第十二話 朝の痛み
――夢。
光景を意識した瞬間に、そのことを直感する。……膝を付いて座り込んでいる。
千切れ千切れになった雲の隙間から、真っ白な陽光が差し込んでいる。嵐のように激しい風が吹く大地の上に、私を取り囲むように、何人もの人たちが立っているのが見える。……視界がぼやける。
目が霞む。細めた視界に、視線の先の何かに向けて、敵意と畏怖を込めた眼差しを発している瞳たちが映る。――何を。
――何を、見ているのだろう。
「……っ」
それまで見上げるように周囲の人間に向けられていた視線が、落ちる。すぐに視界に入ってきたのは、傷付き血が滲む自分の身体と、ボロボロになった衣服。それに――。
――折り重なるようにして倒れている、血溜まりの中の人々。
ッ……‼
地面を濡らす血の量。身体から削り取られた肉の大きさからしても、それらの人たちが命を保てていないことは明白だった。
――これは――なに?
どうして――こんなに人が――。
理解が追い付かない。倒れている人に手を差し伸べようとするけれど、今の私にはそんな力さえ残されていないのか、心とは反対に身体は全く動いてはくれない。
私が混乱している中で、周囲に立つ人の中から一人の人物が歩み出てくる。――誰?
顔を見ようとするが、項垂れた私の頭は見えない鎖で縛り付けられたかのように重く、足音を聞くだけで微動だにしない。次第に近付いてくるその人物を気に留めたまま。
不意に景色が暗転する。何かを思う暇もないまま、私の意識は急速にそこから離れていった……。
「――っっ‼」
ベッドから跳ね起きる。光を求めて周囲を見回すけれど、上体を起こして目を開ける段階まで来たのに、視界には闇だけしか映ることがない。
どうして――?
混乱のあと、少ししてから気付く。……そういえばこの部屋には、窓がなかった。
「……はぁ……」
灯りを消した今、光が入ってこないのは当たり前だ。独り芝居をしていたような気がして、どっと湧き出た疲れに従って息を吐く。……寝ている間に大分汗をかいていたのだろう。
軽かったはずのパジャマはまるで別の生地に変わってしまったかのように重たく、冷たく肌に纏わりついている。かき抱く布団の温かみに縋りつつ、深呼吸をして心と身体を落ち着かせる。――おかしな夢だった。
夢にしてはやけに現実味があったような気がして、だけど一方ではやはり、夢であるような手応えのなさがある。……どうして。
どうして、あんな夢を見たのだろう?
記憶喪失の上、慣れない環境であることが大きいのだろうか。記憶を失っている以上。
「……寝ましょう」
例え自分の家にいたとしても、同じことなのかもしれないけれど。憂鬱になりそうな思考を打ち切り、言い聞かせるように呟く。……明日は買い物をする日だ。
店を見て回ったり、荷物を抱えてきたりすることを考えれば、今日とは比べ物にならないくらい動くことになるだろう。今のうちに休んでおかなくてはいけない。そう思って布団をかぶる。……だけど。
一度悪夢を見てざわついた心は、そう簡単に治まることを許してくれない。眠ろうとすればするほど不安が募り、意識は冴えてきてしまう。……駄目だ。
「……ふぅ」
眠れない。――夢の内容は気になっている。
でも、それ以上に私が気になっているのは、黄泉示さんが叔父さんに頼んだという私自身の調査のことだった。手放しで喜んではいけないことだと思うけれど……。
それ自体は凄く幸運なことだと思う。倒れている私を見つけてくれた人が、偶然記憶喪失の件について調べられる人と繋がっているなんて。感謝してもしきれない。
何か、手掛かりが掴めるといいけれど。
元の居場所。私の元の記憶さえ取り戻せたなら、行きずりの人に負担をかけることもなくなる。掛けてしまった迷惑の分を返すこともできるはずだ。それまでは……。
「……」
そんなことを考えているうちに、元から冴えがちだった意識はすっかり覚醒してしまっていた。……この様子だと、今日はもう眠れそうにない。
――今、何時でしょうか……?
