理を築き上げてきた」
得意げな口調から先輩が説明をバトンタッチする。冷静な眼差しを父に送り。
「これはその一つ。【厭離穢土結界】は、穢れと認識した対象全ての侵入を拒絶する」
「――っ」
「あらかじめ相手の気が分析できていないと、十全の効力が発揮できないのが難点だが。完成したときの性能は、それだけに通常の防御結界の比じゃない」
「……」
「物理的な防御に加えて、概念的処置で指定した空間そのものが、相手の存在と重なること自体を拒む。貴方の剣はもう、私たちの誰一人傷付けることはできない」
極めて明確に言い切った、台詞の強さに驚く。先輩は、障壁と結界のスペシャリスト。
「蔭水たちを連れていく目的も果たせない。大人しく、投降することを勧めるが」
「……なるほどな」
守りを生業とする家の理念を引き継ぐ者として、蔭水冥希を相手にしてなお、自分の構築した結界に絶対の自信があるということなのか。結界の強度を確かめるように刀を引いていた父が……。
「――大した戦術だ」
「――」
「互いの力量差を理解した上での、相方に己の命を預ける捨て身の策。日頃からの信頼と、覚悟が無ければ実行することはできない」
呟きと共に、構えていた二刀のうち、先ほど弾かれた一方を鞘へと納める。左手に刀を残したまま、先輩と立慧さんを今一度目にして。
「かかった時間を考えれば、多分に失敗の可能性があったとはいえ。お前たちはその可能性に自身を懸け、それを通すことに成功した」
「……!」
「凶王派との接触というイレギュラーがあったことも機能はしているだろうが……微温湯での堕落と驕りがなければ、支部長でもこれだけの戦いを成せるということか」
「……なによ」
淡々と織り成されていく台詞。称賛にも似た言葉の羅列に、眉間にしわを寄せた立慧さんが気持ち悪げに声を飛ばす。
「急にこっちを褒め始めて。負け惜しみのつもり?」
「――」
「自分の間違いを認められるのは美徳だけど、身体を切り刻んできた奴に言われても、いい気持ちはしないわね。目論見はもう崩れたんだから、千景の言う通り、大人しく投降でもして――」
「――ただの事実だ」
骨の髄まで冷め切った氷のごとき言の葉が、弛緩しかけていた場の空気を打ち据える。
「お前たちの努力も研鑽も、世界のうちで起きた単なる事実に過ぎない」
「――」
「これから起こることになる出来事も。――随分と強力な結界を張ったものだ」
先輩たちの抵抗の全てが取るに足りないものであるかのように――結界を眺めた父が、改めて先輩に視線を送る。
「概念的な侵入の拒絶。仕込みに時間を掛けたといえ、その若さでこれだけの術法を展開できるとは、確かに見事には違いない」
「……」
「生半可な技能では破れそうになく、この身と得物の侵入自体が拒まれるとなれば、剣技を主軸とする私には天敵。返す返す素晴らしい判断だと言える。……だが」
刀を手にしたままの父が、俺たちとの距離を開ける。二歩、三歩。
立慧さんの倒れている位置、結界の境目となる法陣の端から七メートルほどの位置で立ち止まると、流麗な足取りに靴上の裾を揺らしつつ、俺たち全員を視界のうちへと収め直した。
「お前の生家が守りの術理を磨き上げてきたように、私たち蔭水もまた、己の剣技の結実に心血を注いできた」
「――っ」
「如何なる異形や技能者が相手でも、ただの一刀で勝負を決するため。絵空事であるはずの一技必殺を現実にし……」
刀の握りに諸手を添えた父が、ゆっくりと刀身を己の頭上へと差し上げる。――ッあれは。
「嘆きと呻きの響く惨劇を終わらせるため」
「――」
「暗黒の魔力を血肉に宿し、人としての身体能力の壁を破っただけでなく、肉体技法の常識を超える技をも編み出して来た」
先の俺との試しでも披露された、【絶花】の構えを取る父に目を細める。――なんのつもりだ?
