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彼方を見る者たちへ  作者: 二立三析
第六章 運命の日
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第十一話 湧き出る脅威




「――ッ‼」

 本能的に喚び出していた終月。

 刃を持たない漆黒の長刀が、振り下ろされた赤色の怪腕と激突する。――ッ重いッ⁉

「くっ――!」

「ッ――」

「ッアアッ‼‼」

 全身をぶつけてなお押し込まれそうになる寒気に、渾身の力を込めて刀身を振り抜く‼ 予想外の抵抗に虚を突かれたのか、俺を押し潰さんとしていた重苦しい気配の圧が、突如として目の前から退き。

「……⁉」

 互いの身を弾き合うようにして呼吸を置けるだけの間合いを取ったことで、その脅威の全容を改めて目にすることになった。……身の丈二メートルを超える巨体。

 赤黒い肌に覆われた体表は岩肌の如くざらついた硬質の質感を持ち、山のように隆起した筋肉が、全身を武装した武者の如くに覆い尽くしている。額に鋭い二つの角を有し、ヒト型に近い体躯を持ちながら、明らかに俺たちとは異なったその造形は――‼

「――カタストさん!」

「大丈夫か⁉」

「――は、はいッ!」

 ッ鬼――⁉ 駆け寄ってくる二人。俺と並ぶように前に出たリゲルの後ろで、我に返ったフィアが瞳を瞬きする。

「っ大丈夫です。黄泉示さんが、守ってくれたので――っ」

「――んだよこいつはッ⁉」

「……っ鬼」

 拳を上げて相手を見据えるリゲルの台詞に、信じ難い表情で眼鏡の位置を直したジェインが、先の俺と同じ見立てを口にする。

「【悪鬼】や【獄卒(ごくそつ)】とも呼ばれる、別位相に存在する異形だ」

「――っ!」

「罪人の手足をもぎ取って(もてあそ)び、責め苦を与える地獄の番を務めるとも言われている。僕らのいる位相には存在しないはずの異形が、なぜ――」

 レイルさんに叩き込まれた知識で行われる分析にも、この異様な出現自体を解決する答えはない。疑問だけが脳裏を支配している中――。

「――ッ‼⁉」

 俺たちの様子を(うかが)うようだった異形が、僅かに前傾の姿勢を取ったかと思うと、猛獣のような蹴り込みで一挙に走り込んでくる‼‼ 周囲の大気を攪拌(かくはん)する凄まじい速度で――ッ‼

「――【時の加速・二倍速】‼」

「ッウラァッ‼‼」

 迫り来るその影に対し、ジェインから全員へ掛けられる援護。行動速度の倍加を受けて前へと踏み出したリゲルが、薙ぎ払う剛腕の一撃を猛速のステップで掻い潜り、がら空きの胴体へ全身のバネを使ったボディブローを(えぐ)り込ませる‼‼ ――突き抜けていく衝撃波。

「――ッうおッ‼⁉」

「――」

 重々しく響いた会心の打撃音のあとを、間髪入れずに振るわれた拳の風切り音がかき消していく。ッ一撃で相手を悶絶させる、リゲルのブローの威力を――⁉

「リゲルさんッ‼」

 まるでものともしていない。――もう一体ッ‼⁉

「ッ【上守(かみもり)流・中位対物障壁】‼‼」

 虚を突くように忍び寄っていたのか、死角となる側面の通路から飛び出して来た幾分小柄な怪物の突進を、叫び上げられたフィアの障壁が押し(はば)む。強烈な膂力(りょりょく)と激突した魔力の防壁が(きし)みを上げる。

「――ッ‼」

「【重力――四倍】ッ‼」

 (ひび)割れに耐えながらも術法を維持する苦悶の息遣いのあとを、即座に紡がれたリゲルの詠唱が追っていく。自重を支えられなくなるほどの荒々しい重力の増加を受けて、二体の異形が陥没する地面に勢いよく激突させられた。

 ――ッしかし。

「――っ!」

「チぃッ――‼」

 己の身が軋みを上げるほどの圧力を受けているにもかかわらず、鬼たちは共に赤黒い筋肉を(うごめ)かしながら、ゆっくりとその身を起き上がらせてくる。――ッ決定打になっていない。

