第十六話 ざわめく不穏
「……」
――視線の先。
双眸へと見据えたその相手を前に、永仙は悠然とした素振りで歩みを進める。……足運びは静か。
魔術師の本拠地たる魔導の総本山の長を務めたものとして、威風を纏う姿には焦りも緊張も見られないが、一見して自然な所作の一つ一つにはその実、針の先ほどの緩みもない極限の集中が張り巡らされている。歩みを止め、
「――仲間は散り、極大規模の転移を維持するためにお前は力を割かれ続けている」
「……」
「戦いの対峙にこれ以上の有利はない。――機は熟した」
「――ああ」
今。魔導協会の元大賢者たる九鬼永仙は、己の標的であったその男と相対した。……ヴェイグ。
――ヴェイグ・カーン。協会を含む三大組織の情報網には一切の手掛かりが現れず、凶王派の助力を受けてなお、僅かに名前だけしか掴むことのできなかった技能者。
「待っていたよ、九鬼永仙」
「――」
「貴方が僕を狙ってくるとすれば、今日このとき以外にないと思っていた」
素性と来歴の全てが謎であり、暗中の中で見据え続けてきた相手が今、己の目の前にいる。闘志を抱いた自らの眼差し。
「組織に身を掴ませずにいた僕らが大々的な行動を起こし、同時に僕の力を大きく割かざるを得ない、この時以外にはね」
「……」
「それでも並大抵の努力では、この場所さえ掴めなかっただろうに。恐ろしい人だ。――いつから気付いていたんだい?」
「……十年前」
七十年の錬磨を経て練り上げられた、揺るぎない歴戦の賢者の気迫を正面から受けてなお、目の前のヴェイグ――丸眼鏡を掛けた人のよさそうな黒髪の中年男の瞳には、僅かの焦りも緊張も浮かばないでいる。微笑みを交えての問いかけに、永仙は臆することなく答えを紡ぐ。
「仲間たちと共に戦い、『アポカリプスの眼』による世界の滅亡を食い止めた、あのときだ」
「……やっぱりそのときか」
知っていたという風に、頭の横に手を当てたヴェイグが物憂げなため息を吐きながら、首を振る仕草をして見せる。現状における己の不利を口にし、
「彼らに手を貸すためとはいえ、貴方のような相手に気配を晒したのは失策だった」
「……」
「十年前に僅かな足取りを掴んだだけにもかかわらず、ここまで徹底した対応に出てくるとはね。お陰でこの半年以上、随分と遠回りをすることになってしまった」
己にとって敗北にも等しいこの状況を適切に把握しているようでありながら、面を上げて失態を語る丸眼鏡の奥の瞳は、ただ吹き付ける風を受け続ける柳の枝のような、底知れない穏やかな強さを保ったままでいる。――待っていた。
先に目の前の相手より口にされた言葉の意味合いを考えながら、永仙は互いの置かれた状況を今一度確認しにかかる。……ヴェイグとその仲間たちが目的のために大掛かりな行動を起こす、その瞬間こそ第三者の襲撃にとって最適なタイミングであるということは、自分とヴェイグ方の両方が把握していたこと。
組織の離反者という隠れ蓑を作りながら行動していた、自身の狙いが悟られているかどうかは不明瞭だったが、それでも己の隙を自覚しているだろうヴェイグたちに対し、近づくことがまず一つの難関だろうと永仙は推測していた。至近に妨害の伏兵を仕込み、己を身を護るための魔術の防壁や罠などを張り巡らせる。
「単身で三大組織を離脱し、凶王派を味方につけることで、組織側に極度の警戒態勢を構築させる」
「……」
「凶王派の情報網を使って僕らを探させるだけでなく、僕らの襲撃で組織側の戦力に被害が出ることも防止していく。――考えもしなかったよ」
接近を阻むにはそれこそ無数の手段があると言ってよく、入念に仕掛けられるそれらを突破する労苦を想定して備えを用意してきていた永仙だったが、実際に出会うことになったのは僅かに、転移法の魔力を外部へ漏らさないための巨大な結界が一つのみだった。侵入の探知や妨害を行う術式の類はどこにもなく……。
転移を終えたヴェイグが仲間たちと通信を行うその瞬間にはすでに、術法の行使が可能な圏内へと近づくことができていたのだ。……【世界構築】の発動は完了している。
再現不可能な複雑性を有し、【固有魔術】にも等しいと言われる永仙の秘術だが、此度に用いたのはそれに加えて、本山にて蔭水黄泉示たちを相手に披露したような、単なる隔離の効力を持つだけの術法ではない。己と同じ三大組織幹部や凶王派の王たちが相手であろうとも、発動に成功しさえすればそれだけで決着がつくほどの奥義――。
「千年以上に渡り重なった確執を乗り越えて、組織方の頂点を務めた人間と、凶王派が手を結ぶことがあるなんて」
「……」