布団を押し退けてベッドから出る。この部屋には窓も時計もないので、リビングまで行ってみないと何時ごろなのかはわからない。
向かいの部屋で寝ている黄泉示さんを起こさないように、そっとドアを開けて。できるだけ静かに廊下を歩いて行く。もし丁度良い時間だったら、できることがあれば何かやっておこうか。
そんなことを考えながら、私はリビングへ続くドアを開けた……。
「……」
「……黄泉示さん」
浅い微睡の中。
「……起きて下さい、黄泉示さん」
優しく掛けられる声に、名前を呼ばれる。躊躇うような間ののち、肩に小さな手触り。遠慮がちに身体を揺する気配が伝わって――。
「お、おはようございます。黄泉示さん」
「……」
瞑っていた目を開けた。ベッドの傍らに立って、こちらを見つめている一人の少女。
「……ああ」
眩しいような白銀の髪。窓から差し込んでくるカーテン越しの薄明りに、汚れのない白いワンピースが映えている。翡翠色の瞳を瞬かせる、見目麗しいあどけない面立ち。
――フィア・カタスト。
「おはよう。……どうして、ここに……」
「すみません。その、早目に目が覚めたので、待っていたんですが……」
昨日、行きずりで居候させることになった相手だ。委縮しつつ姿勢を直すフィアに、血流の回り切らない脳と呂律で尋ねる。鍵はかかっていなかったとは思うが。
「結構遅い時間だったので、そろそろ起こした方が良いかと思いまして」
「……時間?」
「買い物に行くんでしたよね? 今日は……」
……そうだ。
入用なものを揃えるため、俺の方から提案した。十時半ごろに出ようということで、目覚ましを掛けておいたはずだが。
「……今、何時だ?」
「ええと、さっき見たときは、十時過ぎでした」
確かにそれは遅い。枕元の携帯を確かめると、アダプターが上手く刺さっていなかったのか、暗いディスプレイにはバッテリー切れの表示が出てくる。用意して出るにはギリギリの時間だ。
「……済まない。起こしてくれて助かった」
「いえ。良かったです」
眠い眼を擦りながら起き上がった俺に、ホッとしたようにフィアが微笑む。勝手に入られるのはあれだが、今回は例外。
「リビングの方で待っててくれ。先に食べててもらってもいい」
「分かりました。……あ」
不興を買うかどうかというところを決心して来てくれたのだから、ファインプレーと言うべきなのだろう。ファミレスからの帰りがけに買っておいた食事パンは、フィアも見たキッチンの戸棚にしまってある。着替えを出すためベッドから立ち上がろうとしたところで、ドアの近くにまで来ていたフィアが、不意に左の方を向いた。
「倒れてますよ、これ――」
視線の先にあるそれを目にした瞬間。
「――ッ」
全身の血流が止まる思いがする。白みがかった木目調の床に転がっているのは、昨晩壁に立てかけておいた細長の布袋。
上部を紐で硬く結ばれ、何年も閉じられたままでいる深緑色のそれを、屈んだフィアが拾い上げようとしている。しなやかな指先が触れようとしたとき――。
――考えるより先に、身体の方が動いてしまっていた。
「っ⁉ いたッ――!」
ベッドのバネを利用して蹴り出す。三メートルはあった距離を一瞬で詰め切り、包みに近づいていた手を掴んで押さえつける。素早く手を伸ばし。
「ッ、黄泉示さッ!」
「……ッ――」
目当ての袋を手元に遠ざけたところで我に返る。――しまった。
握りしめている華奢な柔らかさから手を放す。床に押し付ける動きに引きずられたのか、屈みこんだ姿勢だったフィアは、足を崩して座り込むような体勢になっている。
「……っ」
掴まれた右手首が痛むのか、反対側の手で隠すようにして庇いつつ、強張った表情で視線を床に落とす仕草。……やらかした。
「……」
「……悪い」
眠気の吹き飛んだ頭に舌を打ちたくなるような後悔が襲ってくる。……最悪だ。
「……拾わなくてよかったんだ、あれは」
「……」
「……フィ」
「――ごめんなさい」
寝起きだったとはいえ、完全に気が抜けていた。昨日のうちにでもしまっておけば済んだ話を。
「勝手に拾おうとしてしまって。……黄泉示さんの私物なのに、済みませんでした」
「ッ、いや」
自責と謝罪の表情を浮かべているフィア。痛みを抱え込んだまま収めようとするその態度に、何とも言えない気分の悪さが昇ってくる。
「……こっちこそ済まなかった。いきなり手荒な真似をして」
「いえ。全然大丈夫ですから」
「……」
「気にしないでください。――リビングの方で待ってますね」
気丈な笑顔を見せて、フィアが振り向かずに部屋をあとにした。……なんなんだ。
これは。着替え終え。
「……」
朝食の席に着く。先に行ったはずのフィアは律儀に待っていたようで、テーブルの上には昨日買っておいた食事パンが綺麗に並べられている。冷蔵庫から出した牛乳。
コップ一杯のそれを飲み干す。子どもの頃からの習慣になっているはずの飲料が、唾と共に苦々しい塊となって喉を通り過ぎていく。……気まずい。
正面に座っているフィアとは、互いに無言。元々話題がない上に、先ほどの件が尾を引いているせいで、黙々とした咀嚼音だけが響いている。不快にならないようにというような、控えめな視線が時たまこちらに向けられる。当然か。
私物に触ったとはいえ、いきなりあんな行動を取られれば、誰だって腫れ物に触るような気持ちにさせられるだろう。……。
――どうする?