 肉体の頑強さもタフネスも、俺たちの知る人間のそれとは全く異なるものだ。魔力の消耗を避けて術を解いたリゲルを軸に、構えを保つ俺たちの前で――。

「あ――っ⁉」

「――⁉」

 前方の通路から、それが当然であるかのような自然さで追加の鬼たちが現れてくる。――ッ五体。

「――っしまった」

「ッ囲まれたぜ‼」

 七体。咄嗟に目を遣った背後の通路を埋めるようにして、現れた鬼たちが更にその数を増していく。――ッマズイ。

 完全に逃げ道を塞がれた。……目の前のこの怪物たちは、肉体的にかなりの強度を備えている。

 直撃したリゲルのボディブローの威力を耐え抜き、平時の俺と互角以上の身体能力を持つとなれば、フィアやジェインの力で太刀打ちできないのは明らかだ。一、二体のうちなら攻撃を集中させてどうにかできたかもしれないが――ッ。

「……ッ‼」

 目に見える範囲でも二十を超える数を見せている、この状況下では。背中合わせの形になった俺たちを取り囲む鬼どもの眼が、捉えた獲物を放さない捕食者のように凶暴に輝く。……サメの大群に囲まれたウサギ。

「……っどうすんだよ」

「……一点突破だ」

 言葉の通じる余地のあった童話のように、知恵を働かせてこの場を乗り切ることはできない。背中越しに合わせた服の下から、フィアの身体の細かな震えが伝わってくる。勝算の薄い賭けに臨むような、苦しいジェインの言葉が響く。

「有効打もなしに、これだけのタフネスを持つ多勢を相手にしても勝ち目はない」

「……!」

「全員の力を一点に集中させて、活路を切り開く。リゲルと蔭水は前方へ。僕が全体に【時の加速】を掛けたタイミングで、カタストさんは背後と側面に障壁を張ってくれ」

「――ッはい」

 下されるジェインの指示を耳に、それがこの状況下で打てる唯一の手立てであることを自覚する。この鬼たちが魔術に対してどれほどの抵抗力を持っているのか分からない以上、博打(ばくち)の要素の大きい【時の遅延】は使えない。

「リゲルの【重力増加】で、始めに一斉に鬼たちを這いつくばらせる」

「――」

「その瞬間に通路に向けて走り出す。障害になる前面の鬼だけを退けて、一気に安全圏まで駆け抜けるんだ」

「――ッ分かりました」

「やってやろうじゃねえか……‼」

「……っああ」

 一度でも捕まればその時点で終わりである以上、全員の全力をもって、必死で風穴を開けて駆け抜けるしかないのだ。……俺が見極めなければならないのは、【魔力解放】の使いどころだ。

 先に実際にぶつかった感触では、あの鬼たちは並みの一撃で退(しりぞ)けられるような相手ではなかった。必要に応じて【魔力解放】や、【魔力凝縮】のブーストを使わなければ、

「――三カウントで行くぞ」

「……っ」

「三、二――」

 立ちふさがる障害を()()けることはできない。敵の総数が分からない以上、魔力切れを起こしたならそれが俺たち全員の死に繋がる。

「……‼」

 絶対に、力の配分を間違えてはならないのだ。息を呑むフィアの音が聞こえてくる。極限の緊張と不安を押さえつけるため、終月の握りを俺が強く握り締める中で。

「一――ッ!」

「ッ【重力――‼」

「【上守流――ッ‼」

 ジェインのカウントが終わりに近づく。周囲の時間間隔が引き延ばされる意識のうちに、リゲルとフィアの詠唱が、同時に響き渡ろうとした。

 ――刹那。

「――【()(たい)結界】」

「――ッッ⁉」

 飛び出そうとしていた俺たちと鬼たちとの間に、澄み切った透明な半球状の防壁が張り巡らされる。俺たちの動きと同時に襲い掛かろうとする目論見を崩されてか、当惑した様子で固まっている鬼たち――。

「【五行拳】――ッ」

「――ッ」

「【木行崩拳】 ハァッッ‼‼」

 強烈な防壁に近づけない怪物の間に、凝縮した気迫に満ちた息吹の震動が響き渡る。残像を残す速さで動き回る一個の人影が、異形の群れを端から猛烈な勢いで蹂躙していく。

「――⁉」

「フゥッ‼」

 抵抗もできずに蹴散らされ、吹き飛ばされていく鬼たちに晴れやかになっていく視界のうちで――目を見張っていた俺たちの眼前に、見慣れた二人の人物が姿を現した。残心の姿勢で大きく息を吸う立慧(リーフイ)さんと――‼