「怨敵と言えるはずの協会の本山に踏み入ったにもかかわらず、一人の死者も出していないことにも驚かされる。これも、貴方の重ねてきた人徳のなせる業というわけかな?」
「……真摯な協力に必要なのは、打算的な利害や権威の押し付け合いではない」
――【三千世界】。圧倒的に不利な状況に置かれているはずでありながら、なおも見定めのような対話を続けようとするヴェイグの試みに、読み切れない意図の働きを感じながらも、永仙は自らの狙いを重ねることを選択する。永仙の秘奥たる【世界構築】の術式は、その効果の強大性に反して、驚くほど良好な魔力効率を誇る。
「互いに己を晒した上で、嘘のない誠実を示せるかどうか」
「……」
「立場や地位とはあくまでも、それまでの自分がそこに相応しくあったことだけを示すものだ。為すべきことを成すための障害となるのなら、衣を捨てることに躊躇いのあるはずがない」
「……感心する心構えだね」
式の組み上げと起動に膨大な魔力を必要とする代わり、一度完成した【世界】の維持においては、全力の戦闘を行いながらでも数時間の維持が可能な程度の負担しか発生しないのだ。相手の意識を会話に引き付けておくため、欺瞞を交えず言葉を口にした永仙に向けて、ヴェイグが嘆息と共に目を瞑る。
「身を覆う衣を脱ぎ捨て、肌身を削る風雨に耐えながら、己自身で責務を果たそうとする態度には感服する」
「……」
「敵対する組織の象徴であるはずの貴方を迎え入れ、垣根を超えて手を貸した、凶王派の王たちにも。――貴方は強い」
その事実に痛みを覚えるかのような、物悲し気な称賛を呟いたのち、ヴェイグの語調が明瞭な決意を含んだものへと変えられた。合わせられる黒色の瞳。
「現代においては紛れもなく突出した技能者の一人。稀代と言える才能と出自を備え、不断の努力によって完成した技法と、その齢に至るまで重ね続けた知識の深さがある」
「……」
「大きさも分からない脅威に対し、築き上げた全てを擲ってまで、己が対処しようとする覚悟と志も。だからこそ――」
外見を超えて永仙そのものを見るようだったヴェイグの双眸が、憐憫とも哀悼ともつかない複雑な色合いを帯びた光を放つ。
「同志である彼らでなく、僕が貴方の前に立つことになった」
「――」
「力の均衡から生まれるあらゆる懸念を排し、悲願の障害となる貴方を確実に除くために。――気付いているんじゃないのかい?」
敵意のない穏やかな微笑を浮かべ、悲しみの色を消したヴェイグが、答え合わせをするような素振りで永仙に話しかけてくる。
「貴方とここまで話をしている間――組織本部の転移を維持する僕の魔力は、全くのこと変動していない」
「……」
「貴方の創り上げた【世界】の中にあってなお。こんな現象が果たして、貴方の想定のうちであり得るだろうか?」
……そう。
そのことは確かに永仙も感じていた。自らの秘奥となる【三千世界】を受け、組織本部の転移維持に膨大な魔力をつぎ込み続けながらも、相対するヴェイグの魔力量には、一片たりとも減少が感じられない。
術式への放出に伴う僅かな魔力の揺らぎは感じられるが、それ以外はすべて微動だにしないまま。消耗を窺わせる気配すらなく――。
「……虚勢だな」
そもそも自らに襲撃者が近づくことを厭わずに、ただ内部で起こる事象を隠匿するだけの措置を取っていた真意とは。一瞬だけ懸念として脳裏を過った想像を、永仙は賢者としての知識と思考力とで上書きする。技能者界の歴史の中で生み出された多種多様な魔道具の中には、所持者の負う魔力消費を軽減、或いは肩代わりする物品もある。
専用の法陣と術式をくみ上げ、この日のために蓄積しておいた魔力があるのなら、己の魔力を削るまでの猶予をしばらくは得ることができ。……考え得る可能性は幾つもある。
「【三千世界】の発動した時点で、局面は既に決している」
「……」
「如何なる強大な力を持つ者であっても、世界のうちに在る限り、この術の原理から逃れることはできない。……決して」
「……そうだね」
最悪のもの以外にも、幾つも。永仙の返した言葉に、分かっていたと言うような表情で頬の力を抜くヴェイグ。
「事は互いの目論見通りに進んでいる。どちらの言葉に真実があるのか」
「……」
「天秤はどちらに傾くのか。現実に示して見せなければ、貴方の歩みを止めることはできない」
粛々と己の分析を述べたヴェイグが、自然体のまま、視線だけを送ることで永仙に臨戦の気配を示してみせた。
「僕らの志すこの滅世が、人の手で止められるものなのかどうか」
「――ッ」
「貴方の道のりの果てが、果たしてどこに辿り着くのか。――試してみようじゃないか、九鬼永仙」