先輩の構築した結界が父と得物の侵入自体を拒むのであれば、いくら威力の高い剣技を持ち出してきたところで意味はない。……触れることすらできない。
研ぎ澄まされた刃という機構で組織の間に割り込み、対象を構築する纏まりを切断する。剣技を根本的な次元で支えている、切るという物理的な事象が封じられた状態では、最早できることなど無いはずなのに。二の舞として弾かれるだけ。
「【絶花】――」
無意味だとの判断を下す俺の視線の先で。上段に刀身を構えた父が、一切の澱みのない動きで刀身を振り下ろした。ッ――。
「――【弐の薙ぎ】」
「――ッッ‼⁉」
口の中で僅かに呟かれた覚えのない言葉を聞き咎めた瞬間、猛速で振り下ろされていく何かが、身体の真横を上下に通過した感覚がする。――なにッ。
「……え?」
「――」
何が起きた⁉ 異変を感じて視線を動かした俺の隣、翡翠色をしたフィアの瞳が、現実を疑うように瞬きしている。凝固した視線の行く末を追った先で――ッ。
「……ッ‼⁉」
「――ッ千景ッ‼⁉」
噴き出した鮮血が景色のうちに跳ね上がる。肩から脇下にかけて大きく裂傷を刻まれた先輩が、苦悶と驚愕に表情を凍らせたまま、膝をついて地面へと崩れ落ちる。――ッなんだ‼⁉
「っ先輩ッ‼」
「……流石は上守の結界術だな」
「ッ――⁉」
「誤認により概念的な守りを突破したとはいえ。並みの刀では、術者ごとの両断までには至らないか」
何をした⁉ フィアの治癒が先輩の身体を包む。振り向いた俺の視線の先、冷ややかな眼差しを送る父の手元の刀が、酷使に耐えきれなかったかのように足元に微塵に砕け散っている。……なんだ?
「千景……ッ‼」
「――これが現実だ」
巨大な剣の一撃を受けたかのように、端から端へと両断されている先輩の法陣。理解も受け入れもできない俺たちの眼前で、結界の境界線を悠々と踏み越えた父が、蹲ったままの立慧さんに冷徹な一瞥を送った。
「お前たちの積み上げてきた努力も工夫も、より研ぎ澄まされた意志と力の前に流される」
「――ッ!」
「あらゆる努力も希望も、いずれ潰える時がくる。お前たちが今日、ここで終わりを迎えるように」
不要となった刀の残骸を投げ捨てた父が、腰元から抜いた、もう一振りの刀を立慧さんの首の高さに上げる。……ッ駄目だ。
三人同時に傷の治癒をこなしているせいか、俺の四肢の傷はまだ塞がってはいない。リゲルとジェインも意識を取り戻せてはいず。
「――ッ、立慧さん‼」
「……ッ、立慧……ッ……‼」
辛うじて意識を保っている先輩も動けないこの状況では、父を止める手立ては何もない。――磨き抜かれた白刃が、氷のような冷たい輝きを放つ。
「……っ待て」
「……」
「待ってくれ……ッ‼」
ときに神を宿す神体として神聖視され、芸術品とも言える美しさを持つはずの刃が。俺の制止にも耳を貸さず、蹲る立慧さんの首を切る――‼‼
――――っ瞬間。
「――⁉」
扉を開け放つけたたましい音が響き渡る。弾丸の如く視界に飛び込んできた一個の影が、刀を振るいかけていた父と目にも留まらぬ速さで衝突する。――一瞬の交錯。
「――ッ!」
「……‼」
見えない速度で振るわれる刀身と、堅い感触を持つ何かが高速でぶつかり合う音が辺りに反射し。空気を裂断する鋭い風切り音を散らしたのちに、刀を携えたままの父が、押し退けられるようにして立慧さんとの距離を離した。……ッあの父が。
「……」
蔭水冥希が、接近戦の攻防にて退いた? これまでにない警戒の色を湛えて目の前の相手を見つめている父の眼差し。
「え……っ?」
「……うそ」
声を零すフィアと、うわ言のように呟く立慧さんの表情から、抱える驚愕の感情の強さが伝わってくる。……ッ俺たちと父との睨み合う中心地に、立っているのは――‼
「……何者だ?」
「――通りすがりの、昼行燈だよ」
俺たちのよく知っているはずの人物、立慧さんたちと同じ支部長であるはずの、田中さんだった。ッ――。
なぜ――?