「――ッ無事⁉ あんたたち⁉」

「――っ間に合ったみたいだな」

千景(ちかげ)先輩っ!」

「立慧さん!」

「怪我とかはないみたいね。無事でいられて何よりだわ」

「いきなりのお出ましだったからな。早めに駆け付けられる位置にいて、本当によかった」

 小柄な体躯に胡桃(くるみ)色のポニーテールを揺らしている、千景先輩。地面に倒れ伏した鬼たちが動かなくなっているのを見て取って、頬に笑みを浮かべた先輩が、俺たちの周囲に張っていた結界を解除する。……ッ凄い。

「先輩、この状況は――っ」

「――詳細は私らにも分からない」

 あれだけの耐久力を持つはずの鬼たちを、拳と蹴りの一撃で完全に昏倒させるとは。何かを調べるように手元に術式を走らせながら、険しい眼をした先輩が答えてくる。

「今唯一確かなのは、この鬼どもがいつの間にか、本山の中を蛆虫のようにたむろしてるってことだ」

「……!」

「防衛の術式も作動してなくて、本山中が大混乱だわ。私たちはひとまず、あんたたちを安全な場所まで送り届けることにする」

 肩まで腕まくりをした立慧さんが言う。

「避難区画の扉は他とは独立した術式で防備されてるから、そこに鬼たちは近づけないはず。――動ける?」

「――っはい」

「道は私たちが切り開くが、この数だと何体かは零れる可能性もある」

 行く手に差し向けられた先輩の視線で気付く。開かれた通路の向こう側から、群れ成して迫りくる鬼たちの声と足音が聞こえている――‼

「はぐれないようにして付いて来い。――絶対に、後れを取るなよ」









「……何だと?」

 ――会合中に(もたら)された報告。

 顔面を蒼白に染めてなされた伝令員からの通達に、日ごろから容易なことでは崩されることのないレイガスの相貌にしわが入る。――何があったのか。

「……ふむ」

 師と競合する組織幹部との前で迂闊な発言のできないでいる郭の目前で、ほとんど同時に訪れていたらしい連絡を、PDA(個人情報端末)の画面を介して目にしていたヨハンが小さく呟きを零す。温厚な灰色の瞳を一瞬だけ細めたかと思うと、眉根を寄せていた顔を上げた。

「報告はお聞きになりましたかな? レイガス殿」

「……ああ」

「どうやらお互い、中座にしては随分と重たい報告を受けてしまった様子。――我々は決して手放しで友好と言えるほどの仲ではありませんが、維持すべき秩序への姿勢は同じであるはずです」

 伝令員の言葉を聞いてから何事かを思案しているような面持ちでいるレイガスに、ヨハンはこれまでと変わらない――いや、これまでの慇懃(いんぎん)な装いから背後の企みを抜いたような、一際穏やかな微笑で話しかけてくる。

「どうですかな? ここは一つ、先ほどまでの交渉は一度忘れて」

「……⁉」

「秩序の行く末を担う者同士。腹を割り、互いの受けた報告を開示し合ってみるというのは」

「――奇遇だな」

 優位に交渉を進めていた側からすれば、本来なら有り得ないはずの提案。不意を突かれた気持ちでいる郭の意識を、苦肉と呼べる感情を込めた師の答えが、ひときわ大きく揺さぶった。

「私もそれを考えていた。構うところはない」

「流石はレイガス殿です。――では、礼節としてまずこちらから」

 屈託のない笑顔で応じると、ヨハンが己のPDAを表向きの状態で机の上に置く。整えられた爪先が画面に軽く触れた瞬間――。

「私たち執行者の本拠地である、国際特別司法執行機関の本部が、丸ごと消失したという報告が入りました」

「――っ⁉」

「現地には一切の破壊の痕跡がなく、建物とその周辺の地面だけがすっぽりと消えたようになっている」

 ひときわ明るさの増した画面から投影された精細なホログラム映像が、報告内容となる文字群と、撮影されたと思しき現地の映像を再現してくる。――消失⁉

「内部にいるはずの執行者たちとの通信は完全に途絶し、本部外の執行者たちが原因を調べていますが、詳細も事態の原因も、何一つ掴めてはいないと言うことです」

「……⁉」

「……状況としてはこちらも同様だな」

 衝撃的過ぎる話の中身に、郭は一瞬目の前の老人が冗談を言っているのかという可能性すら疑ってしまう。常識であればあり得ないはずの状況が、ほかならぬ師の言葉によって肯定されていく。