あの包みの一件は、俺という人間の根幹に関わっている。……話したくはない。
付き纏う思い出の重さを考えれば、行きずりの相手に話すような話題でもないと思える。だが。
「……」
今日は、連れ立って買い物をしなければならない日だ。
面倒だということが見えているからこそ、少しでもマシな状態で回れるようにしておきたい。……元はといえば、俺の横着が原因でもある。
「――ちょっと待っててくれ」
このままにはしておけない。決めて席を立ち上がる。フィアを残して向かったのは、先に出て来たばかりの自室。
壁に立てかけられたままの包みに目をやる。瞼の裏に一瞬だけ過った逡巡を振り切って、キッチンへ引き返した。
「……!」
「これは……」
俺の手に握られている、深緑色の布袋。事態の原因を目にしたフィアの表情が、再び緊張の色を帯びる。口にした言葉の行き先が、一瞬だけ鈍りを見せて。
「形見なんだ。……父の」
「……え……」
正直に述べる。事情を聞いたフィアの瞳が、驚きを含んだものへと変化した。
「……お父さんの、ですか?」
「ああ。だからつい取り乱してしまって。済まなかった」
――嘘は言っていない。
この細長の包みは、死んだ俺の父、蔭水冥希が遺してくれた、たった一つの遺品。父の持ち物という意味では他にもあったはずだが、最終的に俺の手元に残ったものはこれ一つ。
子どもの頃の思い出の詰まった、形見というのに最もふさわしいものだ。軽々しく他人に触れさせたくない。
「……いえ」
「……!」
「ありがとうございます。大切な物だったんですね」
そういう気持ちがある。納得してくれたのか、フィアの面に理解の色が宿る。悼むような揺らめきが微かに瞳の奥を過る。
「本当に。勝手に触ろうとしてしまって、済みませんでした」
「いや、俺の方こそ、言葉足らずで済まなかった」
互いにほっとしたような、柔らかな空気が戻ってくる。どちらからともなく、視線を合わせて。
「食べ終わって、少ししたら出よう」
「――はい」
朝食の続きへ取り掛かった。……。
――それから。
「……」
用意をした俺とフィアは、目的のショッピングモールへと向かっている。家からの距離はそう遠くない。
「……っ」
晴れた午前の気温は九月にしては温かく、腹ごなしに歩けば二十分くらいで着ける。丁度いいと思って出てきたのだが……。
「……大丈夫か?」
「……っ、はい……」
真っすぐに伸びた道の途中。すれ違っていく通行人から、時たま気になるような視線が向けられる。後ろを歩いているフィアから、気張れども覇気のない声が返ってくる。
「どこかで休むか? 疲れたなら……」
「……いえ」
重たい足取り。立ち止まって訊いた俺に首を振ってくる。顔を下に向け、軽くふらついて呼吸をする仕草に、白銀の髪の毛が力なく垂れ下がっている。
「大丈夫です。……行きましょう」
「……そうか」
――直線にして三キロという距離は、フィアにはどうやら長すぎたらしい。
距離の問題というよりは、ペース配分の所為なのだろうが。顔を上げ、ぐっと拳が握られるのを受けて、大分ゆっくりになっている歩みを再開する。……前半の俺の足取りが早過ぎた。
目的地について話していたのが、途中から言葉少なになり、息が切れ始めた辺りで漸くそのことに気が付く始末。注意して歩いているつもりではあったのだが。
フィアからすればそれでも相当な早足だったらしく、着いてくるだけで体力を消耗してしまっている。非難めいた視線が何人かから向けられるのを、分かっているという風に受け流す。近くには休めるような店もない。
「モールに着いたら休もう」
「っ、はい」
おぶるというわけにもいかないだろう。この調子で行けば、恐らくあと三十分ほど。
険しい道のりになることを予感して、耳に届く足音を気にしながら歩き続けた。