「っ田中……⁉」
「おうともよ。――悪いな」
どうして、田中さんがその場所にいる? 手にしている一本の棒。
見た目に何の魔力も神秘も感じられない、およそ魔術師には似つかわしくない粗末な得物を手に、目を疑うほど峻烈な闘気を放っている。……ッ違う。
事あるごとに酒を飲んでは仕事をサボり続け、入れられる突っ込みに情けない悲鳴を上げていた、あの田中さんとは。普段のだらけ切った態度からは考えられないほど堂に入った、腰を落とした独特の構えを保ち、
「もうちょい早く駆け付けられりゃあ良かったんだけどよ。本山のあちこちで見えないように手ぇ貸してたら、ここに着くのが遅くなっちまった」
「……‼」
「立場上、色々と面倒な制約があってな。――酷え傷だぜ、二人とも」
飾り気のない真っ直ぐな木棒の先端を、対峙する蔭水冥希へと向けている。――杖。
「大事にならねえよう、早めにカタストに治してもらっちまいな」
「……!」
「痕が残っちゃ大変だぜ。お呼びでねえ乱暴な客人は、こっちの方で始末を引き受けとくからよ」
「……この身のこなし」
武術の一派である、状術において用いられる得物だ。軽口を叩く田中さんを前にして――。
「魔術師の手慰みで至れる領域ではない」
「――」
「鍛え上げられた肉体技法の真髄。――『武人』だな」
「さすがだねぇ。数手の手交わしだけで、一発で見抜いちまうとは」
下段の構えを保つ父が眼光を細くする。僅かの気の緩みも発しないと言うような相手の気配に対し、悪戯好きな子どものように田中さんがニッと笑みを返す。……武人?
記憶に埋もれていたその単語を思い返す。……以前に立慧さんから修行を受けていた最中に、確か聞いたことがあった。
「栄華を極めた連盟が滅び、己の肉体と得物を頼みとする者たちの威光が絶えて久しい」
「――っ」
「技能者界に通じるほどの腕を持つ者は、『逸れ者』として僅かに市井に残るのみと考えていたが。魔導の本山に囲われている人間がいたか」
「――ん~、その言い方には若干語弊があるけどな?」
技能者界の秩序を保つ勢力は、今でこそ協会を含めた三つの組織が中心になっているが、以前にはそれに一つを加えて、四大組織と呼ばれていた時代があったのだと。鍛え上げた己の肉体と得物を頼みにする、武人たちの集結した組織――。
「四十年も前に古巣が更地になっちまった以上、他に身を置ける場所もなかったってだけの話でね」
「――」
「下らねえ組織同士のいがみ合いなんてのは、これっぽっちの興味もねえ話なんだが。大層面倒っちいことに、今の俺は、この魔導協会の十三支部支部長って立場になっちまってる」
『武術連盟』。組織の崩壊後に居場所を失い、ほとんど消え失せたとされている技能者の一人が、目の前の田中さんだというのか? 構えを崩さないまま、田中さんが軽く首だけを竦めてみせる。
「日ごろ散々飲んでグータラさせてもらってる以上、んな非常時に呑気に寝てるってわけにもいかねえ」
「――」
「本山でこれだけ好き勝手やらかして、同僚にまで手を出している人間なら尚更な。――よくぞここまでってことで」
一段声のトーンを落とした田中さんが構えを変える。――更に低く。
「落とし前だけは、つけさせてもらうとするぜ」
「……」
地面を這い、頭上に渡した杖で相手の守りを掻い潜るような姿勢。応じて半身の構えを取った父から、これまでにない凄烈な気迫が放たれる。――集中。
「――……‼」
彼我の間に張り詰める極限の集中によって、空間が歪んでいくような錯覚に陥らされる。二人の放つ気迫の激しさに当てられる寸前――ッ!
「――ッ‼」
目にしていた二人の姿が瞬時に閃き。武術を己の生業とする者同士の、壮絶な戦いが幕を開けた。