「――魔導協会の本拠地たる総本山が、建物を支えている地盤ごと消失した」

「――ッ‼⁉」

「こちらもやはり一切の詳細は不明だが。唯一信憑性のある情報としては、極大規模の転移法によって為された事象だろうということだ」

 言葉が出ない。決して現実とは思えないはずの内容を、郭の尊敬するレイガスが感情を押し殺した声音で粛々と語っていく。

「世界各地のどこにも転移した本山を確認できていないことから、切り取られた本山は我々の居場所とは違う、別位相の空間に飛ばされた可能性が高い」

「……‼」

「内部との連絡はやはり取れないまま。……下手人らしき組織や集団の情報も、確認できていないとのことだ」

「……それはそれは」

 沈黙が場に訪れる。……想像さえ飛び越えるような異常事態。

「……弱りましたな」

「……」

「三大組織の一角を担うはずの組織が、揃って両者全くの手掛かりなしとは。敵の狙いは間違いなく――」

「……護りの引き剥がし」

 レイガスの呟きが、郭の思考を現実のものへと引き戻す。――ッそうだ。

 魔導協会の本山が誇る絶対的な防御機構――【大結界】と【ゲート】の術式は共に、動力源として膨大な魔力を動員するため、本山の基盤を通る土地の龍脈と強く結びついている。転移によって本山が地面から引き離されたということは……‼

 地脈から切り離された二つの防衛機構が、全くと言っていいほど意味をなさなくなっていることを意味するものであって。成立から千年近くにわたり難攻不落とされる魔導協会の総本山ではあるが。

「敵ながら大層あっぱれな手口です」

「……」

「機関の本部には、このような事態に備えて緊急時に稼働する発電設備が備えられてはいますが。敵方がそのことを把握して襲撃を仕掛けてきているならば、予備電源が機能するまでのラグを狙ってくることでしょう」

 実態として、その防衛機能のほとんどは【大結界】に依存している。非常時に備えて幾つか予備的な措置が用意されているとはいえ、その効力は何れも【大結界】と比較すれば数段以上に劣るものだ。地脈や龍脈に依存した機構を持たないはずの国際特別司法執行機関の本部は、魔術的な措置ではなく、最新鋭の対特殊技能技術により構築された防衛網を備えるはずだが……。

「早急に対策を立てねば。――済みませんね、郭君」

 例えそうであっても、機構を作動させるための動力源は基本、外部の電源などから取り込んだエネルギーに大部分を依存する形になっているはずであり。首を振ったヨハンが、郭に対して、偽らざる苦渋の滲み出た面持ちを見せた。

「三大組織による今後の秩序を担う一人として、後学のための同席であったはずが、想定の(ほか)を行く事態で中断することになってしまった」

「いえ……」

「先達として学ぶべき姿を見せられず、申し訳ないことです。互いに不本意ではありますが、会合はここで中断と言うことでよろしいですかな」

「――勿論だ」

 ヨハンの眼差しに、レイガスが頷きを見せる。

「こちらとしても事態を今一度確認する必要がある。情報の共有体制も含めて構築する必要があるな」

「機関としては、手掛かりになる情報があればいつでもお伝えしたいと考えております。聖戦の義にも確認が必要でしょうな」

 波立つ自らの心を抑えつけるように、ヨハンが顎元(あごもと)を撫でさする。

「協会からファレル殿が出向いておられるならば、直ぐにでも把握はできることでしょうが。此度の襲撃は恐らく、三大組織全体を狙った同時攻撃」

「……」

「我々の作る秩序が保てるかどうか。思いがけぬ形での、正念場を迎えることになりそうですな」




 


 


「――ッ」

 緊急の書簡を用いての通信を受けたのち。

「……協会の本山は大変なようですね」

 対面で受けていた、信徒からの伝令にも静観を保っていた使徒――ヨハネの言葉に、リアは視線を向け直す。落ちくぼんだ眼窩(がんか)のうちにある毅然(きぜん)とした瞳に、先ほどまでよりも強い情念の動きを滲ませて。

「龍脈を利用した、千年来の鉄壁を誇る攻略不能の守りから構造物を切り離す、尋常ならざる術法」

「……」

「報告によれば、聖戦の義の本部も、執行機関の本部も同様の現象に陥っているようです。三大組織の構築する秩序の崩壊を狙った、意図的な襲撃であることは疑いようがないでしょう」

「アイリス……」

 淡々と事実のみを語っている――そう見える小柄な少女の横顔に対し、リアはあえて問うことを選択する。目の前の相手の本名を口にした唇に、複雑に絡まりあう幾つもの感情が乗ることを覚えつつ。

「――あんた、知ってたね?」

「……」

「あたしらと凶王派が結びついてる噂を否定してくれと頼んだとき、あんたはそれを断った」

〝――残念ながら、それはできません〟

「……」

「想定外の答えに正直動揺させられちまったが。わけを訊いたあたしに向けて、あんたはその続きをこう言った」

〝――私たちが動かずとも、その噂は自然と消えることになるでしょうから〟

〝……なに?〟

「あの回答は、今あたしらに対して起きてるこの事態を、あんたが始めから予見してたからじゃないのかい?」

「……」

 数分前に交わしたばかりの会話。動機の分からないその回答を受けたのち、数秒の間も置かない間に、本山の消失を告げる連絡が飛び込んできたのだ。唇を結んだリアが相手を見据える。

 表情を変えない神聖な絵画のごとき横顔に、気魄を込めた賢者の視線が注がれ続ける。引き下がらない一心不乱の眼差しを受けて――。

「――人の歩む道のりとは、(あらかじ)め決められているものです」

 沈黙していたアイリス――聖戦の義の第三使徒である、ヨハネが唇を開く。見つめ続けるリアの方に目を向けないまま、壁際に置かれた古びた彫像の一つを、視線の中心において。

「恩寵によって道が示されたのならば、それに従うことこそが私たちの天命」

「……っ!」

「敢えて無意義に抗うような真似はしない。降りかかる世界の事象を受け入れることこそが、神の御心を信じると言うことなのですから」

「……っあんたたち信徒らの、そういうところだけは好きになれないねい」

 肯定にも等しいアイリスの言葉を受け止めた、リアが苦みに満ちた呟きを零す。……リアが知己(ちき)たるアイリスを問い詰めたのは、単なる状況からの疑わしさだけではない。

「時に全てが見えてるくせして、何の行動もしようとしない」

「……」

「神の意志とやらに黙って従うだけ。殉教を善しとする教皇の思惑に服従することこそが、あんたら使徒や信徒の選ぶ道だって言うのかい?」

「……ここで議論をしても、状況が変わるわけではありません」

【未来予知】。アイリスが《黙示のヨハネ》の名を持つ理由の一つである異能は、将来的に訪れる未来の出来事を不規則な形で予見する力を持つ。視線を鋭くするリアに対し、色素の薄い金色の髪を揺らして振り向いたアイリスが、静かに制止の眼差しを向けてくる。

「組織方の本部が別位相に転移されたのなら、仕掛人の狙いは八割方完遂していることでしょう」

「……っ!」

「守りを引きはがされた者たちに対し、あとは予定通りの襲撃を行うだけ。技能者界の常識を覆すだけの術法に対し、遅きに失したこのタイミングでは、何をしようと大した影響にはなり得ません」

 己の意志を孕まない、四半世紀以上にわたり使徒であり続けてきた者の言葉が、老いたリアの意識へと突き刺さる。

「訪れる結末は変えられない。……それでも、虚しい手を尽くすと言うのですか?」

「――当たり前さね」

 己のゆく道を問いただすようなヨハネの台詞に対し――右腰にしわがれた手のひらを当てたリアが、揺るがぬ決意の眼差しをもって宣言した。

「どれだけ法外な術式だろうが、あり得ないはずの事柄だろうが、この目で見なけりゃ実際のところは分からない」

「……」

「幸い転移法なら、空間魔術を得意とするあたしの得意分野だ。これだけ極大規模の術式を仕掛けてきたんなら、細部に何らかの綻びがある可能性もある。割り込めるかどうか、できることは何でも試してみるさ」

「……そうですか」

 言い切った老女が背を向ける。すでに己のすべきことを見据えているリアに対し、アイリスが小さな頷きを見せた。

「――では、今回の会合はここまでとしましょう」

「――っ」

「これ以上言葉を交わしている時間もないようですし。私の方も、信徒たちに広がる動揺を鎮めなくてはなりません」

「知ってて黙ってた癖して、よく言うよ。――じゃあね」

 手を挙げる仕草と同時に、空間転移を発動したリアの姿が修道院から消え失せる。微かな空気の流れだけが、それまでそこにいた人物の残滓を告げる中、

「……思うがままに進むことです」

 独りとなったアイリスが、静かに呟きを零す。麻の聖職衣とストールを揺らす、ゆっくりとした歩みで、窓からの光を受ける古びた机の前へと進み、

「何を望み、何を思い。どれだけの手を尽くそうとも――」

 丁寧に磨かれた天板の上の花瓶から、生けられていた青いアヤメを手に取る。かぐわかしいその瑞々しさを試すように、瞳の前へと近づけた。

「その先を見通すことなど、神以外には、何者にも叶わないのですから」




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